いびつな世界でしか見えない

「眼鏡ってどんな感じ?」
「重いよ。でもさ、もう黒板も見えないから」
 かけさせてよ、と佐江は言う。私は仕方なく、彼女に眼鏡を渡す。
「うわ、世界が歪む。酔いそう」
「早く返して」
「加奈はこういう世界で生きているんだね」
「どういう意味?」
「私に欲情とかしちゃうんでしょう? 気持ち悪い」
 ああ、これは夢なのだ。わかっている。佐江には気づかれていなかったはずだ。私の身体は教室の床を抜いて、深く、深く沈んでいく。いつの間にか息ができなくなって、私は本当に気持ちの悪い生き物になってしまう。早く、起きなくては。

 そして私が目を覚ますと、眼中に猫のチーちゃんのお尻が広がっていた。チーちゃんはにゃあにゃあとご飯をねだっていた。私は目覚まし時計を確認して、身体を起こした。
「チーちゃん、ちょっと待ってね」
 私はベッドサイドテーブルに置いておいた眼鏡に手を伸ばし、まずそれをかける。私は夢と現実をはっきりさせなければ、と思った。

 佐江は中学時代の友人だった。そして私の初恋のひとだ。テニス部で日に焼けた肌は健康的で、私は自分の日に焼けても赤くなるだけの肌とは違っていた。私もテニス部だったが、エースである佐江とは実力は雲泥の差があった。
 しかしクラスも一緒で、家も近かったため、話すことは多かった。
「加奈って好きなひといないの?」
「うーん、そういうこと、よくわかんない」
 私はいつも佐江の質問にそう答えていた。佐江はいつも誰かに恋をしていた。佐江の言う好きなひととは勿論、男子生徒のことを指す。私にとっては男子とはいつも騒がしく、猿のような生き物だと、自分とは違う生き物だと思っていた。
「佐江は誰か好きなひといるの?」
「サッカー部の和哉先輩」
 頬を赤らめて言う佐江に、私は胸が高鳴る。動悸のような苦しさが私を支配し、それを恋と呼べるようになるまで、時間がかかった。
 佐江は和哉先輩と付き合うことになった。二つ年上の先輩は確かに大人びて見える。しかし、しょせん男子だ。そうして私はやっとわかった。女の子が、佐江が好きなのだと。

「先輩へのクリスマスプレゼント、何がいいかな?」
「お守りとかがいいんじゃない? もうそろそろ受験でしょ」
「加奈って冴えているね! そうするわ」
 最初の胸の高鳴りはいったい何だったのだろうか。今は佐江に抱く恋心がじくじくと膿が出るように痛んだ。佐江の親友でよき理解者。それでいいじゃない。私は自分に言い聞かせた。それでも私は、佐江が欲しいと思ってしまうことが、罪深いことだと、自分に鞭を打った。
 なにも感じるな。考えるな。いつの間にか作り笑いだけが上手くなっていく。そんな日々に唾を吐きかけ、その汚物が自分に返ってくることを思い知った。

「和哉先輩、どうだったって?」
「受かったって! 私も再来年、受験するねって言った」
「良かったね」
「でもさ、和哉先輩って頭いいじゃん。私、バカだからなあ」
「そんなことないよ。勉強なら少しは私も教えられるし」
「持つべきものは賢い親友だね。ありがとうね、加奈」
 そんな優しい言葉をかけないでよ。私を見下げて、無価値な人間だと言って。そうすれば少しは佐江のことが恨めるのに。
「当たり前じゃん。友だちなんだからさ」
 平気につけるようになった嘘は、私を余計みじめで卑しいものにした。

 一番、聞いていてつらかったのは、性にまつわることだった。初めてのキスしたシュチュエーションを聞かされたときは発狂するかと思った。卒業式の日にふたりは誰もいない教室でくちびるが触れ合ったらしい。健全で、王道の、誰もがうらやむカップル。佐江と先輩はそんな存在になっていた。興奮したように言う、佐江は可愛かった。可愛いからこそ憎くて、いますぐこの子を殺せたらとも思ってしまう。佐江の健気さは、先輩にすべて向かっていた。ほんの少し、ただの一ミリでもいい、私を見て、あなたを思う私に気づいて、と叫びたかった。

 佐江は二年後、見事に先輩のいる高校に受かった。私は私立の進学校を受け、すべてが終わったかに思った。もう親友というペルソナを被らなくて済む、と。疎遠になれば楽になるだろうと、私は思っていた。
 会えなければ楽になるなんてことはなく、ただしんしんと積もる雪のように恋心だけが、私の心を支配した。会えなければ寂しい。そんな当たり前のことが恋なのだと。
 私が参考書を選んでいるとき、高校生になった佐江は現れた。紺色の制服に身を包んだ佐江は先輩と組んでいた腕を解き、私に近寄ってきて、久し振りだね、とか、制服に似合っているじゃん、とか今度はお茶しよう、とか言って去っていった。
 私は愕然とした。ただの女になっていた佐江に。媚びるような、甘い香り。長い髪に白い肌。私の好きになった佐江はもういなくなってしまった。そんなエゴイスティックな感情に吐き気を催し、本屋のトイレで嘔吐した。
 佐江とはそれ以来、会っていない。佐江のことを徹底的に避けた。私は恋というものをもう二度としないと決めた。

「チーちゃん、ごはんですよ」
 恋をしないと決めて、私は楽になった。穏やかに過ごす方法を手に入れた。小さいけれど自分の部屋と猫のチーちゃんと一緒に暮らしている。寂しくないか、と聞かれたら寂しいと感じるときもあるよ、と答える。誰かと一緒にいて感じる寂しさよりも、孤独をかみしめるような寂しさのほうがいい。

 チーちゃんは美味しそうにごはんを食べている。カーテンを開けて、朝陽を浴びながら私は眼鏡を通して世界を見る。私は歪んだ世界で恋に落ちた。時おり、佐江に訊きたいと思うことがある。あなたの世界は本当にいびつではないのか、と。

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