あなたが与える輪郭

 乾いた音の後に、鈍く、じわじわと、頬が痛んだ。歯に当たったのか口の中が血で滑る。
加絵は激情から、後ろめたい顔をして、私から目を逸らした。こんなことがここ一か月でもう何回も、何度も続いていた。
「ごめんなさい」
 加絵は私の頬に恐る恐る触れて、氷を持ってくるねと言った。私は私の元を去ろうとする加絵の腕を無理やり引っ張った。
「なんで謝るの?」
 頬は痛い。けれどもそんなことは、どうでも良かった。謝るなら最初からしなければいいじゃない。馬鹿なの。そんな罵声を、静かに加絵に浴びせた。
 小さく縮こまる加絵は寄る辺なさを感じさせて、私は愛おしいと思う。愚かしく可愛い私だけの加絵。加絵の手でなら私は歯を全部、抜かれても構わない。
 気づけば加絵に口づけていた。加絵は身を捩って逃げようとする。血の生臭いにおいがするキスは、生理のときに無理やりにするセックスのことを思い出させた。
「やめてよ」
 羞恥心からか、ただ単に不快感からか、加絵は私の腕から逃れようとする。
「あんたがしたことを思い知りなさいよ」
 キスの息継ぎの合間に私がそう言うと、加絵は私にされるがままになった。ああ、私はマゾヒスティックなサディストなのだと実感した。

 加絵がまだ寝ている間に私は家を出た。くだらない口論になるのはわかっていた。停滞する澱んだ空気。もう愛とも恋とも呼べない何か。暴力と血。機能しない感情。それらから早く逃れたかった。氷で冷やすのをわすれて、冷えピタをコンビニで買う。冷たくて気持ちがいい。それでも一緒にいるのは何故。リアルなのはこの冷たさだけだ。

「今日は厨房でお願いします」
 店長も店員も、もはや何も言わない。直接は。オーダー通りにドリンクを作り、フロアを歩き回る店員に声をかける。店員は目が泳いでいる。別にあなたがしたことじゃないのに。そして口もとが笑っているのは隠せない。この店員は休憩室で私がレズビアンであることを、楽しそうに話していたひとだったっけ。男とつがって子どもを生むことがそんなに偉いの。わたくしめは生産性のない、暴力をこよなく愛する、クソな同性愛者だと自己申告すればいいのかしら。
「17番テーブルにお願いします」
 私は笑っている。おかしいな。唾を吐きかけたい気持ちなのに。

 仕事が終わると、すっかりぬるくなった冷えピタを剥がし、マスクをして職場を出た。夕飯を作る気になれないので、駅を下りてスーパーでお惣菜を買った。そして家に向かう。家の前に立って、部屋に電気がついていないことに、まだ加絵が帰ってきていないことに安心する。安心? 私は今どこにいるのだろうか。
 部屋を開けて、靴箱の上のトレイに鍵を放る。電気をつけると加絵が窓辺にいた。
「どうしたの? 電気も点けずに」
 加絵は何も言わないで、窓辺から動こうとしない。私はお惣菜をお皿に移すこともせず、そのまま電子レンジの中に入れた。

 愛は確かにあったのに。加絵は料理が下手で、私が作ったごはんを美味しいと食べてくれたよね。抱き合って寝たよね。お互いの髪の毛が絡まってしまって、どうしようとふたりで笑い合ったよね。抱かれる度に、私は生まれ変わって、新しい輪郭を与えられたよね。どうして、なぜ、こんなことになっちゃったの。
 私はまだらに温まったお惣菜を口に運んだ。口のなかの傷が、開いてしまって血の味がした。
 私がお風呂に入って、出ても加絵は動こうとしなかった。髪の毛を乾かして、寝るよ、と声をかけても動こうとしない。
「加絵」
「愛してる」
 顔を上げた加絵はそう言って、私を射抜くような目で見つめて、私の身体は強張った。加絵は何かの覚悟をしている。
「だから別れよう」
 死刑宣告を受けた。私は衝動的に加絵の首を絞めたくなって、加絵の身体に手を伸ばした。そしてそれは無意味なことだと思い知る。私が死ぬのだから。これからゆっくりと私は死に生きることを受け入れなければならない。
「私は加絵になら殺されてもいいと思ったよ」
「馬鹿だね。真里は本当に馬鹿だよ。でもそれが愛おしくてたまらなかった」
「うん、知っている」
 私と加絵はベッドの中に入った。愛し合うためではなく、お互い身体を休めるために。この夜がもう明けなければいいと、私は祈った。その祈りが意味のないことだと知りつつも。

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