予感

 初めてかすめるようなくちづけをしたのは、この公園だった。イチョウは黄色に色づいて、爽やかな風に吹かれた枯れ葉を手に取った。

 恋というものが、どういうものか、私にはよくわからなかった。ひとりでいることが好きだったし、結婚というゴールらしきものに向かって猪突猛進する同い年の友人の気持ちも理解できなかった。誰かと一緒にいて感じる孤独のほうが、怖かった。私は臆病なのだ。
 春はこの公園のオープンテラス付きの喫茶店でカプチーノを飲むのが、習慣だった。日差しが冬を超え、木々は鮮やかになる。植物が生命力で満ちて目眩を起こしそうな、春の日だった。カナエに出会ったのは。私は煙草に火を点けるライターを忘れてしまった。
「火を貸していただけませんか?」
 バッグの底を漁っても出て来なく、ちょうど隣のひとがジッポの歯車を回す音が聞こえたからだ。
「差し上げます。よかったら使ってください」
 カナエはそう言って、私にそれを手渡した。コンビニエンスストアで買えるライターならまだしも、ジッポは高い。
「すぐ、お返ししますので」
「むしろ、もらってください」
「……このジッポ、呪われているの?」
 明らかに年下に見えたカナエに私はそう言うと、カナエは笑ってみせた。
「恋人と別れてしまう呪いがかかっているんです」
 そう言ったらカナエはひとしずくの涙を流した。その一滴が流れると、まるで決壊したようにカナエは泣き始めた。私は慌ててカバンのなかからハンカチを取り出した。

 行きがかりに話を聞くと、カナエは女性の恋人と別れたらしい。喫煙者の。真似て吸い始めた煙草。恋人の転勤。なんとか続けた遠距離恋愛。そして破局。よく聞いた話なのに、なぜか私はこの小さな肩にのしかかった重みを、リアルに感じた。
「ハンカチ、お返ししますね。初対面のひとなのに、醜態を見せてしまってすみません」
「また」
「え?」
「ハンカチはまた会ったときでいいですよ。来週もこの時間ここにいるので」
 こんな言葉を告げる日が来るなんて、私が一番に驚いた。

 カナエは律儀に翌週も同じ席にいた。洗濯し、アイロンを当てられた私が貸したそれと、同じブランドの新しいハンカチが紙袋の中に入っていた。
「こんな、いいのに」
「いえ、呪いのジッポを引き取ってくださったので」
 そう言ってカナエは笑ってみせた。ああ、この子は笑っているほうが素敵だ。
 カナエの元恋人と私は共通点が多かった。同い年、同じマンモス大学出身らしい。私たちは急速に距離を縮めた。それが間違いだったと私は早く気付けるほど、恋愛経験がなかった。
 歩きながら、元恋人の話を楽しそうにするカナエのくちびるを、奪うようにくちづけた。子供じみた独占欲からきた、行動で。私はカナエに私だけを見て欲しかった。
「だめ、です」
「なんで?」
「いろいろ忘れていないから」
「じゃあゆっくり忘れよう」
「利用するようなことに、なっちゃいますよ」
「利用できるなら、してみなよ」
 挑発しているのに、内心は怖かった。傷つくだろう。でも誰が傷つくのか? わからない。

 それから抱き合うまでたやすかった。恋人同士になって、一緒にカフェに行き、お互いの部屋を行き来し、旅行もした。そしてその写真を飾るころには夏の終わりを迎えていた。
 最近とんと連絡がつかない。すれ違う日が続いて、カフェで待ち合せるとカナエは神妙な表情を浮かべ、別れてください、と一言だけ私に告げた。
「席について。ちゃんと話して」
 傷つくのはお互いだった。カナエは長く続いた元恋人がやはり忘れられないと言って、私の前からも、そしてこの街からもさようならを告げた。

 別れの予感は新しい出会いの兆し。私は色づいたイチョウの葉にくちづけた。不思議と次にする恋は怖くなかった。それは予感でも兆しでもなく、確信。その力をくれたのは紛れもなく、カナエだった。私は秋の風に枯れ葉を委ねた。


百合小説版深夜の創作60分一本勝負 @lilynovel_60min さんで「秋の訪れ」というお題で書かせていただきました。


Page Top
inserted by FC2 system