ラプンツェルの長い髪

 次は何を割ろうか、と私は考えた。今夜だけで四枚目のお皿を割った後、私は台所の流しに視線をやる。そしてウイスキー・グラスを手に取り、床に叩きつけようと思いっきり腕を上げた。弘文はその腕を掴み、グラスを取り上げた。そして彼は、大声をあげていた先ほどまでとは打って変わって、声を荒げずに言う。
「いい加減にしないか」
 彼の声は疲労が露わになっていて、私に呆れ果てているのがわかった。私はグラスの割れる音を、澄んでいて高く繊細な音を、聞きたかった。それが叶わなかった今、私は力が抜けたようにその場に座り込んだ。そして私はなんのためにここにいるのかがわからなくなり、他人を眺めるように弘文の顔を見つめた。私はどこにいればいいか、わからない。道に迷った子どものようにその場でうずくまる。彼はため息をつきながら、慣れた手つきで私が割ったお皿を片付けた。今月の何度目かの諍いで、私も彼も摩耗している。部屋には憎悪ゆえの倦怠がふたりの間に濃厚に漂っていた。その荒廃に溺れてはなるまいと私たちはもがき、どちらも必死だ。互いを思いやる気持ちがない夫婦生活は、蝿がたかる。私たちの関係は腐りはじめていて、ふたりの間に広がる饐えた匂いにあきあきしていた。
「もうやめてくれ」
「何を?」
 意図せず鋭いナイフのような言葉が出ると、弘文は引きつった笑みを浮かべてみせた。彼が何をやめたいのか、私はわからないフリをした。本当は私もやめたかった。口論も、憎しみあうことも、異臭がする結婚生活も。そのすべてを。彼にこれ以上、悪意を持ちたくはないが、私の感情は彼によって波立ち、不安定なものになる。私の安寧は彼に奪われてしまった。私はそんな考えを言葉にしないように、喉元を掻きむしった。不服だが、彼の言う通りこれ以上の押し問答は消耗戦だ。
「寝ましょう」
「そうだね」
 最後に残った冷静な自分がそう言わせた。表面上の和解だとお互いに知っている。食器を割ったことも、逆上したことも、大声を出したことも、私たちは最初からなにもなかったように振る舞う。私はとにかく休みたかった。しかし安楽椅子でまど睡むような幸せは今の私にはほど遠い。どうしたら休まるだろうか。身体も心もうまく呼吸ができていない。次はお皿以外に何を割ればいいのか私はわからなかった。疲れ果て、寝間着に着替えることも億劫で、部屋着のままで私は熱のないベッドに身体を横たわった。弘文と愛しあったこのベッドはすでに冷気に支配されている。誰かを愛することを、好きな物事に心血を注ぐことを情熱と言う。私と彼との間には義理はあるけれども、熱はない。むしろ寒気がするような冷たさが私たちを包む。彼が寝室に入ってくる前に眠ってしまいたかったが、気が昂って目は覚めてしまっている。私は疲れている。その原因も知っていた。休まらないのは私の今にも擦り切れそうな精神状態のせいだということも。私はお腹に手を置いて、深呼吸をした。そして否が応でも皮膚の下の内臓があることを意識させられる。今月も不毛な血を流した私の子宮。血と虚しさしか吐き出すことのないこの臓器に、包丁を突き立てたくなった。しかしそんなことはできなかった。もしかしたら彼との仲が修復できるかもしれない。また治療に専念できるかもしれない。今は休んでいるだけ、と自分に言い聞かせ、私はお腹を撫ぜる。
 弘文が寝室に入ってくると、私とは反対側のベッドに腰かけた。
「おやすみ」
 私が狸寝入りをしているのを知ってか知らずか、彼はそう言った。そして彼は私の身体に触れないように、そっとシーツの上に身体を横たえる。よくもまあ、あの争いの後で眠る気になれるな、と私は呆れた。彼は寝つきが良く、三分も経たずに静かな寝息が聞こえてきた。私はため息をつくと、ベッドから抜け出した。

 音をたてて缶を開けると、炭酸の弾ける音が耳に入る。ビールを飲むのは久しぶりだと思い、それを一気に半分ほど飲み干した。
 そして私はひどく冷たく、乾いていたことに気がついた。甲羅のようにひび割れ、私はそこを掻きむしりたかった。けれどもかじかんだ手が届かない。心の皮膚は固くなって、水分を失っている。私は寒さと乾きを癒すようにビールのもう半分を飲み干し、車窓から街を眺めた。季節は移り変わっていて、秋がもう来ていることを知った。

「おはよう」
 私も弘文に同じ言葉を言った。彼が台所に来ると、私たちは暗黙の了解で、昨日の口論はなかったように振舞った。それでも私たちの声は不協和音のように響いた。きまりが悪いのか、彼はそれ以上なにも言わずにテーブルに着いて新聞を広げた。私も変わらず、朝食の準備を続ける。
「明日まで実家に帰ろうと思っているの」
「それはいい考えだね」
「気分転換をした方がいいと思って」
 あなたも「気分転換」した方がいいわ、という言葉を私は飲み込んだ。彼はあからさまに明るい声で私の提案に調子を合わせている。そんな彼を見ていると包丁を持つ手が怒りで震える。しかしこれ以上、朝から無駄な争いはしたくない。私の内臓には言いたくても言えない言葉ばかりが積もって、汚臭がする。私は少しの吐き気を催しながらトマトを切る。そして言葉たちの墓場を、そんな場所はないかもしれないが、見つけなければと思った。
「昨日のうちに夕食の準備をしておいたの。温めて食べて」
「ありがとう」
 朝食の乗ったお皿を置くと、弘文は顔を上げて私に不器用ながらほほ笑んでみせた。私も顔が強張りながらも、笑ってみせた。はたから見たら完璧な幸せな夫婦の朝食風景。しかし私たちは水面下では溺れるまいと必死に泳いでいる。この汚れ切った沼で。
 昨日はウイスキーのストレートを寝酒に飲んだ。それでも頭は冴えていて、荷物をスーツケースに詰め、夕食の準備をして、やっと眠気がやってきたので床に就いた。
 私と目を合わせないように新聞に目を落としながら、朝食を食べる弘文を見つめる。彼もきっと自分の内に言葉を殺しているのかもしれないと思うと、私は彼に同情した。この気持ちは私のなかに少しだけ残っている、彼への愛情だ。私たちは様々な感情がもつれ合うなかに縛り付けられている。私は彼を送り出すと、昨日の夜に酔っぱらいながら詰めたスーツケースを玄関に運び、家を出た。私は実家には帰らない。
 弱りきった自分を癒すため温泉に行くのだ。

 音を立てながらスーツケースを最寄り駅まで引いた。そしてキオスクで煙草とライターとビール三本を買う。煙草は、弘文と真剣に付き合いはじめて以来、一本も吸っていなかった。少しの罪悪感を抱くが、そんなものは関係ないと自分に言い聞かせる。付き合い始めて、彼が煙草は苦手だと言ったので、必死になって辞めたのを覚えている。
 弘文との付き合いは愛に満ちていた。私も忙しく仕事をしていたが、それでも私も彼も寸暇を惜しんで会う時間を作った。あまりの忙しさのなかでデートをしたら彼は食事中に眠ってしまい、料理の乗る食器に顔を突っこんだこともあった。彼は頭を掻いて笑って、私も心の底から笑った。そのときは今の状態になるなんて、誰が想像できただろうか。
 私は以前から行きたかった場所。それはスーパーマーケットに張り出された広告に映っていた。キャッチコピーはありきたりだったが、写っている女性が温泉で芯まで温まっているように見えるポスターだった。それを見て、私は我が身を振り返った。私はいつからこんなに冷たく乾いた女になったのか。写真の女性のように緩みたい、と思ってため息をついたのを、昨日の夜に思い出したからだ。弘文が出かけてから、PCを立ち上げて、検索で一番上にあった旅館に電話をした。今日これからか宿泊できるか問い合わせた。客室に空きがあるとわかると、すぐに家を出て新幹線に乗った。

 新幹線に乗るのは久しぶりだった。あっという間に過ぎ去っていく景色を見ながら、お酒のおかげか、少し心が楽になったのを感じる。今は朝の十時だ。こんな時間からビールを飲むことなんて、したことがなかった。お酒が私の身体に染み入る。今の私を甘やかすのは、弘文でも、友人でもなく、ひとりだけでゆっくり過ごす時間かもしれないと思った。
 二時間も満たない道程で、私は三本のビールを空けた。心地のよい酔いで少し家から離れただけなのに、私は最近、失っていた軽やかさを感じる。新幹線から降りると、秋晴れが広がっていた。
 山に囲まれていたその温泉地に着き、爽やかな気分を感じていたのも束の間だった。この温泉街は夫婦連れが多い。私はスマートフォンを取り出し、温泉街の名前とある言葉をいれて検索してみると、私の勘は当たった。「子宝の湯」というものがあるらしい。こんなところでも妊娠という言葉から離れたかったのに。私は脱力し、また不快な匂いが身体を包みこむようだった。
 旅館に着くなり、私は部屋に閉じこもり、缶ビールを再び開ける。弘文との喧嘩の原因は、不妊治療のあいだに起きた彼の浮気だ。私は治療の末に、彼との子を身ごもることができたが、流産をしてしまった。私が流産をして、まるでタイミングを計っていたように、彼が浮気をしていたことを告白され、今更なにを言うのかと私は驚いた。彼の浮気は知っていたから。彼は謝罪し一回、寝ただけのことだから、と私に許しを乞うた。そして一回ということが嘘だということを、私は知っていた。彼のシャツの下に着ていたインナーからは、甘い香りが立ちのぼり、きっと女性用の香水だろう、と私は思い知らされた。妊娠をして匂いに敏感な、つわりが激しいときだ。そうして初めて彼の浮気がわかったとき、私はなかったことにしようと心に決めた。私は騒ぎ立てることも、責めることも、しない、と。私は冷静にシャツの汚れた襟首の部分に洗剤をつけて手揉み洗いをして、それを他の洗濯物と一緒に洗濯機に入れた。彼が黙っていれば、浮気などなかったことにできると私は信じていた。不妊という困難をともに克服しようとする仲のよい夫婦。そんな理想的なカップルを演じようと、私は頑張り、彼は疲労していた。体面だけを気にしていた、と今の私にはわかる。それでも体面だけでも保ちたかった。それしか私にはなかったから。しかし弘文の告白によって、彼と私を繋いでいた一本の糸は切れてしまった。私はなぜ隠しておけなかったのか、告白することによって私に何をしてほしかったのか、と彼を罵り、悪態をついた。そして残された私の彼への感情は冷めて、自虐的な引け目だけが残った。もっと幸福になれると思ったのに、皮肉なものだ。私たちはより一層、幸せになるための行動が不幸を招いた。
 私は自分を痛めつけるように笑うと、五本目のビールを開け、煙草に火を点けた。この温泉が不妊に効くということは知らなかったが、どうせ眉唾ものだ。それだけ今は多くのひとたちが不妊という症状に悩まされている、というだけだと自分に言い聞かせた。藁にも縋りたい気持ちもわかる。問題はこの場所に私はひとりで、多くの夫婦は連れだっていることだ。互いに信頼しあっている夫婦をみると居たたまれなくなる。幸せそうに歩いている夫婦。それは産婦人科で見た妊婦と似ている。慈愛に満ちて、穏やかな表情を浮かべている。私ひとりきりでは慈しみも優しさも持つことができない、と否が応でも意識させられるから。弘文がいなければ何もない自分を、依存している自分を、どうすればいいかわからず、持て余している。
 感情の吐き出し場所がない私はビールを飲み干すと、音を立てて缶を潰す。缶がひしゃげる音が鈍く部屋に響いた。私が聞きたいのはガラスが割れるような澄んだ鋭い音であって、この音ではない。
 窓際に座って、煙草を吸いながら旅館の下を流れる川を見ていると、酔いのせいで不毛なことを考えてしまうのだ、と私は自分に言い聞かせた。この煙草を吸ったら、温泉に入りに行こう。心地よい柔らかなお湯が、鼻を刺すこの臭いから、洗い流してくれるだろう。そして私は久しぶりに弛緩することを覚える。ここでは奥歯を強く噛む必要はないと、私は思いださなければ。

 脱衣所を見る限り、まだ陽が高いせいか、温泉に浸かっているひとは少ないようで、私は安心して服を脱いだ。
 温泉に身体を浸ければ、肌を通して内臓まで柔らぐのを感じる。無意識のうちに声が漏れる。冷たくカサついてひび割れていた心の中へすら、温かなお湯が流れこんでくるような感覚。これで痒みを恐れることはない。なにも怖くないし、きっとすべてはうまくいく、そんな気分になる。湯加減は少し熱めだと私は思った。肩にお湯をかけているその瞬間、私の頭はぐらりと力が抜けた。私は霞んでいく視界のなかでこのままでは危ないと思って、立ち上がった。そして湯船から出ようとした瞬間、私の視野はブラック・アウトした。
 浮遊感から、私は目を開けると、女性ふたりが私の顔を覗き込んでいた。ひとりは旅館の仲居さんで、もうひとりはバスタオルを身体に巻いている。そうだった。私はお風呂で倒れたのだった、と思い出し、冷たくなった髪に触れる。
「大丈夫ですか?」
 旅館の仲居さんがそう私に尋ねるので、乾いた口で私は平気です、と答えた。タオルを巻いた女性が、もう心配ない、と言うと、仲居さんは安心したように脱衣所から出て行った。私は身体を起き上げようとすると、バスタオルを巻いた女性に制止された。
「脳貧血です。もう少しこのままでいてください」
「すみません。ありがとうございます」
 きっとこのひとが応急処置をしてくれたのだろう。彼女は私を見つめて笑いかけた。私はもう大丈夫ということを伝えるために、反射的に笑ってみせた。
「お酒をずいぶんと飲まれていたんじゃないですか?」
「ビールを」
「ダメですよ、お酒を飲んでお風呂なんて」
「ご迷惑をおかけして、すみません」
「これくらい何でもないです。看護師ですから」
 私は??責されると思ったが、彼女の声は思ったよりも柔らかい。彼女は頭の横にミネラルウォーターを置いて、あと五分くらいしたら飲んでください、と言って立ち上がろうとした。
「あの、ありがとうございました。何かお礼をさせてください」
「気にしないでください」
「でも」
 私が言葉に迷うと、彼女は目にかかった前髪をかき上げて、少し困った顔をした。これ以上、何か言うのは失礼だろうかと思いつつ、私の舌は止まらなかった。
「私、ひとりで来ているんです。時間の都合はいくらでもつくので」
「奇遇ですね。私もひとりなんです。明日、観光に付き合っていただけますか?」
「ぜひ一緒に行かせてください」
「では明日、朝九時に旅館の前で」
「わかりました」
「それと、今日はもうお酒は控えてくださいね」
 彼女の笑みに私は小さく頷き、脱衣所を後にして彼女は温泉に戻った。夢から覚めたみたいだ。お酒で紛らわしていた乾きも、身体から発する嫌な臭いさえ、私の中から消えていた。さっきまで貧血を起こしたはずなのに、不思議なほどに身軽になっている。無償の心配を久しぶりにされて、不謹慎ながら嬉しかった。私は脱衣所で身を横たえながら、ぼんやりと明日が楽しみだなと思う。

 昨日は早めに休んで、朝食を済ませると出かける準備をした。ワンピースを着て玄関で靴を履くと、彼女はすでに出口で待っていた。
「おはようございます」
 声をかけると彼女はほほ笑んで、おはようございます、と言った。昨日は余裕がなかったが、改めて彼女を見ると、綺麗だけれどもそれ以上に格好いいひとだなと思った。背が高く、短くカットされた髪。それに加えてマニッシュな洋服がよく似合う。高校生の頃は女子からさぞかし好かれただろう。女子校で女生徒が憧れる、バスケットボール部の先輩といったところだ。
 私はまだ張り詰めているが、彼女は余裕があるように見える。肩の力を抜いて、自由を楽しむ余裕。私は彼女を見習って、深呼吸をして気が張った身体を緩めた。

 まず私立美術館に行きたいと言って、私は手を引かれた。彼女は綾目と名乗った。ただ呼び捨てにして欲しい、と言われたので、私も綾目に下の名前で呼んで欲しいとお願いする。美術館に行く道すがら、綾目との会話は盛り上がった。綾目は遅い夏休みを取っているということ。私と彼女は同い歳であるということ。住んでいる場所も近いこと。違う点は綾目は結婚はしていないが、気になるひとがいるということ。しかし何より綾目もまたひとり旅であるということが、私を元気づけ安心させた。
「夏実は結婚しているんだね」
 綾目は薬指にはめている私の左手に気がついていた。無用なものになりつつある、私の結婚指輪。私は鬱屈とした思いで、笑ってみせた。
「一応ね」
「何か含みがある言い方だなあ」
「よくある話よ。あの建物が美術館じゃない?」
 私が指さした方向に、綾目は目線を移した。あからさまに話題を変えてしまったことに後ろめたさがあった。今この瞬間に彼はいないのに。

 美術館は有名な日本画作家のもので、私立なので点数は少ないが、多くのひとが見たことがある作品が飾られていた。その有名な絵は意外と小さかったが、名画というものは存在が大きく見えるものかもしれないと思った。
 ゆっくりと絵を見るなんて何年ぶりだろうか。私は楽しくて展示場を三周した。綾目も一枚一枚の絵を、近づいたり、遠のいたり、ゆっくりと丁寧に眺めていた。私は綾目の真剣な眼差しを盗み見ると、澄んだ瞳をしているなと思った。
 たっぷりと二時間、集中して絵を眺めた。私たちは少し疲れたね、と言って併設されている喫茶店に入った。窓際に面している席に着くと、秋がもっと深まれば紅葉が見ることができたかもしれない。
「美人画で有名な画家だけれど、書簡まで見られるなんて。来てよかった」
「私も楽しかったよ」
 綾目は興奮気味に言うと、まるで少年のように見えた。綾目は鑑賞中に押しつけがましく、画家の生涯や作品の来歴を語ったりしなかった。夏実が見たいように見ればいいんだよと言われ、私は感じるままにそうした。以前、弘文は知識をひけらかして、観賞の仕方を私に強要した。絵の見方とか絵の所以を耳元で囁いた。私は最初、そんな彼のことを物知りだと思って感心した。しかし二回目となるとうっとうしく思い、それ以降デートの選択肢から美術館は外した。
「綺麗だね」
 窓の外を見ながら、綾目はそう言った。
「本当に。もう少ししたら紅葉が見られたのにね」
「違うよ、夏実の髪」
 私は反射的に自分の髪を触った。私は自分の黒髪を後で緩く、ひとつの三つ編みにしている。
「まるでラプンツェルみたいだ」
 綾目は恥ずかしいのか、私に視線を外したまま言った。惰性で伸ばしていた黒髪なのに。私は褒められて面映ゆく感じる。
「ありがとう」
 私もコーヒーカップに視線を落とし、照れを隠しながらも嬉しくて、そう言った。

 私と綾目はその午後も観光を楽しんだ。ロープウェイに乗って景色を楽しんだり、温泉街をそぞろ歩きをした。翌日も寺院巡りをして、その後に温泉のはしごをした。夕食を綾目と一緒に味わい、そして再び旅館の湯に浸かる。引き締まった綾目の身体は、私のそれと同じとは思えなかった。
「綾目は運動とかしているの?」
「特にはしてないよ。しいて言えば今の職場が激務だからね」
「私も働きたいな」
 私が結婚生活や今後のことを思い出し、ため息をついた。温かい湯で綻んだ声のように響かせるはずだったが、重々しい嘆息になってしまったことを私は後悔した。
「今すぐ、とか夏実が無理する必要はないよ。いまは現実の問題から離れたほうがいい」
 私の考えを知ってか知らずか、せっかく温泉に入っているのだから、と風呂の湯と同じようにソフトな口調で綾目は言った。きっと綾目なりに気を使っているのだろう、と私は思った。綾目は私の結婚生活のことを、結婚指輪について私はぐらかしてから、尋ねてこない。私はさまざまな問題が脳裏をよぎったが、その問題は今の私にとっては些末なものだと思おうとした。肩まで湯に浸かると、思考がとろける。そう、この瞬間こそ私の求めていた安らぎだ。そして私は自分の髪が温泉にひたらないように気をつけた。
「ラプンツェルみたいって綾目に言われて嬉しかった。私、あのお話が大好きなの」
「本当にそう思ったんだよ」
 私たちは穏やかに笑った。綾目は私を甘やかすのがうまい。本当にお姫さまになったような気分にさせられる。グリム童話の『ラプンツェル』。この話の最後は、魔女によって短く髪を切られたラプンツェルと、ラプンツェルを探し、さすらっていた王子さまが砂漠で再会する。魔女のせいで目が潰れていた王子さまはラプンツェルの涙で目が見えるようになるのだ。少し肉体的に痛々しいが、ドラマティックな童話。私の王子さまは誰だろう。弘文のことを一瞬、思い出したが、違うと打ち消した。
 綾目は恋人にどんな振る舞いをするのだろうか、とふと気になった。私の扱いが上手いのだから、きっと恋人にも優しく、相手に合わせて柔軟に対応するのだろう。仕事もしているし、男性と対等な関係を築くことができる。嫉妬ではないけれど、理想的な関係が築けるだろう綾目が羨ましく思い、私は綾目に問う。
「綾目の気になるひとって、どんなひとなの?」
「その話は別にいいよ」
「気になるじゃん」
「夏実、あなただよ」
 私はその綾目の言葉をすぐ理解できなかった。何か言うべきだと思いつつ、私は押し黙ることしかできない。
「困らせるつもりはないんだ。別にどうこうなりたいわけではないし。温泉で溺れているのを助けて、夏実が目を開けてほほ笑んだ瞬間に恋に落ちた。我ながらお手軽だと思ったけれど」
「綾目にそう思われる価値は私にはないよ」
「価値があるかないかは私が決める。夏実が好きだよ」
 曇りのない目線を綾目は私に向ける。私は自分から視線を逸らすことができない。綾目は吸い込まれそうな透明な目をしている。そして彼女は苦そうには笑って、湯船から立ち上がった。
「ごめん。少しのぼせたみたいだから、先に上がるね」
 私は湯気に消える綾目の姿を追えなかった。驚きと戸惑いが私を襲い、身体を硬直させた。それでも嫌な気分はしない。むしろ嬉しかった。しかし私は綾目の気持ちに応えていいのだろうか、と思った瞬間、自分の左薬指にある指輪を意識せざるをえなかった。それでも私は綾目に対して何もなかったようには振るまえない。

 温泉から上がって自分の部屋に戻ると、スマートフォンが鳴っているが、綾目の告白で気持ちが浮ついて、まごついている間に切れた。誰からかかってきているか確認すると、弘文からだった。そしてこの数時間の間に着信が五件以上あった。家を出てから三日。一日で帰ると伝えていたが、彼を困らせたくて元からその気はなかった。彼は私を心配しているのだろうか。それよりいっそ彼が私の不在を喜べばいいのに。思う存分「気分転換」をすればいい。彼はきっと私の実家の電話にもかけているだろう。私は電話をかけ直すべきか思案していると、再び鳴り響いた。
 私が反射的に電話を取ると、弘文は憮然とした声で、今どこにいるのか聞いてきた。私は決して言うまいと押し黙る。
「きみが帰ってきたら改めて話がある」
 彼は長く口をつぐんだ後にそう言った。私は何も言えないままでいると電話は切れる。彼の言いたいことを想像すると、喉元が絞まる。和解か離婚か。きっと離婚だろうけれども、それでも確かめれば良かった。離婚はしたいけれど、したくない。彼への死臭を放つ執着という感情が私を縛り付ける。相反する気持ちが内臓を食い散らかすように蝕み、苦しく息ができない。
 私は綾目の部屋の前に立ち、ドアをノックした。
「どうしたの?」
 先ほどの告白できまりが悪いのも相まってか、綾目は私の来訪に驚いていた。いま綾目の部屋に来ることがどんな意味をなすのか、私にもよくわかっていた。綾目の告白を受け入れるということだ。綾目が同性であるということが私には何の抵抗も与えない。私の心に食い入るこの感情を知らせたい。そして窒息状態の網目をかいくぐって、私を救って欲しい。それができるのは綾目だけだ。
「溺れているの。助けて」
 私の訴えに綾目は何も言わずに、私を抱きしめた。いだき締められると、私はやっと呼吸の仕方を思い出し、柔らかな綾目の背中に腕を回した。

「私以外のことで頭が一杯になっているような女を抱くのは趣味じゃない」
 綾目は清々しそうに言って、頭を撫でた。私に聞きたいことはたくさんあるだろう。しかし問い詰めるようなことはしなかった。私はマシュマロのような綾目の手を顔に移し、頬を寄せた。
「優しいね」
「夏実が好きだからだよ」
「そんなこと言われたら、甘えて、つけ込んじゃうよ」
「甘えて、つけ込めばいい。そして私がいなければ、生きていけないようになればいい」
 綾目は何てことはないように言って、私の顔を覗き込んだ。そしてくちびるを私のそれに一瞬だけ重ねる。
「気持ち悪い?」
「ううん。柔らかかったなって。でも咄嗟のことだったから、良くわからなかった」
 だから、と言って私は綾目にくちづけをせがんだ。綾目のくちびるからは甘い香りが漂っていて、私は自分の身体からもその匂いが発せられているような錯覚に陥った。私にまとわりついていた腐った臭いは綾目との接吻で消えて、私は綾目とのくちづけに漂う匂いに酔い痴れる。この香りは恋の匂いだ。

 私たちは夜じゅう、くちづけをしていた。そしていつの間にか寝入ってしまい、綾目の腕のなかで目を覚ました。少し腫れあがったお互いのくちびるを見て私たちは笑った。綾目への依存心は、私のなかで愛情に変わりつつあることを私は確信する。
 今日は陶芸をする予定で、私も綾目も支度を急いだ。手早く出かける用意をし終った綾目は、外に出るため化粧をしている私の手元をじっと見つめている。
「どうしたの?」
「夏実の髪を結ってみたい」
 綾目は真面目に言うので、私は自分の髪を差し出した。そして綾目は私の髪をひとつに束ねて、目の粗い三つ編みを結う。
「綺麗な長い髪だね。本当にラプンツェルみたい」
 そう言って綾目は私のうなじにくちづけた。でも私はそれだけでは足りない。振り返って、私は綾目のくちびるを貪る。弘文とのいざこざは、私と綾目との愛情に入り込む余地を与えない。私たちのキスには隙間がなく、ぴったりとしていた。私は綾目に魅入られている。綾目の優しさと誠実さに満ちた目に見つめられると、私は長く忘れていた温かい気持ちで胸がいっぱいになる。
 結局、私たちは陶芸の体験に遅れてしまった。

 明日には綾目の夏休みが終わる。綾目は荷物を詰めていて、帰り支度をしていた。そんな彼女の姿を私は複雑な気分で見つめる。綾目との関係はまだ淡いものだ。これ以上、足を踏み入れていいものか。弘文とは別れる。しかし綾目との関係はどうなるのだろう。それが歯がゆく、私は親指の爪を噛んだ。
「そんな顔をしなくてもいいんだよ。私は夏実のことを簡単に手放さそうとは思っていないから。夏実はどう?」
「旦那とは別れて、仕事を探すよ。しばらくひとりで暮らす。綾目が嫌じゃなければ、また会ってくれると嬉しいな」
 私は戸惑いながらも、そう言葉にした。弘文と別れること、働くということ、ひとり暮しをすること。この温泉街を出たら私はやるべきことがたくさんある。しかし言葉にすると揺るぎなく感じた。確かに不安はある。しかし怖くはなかった。私は満ち足りていて、ようやっと現実と立ち向かう決意ができたからだ。そして脳裏に浮かぶのは、弘文の疲れた背中だ。私があんなに執着した彼との結婚は、綾目と出会って色褪せて見えた。彼との幸せな日々は、彼の密事によって終わっていたのだ。もっと早く、綾目とめぐり合う前に、そのことに気がついていればよかったと思う。弘文との複雑に絡み合った感情に私は雁字搦めになっていた。それが愛だと私は勘違いをしていたことが悔やまれる。そして彼と距離を置くことで、勘違いは正された。沼地に這いつくばる必要はもうない。ようやっと私は臭いを気にしなくてよくなった。私も彼もお互いに抱く憐憫とともに結婚を解消するだろう。それは私と彼が唯一、最後に選択できる、思いやりだと知るだろう。
「毎日でも通うよ」
「綾目」
「なに?」
「好き」
 綾目は照れたように笑ってみせる。そして私も好きだよ、と言った。私は綾目のそばによって背中から抱きしめた。このひとが好きだ。弘文なんかよりもずっとずっと。あんなに揺れ動いていたのが嘘みたいに、今は穏やかで綾目への愛しい気持ちに満ち溢れている。きっとこの恋はうまくいく、と私は確信できる。綾目と過ごす未来に私は想いを馳せた。輝かしく、惑わされない、互いに思いを寄せる生活。振り返る綾目にくちづけた。綾目は私のことを見つめ、私は綾目を見つめた。絡み合う視線は今までのものとは違う。それは官能的な色が浮かんでいた。
「抱いてもいい?」
 私は頷き、敷かれた布団にそっと押し倒された。

 はじめはぎこちなく、額にキスされた。まだ自分の皮膚に夏実の肌が馴染んでいないから、と綾目は言った。不慣れな手つきで綾目は私のどこが柔らかいのか、探るように指先を動かす。私はされるがままであることが受け入れられず、綾目のまぶたにキスをして、胸の膨らみを羽毛で撫でるようにそっと触った。
「夏実はなにもしなくていいのに」
「私だって、触れたい」
 もっともっと奥まで。私の乾いていた臓器は中から水があふれて、滴る。それは体液になり、夏実の指や肌を濡らしていく。私は満ち足り、心の底から穏やかな気持ちになる。綾目は私にとって贅沢な安楽椅子だ。目を閉じ夢見心地でその椅子に座ると、私は解放され、心は充足で満水となる。そして綾目の温雅な腕のなかで庇護をうけることができるのだ。私はこの感覚を知っている。だから思わず声が漏れてしまったのだ。
「弘文」
 私は彼の名前を口から漏らした。最初にこの過剰なまでの多幸感を私に教えたのは弘文だった。
 綾目の眼は液体窒素に浸けられたように、凍った。そしてまるで誰かがわざと優雅に、シャンパングラスを落としたような音が聞こえた。ひとの心が傷つく音。私はその音を、ずっとずっと聴きたかったのだ。時間にしてほんの一秒ほど、その強烈なエクスタシーに私は浸っていた。綾目は私のなかの変化を見落とさず、私を愛撫していた手を反射的にひっこめた。そして覚束ない足取りで、窓際の椅子に浅く腰かけた。
「あなたは残酷な魔女だ!」
 痛切に、腹から絞りだすような声で綾目は言った。私は浮世離れした、綾目のお姫さまになることを夢見ていた。臭気を放つ沼の底に眠っていた妄想と、聞こえの良いひとの気持ちを挫く音。私は魔女だったんだ。綾目の放った、その言葉に私のなかに響き渡る。
「夏実のことを塔に囚われているラプンツェルだと思っていた。でも違う。あなたは魔女だったんだ。ひとの心をたぶらかし、痛めつけることが好きなんだ。もういいでしょう? 私はこれ以上、夏実の残酷な遊びには付き合えない」
 私は何も言い返せなかった。というよりも口が固まってしまっていた。綾目は苦しそうに、お願いだから出て行っていって、と私に乞うた。私は無言でその場を去るしかなかった。

 新幹線がまだあったのは幸いだ。平日の上りの列車の中はがらんとしていて、私は窓際の席に座った。そして窓に映った自分を見ると、綾目が結った私の髪がほつれて、乱れていた。私は旅行バッグの中から化粧ポーチを出し、ハサミを手に取った。そして私は髪に刃をあてる。髪を切り落とす、ジョキリ、ジョキリという音が私の耳に響く。小さなハサミを動かすと小気味よい音が響き、私の頭は軽くなっていく。そして髪を切り終わると、長い髪は蛇の抜け殻のように、床に散らばっていた。
 私は『ラプンツェル』の魔女はどこに行ったのか想いを馳せた。『ラプンツェル』に出てくる鬼女は、お話の最後、ラプンツェルと王子が結ばれてからの行方が、わからないことを思い出した。どこにでも行けるということ。妖婆はきっと旅に出たに違いない。
 窓に映る嫌らしい、皮肉っぽい私の笑顔は魔女のイメージそのものだった。ひとからを奪うことも、ひとを利用することも、いとわない残酷で卑しい存在。私はこれから、いたいけな少女の髪を切り落とすことを楽しんだり、夢見る少年を巧みに騙し目を潰すだろう。私は無慈悲な妖術師なのだから、心を痛めることもなくやり遂げる。綾目の心が割れる音も弘文への情も、今の私の眼差しを晴れさせもしなければ、曇らせもしないように。それらはまるで昔の映画のなかの出来事のように思い出された。これでいい。私はそう確認すると目を閉じ、身を縮めて座席に身体を委ねた。私は魔女として、奪い続けて、どこまでも遠くまで行こう。

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