フォトジェニック・ラブ

 照明が落とされる瞬間がいちばん好きだ。
 これから薄いスクリーンに映るイメージを待ち焦がれて、私は大きく息をついて目を閉じた。期待と不安がない交ぜになったような、少しだけ心許ない、淡い感情を抱く。そして腕時計も携帯電話も無用のものになり、私はこれから待ち受ける映画のためだけの時間に身を任せる準備をした。観客の衣擦れや小さな咳払いと囁き声が聞こえ、映画館で映画を観るのならば、こうでなくてはと思い目を開けた。小さなざわめきは映画の前座だ。そして始まる映画の予告は私をゆっくり映画時間に慣らしていくようで安心する。私は身体を映画に預けるのだ。

 私は急いで靴を履いた。時計を確認すると、あと五十分しかないと焦る。駅まで走って、電車に乗って四駅分。駅から映画館に行くまで五分かかるから、次の電車は乗り過ごすことができない。私は昨日、遅くまで起きていた自分を呪った。夜更かしの原因は今日の映画が楽しみで眠れなかったことと、監督の過去作品を観ていたせいだ。映画のあらすじはすでに知っていたけれど、あの監督がどのように今日観る作品を撮ったのか。それを知りたくて、胸が躍った。
 映画館に着くとチケットを購入し、もいでもらうと上映会場に入った。私は客席を眺める。観客は私を含めふたりだけ。ひとりは入口にぽつんと座っていた。確かにこの映画館は小さく、マニアックな作品しか上映しないし、平日の早い時間で観客は少ないだろうと予想はしていた。しかし私を含めてふたりだけとは思わなかった。上映開始のため暗転すると、私は忙しなく席についた。そしていつも通りに映画を観るために目を閉じる。

 エンドロールが流れ終り、会場の明かりがつくと、魔法が解けたように現実の時間が押し寄せてくる。私は腕時計をはめ直し、携帯電話の電源をオンにした。会場は観客が少ないせいか、冷房のせいか、真夏なのにひどく寒くて私の身体は冷えきっていることに気づく。映画館を出たら、温かいカフェオレでも飲もうと席を立った。
 もうひとりの観客はいまだ明るくなった今でも、座ったままだった。ショッキングピンクのTシャツを着ていて、私より五、六歳くらい若い女性だ。黒く長いであろう髪を後でおだんごにしている。大きな目をしていて、瞬きを忘れたようにスクリーンを見つめていた。はっきりと言うと私の好みの女性だった。彼女と喋ってみたい、という欲望が私の中で生まれる。彼女もきっと映画が好きなはず。けれども若く可憐な女性には似合わない映画だったからだ。つい私の好奇心がもたげる。
 彼女と視線がぶつかると、私は目だけ笑ってみせた。楽しかったですね、と伝えるために。そうするとその女性は笑顔を向けてきた。その視線は映画から現実に戻ってきたと私は感じる。まるでまどろみから目覚めたばかりのとろんとした、熱っぽい目。スクリーンに向けられていたものだと知りながらも、私はどきまぎしてしまう。
「結局、ふたりきりでしたね」
 女性はそう言うと、席を立った。
「ええ、そのせいか会場が少し寒かったですね」
「温かいカフェオレでも飲みたい気分です」
「私もそう思っていました」
 そうですか、と彼女ははにかんで見せた。可愛い笑顔を向ける女性だなと思う。でもきっと素敵な彼氏がいるのだろうなと思うと考えると、私はため息をつきたい気分だった。だったらダメで元々と言い聞かせ、と私は自分を奮い立たせる。
「よろしかったら、一緒にカフェに入りませんか? この辺りに美味しいコーヒーを出してくれるお店があるんです」
 私は彼女を誘った。それは純粋に彼女と映画の話をしたかったということと、こんな可愛らしい女性には滅多に出会えないと思ったからだ。映画館でふたりきりだった私たち。そんな偶然を偶然のまま終わらせたくない。
 彼女は大きな目を瞬きさせて、私のことを見つめる。変なひとだと思われていないか、不安になる。そして彼女のくちびるはゆっくり言葉を発する。
「いいんですか?」
「たったふたりで同じ映画を観た同士、熱く語り合いたいんです」
「それなら、ぜひ」
 控えめに彼女がそう言うと、私は彼女を映画館から連れ出した。

 私たちは往来でさっきまで観ていた映画について話し合った。いまだにソフト化されていないその作品は、確かに傑作とは言い難かった。しかし好きな映画監督の作品を観られたことで満たされたと感じたし、彼女も同意見だと言う。
「ただ少しだけ眠くなりました」
 彼女はためらって言った。
「実は私もです。でも『眠くなる映画は良い映画』ってある映画監督が言っていましたし」
 喫茶店に着くと、私たちはカフェオレを頼んだ。カフェオレボウルを両手で持つ彼女の手は小さく、どこか覚束ないものだった。私の目線に気づいたのか、彼女はボウルをデーブルの上に置いた。
「画家が絵を描いては消して、描いて消して。結局、絵が完成しないドキュメンタリー映画っていうのが元も子もないあらすじだけれども、幸せな映画空間でしたね」
「はい。あの監督の映画って光がとても柔らかく、優しいですよね。まぎれもなく監督が撮ったんだ、っていう実感がありました」
「私あの監督の全作品観ているんですけど、一貫して光の差しかたにこだわっている気がします」
「もしかしてデビュー作も観たの?」
 私は驚いて、思わず敬語ではなくなってしまった。今回の映画以上にDVDの入手も困難で、映画館で上映すらされない幻の映画。うら若い女性がマニアの垂涎ものの映画を持っていることに私は驚いた。
「ええ。よろしかったらお貸ししますよ」
「いいの? 見ず知らずの私なんかに貸して」
 彼女は首を縦にふった。
「一緒に映画を観た仲じゃないですか。それに映画は多くのひとに観てもらうほうが幸せでしょう?」
「ありがとうございます」
 実はその監督のデビュー作のDVDを私は持っている。しかし思わずそう言った。嘘をついてしまった。そして私はその嘘の意味を考える。私は少なからず彼女に好意を抱いている。そしてまた会いたいとも思った。その感情の温かさは名づけづらく、儚いものだ。きっと素敵な彼氏がいるだろう彼女に、好意を抱いても無駄なことだと諦めている。しかし彼女に再び会いたかった。映画の趣味が合うので、友だちでいいから一緒にいたいと思う。その気持ちだけは否定したくない。しかしDVDを貸すというのは社交辞令かもしれない。個人的な連絡先を教えるのは相手に迷惑だと思い、躊躇して会社の名刺を差し出した。
「栗本瞳って言います。平凡なOLです」
「山下奏です。よろしくお願いします」
「お酒は飲める? ここはカフェだけどお酒も出しているので。せっかくの休みを取ったから、昼間から飲んじゃおうかなって」
「私は結構です」
「お酒、飲めないんだ」
「いえ、年齢的にダメです」
「え?」
「私は十七歳なんです。高校生」
 私は耳がおかしくなったのかもしれないと思い、もう一度、山下の年齢を訊ねると、やはり十七歳だと言った。二十六、七歳だと思っていた女性が、実は二十歳に満たないなんて。しかも相当のシネフィルだ。私は山下の大人びた化粧や服装にばかり目が行って、十代のハリのある肌に気がつかなかった。私はそのときレズビアン失格だと思い、反省した。山下は私の動揺に慣れているように、落ち着きを払っていた。女子高生は歳を取った私には異星生命体だ。住む世界が違い過ぎる。
しかし山下は意味不明な言葉遣いもせず、佇まいは少しも動じない。自分の女子高生のときはこんなに堂々としていなかったし、大人の前では委縮していた。女子高生時代を気恥ずかしさと共に思い出す。映画の知識量と堂に入った態度に、山下は大人びているなと私は思った。
「奏でいいですよ。今は夏休みなんで観に来ちゃいました」
「じゃあ奏ちゃんって呼ぶね。なんでこんなマイナーな映画が好きなの?」
「父が映画好きで、小さいときから色々観せられてきました」
「そうなんだ」
「映画館に行くときはいつも少し化粧をするんです。観客なんて見ていないだろうけど、高校生だと思われて、ナめられないように。でもちゃっかり学生料金で入りますけどね」
 まるで私の動揺を見透かしたように、奏は笑って言った。そのあどけない笑みは、言われてみれば飾り気のない高校生のものと思う。私はうら若き少女を目の前にして、話題が見つからない。そしてとっさに奏に聞く。
「奏ちゃんは……彼氏とかいないの?」
「男の子には関心がないんです。わたしの通っている学校の男子生徒は幼稚で、乱暴な人間ばかりで。しかも映画が好きっていう趣味ということがわかっていなくて」
「私も高校時代、そんな感じだったからわかるよ。いつもひとりで映画を観に行っていた」
「瞳さんもそうだったんですね。映画を観るときってひとりの方が好きなのだけれど、観終ったあとはいつも誰かと話したくなります」
「そうだね」
「瞳さんは彼氏いないのですか? 不躾な質問ですみません」
「いないよ」
 奏は訝しげに私を見た。奏はきっと私の彼女への小さな好意に気づいてはいないはずだ。
「なにか隠していることがありますね」
「なんでそんなふうに思うの?」
「私は子どもだけれども、敏いんです。大人の嘘を見抜くことは得意です」
 不敵に奏は笑ってみせる。私は末恐ろしい子だと思った。奏の年齢を知ったとき、確かに私は狼狽したけれど、自分がレズビアンであることは隠したかった。そして奏との友情を育みたいという淡い好意を恋愛感情と履き違えたくない。奏に一瞬もときめかなったと言うと嘘だが、私は大人であるということはわきまえている。
「大人は意外と嘘をつくのが下手なんですよ」
「私が言っていることに嘘はないよ」
 私には三十四年、生きていて彼女はいたが彼氏がいたことはなく、奏の質問に虚言を吐いてはいない。
「歳を重ねたひとって大人の振りばかりして、傲慢です。私を簡単に子どもにしてしまう。それがいつも私を苛立たせます。別に嘘をつくことは悪いことだと言っているわけではないんです。子どもにはどうせわからない、その態度が私の気持ちをささくれ立たせるんです。瞳さんにそんな扱いされたくない」
 そう言って奏は残っていたカフェオレを飲み干した。そして私は自分の名前を言われ、どきりとした。確かに私が女子高生のころ、子ども扱いされるのが嫌だった。そんな気持ちを思い出す。私は高校生のとき尊敬する映画監督とのティーチ・インに参加したことがある。緊張と胸の高鳴りを抑えられず、監督に変な質問ばかりしてしまった。しかしその集会のとき私は初めて単なる女子高生ではなく、ひとりの大人として待遇された。そんな記憶を思い出すと、奏の言うことはもっともなことだと私は思う。そして私は腹を決めた。
「彼氏がいたことはないけれど、彼女はいたことがあるよ」
 奏の顔はさきほどまでしかめ面を浮かべていたが、その言葉に今は穏やかな表情を浮かべている。
「そうですか。正直に言ってくださって、光栄です」
「違和感はない? それに気持ちが悪いとか」
「女性が女性を愛すことに、ですか?」
「うん」
「違和感も気持ち悪さもないです。ひとに惹かれることが異性じゃなくちゃいけないって決まりはないでしょう? 映画だって同性愛をテーマにした作品だって多いですし。それに大抵の男性って基本的に自分のことばかりが気になって、女性のことを大事に扱うってことを知らないから」
 奏の言うことはもっともだ。私は自分が同性愛者であっても、それを恥じたり、後ろめたく感じる必要は全くないと思っている。しかしそれを他人に打ち明けるときは慎重にならざるをえない。そんなことが杞憂だったと安心し、私のなかで奏に対する別の好奇心がもたげた。
「大事にしてくれないひとと付き合っていたの?」
「彼は大学生でしたけれど、口癖は『子どもにはわからない』でした。自分も学生なのに。そんなこと言いながら欲望はちゃっかりあって、私を抱いていた」
「それはひどいね」
 奏の口からセクシュアルな言葉が出てきたことに私は少し戸惑った。奏はまだ守られるべき存在なのに、と私は思う。そんな私の考えを見抜いて奏は苦笑を浮かべて、言葉を紡ぐ。
「だから次の恋は私を、私という人間を大事にしてくれるひとと付き合いたいんです。それに恋愛に性別という壁はないと思います」
「そっか」
「つまらない話をしてしまいましたね。ごめんなさい」
「そんなことない。奏ちゃんの言うことは正しいし、自分を大事にしてくれるひとと付き合いたいって私も思っているよ。だからそんな男のこと忘れちゃえばいい」
「はい。ありがとうございます」
 奏はそう言って陰りのない鮮やかな笑顔を浮かべた。それは奏の等身大の、幼さを残すほほ笑みだ。可愛いなと思って私は手を伸ばし、奏の頭を撫でた。奏は最初、少しびっくりしたようだがその手を渋々と受け入る。
「子ども扱いをしないでください」
「よく頑張っているなって意味だよ」
「大人も頭を撫でられたいときってあるんですか?」
「あるよ。そんな素振りを見せないだけで」
 そうですか、と奏は言って撫でられるままになっている。私は奏が好きだ。しかし奏に抱く感情は姉が妹に抱く淡いものだと、私はそう思うことにした。

「もう会うのはやめておいた方がいいんじゃない?」
 昼食後のひとがいないお手洗いで、化粧直しをしていると、同僚の真希子はそう言った。私がレズビアンであることをカミングアウトした、数少ない友人のひとりだ。私と奏との出会いと友好的な関係を話すと、真希子はため息をついた。
「まだ恋愛感情を抱いているわけじゃないし」
「『まだ』ねえ。そう言っているから、やめておいた方がいいって言っているの」
「奏ちゃんはすごく賢い子だし、いい子だし、私は恋愛の対象として見ていません」
「でも一目、見た感じだと好みだったんでしょう?」
「うん。まあ、それはそうだったよ。でもきっともう会えないよ。会社用の名刺しか渡さなかったし」
「瞳の場合、片想いの名人なんだから」
 私は真希子の言葉に否定をできなかった。確かに私は惚れやすい。そして真希子の言うことは正論だ。しかし恋の始まりはどこにでも落ちている。たんぽぽがどこにでも根を張るように。映画館のチケットを切ってくれる歳下の可愛い子にも、バーで知り合った話が弾んだ女性にも、休日に行く指先が綺麗な図書館司書さんにも、よく行くカフェで給仕している子にも、それぞれかけがえのない魅力に惹かれた。ほのかな恋心は、綺麗なまま、すぐに打ち砕かれたが。
「ただでさえ私たちは女で、瞳はレズビアンっていう二重苦なんだから。ひと回り以上歳下の子に、しかも未成年に現を抜かすなんて三重苦だって」
「確かに、そうだね」
 私の行動は軽はずみだったかもしれないと思った。真希子の言葉で自分がどんな社会的位置にいるのか脳裏をかすめた。
「そう言えば部長はホームパーティするって」
「また?」
「中身はどうであれ『幸せな家族』っていうのを見せつけたいじゃない? いい迷惑だよね。瞳は誰と行く?」
「及川を誘うわ。困ったときのゲイ友だち」
 そう、と真希子は言った。及川も同性愛者で、彼も私を隠れ蓑として振る舞うことが多い。同期入社なので気兼ねなく、お互いに異性愛というクローゼットの中からそっと抜け出すことができる。男女が対であることを要求され、趣味の悪いホームパーティに出席しなくてはならない場合、私と及川はひっそりと品の悪い装いをしている男と女をこき下ろす。くだらないパーティのささやかな楽しみだ。仲の良いカップルとして傍から見たら思われるだろう。
 真希子が誰と一緒に行くか私は尋ねることをしなかった。真希子は長く連れ添っている恋人がいる。秋野氏だ。素朴な青年と言うには歳を取りすぎているが、秋野氏は飾り気のないひとで、真希子と秋野氏が一緒にいると、お互いの呼吸があっているのを私は知っている。
「ああ、憂鬱」
「そうだね。そんな時間があれば映画の一本でも観たいよ」
 私がリップグロスを塗り終わり、それをくちびるで伸ばし終えると気持ちが沈んでいることに気づく。幸せな結婚、幸せな家庭。それは私にとって遠い世界のことで、まるでガラスケースに並ぶ凡庸なショートケーキにみたいだとも思った。
 真希子は私の肩を叩くと、散らかした化粧品をポーチの中にしまった。ただ仕事だけをすればいい時期が過ぎてしまった。大人になれば自由になれると考えていたが、現実は不条理なことばかりだ。

 数日間、仕事に忙殺されプライベートがない状態だ。家は少しの睡眠をとるためだけに帰る、そんな生活をしている。
「栗本さん、内線二番にお電話です」
「はい」
 時計はちょうど退勤しようと思った十九時を指している。これ以上、仕事が回ってきたら嫌だなと思いながら受話器を取った。
「栗本です」
「一階に山下さまがお見えになりました」
 私はもう一度、名前を聞き返して、奏だとようやく理解した。
「わかりました。いま降ります」
 失礼します、と言って私は受話器を乱雑に置いた。タイムカードを押してエレベーターまで走り、乗った。奏だ。エレベーターの階数が一に近づくのを複雑な気持ちのなかでいると手のひらが汗ばんだ。私は動揺を隠したくて何度も手を握ったり開いたりする。奏には名刺を渡したが、電話の番号もメールアドレスも私的なものではなかった。でもわざわざ会社に来た。口先だけではない奏の言葉を思い出す。映画は多くのひとに観てもらうほうが幸せだ、と言っていたときの奏のほほ笑み。しかし私はどんな顔をして奏に会えばいいのか、わからない。エレベーターに備え付けられている鏡を見て、化粧が崩れていないか、髪型は乱れていないか、チェックした。そうこうしているうちに、エレベーターが一階に着いたことを告げる。
 ドアが開くと、私は来客用のソファに座っている人物の後頭部、長い黒髪をおだんごに結っている頭が見えた。受付嬢が私に声をかけたかもしれない。そんなことはどうでも良かった。私は奏が座っているソファに急いで歩を進める。
「こんばんは」
「会社まで押しかけちゃって、ごめんなさい」
 奏はすまなそうに、まず頭をさげた。白と黒のストライプのブラウスを着ている奏は初めて会ったときよりも、大人っぽく見えた。それでも彼女の姿は所在なさげで、緊張しているように見える。
「大丈夫だよ。もう今日は上がるところだったし」
「よかったです。これ」
 奏はぎこちなく、ぶっきらぼうに私に薄い袋を差し出した。私は中身を確認するために、その袋の中を覗いた。初めて会ったときに私が観たいといった、幻のあの監督のデビュー作が入っている。私は奏をみつめると、彼女は目を逸らす。
「持ってないって言っていたから」
 か細く耳をすまさないと聞けないような声で奏は言った。
「ありがとう。嬉しいよ」
「ごめんなさい」
「何が?」
「DVDを借りたいって社交辞令だと思ったから」
「そんなことない。また会えて嬉しいよ」
「本当ですか?」
「立ち話もなんだから、夕飯でも食べに行かない?」
 奏はいいんですか、と首を傾げた。嫌なら誘わないよと私が言うと、ほっとしたのか奏の表情はやわらぐ。さあ、行こうと私は奏を会社から出た。

 綺麗とは言い難い外観だが、私の舌で味は保証されているベトナム料理の店に入った。そこで改めて私と奏は連絡先を交換した。そして奏はメニューを興味深そうに見つめる。
「ここは生春巻きもフォーも美味しいよ。甘いものが好きならケムズアっていうココナッツアイスとかもおすすめ」
「お値段も安いですね」
「そうなのよ。奏ちゃんはなにか苦手な食べ物ってある?」
「……パクチーが苦手です」
「じゃあパクチーを抜くように頼むね」
「お子さま舌だって思ったでしょう」
「少しだけね。でも大人でも苦手なひとはいるし」
 私がそう言うと、奏はわかりやすいふくれ面を浮かべた。そんな急いで大人になる必要なんてないのに、と私は思う。長い人生では子どもでいられる方が短い。だからこそ奏には天真爛漫な日々を送って欲しいと私は勝手に思った。やはりこの気持ちは妹を慕う姉のようなもので、私の自問自答は無用の心配だった。
 奏はパクチー抜きの鶏肉のフォーを美味しそうにすすった。暑い日が続いていて私は食欲なかったので生春巻きをつついていた。しかし奏の食べっぷりを見てお粥を追加オーダーする。
「なんか私ばっかり食べていますね」
「ちょっとバタバタしていて、まともな食事が久しぶりだから」
「食は大事です」
 奏はそうひとこと言うと、またフォーの入ったどんぶりに目線を落とした。一所懸命に集中して食べている奏の箸使いは綺麗だ。
 ケムズアを口に運びながら、私は奏に尋ねる。
「奏ちゃんは、高校二年生だよね。進路とかは決まっているの?」
「はい。瞳さんの会社に行くまでは予備校で勉強していました」
「文系に進むの? 映画好きだから芸術系の大学に進むっていうのもありかな」
「教育学部に進む予定です。映画は好きだけれども、撮りたいとかそういう欲望はないんです。父が売れない映画評論家なので、映画で食べていくのは難しいかなって」
 私は奏から、奏の父親の名前を聞きだした。私の購入した映画のパンフレットに何度か載っていた名前で、お父さんのことを知っているよ、と言うと奏の表情がほころんだ。
「奏ちゃんはお父さんから映画の英才教育を受けてきたんだね」
「そう言ってもらえると嬉しいですけど、父に比べれば私なんてまだまだです」
「それは当たり前のことじゃない。お父さんは本職で、奏ちゃんより長く生きているんだから」
 奏と話す時間は面白い映画を観ているときのように、あっという間に過ぎていった。映画の話が主だった。奏は私より映画に詳しくて、少しだけ悔しいと思う。それでも映画について熱く語ることができる妹が私にできたような気持ちになった。
「瞳さんはなんで映画好きになったんですか?」
「ふふ」
「そうやって笑って誤魔化すのって良くないと思います」
「そうだね。高校生のとき失恋したときふらりと街を歩いていた。時間はたっぷりあったけれど、お金がなかったからさ。映画なら二時間くらいは暇をつぶせると思って映画館に入ったんだ。その映画に圧倒されたね。自分の傷心を忘れるくらいに。すごく美しくて説得力があって、今までの価値観がひっくり返ったんだ」
「誰の作品ですか?」
 興味深そうに奏は私に聞いてきた。私はその作品に思い入れがあったので、今まで誰にも打ち明けてこなかった。私だけの大切な映画。けれども奏ならいいかと思った。他のレストラン客に聞かれるのが嫌で、私はテーブルを乗り出して奏にこっそり耳打ちをする。そして再び席に着くと、奏はほほ笑んでいた。その映画が好きだと告げるように、頷きながら優しい笑顔を浮かべている。今、私はいま奏と共鳴している。それがかけがえのないことだと感じ、嬉しさのあまり胸から熱いものがこみ上げてきた。その熱は私の涙腺を緩めるには十分すぎる。
「そろそろ出ようか」
「はい」
 平静を装って、私は伝票を取った。財布を出す奏を制し、支払いをした。店から出ると夏特有の熱気が私の身体を包んだ。暑いね、と言おうとした瞬間に、奏は私の腕を思い切り引っ張る。ヒールの高い靴を履いていた私はよろけて、奏の口もとにぶつかりそうになった。
「好きです」
 奏のその言葉ははっきりと、輪郭を持って私の耳元に届いた。私は自分の力で態勢を立て直すと、奏にかける正しい言葉を探す。
「門限とかは大丈夫?」
 それが私の混乱した頭の中から唯一、口に出せた間抜けな言葉だった。

 奏と食事をして、一週間が経とうとしていた。それでも私の携帯電話が奏からの通知で震えることはない。あのあと私たちは駅までなにも喋らずに一緒に歩いた。そして奏は駅に着くなり、私から逃げ出すように、改札口に飲みこまれた。
 私はデスクの前で大きく唸り、そのまま突っ伏した。
「うるさい」
 真希子に??責されると、私は謝った。PCを見つめながらも、本当は床に転がってのたうち回りたい。確かに仕事の忙しい最中は忘れられている。定時が過ぎて、雑事を済ませていると、私はどうしても奏のことを思い出してしまう。私は最低だ。私は奏の幼いながらも、確固たる自尊心を傷つけてしまった。私は混乱と戸惑いの渦中にいる。十代の頃には自分は何でもできる、と根拠のない自信があると思う。そしてつまらない生き方をするものか、とも。私は大人になってそれがどちらも間違いだと気づき、むしろ間違いを知ることが大人になることだと悟った。
 きっと奏もそうだろう。ちょっと年上の、趣味が似ている大人に憧れているだけだ、と言い聞かせようとした。だけれども奏の真っ直ぐな澱みのない視線を思い出すと、告白をなかったことにするという、大きな間違いに私は後悔しかなかった。しかしあの目線は幼いがゆえに持てる、力強さだと奏は気づいているだろうか。何も怖いものはない、真っ直ぐに私を想う奏の目。かつて私が持っていたその目を前に、怯み、自分を失うことが怖いと感じる。大人としての道理などくそくらえ、と思っていた十代の私よ、ごめん。いま私は失くせないものが多すぎる。
「帰りな」
「仕事が」
「能率が悪くて見ていらんないのよ。とっと帰れ」
 真希子がコーヒーを啜りながら、私を追い立てる。確かに心ここにあらずという状態で、これ以上デスクの前に座っていても、まともな仕事はできない。とりあえず私はスマートフォンでインターネット・ブラウザを立ち上げて、検索サイトに単語を打ち込む。
「まだ何かするの?」
「いまから観られる映画を探しているの。レイトショーならまだ間に合うから」
 何作かピックアップして、結局、会社から近い映画館に行くことにした。
「じゃあね」
「瞳、何かったら話を聞く時間を作るから」
 私を心配する真希子に手を振って、私は会社を後にした。

「もう予告編が流れていますので、お早めにご着席ください」
 チケットを切られると、私は急いで会場に入った。前方の席は埋まっているし、本編が始まりそうだったので、出入り口に近い席に座る。いつも上映前に外す腕時計がうまく取れずに四苦八苦していると、隣から視線を感じた。私は思わず声が漏れる。
 奏は驚いている私を見て、くちびるに人差し指をあてた。そして何事もなかったように、本編が始まったスクリーンを見つめている。あと二時間、私は沈黙していなければならない。奏にかける声も、仕草も許されない。そして私の腕時計はまだ外れない。私は時計を外すことを諦め、背もたれに身体を預けた。隣に座る奏を意識しすぎてか、映画の内容は入ってこない。また映画を観ているときに感じる高揚感はどこにもない。ただ奏が隣にいるというだけで。降参だ。私は大人の分別も思慮も投げ捨てて、肘掛けに置かれた奏の手を取った。最初、驚いたように震わせた奏の手も、私がしっかりと握ると、応えるように奏は強く握り返してきた。その手は私より少し小さくて、冷たいものだった。そしてだんだんと私の体温に馴染んでいく、奏の手を愛おしく感じる。そして私は目を閉じた。
 映画が始まる前のあの暗転した世界を思い出す。暗闇は映画のなにもかもの始まり。スクリーンに光が映る、その瞬間はまさしく恋の始まりと同じなのだ。

 会場が明るくなると、私はためらいながら奏の手を離した。観客はおのおの帰り支度を始め、席を立つ。
「私、本当に」
 ごめんなさい、と私は言葉を繋げたかったが、奏の人差し指が私の口を制した。
「今日の映画の内容が入ってこなかったのは、瞳さんのせいですからね」
「ごめんなさい」
「あと子ども扱いされたことにも怒っています」
「申し訳ない」
「もう一度、言います。瞳さんが好きです」
 私は奏を抱きしめる。そして彼女の望む私の本心を耳元で囁いた。

 夏はあっという間に過ぎ去ろうとしていた。仕事に追われながらも、時間の許す限り奏と会いたかった。夏休み中の奏は予備校に通い、私たちは一緒に映画を観に行ったり、夕ごはんを食べたりしていた。
 そして奏の夏休みが終わるころ、私は彼女を家に招いた。狭くて、散らかっているけれど、と私は前置きをしたが奏は興味津々と目を輝かせていた。
「ここが瞳さんのお城なんですね」
「ささやかすぎるけれどね」
 私のアパートメントの一室では壁の一面にDVDや関連した本が置かれている。そして大きめなTVとソファを置いて、ベッドを置けばそれだけで部屋は一杯になる。
「大学時代から住んでいる部屋なんだ。日当たりもいいし、気に入っているからなかなか引っ越せなくて」
 私がそう言っている間も奏はDVDの棚を物色している。なにか気になる作品があるか と尋ねると、奏はタイトルを見るのに集中しているのか曖昧な返事をした。そして目当ての作品が見つかったのか、奏の小さな声が漏れる。
「瞳さん、この作品って」
「見つけちゃったか」
 私と奏が初めて会ったとき話題に上がった、そしてわざわざ奏が私の勤める会社に持ってきた、DVDを奏は目ざとく見つけた。
「なんで持っていないなんて嘘をついたんですか?」
「それは、あれだよ、あれ。ね」
「誤魔化さないでください」
 私のなにもかもを射抜く奏の目に、私はいつもうろたえてしまう。奏の目は嘘をつかない。笑っているときは目も笑うし、怒るときも同様だ。奏は偽るということを知らない。
「もう一度、奏に会いたいと思ったからだよ」
 私が恥を忍んで言うと、奏は私に抱きついてきた。そして私の肩口におでこを押しつけて嬉しいです、と言うのだから、私は奏を抱きしめずにはいられなかった。愛の言葉を雨のように降らせた。
 そのあと私たちは映画を一本、観た。私は昼食にスパゲッティ・アラビアータを作ろうと思った。辛いもの大丈夫かな、と私が奏に尋ねると、眉間にしわを寄せて食べられます、と言うのだから、私は笑ってしまった。あからさまに不機嫌になった奏は、お昼ごはんは私が作ります、と言って台所に立った。奏の作ったカルボナーラはとても美味しいとは言い難かった。キッチンの勝手が違くて、うまく作れませんでした、と目を伏せた。
「美味しいよ。奏が初めて作ってくれたんだもん。写真を撮っておけば良かった」
「今度は失敗しません」
 そんな健気なことを言うのだから、私は思わず奏にキスを仕掛けそうになった。しかし思いとどまって、奏にほほ笑んだ。
 私と奏はまだキスをしていない。十八歳になって、高校卒業するときまで取っておこうね、と私は奏に言った。齢三十を過ぎて、何を純愛ぶっているのか、と真希子あたりに言われそうだ。しかし奏を飽きたら捨てるダッチワイフのように扱ってきた男とは違う、ということを私なりに奏に示したかった。あなたのことがとても大事なの、と。それに愛情の示し方なんて、くちづけ以外にも、たくさんあると私は経験から知っている。
 奏は私に抱きついて、再び額を肩口にグリグリと押しつけた。まるで絵に描いたような幸せな休日。しかし楽しい時間はあっという間に過ぎ、八時前に奏は言った。
「帰ります」
「駅まで送るよ」
「目と鼻の先じゃないですか」
「でもさ」
「じゃあ、抱きしめてください」
 可愛いことを言う歳下の恋人を思いっきり甘やかすように、そして甘やかされるように抱きしめ合った。長い抱擁のあと、ポケットに忍ばせていたものを、奏に握らせる。
「こんな部屋で良かったらいつでも遊びに来て」
 奏に握らせたのはこの部屋のスペアキーだ。奏は顔を上げると、潤んだ瞳を私に向けた。
「こんなことされたら、私しょっちゅう来ますよ」
「いつでもおいで」
 そう言って私は奏の頭をくしゃりと撫でた。そうすると奏は顔を上げず、玄関のドアを思いきり開けて部屋から出ていった。きっといま奏は嬉しくて泣いている、ということが偉そうにも私にはわかった。うぬぼれなんかじゃない。奏は大きな感情に揺さぶられ、涙が流れてしまうときに、私から離れようとする。初めて告白されたときも、きっとそうだ。奏は私の前では決して泣かないだろう。それが彼女のプライドであり、私への愛の示しかただと思うと胸が締め付けられた。奏に会うたびに愛おしいという気持ちばかりが募る。困ったな、こんなにも好きになってしまうなんて。

 そんな奏と私のあいだに距離を感じたのは、彼女の通う高校に行ったときだった。
 奏が私の部屋にスマートフォンを忘れて行ったので、サプライズとして奏が下校する時間を見計らって、それを届けに行った。下校する女子高校生は私を奇異の目で見つめたが、そんなことは些末なことで私は奏を待った。奏は黒い髪を固く三つ編みにして、セーラー服を着ていた。その姿を見ると、奏は確かに女子高校生なのだ、と私は思った。友だちと一緒に歩いている奏は私に気づくと、走り寄って来た。
「忘れたみたいだから、持ってきた。ないと不便でしょう」
「ありがとうございます」
 私は携帯電話を渡すと、奏は目を逸らして言った。
「迷惑だった?」
 そんなことないです、そう言って奏は足早に私の元から離れて行く。友だちと一緒に笑っている奏。そんなところを邪魔してもと思い、私は少しの違和感を覚えながらもひとりで会社に戻った。

「無神経じゃない」
「なによその言い方」
 上司のホームパーティで、私は違和感を覚えた事の顛末を話すと及川は呆れながら言った。
「その子が一度でも栗本に制服姿を見せたことがあった?」
 私は首を横に振った。そして、そうだったのかと私は自分の無神経さにうなだれる。そういうことよ、と及川は私の背中を叩いた。奏は自分の子どもの部分を決して見せようとはしていない。それがどんなに大変か、私はその努力を無神経に踏みにじってしまった。私は奏との関係になんら不満はない。むしろ夢に描いたティーンエイジャーのような新鮮な恋愛をしていると思っていた。でも奏はどうだろうか。奏は無理をしていないとは言いきれない。キスは高校を卒業してからと言ったとき、奏はどんな顔をしていたか、私は思い出せない。さっきまで美味しく飲んでいた高いお酒は、アルコールとただの色水になり下がる。紋切り型のパーティを抜け出して、早く奏に連絡をしたかった。無神経だったごめんね、と。

 その日、奏と電話をして私たちは和解したが、それでも初めてのすれ違いで、私たちに訪れた休日はぎくしゃくとしたものだった。気分を変えて、映画でも観に行こうという私の言葉で、奏もほっとしたように頷いた。
 映画館への道のりを歩いているとき、私は思いがけない人物と会った。
「秋野さん」
 真砂子の恋人である秋野氏に出くわした。
「ああ、栗本さん。こんにちは」
「この間はどうも。つまらないパーティでしたね」
「本当に」
「これから真砂子とデートですか?」
「ええ、まあ」
 秋野氏は少し恥ずかしそうに頭を掻いてみせる。そしてまた、と言ってお互い歩み去って行った。やはり気の強い真希子の恋人には秋野氏みたいな穏やかなひとがいいのかもしれない。そして隣にいた奏と再び手を繋ごうと、伸ばした瞬間、奏にそれを思いっきり叩かれた。
「瞳さんにとって私はいったい何なの。ただの妹? それとも可愛がれるときに愛玩できるペット?」
 私は奏の絶叫に最初、驚いた。叩かれた私の手は空気中で彷徨う。どうしたの、と声をかける暇も与えられない。奏が目に涙を溜めながら、私を睨んでいるからだ。
「私はただの女子高校生だけど自尊心くらい持っている。でもプライドだけじゃ、どうにもできないことも知っている。私は瞳さんの仕事もわからないし、会社のパーティにも行けない。だって私はただの子どもなんだもん」
 大声で私を責め、奏自身、自己嫌悪に陥っているのが良くわかった。私は違う、と言いたくて再び腕を伸ばすが、それも奏に再び叩き落とされる。妹でもない。ペットでもない。奏は私にとって愛おしいひとなのに、それを声にさせてくれない。私はそんな状況に歯ぎしりをする。
「私は子どもだからキスもできないもんね。それくらい私だって知っている。わかっている! だから……」
 私はさまよった手で奏の頬に平手打ちをした。いくら奏でもそれ以上、言われるのは耐えられない。奏はびっくりしたように言葉を失い、目から水滴が落ちる。今まで決して見せなかった奏の涙。奏と別れる理由など、私の中にはなに一つなかった。それを伝えなければいけない。
「私は、奏を、愛している」
 私は両手で奏の頬を包み、単語をはっきり区切りながら、私は奏に言った。そして奏の薄い身体の背骨が折れるくらいに強く抱きしめた。ここが公衆の場だなんて気にしない。誰より、私は奏しか見ていない。
「お願いだから、別れるなんて言わないで」
 私の言葉に肩口に顔を埋めている奏は頷いた。そして抱擁を解くと私は奏の手を取った。
「ずっとずっと先の未来も、奏と一緒にいたい」
「映画みたいなセリフだね」
「愛の告白が陳腐でごめん」
 私はがむしゃらなまでに奏に恋をしている。きっと奏も精一杯なはず。なりふり構わずに綺麗なだけじゃない恋に溺れることは、きっと誰もができるわけではない。私は今の奏の姿を目に焼きつけた。私にとって、泣きながら笑顔を浮かべている奏の姿以上に、フォトジェニックなものなどないのだから。

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