私が彼女にできるたった一つのこと

 人生で選択できることなんて限られている。たいていの場合、選択肢は努力するか諦めるかしかない。そう悟ったのは三十歳を目の前にして、生きていくことに慣れたということだろうか?

 貴子との出会いは最悪だった。
 近所のコーヒーショップで、私は出勤前のカプチーノを飲みながら、トーストを食べているところだった。安いことが売りのコーヒーショップのカプチーノのは薄い味がしたが、それでも眠気を覚ますには十分だった。新聞を広げようとしたときに、その瞬間は訪れた。
「あ」
「え?」
 言葉を紡ぐひまさえ与えられず、私は氷のたっぷりと入ったミルクティを頭からかぶってしまった。アイスミルクティを私にぶちまけた女性はごめんなさい、と言ってハンドタオルで私の濡れた服を一所懸命に拭くが、それもあまり意味を成していなかった。
「ははっ、ははは」
 私はこの椿事に思わず声をあげて笑ってしまった。私にアイスティをぶっかけて青ざめていた女性も顔の血色を少しずつ取り戻していた。そして申し訳なさそうに、私に向かって言った。
「あの、私の家、ここから近いので、とりあえず行きませんか?」
「いいんですか?」
「もちろんです」
 そう言われ、私は彼女に手を引かれるままコーヒーショップを後にした。

 彼女の住む部屋はお世辞にも綺麗とは言えなかった。乱雑に積まれた外国語のペーパーバックに、ベッドのシーツには皺が寄っていた。彼女の部屋からは甘くてどこかベリーの香りがした。
「すみません、汚くて」
 いまシャワーの準備をしますから、と言う彼女を急かすのもはばかれた。私は渡されたタオルで髪の毛を拭いて、なるべく部屋のなかを見回すのをやめた。
「タオルはこれを使ってください。あと私の部屋着ですが、お洋服が乾くまで我慢して頂けますか?」
「ありがとうございます。助かります」
 私は彼女からタオルとスウェットを受け取って、私は浴室へと向かった。水回りは綺麗にしているなあと感心して、私はシャワーのコックを捻った。スーツを着ていたおかげか、下着はかろうじて濡れていなかったのが幸いだった。
「シャワー、ありがとうございました」
 私はタオルで髪の毛の水分を取りながら、彼女のいる部屋に顔を出した。
「なにかご不便ありませんでしたか?」
「いえ、大丈夫です」
「スーツの方はクリーニングに出させて頂きます。いまシャツの方を洗って脱水をかけているので、もう少しお待ちください」
 彼女はそう言って、私に冷たいお茶を出してきた。
「夏場で良かった。すぐ乾くと思いますので」
 私は同意の頷きをした。冷たいお茶はジャスミン茶だった。すでにグラスは汗をかいており、飲むたびにカランと涼しげな音を立てた。
「あの、ドライヤーってありますか?」
「気づかずにごめんなさい。私はこの通り髪が短いので」
 確か奥の方にあったはず、と彼女はクローゼットのなかを探し始めた。私は彼女の後姿を見つめた。短い髪とか細い身体で少年みたいだ。私の場合、好意が芽生えるのは一瞬だったりする。彼女の気づかいや所作は女性らしく、私は少しだけ彼女に触れたいと思った。Tシャツにジーパン姿の彼女に私は手を伸ばした。
「ありました。ちょっと古い型ですが」
 私は伸ばしかけた手を彼女の言葉で手を引っ込めた。彼女が振り向くと、ありがとうございます、とドライヤーを受け取った。  私が髪を乾かしているあいだ彼女はPCの前に座って、何か作業をしていた。おおかた髪が乾くと、私はブラシで髪をとかした。音楽をかけてもいいですか? と聞かれて、私はいいですよ、と言った。流れる音楽はジャズで、どこかで聞いたことのある、ピアノの旋律が部屋に流れた。
「なんていう曲でしたっけ?」
「ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビ−』です」
「よく聞きますが、名前がわからなくて。助かりました」
 飛びはねるようなピアノの音は私の心を軽快にさせる。
「あの、いまさらですが、私はこういうもので」
 彼女は私がシャワーを浴びている最中、用意していたであろう名刺を私に渡した。飯島貴子と書かれた名前の上に大学の名前があり、講師という肩がきが書いてあった。
「私もいま名刺、出します」
 私はスウェット姿で乾きたてたばかりの髪をかき上げ、仕事用のバッグを漁った。
「山崎理夏と申します。製紙工場の営業をしています」
 そう言いながら私は営業モードに入って、よろしくお願いします、といつもの仕事のように私は頭をさげていた。
「私が言うのも何ですが、堅苦しくしないでください。それよりお仕事の時間、大丈夫ですか?」
「あ、ああ」
 私は思わず唸ってしまった。午前中に一件、お得意さまのところに行く予定だった。
「私のシャツをお貸しします。小さいかもしれないですが」
 言うが早いか彼女は再びクローゼットを開け、私にシャツを渡した。焦る私はボタンをなかなか留められなかった。そして私の胸はシャツになんとか収まったものの、シャツからはち切れんばかりだった。
「立派なお胸……」
「お恥ずかしいです」
 私が頭をかくと、彼女はすみません、と言って大きめのカーディガンを私に渡し、胸は何とか隠すことができた。
「スーツのクリーニングが終わりましたら、また連絡させていただきます」
 そう言って個人的な連絡先も交換して私と彼女と別れた。出社後、課長にこっぴどく怒られることになったが、私は彼女のことが頭から離れなかった。
これが貴子との出会いだった。

 数日後、飯島貴子は連絡を寄こしてきた。スーツがクリーニングから戻ってきたので、先日のお詫びも兼ねてどこか食事に行かないかと。私は割り勘なら行きますと返信すると、少し時間が経ってから返信が来た。待ち合わせ場所を指定して、お会いできることを楽しみにしています、と簡潔な文章を送ってきた。誠実そうな彼女の性格を窺い知ることができるような返信で、好感が持てた。約束の場所は飯島と出会ったコーヒーショップの最寄り駅だったことに少し笑った。
 私は指定時間の五分前には待ち合わせ場所に着いたが、すでに飯島がいた。
「お待たせしてすみません」
「いえ、私も早く着いたので」
 飯島は行きましょうか、と言って私の前を歩いた。私はふたたび飯島の後ろ姿を見つめた。飯島は痩せていたが病的な痩せ方ではない。手首などは細すぎて少し力を入れて握ったら折れてしまいそうな、そんな頼りない身体つきをしていた。そして短く切られた黒髪に、身体と相まってか、あどけない少年のような印象を与える。私は飯島の後を歩きながら彼女の容貌について、やっと詳しく観察することができた。ショートカットのせいか首から肩までのラインの曲線が艶めかしく、しかし私はそんなことを考えてはいけないと思った。
 私はレズビアンである、という自覚はすでに高校時代からあった。初恋の相手はテニス部の同期だった。あまりに幼い恋は名づけられる前に、淡く終わってしまった。高校に入って、やっと中学時代の想いを恋心だったと知った。高校一年生になりたての頃、TVで同性愛のドキュメンタリーを放映していて私はそれを食い入るように観た。自分の心に、自分の身体に素直になることがどれだけ大変かを知った。そしてその歓びも。私の進むのはこの道だと思った。苦しいだろうし、誰かを不幸にするかもしれないけれども、私はレズビアンとして生きていくことを決めた。
 決めたはいいものの、私の恋愛は惨敗の連続だった。高校時代も大学時代もそして社会人になっても恋は決して実ることはなかった。恋の花は咲いたが、そもそも女性が女性を愛することに何のゴールがあるのか、何をもって実ったかと定義するのか。私には良くわからなかった。一緒に住むということも二、三度かあったが、それも破局すれば終わってしまう。何か確かなものが、愛に確かさを求めてしまう時点で矛盾しているが、欲しかった。私は私を持て余している。私の愛の行方を。
「美味しくないですか?」
「ううん、すごく美味しいです」
「良かったです」
 私は白ワインの入ったグラスを傾けながら、真鯛のカルパッチョを口に運んだ。そして目の前の飯島貴子と向かい合う。こんなことを考えてしまうのは飯島が私の好みのタイプだから。少年っぽい、でもがさつではなくどこか女性性を漂わせる、彼女に惹かれている自分に気づき、それから離れようとすればするほど、私の心は飯島に傾いていく。
 飯島とは共通点が多かった。同い年だということ。学部は違うが、同じ大学を卒業していること。それがわかると互いに敬語を使うのをやめ、下の名前を呼び合うまで打ち解けていた。大学時代にすれ違っていたかもね、とお互い笑いあって大学時代の話に花を咲かせた。そして何よりコーヒーショップでの出来事で話題は盛り上がった。
「あのコーヒーショップでアイスティを頼んで、綺麗なひとがいるなって思ったら、後ろからおじさんにど突かれて……」
 で、あんな惨事になったの、と貴子は言った。
「綺麗ってそんな」
「ホントだよ。理夏は私の職業と違って、スーツがビシっと決まっていて格好いいなあって思った」
「貴子がスーツを着ると、七五三みたいだもんね」
「もう。意地悪」
「でも、ありがとう」
 行き過ぎた謙遜は逆に貴子を不快にさせてしまうと思って素直に感謝の気持ちを述べた。本当は貴子の手を握って言いたかったが、そんな気持ちを懸命に抑える。胸が苦しくなるくらい、私は貴子に惹かれている。そんな想いを白ワインと一緒に流し込むように喉まで出かかった気持ちを静めた。

 私はレズビアン相手としか恋愛しない。それは私のなかで唯一、決めた恋のルールだった。大学時代に付き合い、手酷く振られたことを私は忘れていない。名前は美和と言った。そして私たちの付き合い始めは順調に始まった。私と美和は上京組でいつしか彼女の家に入り浸るようになり、なし崩しに同棲ごっこが始まった。そしてその日はやって来た。美和の誕生日にアルバイトを早引けして、ケーキを買って早く帰って驚かしてやろうと思った。そして部屋に入ったときだった。美和は私の知らない男と情事の最中だった。今まで聞いたこともないような甘い、熱っぽい声が今でも私の耳にも残っている。美和はあんな声が上がるのだ、と心の中は失望で染まり、落としたケーキと同じようにぐちゃぐちゃになった。
「あんた恋愛に向いてないのよ」
 悲嘆に暮れる私を、数日後、高校時代からの親友で悪友の京香によって外に引っ張りだされた。
 京香は友だちが少ない私にとって気の置けない親友だ。同じ大学に進学するとわかったときには、またあんたの面倒を見なくちゃならないの、と笑いながら言った。京香は恋愛には興味がなく、恋ってそんなにいいものなの? とよく私に問うた。いいか悪いかなんて私は知らない。ただ落ちて溺れるだけなの、と私が言うと京香は不思議そうな顔をした。
 電話口で沈んだ声で美和と別れたと言ったら、京香はため息をついて私を呼び出した。話を聞いてくれるのは京香くらいだったので、私はありがとう、と言って電話を切った。
 化粧もせず洋服も寝間着に近い恰好で大学近くのカフェで、私は生クリームたっぷりのアイスココアを飲みながら、そう言えば昨日はごはんを食べていなかったことに気づきBLTサンドも頼んだ。
「なんでよ」
 私は京香を睨んだ。
「すぐひとを好きになって、捨てられて。私があんただったらとっくに入水自殺しているわ。恋多き女って言ってもね、あんたの場合、すぐノンケの女と恋に落ちちゃうんだから」
「好きでノンケの女を好きになるわけじゃないでーす。恋に落ちるのにノンケもレズも関係ないじゃん」
 そう私が言うと、京香は大きなため息をついた。
「あんたが傷つくのを見たくないからこんなこと言っているの。もっと慎重になりなよ」
「……はい」
 私は京香の言葉を噛みしめた。傷つくのを見たくない。そうか私はいま傷ついているのか、と自覚すると何故か視界がぼやけてきた。くそう、なんで美和のために泣かなくちゃいけないのかと思ったが、私は素直に涙を流した。そうして私は自分の想いのお葬式をしながら、BLTサンドを咀嚼した。

 そんな過去のことを思い出しながら、貴子への気持ちを隠すように白ワインを飲んだ。食事は美味しいが、気持ちが散漫になってしまっているようで、内臓には染み渡らない。ただ白ワインだけが私のなかに入りこんだ。
 最初はデキャンタで頼んだワインも、話が進むうちに気がついたらボトルを頼んで飲んでいた。私は会計を終え、お手洗いに行くと酔いが一気に回るのを感じた。そういえばもうそろそろ生理が来る予定だった。私の身体は正直で生理前はいつもお酒には弱くなる性質だったのを忘れていた。鏡を覗き込むと、真っ青になっている自分の顔が浮かんでいる。
「お待たせ」
「理夏、すごく真っ青だよ」
「ちょっと飲みすぎたかな?」
「タクシー呼んでもらうね」
 私は覚束ない足取りで、ソファに座らされた。大丈夫だよ、と貴子は私の手を握ってくれた。私は吐き気と戦いながら、貴子のその手に励まされた。タクシーが来ると、私はなんとか車に乗り込んだ。貴子は自分のアパートメントの住所を告げて、私はそれを遮って自分の住所を告げることすらできないくらい、泥酔していた。私は酔っても意識がクリアに保つタイプだった。貴子に申し訳ないと思いながら、私は苦し紛れにゆっくりと目を閉じた。
「着いたよ」
 貴子はそう言うと、私は目を明けた。大丈夫? と心配そうに尋ねる声に、私はずいぶん楽になったよ、と伝えた。貴子の部屋の中に入ると、さっそく水を持って私に渡した。
「ありがとう」
「いいよ。たくさんお水飲んで」
「うん」
「横にならなくて大丈夫?」
 私の顔を貴子は覗いた。お願いだからそれ以上、私に近づかないでと思いつつ、私はグラスを持つ手に視線を落とした。
「私すぐ酔って、すぐ醒めるタイプだから」
「燃費がいいのか、悪いのか」
 貴子が笑って見せるので、私は彼女の腕を掴んだ。お願い、そんなに微笑まないで、と思いながら貴子にくちづけた。貴子はびっくりしたように身体を固くして私から離れようとしたが、私は貴子の細い身体を抱きしめながらキスを止めなかった。最初は性急だったくちづけも、貴子の身体から力が抜けると、くちびるを食むように柔らかく優しいものとなった。そして私が貴子のくちびるを割って、舌をのぞかすと貴子もおそるおそる舌を絡めてきた。アルコールの香りだけじゃない甘いくちづけを終えると、私と貴子は息が上がっていた。戸惑ったような表情で、貴子は私に問う。
「これは酔った勢い?」
「違う。私の本気」
 そう言うと貴子は私を抱きしめた。かき抱くような切ない抱擁だった。答えはもう少し待って、と私の肩口に鼻を埋めて言った。
 私は間違っていない。恋のルールなんて破るためにあるのだ。そして貴子の体温が私を満たした。

 翌朝、私はコーヒーの香りで目を覚ました。キッチンへ行くと、貴子が部屋着でコーヒーを飲んでいた。
「おはよう」
「うん、おはよう」
 私は気恥ずかしさで、貴子と目を合わせることができなかった。昨日は何度も飽きることなくキスを繰り返した。
「コーヒー、飲む?」
「飲む」
「砂糖とかミルクはいる?」
 貴子が私に背を向けると、私は急に不安になった。昨日のことは夢じゃないと確かめたくて、私は貴子を壊れもののように抱きしめた。
「こらこら、コーヒーが入れられないでしょ。理夏、今日はお仕事はお休み?」
「うん」
「じゃあ、コーヒーを飲んで朝食を食べたら、ゆっくりしよう」
「ミルク多めで」
 私は本当に貴子がいて、昨日のことがありありと思い出された。繰り返したキスのせいでくちびるが心なしか腫れているのがわかり、私は顔が火照るのを感じる。
 その日は本当にゆっくりと過ぎて行った。一緒に朝食を作って食べて、貴子が観たい映画があるから、と言ってふたりでそれを鑑賞した。内容は突然、姿を消した夫を探すにつれて、少しずつ狂っていく妻の話だった。暗めの画面を食い入るように見つめる貴子をこっそりと盗み見た。
「この女優さんが好きなんだよね」
 エンドロールが流れると、貴子は言った。
「憂いをおびた表情が素敵だね」
「でしょ?」
 貴子はそう言って、嬉しそうな表情をしてみせた。
「ねえ、理夏。あなたを構成するものを教えて欲しいの。好きな映画とか本とか、音楽とか。ここにあるものを」
 そう言って貴子は自分の胸をドンと強く叩いてみせた。私はいま、貴子の心に触れていると思うと愛おしくて、貴子の頬にキスをした。
「私の好きなことは手芸かな。刺繍とか黙々とするのも楽しいし、端切れでパッチワークするのも。私の部屋のベッドカバーは自分で作ったよ」
「すごい」
「私、喋るのが仕事じゃない? だから黙々とできるのが好きなの。海外ドラマとか観ながら針を刺すのが好きかなあ。あとは紅茶よりコーヒー派で、読書は通勤中に少しだけする。女性作家が多いよ、娯楽小説とかエッセイとか」
 私はそう言って好きな作家を何名か上げた。貴子は私が言う作家に反応して、私も読んでいるとか、知らないから読んでみるね、と言った。
「あと」
「あと?」
 言葉を詰まらせたが、私は思い切って言った。
「あと貴子が好き」
 言ってしまって、私は少しの後悔をした。そして目線を貴子から外し、クッションを抱えた。愛の言葉は恥ずかしい。愛は語るものではなく、身体で感じるものだと思っている。でも言葉にしなければ伝わらないこともある。私は初めて貴子に愛の言葉を言ったのだ。
「理夏はずるいよ」
 可愛い、と貴子は言って抱きしめられた。頭をぐりぐりと私の肩口に押し付けてくる。可愛いのは貴子だよ、と言うのが躊躇われ、その代わりに力強く貴子を抱きしめた。
 貴子の好きなものはビル・エヴァンスにフランス映画。そして仕事で教えているイギリス文学。どちらかと言うとインドア派で外出するとしたら、映画を観に行くことが多いらしい。
「フランス映画は退屈じゃない?」
「理夏はわかってないな。最初の五分で恋に落ちて、あとの二時間は喧嘩ばかりしていると思っているでしょ?」
 私が口ごもると、貴子は笑ってみせた。
「まあ一般的にそう思われているよね。でもさっきの映画もそうだけど、でもそういう映画ばかりじゃないんだよ」
 貴子はこれなんかいいかも、と言ってDVDをピックアップした。観てみる? と貴子は聞くと、私は頷いた。名前は聞いたことがあるが、まだ観たことの映画だった。
 自動車泥棒の映画を観ながら、貴子は私の手を握ってきた。ここからがいいところなの、と言った。私はドキドキしながら握られている手にゆっくりと指を絡めた。そうすると貴子は私の顔を覗いて、笑って見せた。
「昨日は理夏からたくさんしてもらったから」
 貴子はそう言って、私にくちづけた。柔らかいくちびるからはコーヒーの香りがして、私はそれを味わうように舌で弄んだ。このくちびるから甘い言葉を発せられる日を、私は待っている。それでも今はこの切なさに溺れていたい。アンビバレントな想いは私の身体を裂きつつ、とろけるようなくちづけに私は身を委ねた。恋の始まりはいつも不安と期待で胸が引きつる。結局、私は映画のラストを見逃してしまった。

「馬鹿じゃないの?」
 京香に久しぶりに呼び出され、少しだけ惚気たら、いきなりそう言われた。
「馬鹿じゃなきゃ恋なんてできないよ」
「そうじゃなくて」
 ああ、でも馬鹿になに言っても無駄か、とため息をつかれた。私はムッとしたが、とりあえず京香の言い分を聞いた。
「『そろそろまともな関係を築きたい。恋愛ごっこはもう、うんざり』って言ったのはどの口よ」
 そう言って京香は私の頬をつまんだ。ご心配おかけしてごめんなさい、と頬をつままれたまま言った。
「でも、キスの相性は良かったよ。すっごく。これはあと少しで私に好きっていってくれるよ」
 私は余裕綽々でカプチーノを飲みながら京香に言った。京香はあんたのキス事情なんて知ったことかよ、と言った。
「私が言いたいのは、付き合った後の話よ。相手を同性愛者として生きさせるつもり? 三十過ぎてセクシュアリティを変えてまで、生き方を変えさせて、それで満足なの?」
「それは……」
 畳みかけるように京香に言われると、私の自信は一気になくなった。もしかしたら貴子は結婚願望があるかもしれないし、子どもも欲しいと思うかもしれない。三十歳というのは色々なことがリアルに迫ってくる。私は結婚願望もないし、子どももいらないと思っている。レズビアンであるということは、人生をシンプルにする。私は様々な選択肢を「捨てた」つもりはなかった。最初からなかったのだから。
「まあ、あんたが幸せならいいわ。恋は始まりが重要だもんね。しばらく馬鹿のままでいて。それで、ハイこれ」
「なになに?」
 その封筒には寿と書かれていた。それは三十歳を過ぎた私に見慣れたものだった。
「京香、結婚するの?」
 私がそう尋ねると、京香は頷いた。
「恋愛には興味なかったけど、子どもは欲しいと思ったから」
「シンプルな理由だね。相手はどんなひと?」
 京香は少し考え込んでうーんと唸った。
「かさばらないひと。物理的にも精神的にも」
 その答えは恋の香りはしなかった。しかし言葉の選択と声音からは愛を感じさせる響きだった。
「京香おめでとう。幸せになってね」
 憮然と、そして照れたように私から目線を外し、コーヒーを啜る京香は誰よりも可愛かった。

 休日は何かにつけて、貴子の部屋で過ごすことが多くなった。貴子はPCに向かっていることが多く、息抜きのために映画を観たり、本を読んだりしていた。私は貴子の部屋のクッションのカバーの刺繍を刺していた。手編みのマフラーとは言わないまでも、手作りのものは重くない? と私が聞くと、全然、と貴子は答えた。それよりもこのボロボロなクッションを蘇らせて、と言って笑った。私はその言葉に甘えて、白いバラと蔦の模様の刺繍を刺すことにした。図案を見せると貴子は素敵じゃない、採用、と言われ私はほっとした。
 貴子が大きく伸びをした。
「休憩、休憩」
「コーヒーいれようか?」 「うん。砂糖たっぷり入れて」
 脳がブドウ糖を欲しているのよ、と貴子はそう言って、PCの前から離れた。
「理夏も刺繍が順調に進んでいるみたいね」
「うん。いま薬缶を火にかけるから、もう少し待っていてね」
 貴子は私の空気になりつつあった。いつも傍にいて、欠かせないひと。しかし秋になっても返事はもらえていない。キスはする、一緒に寝たりする。でもそれ以上はなかった。しかし私のなかに焦りはなかった。恋というものはセックスだけでは構成されない。胸が苦しいときもある。夏の終わりに私は一度だけ素直に貴子にそれを伝えた。少し困ったような苦笑を浮かべ私の頭を撫ぜた。そしておでこにキスをした。もう少し待ってね、と言った。急かしているわけではない。ただ私は貴子からこの気持ちを承認されたかった。あなたのことをいつも想っているということを。でも、と自分の気持ちとは裏腹に違う私が表れて囁く。この気持ちが承認されたら、次はなにを許してほしいと貴子に乞うのだろうか。そう考えると私は怖くなった。私は貪欲だなとつくづく思う。焦りは余裕を奪い、考えることを拒否する。だからこそ私は貴子の気持ちを尊重したかった。
「ねえ、理夏」
「いまドリップしているから、ちょっと待って」
「付き合おうか」
 私の手は固まり、マグカップからはお湯がこぼれ、コーヒーの粉があふれ出る。
「あーあ。理夏なにやっているの」
 貴子はそう言って台ふきで、シンクを拭いた。
「貴子いま何て言った?」
「なにやっているのって言った」
「その前だよ」
「二度は言わない」
 薬缶をコンロに置き、私は貴子と向かいあった。
「本当にいいの?」
「今さらでしょう?」
 私は強気な貴子を抱きしめた。柔らかい身体の内側から、貴子の早い心音が聞こえてきた。胸が苦しい。胸がいっぱいというのは、こういうことを言うのだろうか。
「苦しいよ、理夏」
「ごめん、もう少しこのままでいさせて」
 私は少しだけ涙をにじませた。想いが報われるとこんな気持ちになるのか、と感慨に耽り、鼻を啜った。
「なに理夏、泣いているの?」
「泣いてない。心の汗だもん」
 腕から力を抜いて、貴子と向き合った。すると貴子は私の目からこぼれた涙を舐めた。
「うーん」
「何よ。私の心の汗は不味い?」
「ただの水だなって思って」
「なによそれ」
 感情がともなう涙はカリウムが多いんだって、と貴子は言う。
「私も理夏の全部が欲しいと思ったから。だから涙も美味しいかなと思って」
「私は食べ物じゃないよ」
「理夏のすべてを私は知りたい。だから、泣かないで」
 貴子の言葉が嬉しすぎて、私は再び涙をこぼした。それを理夏はぺろぺろと舐めとりながら言う。
「理夏が可愛い」
「可愛いって愛すべしって書くんだよ」
「知っているよ。これでも文学専攻だもん」
 私と貴子はその日、初めて抱き合うためにベッドに入った。

 貴子との付き合いは順調に進んだ。些細な諍いはあったりするけれど、それは日常のスパイスになる。燃えるような恋ではないけれど、着実に私たちの生活が落ち着いてきている。
 その冬の休日、私はカレンダーを見ながら私はコーヒーを飲んでいた。京香の結婚式が近づいていて、私は何を着て行こうか迷っていた。
「ねえ、貴子」
「なに?」
「ちょっと新宿まで付き合ってくれる? ドレス買わなくちゃ」
「ああ、結婚式用の?」
「うん」
 頭のなかでは京香の言葉がループしていた。確かに私たちの関係は安定している。しかしそれが貴子の選択肢を狭めているかもしれない、という懸念がしこりのようにあった。
「貴子は結婚願望とかある?」
 私は貴子の顔を見ずに、そう問うてみた。ふたりで過ごしているうちに私たちは互いへの不平や不満を溜めないようにしていた。何事も話し合う、それが関係を維持する一番の近道だと思った。
「うーん。結婚願望はあんまりないけど、結婚式はしてみたい、かも」
「なにそれ」
「ドラマやマンガの影響だよ。愛の象徴って感じがするから。乙女の可愛い妄想と思って、あんまり気にしないで」
 結婚なんてしなくても、今は生きていけるしね、と照れながら言う貴子に胸が痛んだ。じゃあ、結婚しようよ、と軽々しくは言えなかった。愛の象徴。形がある愛はわかりやすい。私も愛の証が欲しかった。でもどうやって手に入れるか、私はわからなかった。

 京香の結婚式は可もなく不可もなく、無事におわった。新郎は確かにかさばらない、少し背の低い男性だった。二次会は騒がしく、今はビンゴ大会をしていた。つまらなさそうにしていたら、京香が私のもとへ来た。
「京香、おめでとう」
「退屈そうね。まあ仕方がないか」
「ごめん、そんなんじゃないんだ」
「いいって。他人の結婚式なんて面白くも何ともないもんね」
「でも、憧れる」
「え、あんたが?」
「愛の象徴じゃない」
 私は貴子の言っていた言葉を繰り返し言った。
「結婚しようが、しまいが、愛はふたりで築くものだし、伝えないとわからないものだと思うよ」
「うん。もう抜けるわ。京香、今日は本当におめでとう。愛を伝えに行く」
「まったく、あんたはいつも思い立ったらすぐ行動しちゃうんだから」
「今日という吉日はなかなかないよ」
「まあ無鉄砲なことはしないでね」
「わかっている。じゃあね」
 私は京香の元を去り、新宿へ向かった。

 私が走って部屋に行くと、貴子はいつも通りPCに向かっていた。
「どうしたの? 息を切らして。結婚式だから遅くなって今日は来れないって言ってたじゃん」
「うん」
 私は新宿で買い物をしてきた。とっても大事な買い物だった。私は玄関で靴も脱がずに、貴子の前に跪いた。
「一緒に暮らそう」
 そう言って私はプラチナのシンプルな指輪を貴子に向かってみせた。
「わかってる。急だってことも。でもこのままなし崩しに貴子と付き合いたくない。結婚式はできないけれど、これが私の愛の証」
 貴子は翳りのある表情を浮かべ薄く笑って見せた。
「私がどんな人間でも理夏は失望しない?」
「しない。貴子としか一緒にいたくない」
 だから手を出して、と言って私は貴子の左手を掴んだ。
「うん、と言うだけでいいから」
 貴子は私の手を一回、振りほどき左手の甲を見せた。
「不束者だけど、よろしくお願いします」
 私は貴子の左手の薬指を独占する、いや左手だけじゃない、彼女のすべてを受けいれることを許される存在になれたのだ。

「理夏、これはどこ?」
「ああ、私の部屋に運んでおいて」
 貴子は段ボールを私の新しい部屋に置いた。私のアパートの更新が切れるとともに、私たちは一緒に暮らすために引っ越した。物件探しは難航したが無事に新居が決まると、事はスムーズに進んだ。
「ごめん、もうそろそろ行かないと」
 貴子はそう言ってエプロンを外し、スーツを着た。
「大丈夫。あとは私がやっておくから。そんなことよりも仕事、頑張ってきて」
「七五三って言わないのね」
「今日も可愛いよ」
 そう言って、貴子の口紅が落ちるといけないので、私は彼女の頬にキスをした。
「じゃあ行ってきます。理夏も無理しないでね」
 私は玄関まで行って、手を振って貴子を見送った。

 あらかた作業が終わると、インターホンが鳴った。私は確かめることもせずに、ご機嫌にドアを開けた。
「こんにちは。貴子の母でございます。山崎理夏さんですよね」
「そうです」
 私は思わず挨拶を抜かしてしまうぐらいの珍客に驚いた。玄関先では申し訳ないので、まだ散らかっているリビングに貴子の母を通した。
「こちら、つまらないものですが」
 そう言って有名なブランドのクッキー缶を袋から出し、私の方に差し出した。
「お気をつかわせてしまい、すみません。引っ越したばかりで紅茶くらいしか、いれられませんが」
「結構です。私はすぐお暇しますので」
「でも」
「本当に結構ですので」
「わかりました」
「いきなりですが、山崎さんは貴子とお付き合いされているのですよね?」
「はい」
 私は唐突な質問に思わず即答した。
「どうぞ後生ですので、貴子と別れてください」
 そう言って貴子の母はフローリングに擦りつけるくらいに頭を下げた。私は貴子の母の言葉より土下座されたことに驚き、思わず声を上げそうになるのを抑えた。
「どうぞ顔をあげてください」
「山崎さんが別れるとおっしゃるまで、私は顔を上げません」
「軽々には言えませんが、お話を聞かせてください」
「はい」
 そう言って、貴子の母は顔を上げた。そして短い話をした。貴子の家は地元では有名な地主であること。そして三十歳までは好きに暮らしていいが、それが過ぎたら地元の婚約者と結婚すること。私は言葉を失って、自分の足元が、地盤が、がらがらと崩れ落ちてく音が聞こえた。
「貴子に残された時間はあと一年と少しです。私としましても娘の恋路に関しては大目に見てきました。貴子は本気で山崎さんを愛していると、昨日、電話で伝えられました。私はいいとしましても、私の家族は承服されないのです。別れて欲しいのは山崎さんが同性だからではないです。貴子が本気に山崎さんを本当に愛しているというのなら、お互いがこれ以上傷つかないように、一刻も早く……」
 別れて欲しいという言葉が続くのを私は知った。
「貴子さんと話す時間を頂けませんか」
 私は水分を失った口でそう言うことで精一杯だった。気がつくと貴子の母の姿はなく、日は暮れ、夜になっていた。自分の姿がぼうっと窓に浮かぶのを見つめて、私は我に返った。ひどい顔だと思い、それでも立ち上がる気力がなかった。

「ただいまー。って理夏どうしたの?」
 貴子は家を出たときと変わらない声音で言った。フローリングにへたりこんでいる私を見ると、心配そうに私のもとへ来た。
「なんで言ってくれなかったの」
「何を?」
「貴子のお母さまが来られたよ」
 一瞬、貴子は息を詰めた。そしてすべてを悟ったような、悲しい表情をした。
「婚約者は家が勝手に決めたことだし、私は今の仕事を辞める気はないよ」
「お母さまは、別れてくれって」
「ごめん。こんなことになるなんて」
「貴子、別れよう」
 私は貴子が帰ってくるまで、別れの言葉を用意していた。それは私を引き裂く言葉だった。しかし私の選択肢にはそれしかなかった。努力するか諦めるか。生きる上でいつだって二つの選択肢しかない。
「どうして。私は大丈夫だよ」
「私がダメなんだよ。貴子を生んでくれたひとに土下座なんてされたら」
「私の気持ちはどうするのよ」
「気持ちなんて移ろうものだし、私と別れたって貴子は生きていける」
「こんなにも胸が張り裂けんでいるのに。理夏がいなかったら、私……」
 貴子は泣きながらそう言って私の肩を揺すった。私が貴子にできることはたった一つ、貴子を諦めることだった。
「大丈夫。貴子は強い子だから、張り裂けることはないよ」
「お願い、そんなこと言わないで。私を捨てる気なの? じゃあ何で告白なんてしたのよ」
「ごめん」
「ごめんなんて言わないで。私は理夏のそばにいれるだけで幸せなの」
「私だって一緒にいたい。けど私には耐えられない」
 聞き分けのないことを言わないで。私は努めて冷静に言った。
「私には耐えられない」
 私はその言葉を二度言うと、涙腺が決壊して、咆哮のような声を上げて泣き始めた。貴子とは別れたくない。ずっとずっと一緒にいたい。しかしもう終わりだ。喉から声は出なかった。ただ出るのは嗚咽だけで、それを慰めるように貴子は私の背中をさすった。そして私たちは手負いの獣が互いの傷をなめ合うように抱き合った。

 朝、目を覚ますと、貴子はもういなかった。私は貴子がかけてくれた毛布に包まり、少しだけ泣いた。私は毛布を身体に巻き付けたまま、立って窓の外を見つめた。そしてインスタントのコーヒーをいれようとキッチンへ向かう途中、ダイニングテーブルの上に置いてある手紙を見つけた。理夏へ、と書かれた文字は少し歪んでいて、貴子の心中がうかがえた。

 理夏へ
 私にとって一番良い選択は地元に帰ることだと思います。期限まで一年と少しありますが、仕事の整理がつき次第、私は地元に帰ります。
 本当は大学を卒業とともに郷里に帰り、結婚をする予定でした。婚約者の温情で私は今まで大学講師という職に就くことができました。
 私が理夏にこの真実を隠していたこと。その理由は私がほんの少しの望みを抱いていたからです。私たちのことを誰も知らないところで、理夏と一緒に過ごすこと。それは高望みすぎたのを痛感せざるをえませんでした。私は理夏に失望されても仕方がありませんね。
 私が一番、恐れていたことですが、今となっては取り繕いようもありません。本当にごめんなさい。どうか田舎に帰ることで私を許してほしい、とわがままにも思います。この関係がこんなかたちで終わりを迎えてしまったことは、身体に火傷痕が残るように、私の心に一生、残るでしょう。
 私はきっとこれからも理夏が好きです。愛しています。今さらな、陳腐な言葉ですが、どうかそれだけは忘れないでください。そしてこんな私を愛してくれて、慈しんでくれてありがとうございました。
「私にはもう何も残っていませんが、あなたの優しさだけは今も確信しています。これ以上、あなたの人生を無駄にするわけにはいかないのです。今までの私たち以上に幸せな二人は他にはありません」
 この文章は私の恋の遺書です。理夏が健やかに日々を過ごせますようにと願ってやみません。
 追伸。荷物は業者に頼んで私のアパートに運びます。邪魔だと思いますが、運び出すまで待ってください。
 飯島貴子

「失望なんてするわけないじゃない」
 私は貴子がそこにいるように、言った。私は貴子とこんな別れを望んでいたわけではない。しかしこれ以上に良い選択肢がなかったこともわかっていた。貴子の生々しい傷に、今まさに血を流しているその部分に、分け入って、肉の隙間に入り込みたかった。それと同時に大丈夫、貴子なら素敵な家庭が築けるよ、と言ってあげたかった。背反する想いが私の心を裂き、生臭い血が滴った。胸ってこんなにも痛くなるんだな、と他人事のように思った。
 貴子の手紙はどうしてもゴミ箱には捨てられなかった。恋の残骸ほど厄介なものはないけれど、私はその手紙を丁寧に折りたたんでもう一度、ダイニングテーブルの上に置いた。

 一週間後、私は京香に連絡した。別れたよ、と短いメッセージを送ると京香から翌日の時間を指定して、いつものカフェで待っている、というメッセージが返ってきた。
 私はきちんと化粧をし、すこし明るめの服を着てカフェで京香を待っていた。
「良かった」
 椅子に座った京香はそう言った。
「なにが?」
「あんたのことだからすごく落ち込んでいると思ったけど、そうでもないみたいで良かったって意味」
「私が振ったのだもん。被害者面はできないよ」
「で、どうして別れたの?」
 私は手短に経緯を話し、京香は黙ってそれを聞いてくれた。
「その状況でよく離れる気になれたわね」
「なるべく早いほうがいいでしょう? 別れるなら」
「つらくないの?」
「つらいけど、つらくない恋愛なんてあるの?」
「私は知らない」
 京香はそっぽを向いてそう言った。
「傷は癒えるよ。そして私はまた恋をするんだ」
 私はゆっくりと口角をあげた。私はまた笑うこともできたのだ。だから大丈夫。私は自分に言い聞かせた。
「懲りないねえ、あんたも」
「諦めたらそこで終わりだから。だから歩き続けるよ」
「本当に恋愛馬鹿ね」
 その言葉とは裏腹に京香の言葉には慈しみが含まれているような気がした。
「報告忘れるところだった。私、妊娠したわ」
「本当? おめでとう。お腹を触ってもいい?」
「やめてよ、恥ずかしい」
 いつものように不機嫌そうに京香は言った。しかし私は見た。京香がこっそりと微笑んでいたところを。やれやれ、素直じゃないんだから、と私は肩をすくめた。そして私はカフェの外に目線を移した。カフェから見える木々からは小さな緑が芽吹いてきている。また春が来る。そして私は運命の女性を探すだろう。それだけは私にとって諦めきれないことなのだ。

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