金の葡萄


 私の胸元に光るソムリエールの証の金の葡萄。それは私の矜持と愛の証だ。

「できちゃった」
「は?」
 急にひとの昼休みに訪れて、ニキビができちゃったの、とは流石に亜希でも言わないだろう。私は亜希のあっけらかんと言うその神経がわからなかった。
「亜希、どこからつっこめばいいかわからない」
「どこも論理は破綻してないけどな」
 子どもが欲しいと思ったから作ったの、それって問題? という不思議そうな顔をするので、私はこの子といるときはいつもこうだったと思いだした。ディスコミュニケーションを感じさせる。
「父親はだれ? っていうかあんたレズじゃなかったの?」
 矢継に質問しないでよ、とりあえず落ち着いて、と言われた。私の貴重な昼休みを潰され、なおかつ心は嵐のなかに放り込まれて、私は呆然としている。
「父親はわからないっていうか、正確に言えばどっちだかわからない。ふたりの精子提供者の精液を混ぜたから」
「はあ?」
「あと私はレズだよ。結婚もしないし、事実婚もしない。シングルマザーになるの」
 私、お母さんになるんだよ、と幸せそうに言うものだから私は三回目の疑問符ついたため息を押し殺した。レズの女がひとり出産? シュール過ぎると私は厭きれた。というか意味がわからなかった。
「私は亜希の言っていること、全然わかんないんだけど」
「子どもが欲しいから、子どもを産みます。以上。どこも矛盾がないでしょう?」
 いやいやいや、本当にちょっと待て。問題は山積みだろう、と私は言いかけた。脳内の処理が追いつかないので、私は考えることをやめた。そしてランチの席から立った。
「仕事に戻らなきゃ」
「あ、うん。こっちこそ急に呼び出してごめんね。またね」
 亜希は伝票をちゃっかり持って、呼び出したのは私だから、と言って、私は嵐の中で財布すら出すひまを与られえなかった。亜希は颯爽と私の前から去って行った。ワケがわからない。わかったのは亜希に報告をされて、こんなに揺れ動くのは私の心情だけだった。ワケがわからない。
 私は仕事場へゆっくりと歩いた。とにかく落ち着こうと。幸い頭をフルに回転させる仕事だけれど、家に帰ったらきっと悶々とするんだろうな、という確信があった。とにかく爆発物処理は家に帰ってしようと思う。

 仕事場であるフレンチ・レストランに着いた。La Chat Noir、フランス語で黒猫と呼ばれるレストランが私の仕事場であって、今の私のバトルフィールド。クローズドの札が掲げられている店内をガラス越しに見たら、すでに給仕主任の森田さんがテーブルクロスをディナー用に変えているのを見ると背筋がいっそう伸びるのを感じ、裏口にまわって、休憩ありがとうございました、戻りました、と誰に言うでもなく声をかけた。
「高橋さん、今日のディナーの子羊のローストに変えてみたんだけど、ワインはどれがいいかな?」
「試食させてもらってもいいですか?」
 スー・シェフの市ノ川さんが、いいよ、厨房まで来てくれる? と言うので私は彼の後ろについて行った。昼休みが過ぎて、厨房のなかも少し忙しなくなってきていた。
「今日のまかない、なんだったんですか?」
「カレーだったよ」
「市ノ川さんのカレー、食べてみたかったな」
「カレーはまかないの定番だから、いつでもまた食べられるって」
 私はこの夏、黒猫に職場に決まって、まだまだ黒猫の味を舌で覚えていないこともあるのだから、なるべく黒猫で出される食事はまかないを含め覚えようと思っている。休憩室にはカレーの残り香があって、亜希のせいでお昼ごはんをあまり食べられなかったことを悔やんだ。
 強面でちょっと威圧感があるシェフの谷本さんは、お皿を無言で置いていっていくとさっさと厨房に引っ込んでしまった。谷本さんは少し苦手だが、作る料理は繊細で逸品だ。私はナイフとフォークを動かす前に料理のことについて考える。子羊のローストといえば定番のボルドーかなと思って、手を動かした。私はおいしいものを食べると語彙が貧困になる。ときには感嘆しか出てこない。とっても美味しい、そんな陳腐な言葉しか言えない。そしてやっと、ふたくち目で頭の中に入っているワインリストが動き始める。ローヌワインの赤もいいし、まだ少し暑いから軽めのブルゴーニュの白もいいかもしれない。美味しくてあっという間に子羊を食べ終わると、私は厨房に入って、ご馳走様でした、と言って食べたお皿を洗おうとしたけれど、市ノ川さんに止められた。
「そんなことより、ワインは決まった?」
「はい。おおよその見当はつきました。ワインセラーに行ってきます」
「それじゃ頼むよ、高橋さん」
 はい、と私は市ノ川さんに返事をして地下のワインセラーに降りて行った。
 半地下のワインセラーをシャツと黒いベストで入ると少し肌寒く感じた。今は秋といっても、まだ暑い日が続く。これからは少しずつワインセラーのなかが暖かく感じるのだろか、と思った。ワインセラーにひとりでいると亜希のことをどうしても思い出してしまう。

 亜希と私は大学一年生のとき、新入生歓迎会で出会った。歓迎会で先輩や一部の一年生がハイテンションで私は端でオレンジジュースを舐めていた。そしてその隣に座っていたのが亜希だった。亜希は私なんかよりコミュニケーション・スキルが高く、先輩たちから勧められるお酒をやんわりとうまく断っていた。亜希はジンジャーエールを飲みながら、私に話しかけてきた。
「高橋さんって無口だね」
 私はびっくりした。一度、確かに自己紹介したけれど。こんなにひとが居て私の名前を覚えているなんて、と困惑した顔をした。そうすると亜希はひとの顔を覚えるのは得意なの、と言った。
「えーっと」
「竹村亜希。亜希でいいよ」
「私も真砂子でいい」
「じゃあ真砂ちゃん。なんでこの学科を選んだの?」
 私はホテルのレストランで働きたかったので、観光学科を選んだ。レストランのホールを任されるようになりたかった。小さな頃、私は初めてホテルのレストランに入った。そのとき、私のテーブルを担当してくれたひとの影響だ、と私は答えた。
「私を一人前の淑女として扱ってくれたのは、あのひとが最初だったんだと思う。子どもをあやすような物言いもしなかったし、変に上から物を言うわけでもなかった。私は大人の女性と対等に扱ってくれて、それがすごく嬉しかった」
「そういうホスピタリティって大事だよね。変にへりくだったお客さまは神さまっていうわけじゃなくて、子どもにも意思があってこの場でどんな振る舞いをすべきか、その態度を教えてくれる。いい体験したんだねえ」
 竹村さんは? と私は表情で問うと、破顔一笑した。
「旅行が好きだから、そういう会社に勤めたくて」
 でもある程度になったら、やっぱり旅行雑誌のライターになりたいなあ、と亜希は言った。亜希の人懐っこさは、確かに旅行先でも好かれそうだった。
「亜希さんには似合っているんじゃない?」
「嬉しい。ありがとう」
 そう言ってまたほほ笑むので、わた菓子みたいな笑顔を浮かべる女の子だなあと頭の隅で思った。甘くて、ふわふわで、一見すると脆そうな笑顔だった。
 亜希と私が仲良くなるのに、そんなに時間はかからなかった。互いに上京組でアパートが近かったので、自然と部屋を行き交うようになった。亜希は勉強熱心だったが少し抜けているところがあって、教科書を忘れたり、勉強に集中しすぎるとご飯や睡眠を削ってしまったりしていた。それに亜希は料理がほとんど、というかまったくできなかった。私は亜希の家で料理をして、その交換条件として亜希に食費は私の分まで出させた。亜希は味音痴というわけでも、食を軽んじているわけでもない。レシピ通りに作るということをほとんどせず、いつも何らかの創作が入る。それがいけない。
「真砂ちゃんのお味噌汁、美味しいね」
 普段はコンタクトレンズで身なりにもそれなりに気を使っているのに、家では分厚い眼鏡をかけて、スウェットにTシャツというのが亜希の部屋着だった。亜希は私の出す料理ほとんどを美味しく平らげてくれた。ただし他のキノコは大丈夫なのにシイタケだけが苦手で、出汁を取るときには苦労した。
 大学二回生の春になると私は二十歳の誕生日を迎えた。特に祝われたいとも思わなかったので亜希にすら、誕生日を教えていなかった。ただいつもの日のように大学に行って、亜希と一緒にご飯をたべて過ごしたかった。その日も自分の部屋に帰って雑事を済ませると、亜希の部屋へ行った。亜希はまだ帰ってこず、もう先に夕食を済ませてしまおうと思ったころ、亜希は帰ってきた。
「遅いよ、亜希」
「ごめん。これ買いに行っていて遅くなった」
 亜希は細長い紙袋を私の前に掲げた。
「なに、これ」
「真砂ちゃんへの誕生日プレゼント」
 私は紙袋から一本のワインを取り出した。深い緑色をしたガラス瓶に私の生まれた年が印刷されたラベル。そう、ヴィンテージワインだった。
「これ、値段いくらしたの?」
「無粋なこと言わないでよ」
 日々の感謝の気持ちと、お酒が飲めるようになった真砂ちゃんへのサプライズだよ、と亜希は言った。
「素直に受け取って」
「……ありがとう、亜希」
 私はそのワインを勿体なくて、飲む気になれなかった。しかし亜希はせっかくだから開けてよ、また欲しかったら来年も贈ってあげるからさ、とごく自然に言った。来年なんて遠い未来のことのように思えた。けれども私はその言葉に、亜希に甘えた。亜希はインターネットでいろいろ調べたらしく、小さなワイングラスを私に渡して、グラスをくるくると回しちゃだめだよ、と言った。私は開けられるワインのコルクと亜希を見守った。
「だいたい古いワインってコルクをつけ直されているらしいから大丈夫だと思うけど」
 亜希は慎重を期すのは大事だからね、と言ってゆっくりとコルクを抜いた。ぽんと音が鳴ってワインが開けられると、亜希は私の手元にあったグラスに澱が混ざらないように、丁寧に注がれた。
「きれい」
 私は思わず言葉が出た。真っ白というわけではないけれど、生成り色をしたワインを私は蛍光灯の光にかざしてみた。いま持っているワイングラスだけが私を別世界にいるような気にさせた。
「見るばっかりじゃなくて、飲んでみてよ」
 私は頷くと、グラスに口をつけた。ふんわりと口に広がるフルーツの香りが舌の上で転がるような甘い感触があって、ワインはすとんと喉を通って行った。
「美味しい。五臓六腑に沁みるって、こういうことを言うんだね」
「良かった」
 亜希はあからさまな安堵の表情を浮かべた。私は二口目をふくむとワインの匂いが口の中で広がった。
「うん、美味しい」
「じゃあ、私も」
「だめ」
 私はワインボトルを亜希から奪った。なんでよ、ケチと亜希はブーイングをするが、私は譲らなかった。
「まだ未成年でしょ、亜希は」
「あと数か月で未成年じゃなくなるから、いいじゃない」
 詭弁を弄する亜希に私はボトルを抱きしめて離さなかった。亜希はじゃあいいです、と拗ねてみせた。
「亜希の誕生日にとびきり美味しいワイン買ってくるから」
「別にいい」
 亜希は私の方を向いた。そして私のくちびるを舐めてきた。
「確かにこれは美味しい」
 もっと味わわせてよ、と言って亜希は私のくちびるを重ねてきた。柔らかな亜希のくちびるの感触が生々しくて言葉を失った。
「嫌だった?」
「嫌ではないけど、びっくりした」
「真砂ちゃん、無防備すぎ。お酒飲んでそんなふにゃふにゃした顔をしていたら、食べられちゃうよ」
 私みたいな悪いオオカミに、と亜希は私をラグにそっと私を押し倒した。亜希に触れられるのは嫌ではなかった。むしろ私の身体に亜希の手が、舌が、指が、ぴったりと馴染んだ。まだ春なのに亜希の肌はしっとりとしていて、まるで私の身体は全身が粘膜のように亜希の身体に貼り付いた。亜希に触れられながら、私はそう言えば赤ずきんちゃんはワインを持っていたな、と冷静に思い返していた。
 思い返せば私がホテルのホール接客を目指すのをやめて、ソムリエールを目指すようになったのは、亜希が持ってきたこのヴィンテージワインがきっかけだった。学生という身分から高いワインはなかなか買えなかったけれど、考査明けや大人数で飲み会をするときは、大切な一本を開けるようにした。なるべくいいワインを安く手に入れられるように何件も酒屋を回ったりもした。そして亜希と私の何らかの記念日にはシャンパンを開けた。
 亜希と私が付き合うようになったのは運命というよりは、自然ななりゆきだったと思う。互い飽きるまで身体を貪り、そして寝食をともにした。私たちの間にある愛はあるが燃え上がるようなものではなく、安定と平穏だった。温かい、けれども平凡な日常。わたしはそんな日々に満足と充足感を見出していた。
 しかし亜希からヴィンテージワインをもらった年の秋の日、私は残骸となった。
「真砂ちゃん、ここに座って」
 その日の夕食は簡単に済ませようと親子丼を作っている最中のことだった。あとは玉子でとじるだけの状態になっていた。
「ちょっと待ってよ、亜希。もうできるから」
「真砂ちゃん」
「わかった。今そっちに行くから」
 何かと散乱しているテーブルを挟んで、亜希は散らかっているのではなく私の秩序によって置かれていると主張した、私は亜希と向かい合って座った。
「いったい何よ」
「真砂ちゃん、私と別れてください」
 私は出し抜けにこの子はいったい何を言っているのか、私にはわからなかった。しかしすぐに冷静さを取り戻して、亜希は私から離れようとしていることを理解した。
「それはどうして?」
 極めて慎重に声が震えそうになりつつも亜希に問うた。
「真砂ちゃんは私の身の回りのこと全部しちゃうでしょ。恋人というより……」
 亜希はわざと語尾を濁らせた。そう私は亜希の母親になっていたのだとその言葉で気づかされた。私は日常の穏やかさが私の首を締め上げていたことにやっと気づき、言葉を失った。冷えていく親子丼の匂いが場違いにも私と亜希とのあいだに漂っていた。

 ワインセラーで自分ひとりでいると亜希のことを思い出した。私はワインを選びながら、今日の亜希を思い出してやはりイライラしていた。
 亜希はいつも唐突で結果や結論しか話さない。経緯なんかをすっ飛ばし、それがいかに大事なものかわかっているのかいないのか、最後の部分だけぽんと投げてくる。だから私はいつもかき乱されて、嵐のなかに放り込まれる。
 私はワインを選ぶと、注意深く上の階に運んだ。ディナータイムはもう少しで始まる。私は頬を叩いて、ホールの方へ向かった。
 ソムリエールに必要なのは細かな気遣いだ。ワインの知識は二の次だと私は思っている。お客さまが美味しく食事をし、ワインを楽しんでいただける空間を作ることが第一だ。お客さまもソムリエールのワインの蘊蓄など、ほとんどご所望にならない。望まれるときは大抵、ソムリエールの私を試すように聞いてくるときだけだ。ソムリエの認知度は高い。しかしソムリエールの認知度はまだまだ低い。たいていお酒に関する仕事は男性のものだった。私はソムリエールの第一人者である故・野田宏子さんの写真をお守りのように通勤かばんの中に入れている。それは故人への尊敬とこの仕事への情熱を忘れないようにするためだ。野田さんの意志は私にも引き継がれている、と考えると落ち込んだときの丸まった背筋も伸びる。
 黒猫の平日のディナーはそれなりに繁盛しているが、多忙というわけでもない。黒猫はホテルのレストランと違って個人経営というところも功を奏しているのかもしれない。黒猫のパトロンである皆川夫妻は無類のワイン好きだ。黒猫に来る前、私はホテルの一介のソムリエールだった。皆川夫妻のワインに関するブログをよく閲覧していて、ソムリエの求人が出たとき、これはチャンスだと思って問い合わせてみた。ホテルのソムリエの仕事はおもてなし精神より、ソムリエ同士の競争だった。そしてソムリエールは私だけで半人前扱いされるのもうんざりとしていた。黒猫の採用試験はワインのテイスティングでまずふるいにかけられ、その後に面接が行われた。尊敬するひとは誰かと聞かれれば、野田宏子さんと答えた。大それた願いだけれども、美味しいワインを望まれるお客さまへ手厚い対応をした野田さんの後継者になれるような、そんなソムリエールになりたいと言った。そうすると皆川夫人は私もソムリエールになりたかったけれど、時代が許さなかったから、とおっしゃった。私の居場所は野田宏子さんや皆川夫人の上に成り立っているのですね、と言うと、夫人は笑って見せた。少し悲しそうな笑顔だった。その一週間後、私のもとに採用通知が届いた。採用理由は一番に私が人心把握がうまかったから、という理由だった。ワインの知識はみな同じくらいだったらしい。このとき確信したのはお客さまが主役でワインはそれに添える花だということだ。黒子に徹し、必要なときには気の利いた言葉を選ぶ。それは難しいことだけれども、私は黒猫のソムリエールとして今日もお客さまに仕える。

「お疲れ様です」
「お疲れー」
 黒猫のスタッフたちが三々五々に帰り支度をしているなか、私はシャンパンの注文票を書き込んでいた。明日やればいいことだが、忘れないうちに書いておきたかった。今日できることは忘れずにする。そして頭のすみから亜希を追い出すためにも。
 お客さまがフルボトルで頼み、残ってしまったワインをグラスに注ぐ。なぜ残ってしまったのか、味は劣化していなか、確かめるのもソムリエールとしての仕事だ。けれど今日は酔いたい気分だった。こんな気持ちになるのは久しぶりだった。

 亜希と別れてから、私は三日ほど抜け殻となっていた。大学も行く気にはなれなかったし、自分のためだけに食事を作るということに何の意義も見いだせなかった。普段は滅多に食べないようなレトルト食品とジャンクフードを買い溜め、自分のアパートに籠城した。そして音楽はサイモン&ガーファンクルの「アイアム・ア・ロック」という曲をエンドレスリピートでかけていた。自室に引きこもり、私は岩、私は島、岩は痛みを感じないし、島は泣いたりしないから、という内容の歌で私はいたく感動していまの自分の状態を、その歌に重ねた。一日目は酔っぱらってなんとかやり過ごしたが、二日目にひどく失望した。上物のワインをいつの間にか開けていたからだ。私は今後一切、自棄酒をしないように空になったワインボトルに向かって南無と手を合わせて誓った。そしてなにもすることがない三日目の夜に奴は現れた。
「ごめん」
 亜希の謝罪は別れを切り出した本人とは思えないほど明るい声で言った。
「何の用?」
「あのね、鍵を失くしちゃって。大家さん今日いなくて」
 不機嫌な私をしり目に亜希は遠慮なく部屋に入ってきた。
「朝一で出てってよ」
「このワイン開けたの?」
 フラれて二日目に飲んだ上物のワインの空ボトルを亜希は驚いた顔で見た。
「そうだよ。悪い?」
 私はいらついていた。さっさと眠りたくて、手早く、まだ返したり捨てたりしていなかった、亜希の着替えと歯ブラシを用意した。そしてさっさとお風呂にはいってくるように、浴室を指さした。そして客用の布団をひっぱりだして、その上にドライヤーを置いておいて、私は早々にベッドのなかに入った。
「お風呂、ありがとう」
 律儀にも亜希は、寝たふりをしている私にお礼を言って、髪を乾かし、客用の蒲団のなかに入った。私はすこしだけ期待をしていた。亜希が私のベッドの中に入ってくることを。私は目をつぶりながらも涙とは流れるものなのだな、と思った。
「ねえ、真砂ちゃん。真砂ちゃんは私のこと嫌いだと思うけど、私は真砂ちゃんのこと嫌いになれないよ」
 亜希の慈しみに溢れた声に私はとうとう嗚咽するしかなかった。残酷な亜希。そしてまだ私は亜希が愛おしいと感じていることを実感せざるをえなかった。

 仕事後、こんな感傷的な気分にさせるのは、亜希の襲来のせいだ。
 私と亜希はなんだかんだで連絡を取り合っていた。大学も学科も同じとくれば、亜希の存在は無視はできない。亜希はお酒が美味しいバルを見つけたから行こう、とか何かと連絡してきた。大学を卒業して、亜希は旅行会社に勤め始め、私が黒猫に移る一年前にライター業を始めていた。その間、私と亜希は友人という適切な距離でお酒を楽しんだ。恋愛の話題は一切、挙げないように私たちは気をつかった。ふたりで飲むときの関係は、友人同士とは呼びにくく、恋人としては不満足な、そんな関係だった。私は亜希のことがまだ好きだった。初恋が実らないなんて知らない。私がソムリエールになってこの金の葡萄のピンを胸元に刺しているのは、やはり亜希がいたからだと思う。私と亜希が「友だち」に戻った後も、誕生日の前日や後日、美味しいワインを恒例のように送っていた。私は恋心をひた隠し、亜希が好きな白ワインを送り続けた。
 亜希は私の前ではうまく隠していたが、ラヴロマンスを繰り返していたようだ。今までいた恋人の数は両手ではおさまらないだろう。私はその手の相談には一切のらないと決めていたし、亜希も言わなかった。暗黙の了解というもので亜希の些細な変化から、例えば飲みに行く回数が減ったり髪型が変わったり香水が変わったりと、私は亜希のロマンスの回数を数えた。片手で足りなくなると私は虚しくなり、数えることをやめた。
 亜希とはここ数カ月、会っていなかった。ライターの仕事が夏にむけて亜希は忙しかったし、私は黒猫に転職したからだ。連絡がないのは元気な証拠、と勝手に思っていた。それがこんなことになっているなんて、と私はため息を漏らす。
 帰りの電車で亜希からメールが届いていたが読む気になれず、というか未だ衝撃が強く、私は放置していた。明日も仕事だと思うと、じゃっかん心が軽くなった。やることがあるというのは嬉しい。自分勝手な元恋人、シングルマザー候補について考えるいとまも与えないからだ。

 亜希の連絡を無視し続けて、しびれを切らしたのか亜希は黒猫に押しかけてきた。お客さまとして。まだ花の金曜日にはほど遠い火曜日のことだった。
私は公私混同は嫌だと言って、決して亜希をお客さまとして迎え入れたことはなかったのに。亜希は私たちより少し年上の男性を連れて、黒猫のドアを開けた。
「このビストロ、すごく美味しいって知人から聞いて。ぜひ長野さんとご一緒したくて」
「嬉しいな。ワインも豊富だね」
「ええ、ネットで調べたら、ソムリエールさんがすごく丁寧に説明してくれるって。値段設定、若干お高めですが」
「いいの、いいの。打ち合わせってことで経費で落とすからさ」
 良かったです、と長野とかいう男に亜希は笑ってみせた。森田さんがテーブルまで案内すると、私の出番が来た。
「本日の前菜に合わせまして……」
「あ、とりあえず泡ふたつください」
「……私はペリエで」
「かしこまりました」
 私は笑顔で応対した。シャンパンを泡と言う輩は格好つけているのだろうか。私はシャンパンのその呼び方が苦手だった。しかも今日の前菜には冷えた白ワインが一番に合うのに、店の説明を聞かない客はお客さまじゃないとか思ったが、営業スマイルは無料だ。亜希はすまなさそうに炭酸水を小声で頼んできた。しかしこんなことなど今日のトラブルの序の口だったとこの後に私は知ることになる。
「えー、亜希ちゃんお酒、飲まないの? さっきこの店のソムリエについて褒めていたじゃん」
「いやあ、最近めっきり弱くなってしまって。今日は長野さんにご迷惑をおかけしてしまいそうで」
「そんなこと気にしなくていいよ」
「いえいえ。私の方こそお気になさらず、長野さんじゃんじゃん飲んじゃってください」
「ひとりで飲むのはつまらないじゃないか」
 長野某よ、飲みたくないという人間に飲めと強要するのはアルコールハラスメントであり、大の大人がひとりで酒を飲むのがつまらないなどと言うのはいかがなものか。
そして長野氏はデキャンタをお銚子と間違えているのか、ワインを味わっているというか酔うためにアルコールを摂取しているようにしか見えなかった。そして酔うと絡みはじめるという極めて厄介なお客さまであった。
「いやさ、だから編集長に言ってやったんだよ。稲田を育てたのは俺だって。稲田がいなきゃあの雑誌なんてとっくに休刊だったワケ。俺は稲田でタッグを組んで、雑誌休刊の危機を乗り越えたってワケ」
「へえ、すごいですね」
 酔った男に効果的な相づちは、すごい、本当? そうですね、の三つである。それ以上の言葉は必要ない。自分がオウムになったと思えばいいのだ。酔うものは酒だけではなく、自分の苦労話または美談にうっとりとすることもカテゴライズされる。それにしても長野某の声がでかすぎて森田さんもすでに二回注意しているが収まる様子もなく、限度というものを知らない。
 そしてその無駄に大きな声でソムリエー! さっきの赤をデキャンタでもって来い、と長野某は唾を飛ばして言うのだから私は丁重かつ大人の対応を迫られることと相成った。
「お客さま、他のお食事中のお客さまにご迷惑がかかりますので、もう少しお声のほうを抑えて頂ければと思います」
「そんなことはいいからさ。とにかく赤を持って来いよ」
「かしこまりました」
 営業スマイル付きのお願いは即座に断られた。ああ、もう嫌だ。亜希が、よりにもよって酒の飲み方もマナーも知らない大人を、連れてくるなんて。私は亜希の方をこっそと睨みつけた。亜希は長野某の話を聞いているフリをして相づちをうっていて、脳みそでは別のことを考えているに違いない。
 私は亜希に気を取られ、空になったデキャンタを下げる際、ワイングラスに入った長野某の水をこぼしてしまい、水は長野某の服に大量にかかってしまう。
「なにやってんだよ!」
「申し訳ございません」
 私はすぐに長野某の服を吹いたが、それでも長野某の怒りは収まらず怒声の雨が私の頭に降り注いだ。私は謝罪の言葉を重ねた。そして森田さんが謝りに来ると、私は一回、立ち上がった。そして亜希が私の隣に立っていることに気づき、目線がぶつかった。そして平手打ちが飛んできた。
「あなたには失望したわ」
 吐き捨てるように、亜希は言った。亜希の言葉と態度に驚いたのか、長野某はポカンとしている。
「この度は当店のソムリエールがお客さまに粗相を致しましたこと、誠に申し訳ございませんでした」
 いつの間にか亜希たちのテーブルにシェフである谷本さんもコック帽を外し、深々と頭を下げているのを見て、私も慌てて申し訳ございません、と頭を下げた。頬はじんじんするし、自分はソムリエール失格だと思ってしまうくらい、罪悪感に駆られていた。
「もう出ましょう」
 亜希はそう言った。長野某は怒りが驚嘆に変化したのか、亜希の後ろに着いて行き、黒猫から退店した。
「みなさま、お食事中に大変失礼を致しました。お詫びと言ってはなんですが、当店のソムリエールが選んだ極上の、美味しいワインをみなさまへ振る舞えたらと思います。どうぞお食事とご歓談をお続けくださいませ」
 森田さんはそう言うとホールは拍手に包まれた。谷本シェフは私の背中を叩いた。私にはまだやることがあるんだ、と私は自分に言い聞かせた。そしてワインを選ぶためワインセラーのなかで少しだけ泣いた。そして何事もなかったようにお客さまにワインを忙しなく、しかしそうは見えないように、サーヴした。
 散々なディナータイムが終わると、私はベストに光る、ソムリエールとしての証の金の葡萄をもぎ取った。私は単純なミスにイライラしているんじゃない。亜希にあんなことを言われたことに、自分自身に落胆していた。
「高橋さん、良かったです」
「何がですか?!」
 私はつい声を荒げてしまった。
「女性のお客さまは、あなたのお友だちだったのでしょう? だからあの場所を収めるために、あんなことをしたのですよ」
「え……」
 私はてっきり本気で亜希に失望されたのかと思った。良いお友だちを持ちましたね、と森田さんは私の肩を叩いた。
「食え」
 そして谷本シェフは私に今日のメインであった鹿肉のメダイヨン——鹿肉を丸く丸めたステーキ——にフランボワーズと赤ワインのソースが添えられていた。
「空腹だとろくな考えが浮かばない」
「すみません、でも私……」
「失敗は誰にでもあります。それから何を学ぶか、何を得るかです。もっと貪欲になってください」
 私が言葉に詰まると森田さんがそう言った。森田さんの言葉が私の身体に沁み渡り、我にもなく泣きじゃくってしまった。世界はこんな日でさえ、私に優しい。
「でも、変ですね」
 森田さんがそう言った。
「何がだ?」
「女性のお客様のほうはほとんどお皿に手をつけなかったんですよ」
「確かにな」
 谷本シェフはそう言って眉間に皺を寄せた。

 亜希と会うのになるべく日を置きたくなかった。私は亜希のアパートメントに黒猫の定休日に突撃した。インターフォンを押すと、亜希の入って、という声が聴こえ、私は亜希のアパートメントに入ることが許された。
「この前はありがとう」
「私はお礼を言われるようなこと、してないけど」
 私はダイニングテーブルを挟んで、亜希の前に座り開口一番にそう言った。亜希の部屋は相変わらず散らかっていた。ハーブティでいい? それともグレープフルーツジュース? と亜希は席を立とうとしたけれど、私はそれを制した。
「たぶん亜希がキレていなかったら、あの男性客はもっとひどいことを言ったと思うし、ひどいことをされたかもしれない」
「いいの、別に」
「でも、亜希は私のこと想って、してくれたことでしょう。だから……」
 私がそう言いかけると、亜希はものすごい勢いでトイレに駆け込んだ。私は一瞬なにが起こったのかわからずに亜希のあとを追った。そして開け放たれたトイレから亜希のえづく、声らしきものが聞こえた。そして私は亜希が亜希だけの身体じゃなくなったことを知った。つわりで吐き続ける亜希の長い髪が便器に落ちないように、ひとつに纏め、背中を撫ぜた。
「ごめん、真砂ちゃん」
 吐き続ける合間に亜希はそう言った。私はこんなことしかできないから、と亜希を励ました。胃液をだいたい吐き終わると亜希は虚ろな目をして言う。
「私、本当はすごく怖いんだ。つわりは酷いし、仕事もまともにできない。ひとりで頑張ろうって思ったけれど、全然ダメな人間で。長野さんみたいな嫌なやつと仕事しなくちゃいけないし。本当に子ども産めるのかな?」
 私は言葉に詰まった。亜希は本当に弱っている。でもここで私はいったい亜希のために何ができるだろうと考えた。大丈夫だよ、なんて安易な気休めの言葉は言いたくない。亜希の恐怖をふり払う言葉が私にはなかった。
「すこし水分とった方がいいね。炭酸水ある?」
 そう言うと、亜希は頷いた。私はキッチンに行ってグレープフルーツを絞り炭酸水に注いだ。亜希もダイニングテーブルに座った。
「真砂ちゃん、ありがとう」
 亜希は私に笑って見せて、そして泣き始めた。私は亜希を抱きしめる資格がないので、ただ亜希の前に座っていた。ひどい拷問を受けているような気になった。

 翌日の仕事は少しだけ憂鬱だった。オーナーである皆川さんと奥さんの瑤子さんが来るからだ。スタッフは皆川氏をオーナーと呼び、夫人を瑤子さんと呼んでいる。オーナーをはじめ瑤子さんにも長野某事件が耳に入るのが耐え難く、もっとももう耳に入っているだろうが、お叱りの言葉を待つしかできなかった。オーナーはいつも穏やかなひとだけれども、感情的に怒りをぶつけないことの方がよほど怖いことだった。
「いらっしゃいませ、オーナー、瑤子さん」
 森田さんがそう言うと、皆川夫妻は奥のスペースに引っ込んでいった。私は他のお客さまにワインをサーヴしていたので、挨拶が少し遅れた。奥のスペースは厨房と休憩室の真向かいにあった。そこでいつも皆川夫妻は食事をされる。皆川夫妻のためだけの特別なスペースだった。
「オーナー、瑤子さん、この間は大変申し訳ありませんでした」
 私はオーナーにまず頭を下げた。
「今回はちょっとまずかったね。今後このようなことがないように気をつけてください」
「はい」
「そんなに気落ちする必要はないのよ。失敗は誰にでもあるもの」
 瑤子さんはそう言って私を励ましてくれた。オーナーはやれやれと肩をすくめた。
「だから今回は高橋さんを咎めないわ」
「だそうだ」
 オーナーは苦笑して、瑤子さんは微笑んでいた。私はほっとして業務に戻ろうとした、瞬間、緊張の糸が途切れてほろりと一粒だけ涙をこぼした。ああ、また泣いてしまった。これもそれも亜希のせいだ。仕事中に二回も泣くなんて、ありえない。つらいときはずっと黙って耐えてきたのに。それでも笑顔を絶やさなかったのに。亜希があんな姿を見せるから、私は亜希と一緒に泣いてやりたかったのだ、と気づいた。亜希のことが好きだ。今もそしてきっと、これからも。
「高橋さん、一緒にこのテーブルに着いて。あなたの話を聞かせてちょうだい」
 瑤子さんはそう言って、私に座るように命じた。
「でも、まだ仕事が……」
「そんな顔でお客さまの前に出ることは、私が許しません」
 はっきりと瑤子さんは言い切った。私はせめてベストだけ脱がせてください、と言ってロッカーに行く許可を得て、金の葡萄のバッチを外し、皆川夫妻のテーブルについた。
 私は何もかも洗いざらいオーナーと瑤子さんにぶちまけた。私がレズビアンであること、今も亜希を密かに想っていること。そして亜希の今の状態とこれからについて。何もかも話した。普段は慎重にならざるをえないカミングアウトもこのときばかりは、人生の先輩であるオーナーと瑤子さんに打ち明けて、助言を乞いたかった。そしてオーナーと瑤子さんは私がレズビアンということをすぐに受け入れてくれた。
「残酷なことを聞くようだけれども、高橋さんは友だちとして亜希さんのことを抱きしめることはできなかったかい?」
 オーナーがそう言うと、私は首を横に振った。
「私は亜希のことが好きです。亜希のあんな姿を見て、一介の友人として振る舞えません。抱きしめるだけじゃ足りないと思うでしょう」
「じゃあ、いいじゃない。一介の友人じゃなくてもう一度、恋愛すればいいのよ」
「でも」
 私はそう言って言葉を詰まらせた。でも、に続く言葉は何もかも言い訳のように聞こえてしまうからだ。
「ねえ高橋さん、傷つかない恋なんてないの。あなたはそれをわかっているはずよ」
 瑤子さんの言葉に私は頷いた。
「でも、実際問題としてお腹に子どもがいる妊婦を愛することが君にはできるのかな?」
 オーナーの懸念はもっともだった。私はそれをずっと考えていた。その結果は亜希と一緒に育ててみたいと思っていると私はオーナーに告げたる。
「もちろん不安です。でも好奇心もあります。私は自分の恋心と向き合わず、半ば諦めて日々を過ごしていました。でもそんな生き方は惨めだと薄々と気づいていましたから」
 私が過ごす日々は仕事とそれにまつわる日々が大半を占めていた。ひとりであることから目を逸らすように、亜希への認めがたい恋心を忘れるようにただ過ごしている。そしてアパートでひとりで食事をすることの寂しさからも逃げていた。
「私はまだ半人前です。でも亜希と一緒なら、なにか面白い人生が送れると思うんです。仕事も家のことも、子育てを含めて」
 私はオーナーの率直な疑問に答えることによって、言葉にすることによって、私はようやっと決心がついた。
「腹は決まったみたいね。晴れ晴れしい顔をしているわ。人生は万事おもしろくなくちゃ」
「はい」
 私はオーナーと瑤子さんが背中を押してくれたことに感謝した。そして私の人生なんてどうとでもなるのだから、亜希とその子どもに明け渡してもいいだろう、とそう思った。私の人生を丸ごと亜希にあげたい。それ以上の愛情表現を私は知らない。

 亜希の部屋は相変わらず、雑然というより、むしろ荒廃の影を落としていた。
「つわりのほうは落ち着いた?」
「まだまだ。おかげでトイレとお友達よ」
 私は温かいローズヒップのハーブティを出され、それを一気に飲むと、亜希の足元に跪いて、手を取った。
「私は亜希のことが好き。いま亜希がつらいのはわかっている。だからこそ私を利用してもいい。隣にいたい。亜希、一緒に住もう。そして赤ちゃんと一緒に三人で暮らそう」
 亜希の視線は私の顔に釘付けになり、そして私の思わぬ告白に視線を泳がせた。そして自嘲気味に言う。
「真砂ちゃんって本当にお馬鹿さん。私なんて取るに足らない人間なのに」
「亜希が思っている以上に私は亜希のことを大事に思っているよ。きっとお腹の赤ちゃんも」
 私は取った手をよりいっそう強く握った。亜希は目を潤ませて私の手をぐっと握り返した。
「真砂ちゃんって本当に馬鹿」
「馬鹿でいい。イエスかはいで答えて」
「もちろんイエスよ」
 亜希はそう言って破顔した。そして亜希のその言葉に私は愛を感じた。私はようやっと亜希の隣で過ごすことを許された。亜希が見る風景を共有できることに心の底から有難いことだと思った。私は甘やかな抱擁を再び手に入れた。柔らかな亜希の肌に私の肌が吸い付く。私の腕のなかで、ふたつの生命が脈打っている。それが本当に奇跡のことのように思えた。

 バースデイソングが暗い黒猫で流れる。今日は一花の誕生日だ。
 亜希の子どもであり、私の子どもでもある、一花はすくすくと育ち、無事一歳を迎えた。
「一花、ロウソクをふーってして」
 亜希はそう言って、一花は私の腕に抱かれて、力いっぱいの空気を吐き出した。ロウソクが消えるといつもの黒猫の明るさになった。一花ちゃん誕生日おめでとう、とシェフである谷本さんが言った。無口で不愛想な谷本さんは意外と子煩悩だということに、気がついた。谷本シェフは他人の子どもだから可愛がれるのさ、と照れていた。
 今日は黒猫のオーナーの皆川夫妻が店を貸し切りにして、スタッフに囲まれ一花の誕生日を祝ってくれた。
「竹本さんは明日からお仕事でしょう。どこに行かれるの?」
「プエルトリコに行きます。興味深いところですよ」
 亜希は炭酸水と瑤子さんはワインを片手に談笑していた。私は一花を腕から下し、一花は谷本さんの方に走っていた。
「亜希ママと一緒にいれなくて一花ちゃんは寂しがったりしない?」
「一花ったら真砂ママの方が好きって言うんですよ」
 私は亜希と瑤子さんの話に聞き耳を立て、少しの優越感を覚えた。一花が産まれて私と亜希の結束はより強固なものになった。不安がる暇もなく子育てに苦心した。しかしその甲斐あってか、すくすくと一花が育つことが嬉しい。
「今日のワインはまた格別に美味しいですね」
「価格を度返してもいいとオーナーが言ったので」
 森田さんが話しかけてくると、私は黒猫で最高級とは言わないまでも、ベターなワインを開けることにした。
 気が早いが一花が二十歳になったら生まれ年のヴィンテージワインを送ろうと私は考えていた。一花はたった一年でこんなに大きくなったのだから、一九年なんてあっという間に過ぎてしまいそうな気がした。
 亜希と出会わなかったら、一花を育てることもなかった。生きる歓びの金の葡萄は証として今日も私の胸元で光っている。


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