7mg

 起きたらすでに夜の十時で、自分の怠惰さにひとつ重い溜め息をついた。
 冷蔵庫のなかは空っぽで、いやそれは嘘で賞味期限切れの玉子と同じく賞味期限切れの牛乳が入っていたがそれを食す勇気はなかった、怠惰を尽くすかとコンビニエンスストアに行こうとパジャマから部屋着に着替えてコートを羽織り、スニーカーを履いた。
「いらっしゃいませ」
 気だるそうな声が聞こえ、私は籠を持ってサンドウィッチの棚を見つめた。あまり食欲はない。綺麗に陳列されて、ハムのピンクや玉子の黄色が私を誘うけれど、なんだか違う、と私は思った。おにぎりの棚も見たけれど、同様になにか違うと思った。お惣菜も食欲を誘わない。とりあえず、コカ・コーラのペットボトルを籠にいれて、これだけなら籠は必要なかったなと、レジに向かった。
「152番ください」
 私はレジのお兄さんの後ろにずらっと並んでいる煙草が目に入って、適当に番号を言った。そうするとお兄さんは慣れた手つきで、煙草を取り出した。
「こちらでよろしいでしょうか」
「はい」
 煙草ならなんでも良かったので、特に銘柄を気にせず、確認もせず、煙草はビニール袋に放り込まれた。私はコーラと煙草だけ買って、コンビニエンスストアを後にした。

 アパートに着いたら、まず電気を点けた。そしてエアコンのリモコンに手を伸ばした。寒いは寒いが我慢できないわけではない。月末の電気代が気になって、リモコンを放り投げた。そして机の上のPCを点けて、音楽再生ソフトウェアを起動して、シャッフルで音楽をかける。
「灰皿、あったけっなー」
 自分で言ったものの、それはどこにもないことを知っていた。食器棚を見て、適当な小さなお皿を取り出した。ライターを探して、そういえばと思い、ヒザをついたまま仕事用のバッグを引き寄せ、中身を乱雑にかき回すと、底のほうにライターが埋まっていた。
 私はコカ・コーラのペットボトルをぷしゅっと音を立てて開け、コップに注がずそのまま口をつけた。怠惰な自分に乾杯、と私は思ってコーラの喉ごしの清涼を感じた。
 私は疲れていた。まぶたは重く、口が開かれることなく、不器用な手は死んだ者のように冷え切っていた。ただ眠りだけが私を癒してくれた。眠り続けること十八時間、私はようやっと人間らしい怠惰な生き物になることができた。
 煙草のフィルムを剥がし、それを手でもてあそぶ。7と書かれたそのパッケージはシンプルだ。レシートを見ると、それは四百六十円もして、私は驚いた。昔の歌謡曲に「百円玉二個とほんのちょっと」というフレーズがあったのを思い出し、嫌煙の世の中になったんだなあと感心した。

 私の好きになったひとは愛煙家だった。だからいつもくちびるを食むと煙草の味がした。私はそのくちづけが好きだった。煙草の香りと彼女の柔らかなくちびると少しだけ絡まる唾液が。彼女といるときはくちびるは言葉を紡ぐより、くちづけで忙しかった。だんだんと煙草の味も薄れていくことに優越感を抱いた。いまだけは彼女のくちびるは私だけのものだ、と。
 そんなことを思い出しながら、煙草のパッケージを手のひらで持て余す。買ってはみたものの私は長いこと煙草というものを吸っていなかった。使い捨てのライターは彼女から盗んだものだった。私の家から帰る彼女のバッグからこっそりとライターをひとつ拝借した。彼女は使い捨てライターを失くしたとき用に、いつも二つ持っていたからだ。彼女からもらったプレゼントは他にはない。密事の記憶だけだ。それでも、私は彼女のことを知っている。饒舌な舌やくちびる、緩やかなカーブを描く腰から太もものライン、形の違うふたつの乳房。彼女の身体は私の手によって輪郭を与えられたと言っても過言ではないと思う。余すことなく私は彼女の身体を堪能した。そして私たちの欲望は底のない沼のように際限がなかった。
 煙草を吸うのは何年ぶりだろうか、と思いながら私は煙草をくわえてみた。私が若いころ煙草というアイテムは、有害な物質をばら撒くはた迷惑な嗜好品ではなく、大人の格好良さの象徴だった。ご多分に漏れず私も煙草を吸ってみたが、何がおいしいのかわからぬままいつの間にか煙草はなくなっていた。彼女は美味しそうにそれを吸っていた。私にも一本ちょうだい、と言うと、貴女に必要はないものよ、と彼女は言った。唯一でた彼女の拒絶の言葉だった。私と彼女のすべての記憶はベッドの上だけで、彼女は私が用意したガラスの灰皿を気だるげにベッドの中に持ち込んで、煙草に赤い火を点けるのだった。
 私は欲しいものを手に入れた。それは彼女の身体だった。心とか精神とか、そういう面倒な、存在するかよくわからないものは、どうでもよかった。私は彼女の身体が欲しかったから、甘い言葉を吐き、貴女が欲しいと囁いた。そこには嘘や方便はなく、私は彼女の身体を手に入れるための手段を択ばなかった。欲しいものが手に入れば、私の飢餓感は満たされると思った。空腹は食べ物で満たされるように、子どもは玩具が手に入れば泣き止むように、私の飢えは満たされると思っていた。彼女の身体は柔らかく、温かかった。だからこんなことになるかと思わなかった。
 彼女は女の子が吸うような、ピンク色のパッケージで細身の煙草を吸わなかった。たまたま今日、手に入れた煙草と同じようなものを吸っていた。私は煙草に火を点けて、深く肺に煙を送り込んだ。この一連の行為のなにが気分を落ち着かせるのかまったくわからず、私は咳き込んだ。ニコチンだかタールだかが依存性があるらしいけれど、依存する前に私は肺の繊毛がゆっくりと死んでいくのを想像して、私には必要のないものだと改めて知った。
 情交のあと、私は彼女の頬を打ち据えた。彼女は意味がわからないといった顔をして、最終的には困ったような、私に同情したような顔をした。私は視界が歪んでいることに気がつき、涙を荒々しく腕で拭った。彼女は子どもは私が産んだ子で十分なの、と言った。私は彼女を愛し始めていると気がついた。ああ、嫌だ。愛、つまらない異性愛者どもが使う嘘。私は嫉妬しはじめていた。私と一緒にベッドで過ごす時間以外の彼女の姿に。彼女が結婚していることなど些末な問題だった。私が彼女を所有しようとしている事実に、私は震えた。彼女はゆっくりとベッドから出て、服を身に着けて、靴を履こうとした。彼女が行ってしまう。引き留めなくてはと私は目に入ったガラスの灰皿を彼女に向かって思いっきり投げた。灰皿は彼女の頭を逸れ、壁にぶつかって砕けた。彼女は振り返った。
「さようなら」
 彼女がどんな言葉を選んでも私は納得しなかった。ただ彼女は憑き物がとれたようなすっきりとした顔をしていた。そうして彼女は私のベッドの上から去っていった。

 ふたくちめはゆっくりと吸い、肺に煙がいかないように注意を払って、ふかしてみた。彼女がいなくなって、まず私がしたことは割れたガラスの灰皿を片すことだった。指を切らないように、欠片を拾った。自傷のように、彼女にふられた腹いせに、欠片を握りしめてもいいかもしれない、と思ったが私は黙々と欠片を紙袋に入れた。そして匂いが残るシーツや布団カバーをゴミ袋に入れた。そうすれば彼女の痕跡などなくなって、あっさりしたものだな、と思って私はシーツのないマットレスの上に身体を横たえ眠った。そして休むはずだった日も出勤し、七日間がむしゃらに働き、さっき起きたところだった。私は土日に仕事を入れて彼女と都合を合わせたりしていたが、もうそんな必要もないと休みの前日に知ると私は慌てて出勤してもいいか上司に頼んだ。彼女がいない初めての休日は、もうすぐ終わる。私は小さなお皿に煙草を押し付けた。白い煙が線香の煙と似ていて、私はお葬式みたいだなあと思った。さようなら、さようならと思うが、煙はすぐになくなった。そして匂いだけが残る。彼女の香りが皮肉にもまるで包み込むように、私に纏ってくる。私は残り一九本ある煙草をゴミ箱を捨てて、窓を開けた。夜の色が濃くてもうすぐ朝が近いと思った。お風呂を沸かそう。ゆっくりと湯船に浸かって、髪を乾かしたらもう一回コンビニエンスストアに行って何か食べるものを買おう。コカ・コーラを一気飲みするのではなくて。きっとまた外に出る頃には太陽が昇ってくる。そのとき私はようやっと彼女の不在を認めて泣くことができるだろう。そしてありがとう、と思うこともできるだろう。私の身体を欲してくれてありがとう、と。


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