ジャスミンの花

 私は梨花さんのペットだ。

 梨花さんは真面目な勤め人だ。朝八時には家を出る。私は梨花さんのお仕事のあいだ何をするでもなく、惰眠を貪る。だいたい眠っている。そして夕方くらいに起きてコンビニエンスストアに行ってお菓子を買う。ご飯というものは私の考えの外にある。ご飯はいつも梨花さんが用意してくれる。だいたい梨花さんが帰ってくるのが夜九時から十時くらい。それから梨花さんが用意してくれたご飯をふたりで食べる。梨花さんは一日の終わりの儀式と言って、私の身体を隅から隅まで洗うことが好きだ。私の知らない国の知らない言葉が彫られている石鹸を惜しみなく使って、私の身体を洗う。梨花さんが触れるのはとても気持ちいいので、そのままに任せている。髪の毛を乾かしてもらって、梨花さんと一緒にまた眠る。梨花さんとセックスすることもあるけれど、それは私にとって大したことではなく、梨花さんが気持ちがいいのなら、それでいい、と思って、私はちょっとだけ頑張る。
 私が梨花さんのペットだということは、梨花さんとの日常で明々白々だ。なんら生産性に寄与していない自分を嘆けるほど頭が良いわけではなく、私はなんとなく日向ぼっこが好きな怠惰なヒト科の動物でしかない。来世は猫にでもなりたい。前世も猫だったかもしれないが。梨花さんは今日も一日、頑張ってお仕事をしているんだろうなあと思い、タオルケットに包まれて私は眠る。

「南の島に行きたいの」
 五月の始め、梨花さんが珍しくそう言った。梨花さんがそんなことを言うのは珍しい。梨花さんは無口だし、愛しあうときもほとんど声を上げない。あとは私にお腹空いてない? とか明日の買い物に付き合って、とか具体的かつ散文的なものだ。だから私は返答に窮した。
「バリでもモルディブでもいい。南の島に行きたいの」
 その口調は行きたい、というよりむしろ、絶対何が何でも行く、という梨花さんの強い意志が表れていた。
「私、パスポート持ってない」
 それが私にできた唯一の返答だった。
「それは困ったわねえ」
 ペットホテルにはお前は預けられないし、と困った顔をして梨花さんは言う。梨花さんは即断即決のひとである。買い物で迷っているところを私は見たことがない。
「だったら沖縄に行きましょう」
 梨花さんはスーツケースを取り出しながら、さっそく荷造りを始めたのだった。
 梨花さんはほとんど有給休暇に手をつけていなかった。それなりに地位にいるひとらしく、私には仕事の愚痴をこぼさなかったが、いつも張り詰めた雰囲気を纏っていた。だから長期休暇を取るのは大変だったようだ。休みを取れたのは七月に入ってからだった。
 私は旅行に行くまで何をしていたかと言うと、食べて、眠って、お風呂に入っていた。正直、旅行には気が進まなかったが、梨花さんがわがままを言うのが珍しかったので、私は唯々諾々と承知した。七月の沖縄なんて暑そうだし、台風も心配だし、私は気が進まなかったが、梨花さんがいなくては、私は生活ができない。洗濯機なんて使ったことないし、キャベツの値段も知らない。こんな人間を置いて、旅行に出かけたら、家は惨状を極めるだろう。私は暑いところが苦手だ。でも自分から何かをするということはもっと苦手だった。

 気づけば、七月半ばになり私はいつの間にか、沖縄行きのチケットを渡された。
「ちゃんと私の後についてくるのよ」
 梨花さんはそう言って、私を引率する学校の先生よろしく、私の荷物のパッキングもすべて行ってしまった。あとは当日、空港に行くだけという状態になって梨花さんのスマートフォンが震えた。梨花さんはそれに出て、眉根を寄せた。
「ねえ」
「なんですか」
「お前はひとりで飛行機に乗れる?」
 梨花さんの話を聞くと、なんてことはない、仕事の電話だった。とにかく至急、会社に来てくれ、拘束時間はそんなに長くないから、という内容だったらしい。
「私、梨花さんと一緒がいい」
 耳を垂らした犬のように乞うても、梨花さんは一度、決めたことは曲げない。
「ホテルの予約も日にちが移動できないし、飛行機のチケットを二枚、無駄にすることもないでしょう」
「なんか嫌な予感がするの。梨花さん、きっと飛行機が落ちるんだよ」
「お前はなにを変なこと言っているの」
 梨花さんは一笑に付すと、私の頭を撫ぜた。たった一日だけでしょうと、言うと、私はICカードを渡され、久しぶりに電車に乗ると、数時間後には空港に着いていた。
 久しぶりに電車に乗ったせいか、緊張して、飛行機のなかでは二時間、寝て過ごしてしまいあっという間に沖縄に着いた。
 沖縄は関東に比べ、じめじめとした湿気が少なかった。むしろ爽快な晴れ方をしていた。私は空港から出ると、梨花さんが用意してくれたお金と地図でタクシーに乗り、運転手さんにリゾート・ホテルの名を告げた。

 私は一年分の移動を終えたように、疲れてホテルのベッドに倒れ込んだ。でも頭は冴えて眠れない。パッキングを解き、今日のために梨花さんが買ってくれたワンピースに袖を通し、私はホテルのプライベート・ビーチに散歩に行った。高級ホテルということもあって、騒がしい子どもも居ず、大人な雰囲気が全体的に漂うホテルで、私みたいな小娘は居住まいが悪かった。海に出ればそんなもの関係ないと思った。
 プライベート・ビーチは七月と言っても、閑散として私にとっては好都合だった。潮風に乗って甘い、独特な匂いが鼻をくすぐった。私はその匂いに釣られるように、歩みを進めた。
「この花はなんていうんだろう」
 匂いの元と出くわし、思わずひとり言が漏れた。白い小さな花が満開に咲いていた。まるで花の洪水に襲われたかのような、異国を感じさせる小さな白い花。
「ジャスミンですよ」
 ホテルの従業員さんか、はたまた花屋さんか、白い花を摘んでいた。浅黒い肌は健康的に見えて、麦わら帽子から覗く白い歯とのコントラストを感じさせた。私は一瞬、梨花さんのことを忘れた。花を摘むそのひとは綺麗な女のひとだったからだ。
「あそこのホテルのお客さんですか?」
 私は黙って頷いた。ここはもうプライベート・ビーチじゃなくて私有地ですよ、と言われた。
「でも、素敵でしょう」
「こんなにたくさんのジャスミンの花、初めて見ました。綺麗です」
「ありがとう」
 笑顔はもっと素敵な女のひとだった。私は恋に落ちることは簡単なことだと知った。

 女のひと——史子さんの仕事上りの時間を聞いて、私はホテルに帰ってシャワーを浴びて、また新しい服に着替えた。ディナーをホテルのレストランでとることを提案したら、史子さんはええよ、と言って私を舞い上がらせた。私は恋の予感にうずうずとしていた。しかしバスルームから出ると、そんなことは忘れさせられた。梨花さんから電話が来たからだ。
「もしもし」
「梨花さん」
「寝てた?」
「ううん」
「明日の朝一の飛行機でそっちに着くから」
「梨花さん早く来てよ。私……」
「もう恋しくなっちゃった?」
「うん」
 私は梨花さんが居なくちゃ生きていけないのに。恋は嵐のように私のすべてを奪っていく。

「ワケありっぽいなあ」
 史子さんはディナーの席でそう言って、私を見つめた。
「何がですか?」
「高級ホテルでひとり。しかもその若さで。さては旅行前に彼氏にでもフラれた?」
「まあ、そんな感じです」
「ということは、正解ではないということか」
 メインディッシュのお皿も私はあまり手につかなかった。食欲と睡眠欲には自信があった私だけど、さすがに梨花さんに罪悪感を覚えた。
「史子さん」
「なに?」
「史子さんは恋、していますか?」
「しているよ」
「誰ですか?」
「きみ」
 私は飲めないワインを飲んで、顔が赤くなるのを誤魔化した。すごく嬉しい。でもそれを素直に表現するのは、今は躊躇われた。
「迷惑だった?」
 私は首を横に振り、史子さんの右手を握った。
 せっかくだから浜辺を歩きましょうと、史子さんに誘われた。史子さんは私の泊まっているホテルにお花を卸している花屋さんだった。よく焼けた肌は私と正反対で、オセロみたいだねえとふたりで笑った。夜のジャスミンの花畑は昼間以上によく香った。私たちは手を繋いで、ホテルの周辺を歩き、名残惜しく別れた。そして私は気がついた。つぎに会う約束をしなかったことを。

 翌朝、私は梨花さんを熱い抱擁で迎えた。梨花さんが好きなのにごめんなさい。恋に落ちちゃったのです、と告げる前に私は梨花さんを思いっきり抱いた。それはもう発情期の猫のような性急さだった。柔らかい肌は私に馴染んだシルクのスカーフのように絡まり、私の心に火傷を残す。
「どうしたの、お前?」
「梨花さん、ごめんなさい。恋しちゃいました」
「そっか」
「うん」
 裸で向かい合っている姿は滑稽極まりないが、私は全て打ち明けた。
「お前の嫌な予感がするって言うのは当たっていたね」
「ごめんなさい」
「いいよ。そのかわり」
「そのかわり?」
「ここに滞在している間、わたしをずっと抱いていて」
 快楽が痛みを呼び、また快楽に代わりそれが痛くて痛くて堪らず、また梨花さんの身体を貪った。あらゆる体液が混ざりながら、私はようやく梨花さんの身体の輪郭が分かった気がした。それは他人同士になる儀式だった。抱き合っていると四日間はあっという間に過ぎた。
「お前は本当にいい子だったよ」
「梨花さん、ありがとうございました」
「じゃあね、夏弥」
 そう言って梨花さんは五日目に東京へ帰っていった。

 私は史子さんのところへ走った。私は沖縄にとどまることを決めた。
「史子さん、私を雇ってください」
 そう言うと、史子さんは、夕食に誘ったときのように、ええよ、と言った。
「まだ下の名前を聞いとらんかったね。なんて言うの?」
「夏弥です。吉野夏弥。ついでに史子さんの恋人にしてください!」
 ついでって何や、と笑いながら史子さんは私の左手に指を絡めてきた。これから忙しいシーズンになるから、覚悟しときな、と言った。
 ジャスミンの花の香りは私にとって恋の嵐の香りだ。


 ジャスミン全般の花言葉は
「愛想のよい」「優美」「愛らしさ」「官能的」

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