シャッターチャンス

 飯島加絵の好きな物はミルクティ、チョコレートのマカロン、古文の授業にイギリスのロック。嫌いな物は数学。私はいつもあなたの後ろ姿を見つめていた。

 飯島加絵はクラスで悪目立ちするタイプだった。薄く茶に色づいた髪は細い絹ようで、私は朝のブラッシングが大変そうだなと思って見ていた。嫌いな数学の授業のときはひっそりと忍ばせたMP3プレイヤーでロックを聴いている。そんな飯島加絵の周りには友だちがたくさんいる。私は黒い髪を固く三つ編みにして、眼鏡を掛けているので、彼女との接点はほとんどない。それでも飯島加絵から目を離せないのは、ある放課後の教室でのことだった。

 委員会で遅くなった時だった。夜の帳が降りかけていた。そんな時間に私だけ残され、雑事が終わり、疲れて教室に戻った時だった。ドアを開けると、初夏の生温い風が一気に入り込み私は乱れた前髪を気にしながら、窓を開けっ放しにしたのは誰だろうと、教室を見まわした瞬間、飯島加絵の姿が目に入った。絹の髪が風になびかせながら窓辺で、か細い声で歌を歌っていた。
「She's running out again」
 私は黙って、飯島加絵の後ろ姿を見つめていた。その声があまりにも優しくて、まさしく天使みたいだったから。飯島加絵はきっとMP3プレイヤーをいつものごとく耳に入れ、音楽を聴いているんだろう。
「She's running out  She run run run run……run……」
 切ない甘いメロディだった。私はずっと飯島加絵の後ろ姿を見ていたかった。窓の外は太陽がこれでもかと赤く燃え、美しい夕日が広がっていた。そう飯島加絵はいるだけで絵になるひとなのだ。私はこの時間が永遠になればいいのに、と思った。そして風がまた入り込み、私は手にしていたプリントが風で飛ばされそうになり、物音を立ててしまった。飯島加絵は驚いたようにこっちを向いた。
「びっくりした。委員長か」
 MP3プレイヤーを耳から外し、恥ずかしそうに手で顔を覆った。何も見てなかったとは言い難い雰囲気になり、それでもなんて言ったらいいか分からず、とりあえずカバンのところまで歩いた。
「いつから見てたの?」
「彼女が逃げ出すってところから」
 飯島加絵はあちゃーと頭を抱えていた。逆光で顔は見えなかったが、私が歌詞の一部を訳して言うと、恥ずかしくて耐えられないような仕草を飯島加絵はした。
「すごく綺麗な声だったよ。飯島さん、歌手になるの?」
 私は大真面目に聞いた。
「委員長、私をからかっているの?」
 飯島加絵の声は怒気がこもっていた。
「私がジョークを言えるタイプだと思う?」
 ノンフレームの眼鏡のブリッジを押し上げて言うと、飯島加絵はぐっと押し黙った。そして、私の方を向かずに、ありがとう、と言った。
「夕日があまりにも綺麗で、歌いたくなっちゃった」
 照れながら言う、飯島加絵が可愛くて、私は微笑んだ。
「委員長もこっち来なよ」
 私のお気に入りの一曲を聴かせてあげる、と飯島加絵は言って私を教室の窓辺に招待した。私は飯島加絵の隣に来て、イヤホンを耳に差した。男性のヴォーカルが何か英語で歌っている。けれど、歌の内容は全く入って来ず、飯島加絵の心臓の音が聞こえそうで、私はなんだかドキドキしながら夕日が地平線に落ちるまで、音楽を聴いていた。

 私はそれから加絵とは少しずつ仲良くなった。やれ宿題を写させて、やれ課題が分からないと言って私のまわりを騒がしくした。私は何事もなかったように、それは幼い照れだった、加絵を上手くあしらった。
 そして授業のときいつも、そっと後ろ姿を見つめていた。加絵はしたいことしかしなかった。私にはそれが羨ましく、少しの妬みがあった。

「委員長、宿題が分からないんだよ」  いつもの通り委員会で遅くなった私に加絵は泣きついてきた。そして初夏はいつの間にか過ぎ、コートが必要な季節になっていた。放課後の教室はいつになく静かで、そして寒かった。
「加絵、たまには自分でやりなさい」
 えー、と言いながら私がカバンからノートを出すと、嬉しそうな顔をする。
「やっぱり頼りになるのは委員長だよ」
 私は疲れていたし、寒かった。とても寒くて、苛立っていた。
「私の名前は委員長じゃない!」
 加絵は驚いたように、私を見つめていた。
「知っているよ。みちる」
 私は自分の名前が嫌いだったし、名前を呼んで欲しかったわけではなかった。ただ加絵にとって委員長以上も以下もない存在が嫌だった。私は恥ずかしくなって泣いてしまった。
「どうしたんだよ、みちる」
 しょうがないね、と言って加絵は私に口づけた。
「びっくりして、涙が引っ込んだ?」
「うん」
 私は加絵に優しくされたかったのだ、とこの瞬間に分かった。
「加絵が、好き。加絵みたいに自由になりたい」
「なればいい。みちるの人生だもん」
 突き放した言い方だったが、そこには愛があった。お互いの信頼と尊敬があった。
「私もそろそろ本気を出さないとね、みちるがそうであるように」
 意味深にそう言って加絵は私に再びくちづけた。それは一瞬ではなく、長く甘いものだった。

 そして加絵は私の前から、学校からも姿を消した。

 加絵は歌手になると言って学校を辞めたらしい。稚拙な行動だと思った輩も多かったが、私は加絵のことを信じた。加絵ならなれる。そして私は変わった。
 髪をベリーショートにして、眼鏡はそのままだけど、写真を勉強したいと言って上京した。
 一流のカメラマンとは言い難いけれど、なりたいものにはなれた。私は自分の人生に恥じないということを加絵から教わった気がする。渋谷に行けば大きなポスターのなかに加絵を見つけることをできた。KAEは今や誰もが知るシンガーソングライターになっていた。私は夕日のなかシャッターをKAEのポスターに向かって切る。まだ納得がいく夕日の写真は撮れていない。だって加絵と一緒に見た夕日が一番きれいだったのだから。


 RADIOHEADのCreepの歌詞を一部引用させて頂きました。

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