>祈り

 この部屋からは星座すら見えない。

 窓を開ければむっとした空気が部屋に流れ込んでくる。私は手元にアイス・コーヒーを用意して、書類と本に埋もれた机の上のPCを起動する。頭の中は真っ白で、特に書くことなんてないけれど、とりあえずワード画面を開く。窓から夜の帳が降りかけの空を見ながら、私は息を長く吐いた。そして一気に文字をタイプし始めた。

「ねえ」
 マナがそう声をかけてきて、私は本から顔をあげた。
「こっち向いて」
 私は聞こえないふりをして、再び本に向き合った。
「もう、こっち向いて」
「はいはい」
 私は本を閉じて、マナを見つめた。大きな瞳に、切りそろえられた前髪が愛らしい。セーラーの夏服から伸びる白い腕は華奢で頼りない。そんな腕を引っ張って私はマナの身体を自分の腕の中へ抱きしめた。
「甘えたさんだなあ。マナは」
 マナの長い黒髪から漂う女の子独特の香る甘い香り。それは私しか知らない。そんな優越感が私を増長させる。私はマナの首すじに鼻を押し当てマナの匂いを堪能する。
「私、汗くさくない?」
「いい香りだよ」
 マナの身体は柔らかかった。私たちは夏期講習が終わったあと、最近はこうして過ごすことが多い。マナも私も夏を持て余していた。自分の輪郭がマナの手で再び与えられる快感は、たぶん、男の子からじゃえられない。男の子がどのように自分に触れるか、私は未経験だから分からないけれど。マナの柔らかく整えられた爪先でくすぐるように、さぐるようにされることは、私に息の仕方を教える。マナの手によって私は再び生き返るのだ。まるで水槽のなかで生きる熱帯魚のように、私はやっと泳ぐことができるのだ。
「気持ちがいい」
 ふふふ、と吐くような笑いがマナのくちびるからこぼれる。マナの手は真夏だというのに冷たい。私はマナの手を取って、私の熱い手のひらからマナへ熱が伝わる。
「温かいのね」
 指先を曲げてマナの手のひらをくすぐらせると、マナは声を上げて笑った。マナは手のひらが弱い。
「くすぐったい、止めて」
 マナは笑いながら、止めてと繰り返す。もう、止めてよ、と。そして笑い声が止まると、私はマナの視線とぶつかった。マナの濡れた瞳は甘そうで思わず舐めてしまった。
「こっちよ」
 マナはくちびるを少しだけ開き、私を誘った。赤い舌に誘われるように私はマナにくちづけた。それは蕩けるように甘く、そしてこのくちづけが呼び水になって私とマナは図書室の床に崩れ落ちた。

 私は真っ白なワード画面を見つめながら、ため息をついた。書いては消して書いては消してを繰り返していたら真っ白な画面が残っていた。そして煙草に火をつけた。締め切りは明日の一二時。どうにかして四〇〇〇字をでっち上げなくてはならない。私は煙草のけむりを吐きながら、イメージが浮かぶようにリラックスする。でも何も浮かんでこない。煙草が灰皿の上でひしゃげると、アイス・コーヒーを一気に飲んだ。グラスは汗をかき、氷はとうに溶けてしまっていた。時計を見ると、一時間しか経っていなかった。  高校二年生の私は人生というものを達観していた。パパとママが離婚して、愛は冷めるものだと知っていたし、個性が大事と言いながら、寸分の差異も許さない同級生には諦めに近い感情を抱いていた。勉強が疎かにならない程度に本を読んでみたりはしているけれど、私の未来は灰色を纏っていて、ドラマティックなことなど起こるはずもないと分かっていた。私はそういう可愛くない子どもだった。
 紺色の重苦しいセーラー服から白く紺のラインが入った夏服になる頃、私はマナと初めて声を交わした。マナはどちらかというと派手なグループに属していて、広い交友関係も制服の着崩し方も薄っすらとした化粧も、私には関係のないひとだと決めつけていた。マナは図書館の海外文学の棚に立っていた。私はマナの黒髪に見惚れながら、遠巻きに受付に座って本を読んでいた。
「ハインラインの『夏への扉』って置いてある?」
マナは受け付けにいる私に向かって大きな目をぱちくりさせながら、私に尋ねてきた。
「ハインライン?」
「そう。ロバート・A・ハインライン」
 私はマナにどこか反発心を持って、訝しげに本棚を眺めた。こういう人でも本を読むのだなということと私の知らない作家を挙げられ、自分の小さなでも特別な自尊心が傷つけられる思いをした。
「私なんかが本を読むのは、変?」
 マナは悪戯っぽく笑ってみせて、私は顔に熱が集まり、頬が上気するのを感じた。
「ううん」
 私は一所懸命に平静を装って、マナから視線をずらした。
「出版社とかジャンルとか分かれば探しやすいんだけどね」
 知っている? 私は顔を見ずにマナに尋ねた。
「文庫で、SF」
「じゃあここには置いていないね。こっちに来て。案内するよ」
 さっきの失礼を詫びるように、丁寧に私はマナを海外文庫が置いてある棚に誘った。私は文庫の背表紙を見つめながら、ハインラインの『夏への扉』を探した。
「あ、これだ」
「すごいね。書棚の位置、覚えているなんて」
「図書委員だから……」
 私の学校に司書の先生はいない。図書室も五階の空き教室を利用して作られたものだった。古い本ばかりでつまらないと不評だが、私は好きだった。古書の独特の匂いに囲まれ、今まで誰も借りたことのない昭和文学全集を卒業までに制覇するのが、私の目標だった。
「ねえ」
 緊張で私は声が上ずってしまった。
「読み終わったら、私も読んでみたいんだ」
「『夏への扉』?」
「うん」
 マナは形相を崩し、笑った。
「きっと面白いはずだよ!」
 マナはありがとう、と付け加えて図書室を去って行った。私の心は高校に入って初めて、躍った。

 締め切りのデッドラインはきっとまだ先なのに、私は律儀に明日の一二時のことを机の前で想像した。徹夜で脱稿してきっと肌もぼろぼろで、でも達成感がある。ミントの入浴剤を入れてゆっくり半身浴をする。私は自己催眠をかけようとしている。催眠を邪魔するのはお風呂場のカビだ。先週は鍋を磨いていた。原稿に行き詰まると、テスト前の中学生のように私は無心に掃除をするのが癖になっていた。おかげで書斎兼寝室以外は綺麗なものだ。私は溜め息を一つ残し、机の前を離れた。

「マナ! やっとテストが終わったね」
「でも一週間の休みが終わったら、また夏期講習で夏休みほとんど潰れちゃうよ」
 私とマナは七月の期末テストが終わると、すっかり仲が良くなっていた。マナが好きなものはクールミントのガムに意外とも思われる古いSF小説たち。図書室にサンリオ文庫があるとぴょんぴょんと飛び跳ねて、その希少価値を私に説き、喜んだ。マナは派手な外見だったけれど、SF少女だった。
「お父さんに図書室の使い方、覚えなさいって言われて。お父さんの蔵書は勝手に持ち出しちゃいけないし。図書室なら静かに読めるじゃん、友だちに邪魔されず。でね、昔、お父さんが読み聞かせてくれた、ハイラインの『夏の扉』をもう一回読んでみようと思ったんだ。そしたら『ゲド戦記』読んでたでしょう、私なんかライバル心が燃えちゃって」
 確かに私はマナが初めて図書室に現れたとき、私はアーシュラ・K・ル・グィンのファンタジー小説、『ゲド戦記』の二巻の「こわれた腕輪」を読んでいた。私はル・グィンがSF小説を書いていたことを後に知ることになった。
「なんかさ、嬉しいよね。友だちのみんなは本読むことなんてダサイくらいにしか思ってないけど」
「私は友だちじゃないの?」
 マナはきょとんとした目をして首を縦に振った。その動作に私は少し落胆した。
「友だち以上にスペシャルなひと」
 その一言で、私はくすぐったい気持ちにさせられ、はにかんで見せた。マナは天真爛漫で誰にでも好かれた。私はどちらかというと誰にも心を明け渡すことができなかった。マナの天真爛漫さの陰にも、誰にも見せられない部分があった。それを私とマナふたりで分け合った。まるで知恵の実である林檎をふたりで食べるような、秘密の園が、図書室にあった。
 親しくなるのにさほど時間はかからなかった。マナは人の心の柔らかい襞の存在を知っていた。その襞のなかで埋もれ、でもしっかりとした存在感を発揮する。私はマナが好きになっていた。
「今年の夏もなにもなかった」
 マナは夏期講習が終わった放課後の図書館で、目線を私に向けずそううそぶいた。口を尖らして、つまらないという表情を私に見せた。こんな幼い表情は教室では見ることができない。
「私もなにもなかったよ」
 励ましにはならないか、と付け加えると、マナは悪戯っぽく笑った。
「ねえ。特別なこと、しようよ」
「特別って?」
 私は聞き返すと、マナが上体を乗り出し、私の顔を覗き込んだ。
「キス、とか」
「ダメ」
 なんで? とマナが聞き返すので、私は目線を床に向けた。
「特別なひととしかしたくない」
 今どきキスのひとつやふたつ、好きやら惚れているやらで振り回される自分が、私は恥ずかしかった。
「頬を赤らめちゃって、可愛い」
 マナが私の髪に触れた。私は視線を落したままだった。
「じゃあ特別なひとに、ならないとね」
 それって、私が聞き返そうと目線をあげると、マナは彼女の柔らかいそれで、すかさず私のくちびるを奪った。
 そのとき図書館の窓からひゅーっと音がし、爆発音が響いた。その閃光に私たちは驚いた。
「花火だ」
 デスクライトしか光っていない図書館ではフラッシュのように花火の光が眩しかった。
「初ちゅーが花火の咲く瞬間って、ロマンティックだね」
 初めてなの? と私が問うと、マナは首を縦に振った。
「えへへ」
 マナは恥ずかしそうに、頭を掻いた。
「マナ、一瞬すぎて分からなかったよ」
 だからもう一度、と私はマナにくちづけた。そのくちづけは甘く、柔らかくて、私もマナも夢中になった。花火は私たちを祝福する向日葵のように咲き誇っては、散っていく。実は花火なんてよく見ていなくて、でも私はマナが特別なひとになったということが嬉しくて何度もくちづけた。
 その日、私たちは花火の数だけキスをした。

 私はお風呂掃除が終わると、PC画面だけが光る暗い自室に戻った。汗だくになりながらの掃除は運動不足の私にはちょうど良かった。
 そしてあの日と同じように私の部屋に爆音が響いて、閃光が走る。その美しさに私は息をつめた。
「マナ」
 ふと漏れた一言だった。私はマナのことを忘れようとした。でもマナのことは忘れられなかった。マナがそこにいなくなっても、私はマナへ投げかける言葉を止めようがなかった。マナ、私はこうして元気にしているのよ。まるで祈るような気持ちでマナへの言葉を紡ぐ。マナ、あなたは元気にしている? と。

 私とマナとの関係が大人たちに分かってしまうのに時間はかからなかった。図書館での何回目かの逢瀬で警備員に見つかり、私たちは引き裂かれ「不純同性交遊」とレッテルを張られた。私とマナはお互いを求めあっただけなのに、それのどこが「不純」なのか私には未だに分からない。
 マナと最後に会ったのは、校長から理由を聞く席だった。私はマナが好きで、マナを誘ったのは自分だ、と主張した。ママは悲しんだけれど、それが最善の策だと当時の私は思った。マナは終始、口を閉じたままだった。それがマナの両親が望んだことだと、私には勘が働いた。私だけに処分が下ったあと、去り際に「キョウコ、ごめん」と一言いい、マナは泣いていた。
 そのあとのことはあまり思い出したくない。ママは私を一か月間、外に出さず、いつも泣いてばかりだった。私は逃げるように私立の女子校に通うことになり、ひたすら勉強と読書だけして過ごした。成績はみるみる上ったが、私の気持ちはいつも冴えなかった。マナがいない世界は灰色だった。それなりの大学に入って私は悟った。もう二度とマナには会えないということを。私は書くことも始めた。それはマナへの祈りだった。マナ、あなたが幸せにすごせていますように。たとえ届かずに終わっても私にはそれでよかった。私には祈ることしかできないのだから。だから、どうか、どうかと言い聞かせ私はPCに向かっていることを思いだしたのだ。
 私は泣きながらタイピングをする。締め切りが明日の一二時だからではない。それが切なく儚い努力だと知っているからだ。まるで花火のように一瞬だけ伝わる想いの熱量を私はキーボードに叩きつける。そして私は祈ることができて幸せだと、知る。

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