みかんの缶づめ

 ささやかな行き違いから彼女と喧嘩をした。その翌日に風邪を引いた。踏んだり蹴ったりだな、と私は思いながら、レトルトパックのおかゆを温める。熱のせいで嫌なことばかり頭に浮かぶ。まず仕事に穴をあけてしまったこと、そして喧嘩のこと、部屋が汚いこと、東京の片隅から世界を呪っている。絶対、バスの中で咳をしていたオヤジのせいだ、と心のなかで口汚く罵りながら。
 聡子さんは私をまだ子どもと思っている。いつも諭すような口ぶりで私に物を言う。特に仕事の意識に関しては厳しい。聡子さんみたいなバリバリの管理職のひとにとっては、卑屈な気持ちになってしまったのが喧嘩の原因でもある。私が全て悪いんだ。世界を恨む気持ちが自分に反転して、私は自己嫌悪に陥った。でも、という言葉が私のなかで生まれる。私だって一応、社会人だし、それなりに意識を持って仕事をしている。そんな子ども扱いしないでよ、聡子さん。私だって、もう大人なんだから。

 おかゆを食べて、薬を嚥下し、冷えピタを張り替える。さて寝ようというところで携帯電話が震えた。メールは聡子さんからだった。昨日の喧嘩の謝罪だった。大人げなかった、ごめん、会いに行っていい? という言葉が液晶画面で踊っているように見える。私は簡潔に風邪ひいたから来ないで、とメールを返した。

 聡子さんのずるいところは最初に謝ってしまうところ。私だって謝りたいのに、絶妙なタイミングで謝罪してくるのだ。ああ、もう、と私は携帯電話を投げた。煩雑なことなど考えてはいられない。寝て忘れようと思うと睡魔がすぐにやってきて意識はすぐに落ちた。

 普段、使わない台所から音がすると思うと、目がはっきりと覚めた。聡子さんが来ているのだ、と分かると、起きていたとき考えていたことがしっかりと思い出されてきて、私はばつが悪かった。
「聡子さん」
 弱々しく彼女の名前を呼んだ。
「千春、中華粥できたよ。食べられそう?」
 台所から聡子さんが現れて私はマスクをした。聡子さんに風邪を移したくないからでもあった。
「みかんの缶づめが食べたい」
 ちょっと我儘を言ってもいいじゃないか、と私は思った。だって今日一日ずっと聡子さんのことばかり考えていたのだから。
「買ってきたわよ。あと桃缶でしょ、アイスクリーム、ヨーグルト。各種、取り揃えていますよ。お客さん」
 おどけるように聡子さんは言って私は笑ってしまった。
「ありがとうございます」
「思ったより元気そうで良かったわ」
 ふっと聡子さんが微笑むと、私は完敗だと思った。この微笑みのためなら全てを許してしまえる。根っからの聡子さん好きだということを。
「風邪だもん。寝てれば治るよ」
 心とは裏腹に私はわざとつれないふりをしてみる。
「私はすごく心配したわ」
 喧嘩の後だったし、と言う聡子さんはやっぱり抱きしめたくなるほど愛おしくて、演技しているのが馬鹿馬鹿しくなった。
「聡子さん、ありがとう。本当は心細かった」
 私は聡子さんの細い肩を抱きしめた。なりふりなんて構ってらんない。だって風邪なんだだもん。聡子さんの手が私に柔らかく触れると、私たちは長い間、抱擁をしていた。

「聡子さんに自己管理が甘いって怒られるかもしれないって思った」
「私もそこまで鬼じゃないわよ」
 風邪っていうのは引くときは引くのだから、と聡子さんは笑いながら、みかんの缶詰を一緒に食べている。甘く冷たい缶づめのみかんはつるつると喉から胃に滑り落ちる。風邪のときのみかんの缶づめはやっぱり愛の味がする。


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#創作版深夜の真剣文字書き60分一本勝負 さまから 2/1「フリーお題」から「風邪」を頂きました。

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