待つこと。

「先生、大人になれば楽になりますか?」
 茜色に染まる教室で、生徒の山岸が水晶のように透明な瞳をして、言った。

「大人になりたいなら、まず反省文を書きなさい」
 私は山岸に押し付けるように作文用の原稿用紙を彼女の前に進めた。山岸は一向に反省文を書こうとしないからだ。
「反省していないことは、書けません」
 屈託なく山岸は肩をすくめるので、私は大人気なく苛立ってしまう。
「山岸、友達を打ったことは良くないことだよ。大人になりたいなら処世術を身につけなさい」
 私は溜め息まじりにそう言うと、山岸はペンを持って反省文の前で唸った。
「私はあいつのこと友達だとは思っていないんだけどなあ」
「暴力は良くないでしょ?」
「言葉の暴力ってあるでしょ、内田先生」
 絶対にあいつは許さないと山岸は息を巻いた。年頃の少女は、なぜこうも移ろいやすいのだろうか、と私は思い、自分の高校時代を思い出そうとしていた。憧れていた先輩がいたけれど、彼女はいま何をしているだろうか? 歳も三十過ぎれば十代のときのことなどなかなか思い出す機会もない。
 私が窓の外を見ていると、山岸はつまらなそうにシャープペンシルを手のなかで回していた。私は気まずくなり、山岸に早く反省文を書くように手で促した。それでも山岸は書こうとしない。そんなことを繰り返しているうちに下校の放送が鳴った。
「山岸。書けるまで毎日、居残りだよ」
「はーい」
 気の抜けた返事が返ってきて、私は力なく肩を落とすのだった。

 駐車場で携帯電話が震えた。今どこ? と短いチャットだったのであと十五分で帰る、と送り返した。とにかく私は早く帰って休みたかった。
「ただいま」
 明りのついたアパートに戻ると、同僚で恋人の峰谷がキッチンに立っていた。
「おかえり、いま最後の仕上げ、しちゃうね。今日は鍋だよ」
「ありがとう、助かるわ」
 私はコートを脱ぎ、部屋着に着替えるとダイニングに向かった。
「山岸の件で居残ってたんでしょ? いい子なんだけどなあ、山岸。生物の授業は意欲的で模試の成績もいいけど」
 山岸って大人びた印象だから、何か内に抱えてなければいいけど、と峰谷は言う。
「職員室でも山岸の件で持ち切りだったわけね。授業態度もいいし、成績も、まあ、良い方ね。逆に出来すぎると色々、反感を買うところもあると思うのよね」
 私は鍋敷きと取り皿などをテーブルの上に置いた。
「多感な生徒を持つと苦労するわね」
「そうね、あ、ビール飲む?」
 冷蔵庫を開くと、私はビール缶を取り出した。花の金曜日に恋人と鍋をつつく。平凡だけれども愛おしい日だ。
「ごめん、今日はご飯食べたら帰るわ」
「いいのよ。ごめんね、夕飯の用意、全然、手伝えなくって」
「気にしないで。私のほうこそ今日泊まれなくて残念」
 鍋、行くから気をつけてね、と峰谷は手にミトンをはめた。

 私と峰谷は温かい蒸気があがる鍋をつつきながら、話を続けた。
「正直、山岸みたいな生徒は手に余るわ」
「そう? 物分かりの良さそうな子だけれども」
 私は山岸が全く反省文を書こうとしないことを峰谷に話した。
「それは悩ましいね」
 缶を傾けながら、悩ましい少女に週明けからまた付き合わなければならないということに、私は鬱陶しさを感じた。そしてその憂鬱は既視感があったのだ。しかしなぜ既視感があるか思い出せずにいて、さらに苛々とするのだった。
「まあ十代なんてそんなもんでしょう」
「そうね。ねえ、峰谷。今日、泊まっててよ」
 ビールの酔いが回って媚びるような声を私は出した。峰谷の肌をずいぶんと触っていないような気がした。峰谷に甘えたかった。そしてこんな苛々を吹き飛ばしたかった。
「ごめんね。そうしたいのは山々なんだけど小テストの採点をしなくちゃいけないんだ」
 峰谷はすまなそうに言うので、私はしょうがない、TVでも観てヒマを潰すか、と思った。峰谷が最近、少し遠く感じることを不安に思った。そしてそれを忘れるようにもう一本とビールを飲むのだった。

「先生、なに黄昏ているんですか?」
 気が付くと、山岸は、まるで反省文などないように、優雅に文庫本をめくっていた。
「これは没収」
 私は山岸から本を取り上げた。背表紙を確認すると、『うたかたの日々』と書いてあった。ますます侮れない生徒である、と私は思った。
「せっかくの下校時間までのヒマつぶしだったのになあ」
「ヒマなら反省文を書きなさい」
「だから、反省していないことは書けないってばー」
「いい? あんたはいま反省しなくちゃいけないの。とりあえずカタチだけでも反省しなさい。そっちの方が楽よ」
「私は楽、したくないです」
 その声はあまりにも芯が通っていて、私は怒る気になれなかった。
「下校時間までまだあるから座って反省してなさい」
「はあい」
 間の抜けた返事に、山岸には頭ごなしに言っても無駄だと悟った。
「山岸はなんで友達を殴ったりしたの?」
 私は窓の外を見ながら、つい口に出してしまった。
「あんなやつ、友達じゃ、ありません」
 苦しそうな声を上げて山岸は答えた。私が山岸のほうを見ると、彼女の目には怒りが宿っていた。怒り、挑発、苦痛、そんな感情が燃え上がる瞳をしていた。
「内田先生は好きなひといる?」
「いるよ、一応」
「一応っていうのに引っかかりを覚えるけど、好きなひとを悪く言われたら怒るでしょう?」
「そうだね」
「そういうことです」
 つまりは、と私は思った。好きなひとを揶揄われたのが悔しくて、怒って、友達に暴力を振るったということか。私は合点がいった。目の前にいるのは。情熱に身を費やす、可愛らしいただの女子高生なのだ。
「どんな恋をしているの」
「内田先生には関係のないことです」
 頬を赤らめ、恥ずかしそうに目を伏せる山岸は、抱きしめてやりたいくらいに、愛おしかった。
「山岸はどんな人が好きなの?」
「年上の女性です」
 即答した山岸の表情は清水のように澄んでいて、私は何も言えなくなった。

 下校の放送が流れると、内田先生さようなら、と言って山岸は姿を消した。私はどっと疲れが出て、早く帰ろうと教室を後にした。
「おかえり、内田」
「ただいま」
 疲れを隠そうとしない私を心配してか、峰谷は夕食の席で事情を問いただした。
「山岸がね、そうだったなんて」
「峰谷は気づいた?」
 私は山岸のことを、鍋を突きながら打ち明けた。
「全然。生徒のセクシュアリティなんて興味ないもん」
「だよね。これが性同一性障害とかだったら、ホーム・ルームを開くかもしれないけど」
 あ、ビール飲む? と私は手に持っていた缶を傾けた。
「今日はいい。内田に話があるんだ」
 改まって何よ、と私は笑ったが峰谷は笑っていなかった。
「結婚することにした」
 私は峰谷の言葉に耳を疑った。
「え?」
「結婚することにしたんだって。何度も言わせないで」
 私と峰谷は、今や過去形になりつつあるが、恋人同士のはずだ。
「相手は誰?」
「内田が知らない人」
「そっかあ」
 峰谷が何か喋っているけれどよく聞き取れない。親がどうとか、色々と饒舌になっているけれど、私はただ黙ったまま聞いていた。
「おめでとう。幸せになってね」
 そして唯一出てきた言葉がこれだけだった。

 翌朝の職員会議では峰谷の婚約が発表された。今日の授業は身が入らなかった。ぼーっとして数式の途中式を何問も間違えて、内田先生しっかりしてください、と生徒に言われた。若くもない、かといって歳を取っていると言うには若すぎる。こういう時期を結婚適齢期と言うのだろうか。そして峰谷の結婚を心から祝えるほど私は大人ではないのだ。山岸みたいに私は峰谷を打ってしまいたかった。そして私は気が付いた。そして放課後の学校を走った。
 教室には電気も点けず、山岸が座っていた。
「山岸」
 私は声をかけたが、返事はなかった。
「山岸」
 もう一度、声をかけて、山岸の肩を叩いた。
「わ、先生か。びっくりした」
 山岸はイヤフォンを外し、MP3プレイヤーを止めた。
「今日は居残りなしだったんですか? 私ずっと内田先生のこと待っていたのに」
 山岸は膨れた顔をしてみせると、私は油断していたのか笑ってしまい、その後、涙が湧いてきた。
「先生、大丈夫?」
 山岸の声があまりにも優しいので、私は嗚咽してしまった。山岸はびっくりした顔をしていたが、私があまりに泣くので、無言で私の手の甲にそれを重ねた。
 泣いてすっきりすると、気恥ずかしさが残る。山岸が手に余ると思ったのは、あまりに自分の高校時代と似ていたからだ。
「山岸は大人になれば楽になるかって聞いたよね?」
「はい」
 神妙にしている山岸が愛おしかった。
「大人になると諦めることが簡単になるんだよ」
「でも、先生は泣いていた」
「そうだね。でも、山岸みたいな食ってかかってしなかった」
 私は本当はどうすれば良かったかなんて、分からなかった。でも峰谷の幸せは祈っている。
「内田先生の好きなひとって峰谷先生なんでしょう?」
 山岸の質問に曖昧に笑った。
「だって内田先生の峰谷先生を見るときの瞳、いつも潤んでいる。まるで恋しているみたいに」
 私は末恐ろしい子どもだな、と思った。もしかするともう子どもじゃないのかもしれない。
「峰谷先生なんてやめて、私にしなよ」
 山岸はそう言って生徒用に座って対面している私にキスをした。
「山岸!」
「ゆっくりでいいよ、考えておいて」
 そう言って山岸は教室を出た。次の日、朝のホーム・ルームに私が行くと教壇の上に山岸の反省文が置かれていた。

 三か月後、私はホテルの教会にいた。峰谷はご丁寧に学年の学級委員すべてに招待状を出していたらしい。そのなかに山岸がいた。
「内田先生、今日も綺麗ですね」
 私はお気に入りの青いドレスを着ていた。
「おべっかはいらないよ。それより峰谷先生を褒めなさい」
 しかし山岸に褒められて、悪い気はしなかった。
「久しぶりに喋っているのに、内田先生は可愛くないなあ」
 あれから山岸とはほとんど話していなかった。山岸も無駄に声をかけてくることはなかった。
「生徒に可愛いと思われてたまるかって」
 私は笑いながら、シャンペンを飲む。
「でも悪い気はしないでしょう?」
 先生、嬉しそうだもん、と生意気にも言う。
「山岸、ゆっくり大人になりなさい」
 私がそう言うと山岸はきょとんとした顔をした。山岸は素敵な大人になるだろう。だからこそ無理はして欲しくない。そしてそれまでに私はもっといい女にならなくてはいけない。
「今に見てて。内田先生が振り向きたくなる女になるから」
 息巻く山岸に私は微笑んだ。
「楽しみにしているよ」

Page Top
inserted by FC2 system