海だけが知っている

 被害は洋服四着と食器十二枚に窓ガラス一枚。破壊されたものたちを見渡して、私たちは別れることにした。

 夜の海を見たいと言ったのは志奈子のほうだった。綺麗な別れ方をしたい、と。ふたりで笑い、泣き、怒ったベッドから抜け出して、揺り籠であり戦場であった部屋を後にして、ただ静かに凪いだ海を見るために車を出した。それが午前の三時半だった。

「別に大したことじゃないわ」
「そうね」
 志奈子の言葉に私は頷くしかなかった。私も志奈子は疲れ切っていた。愛するということに。私たちは誠実であろうとして愚かな過ちを起こしてしまう、ただの人間であった。諍いは日々エスカレートしていって絶望的に分かり合えないことを実感した。
 同じ人間だから。同じ女だから。同じ看護師だから。分かりあえるということを過信していた。そして本当に身を投げ打って恋をすると、ここまで惨めになれるのかとも実感した。
「何か音楽をかけない?」
「大したCDはないけれど」
 私はハンドルを片手で握りながら脇に置いてあるCDを適当にかけた。懐かしいメロディは典型的なラヴソングで無条件の愛を歌っている。助手席に座っていた志奈子は無言でCDを取り出した。私が昔この曲は私たちのことを歌っているね、と言ったことを思い出したのだろうか、と思った。カー・ステレオからはDJが無駄話をしているようなAMラジオが流れている。

 ただ抱き合えば、すべてが許される時期はとっくの昔に過ぎていた。甘い睦言も、柔らかな肌も、いじわるな指も、すべて日常という波に飲まれて、私たちは呆然としていた。
 海に着くと、潮風が思ったより強く、肌寒かった。私たちは車から降りて、波うち際をふたり並んで歩くことにした。私はなんとなく手持無沙汰になって煙草に火をつけた。志奈子も私にならって煙草に火をつけようとしたが、なかなかつかない。
「はい」
 私は自分の煙草を差し出すと、志奈子はそれで火をつけた。志奈子も私も無言で歩いた。思い返さないことはなかった。初めてキスした日、抱き合った日。そして同棲を決めた日。志奈子も私も明るい未来が私たちの前に横たわっていると、信じて疑わなかった。私たちは盲信していた。その日こそが私たちにとって明るかったことを忘れていた。幸せは瞬間なのだ、と私は思った。
「私たち、努力したわよね」
「うん。努力した」
 溺れる日々をなんとかやり過ごそうと、私たちは懸命だった。もがけばもがくほど溺れていく日常をやりすごした。それは誰からも否定されたくない。しかし私たちは溺れる者同士だったということを言われたら否定できないだろう。私は苦しくて、この苦しみを志奈子にも味あわせたいと思ったのも事実だった。
「志奈子、朝日が見えるよ」
 腕時計を確認すると四時二十分を少し過ぎたところだった。志奈子も足を止めて、朝日が昇る瞬間を見つめた。私も志奈子もただ海を見つめていた。愚かしいと笑われるかもしれないけれど、それでも志奈子が好きだった。
「好き」
 志奈子が朝日を見つめながらそう言う横顔に、私はゆっくりと手を握ってあげることしかできなかった。志奈子は泣いていた。握り返してこないその手に私は怒る気になれなかった。ただこれからの志奈子のいない長い年月に想いを馳せた。くだらない喧嘩すらできない日々に私は耐えられそうになかった。それでも私はひとりでいなければならなかった。身を切るような想いもいつか忘れてしまう。そのことすら怖かった。志奈子と私は眼前に広がる未来に立ち竦み、すべては海だけが知っていた。

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