ママの恋人

 それはまさしく青天の霹靂だった。
「ママね、恋人が出来たの」
 朝食のダイニングルームでママにそう打ち明けられた私は、入れたてのカフェオレで火傷するところだった。私はママへどんな返事をしたか、高校へ行く道程すら覚えていなかった。

「へー、ママさん恋人が出来たんだ。おめでとう」
「めでたくねーよ。朝から気分、最悪」
 唯一、打ち明けられる親友の南は暢気にメロンパンを食べている。私はママが作ったお弁当を食べる気がせず、フォークを持て余していた。
「才色兼備、眉目秀麗、この高校きっての才媛がまさかマザコンだとはねえ。誰も知らないことを知っているっていうのは面白いことだね」
「私が美しいこと、頭が良いことは今、関係ない。問題はママの恋人だよ。縊り殺してやりたい」
「ゴーマン」
 南は冷めた目で私を見たが、私は頭に血が上って未だ見ぬ憎きママの恋人を想像した。
 小学生のころ、パパが死んだ。パパはたくさんの遺産を残してくれたけれど、ママは泣いて過ごしてばかりいた。そして私に縋るように言った。「ママには茉里しかいないの。だからね、ふたりで頑張って生きて行こうね」と。私の手を包んだママの細くなった手は弱々しく、子どもながらにこのままではいけないと思った。まずは料理から始めた。ママは私の作ったお粥を涙しながら食べてくれた。それは私が初めて食事を作った感動で泣き始めたわけではなく、パパの不在を嘆くものだと私は知っていた。しばらく私はママと一緒に眠った。私は子どもだったけれど、ママをひとりにしたらどんな恐ろしいことになるか、分かっていたからだ。だから私はパパの代わりとして賢く、頼れる存在にならなくてはならなかった。たった十一歳で。私の子ども時代はパパの死んだときに終わってしまったのだ。
「どんなひとなの? ママさん恋人は」
「知らない」
 確か写真を見せられた気がするけれど、ママの恋人なんてどうせ遺産目当ての馬の骨と私は高を括っている。そういう輩は今までいなかったわけではない。ママはおっとりとしていて、まるで社会の汚さを知らない天上のひとだから、私はそういう男どもを蹴散らしてきた。私はママの騎士であり、ママを煩わせる者は排除してきた。ママは気になるひとが出来るとすぐ、私に言って来た。このひとはネクタイのセンスがいい、このひとはウィットに富んでいる。でも私がそれなりの「手切れ金」を渡せばさっさと離れて行った。男というのは愚かしい生き物だ。そこに付け込めば私の勝利だった。ママの恋人になるのは私の許可が必要だった。しかしママは恋人を作った。私の許しもなく。それがどうしても腹立たしい。
「午後の授業サボるわ」
「珍しい。これは不良のはじまりかな」
 平均点下がって嬉しいわ、と南は言った。
「違う。ママの恋人とのホテルで会食だから、一回、家に帰らないと」
 南はつまらなそうに大きな欠伸をした。

 会食はママのお気に入りのPホテルのフランス料理のお店だった。私はAラインの灰色のワンピースに身を包んだ。ママは私が不機嫌のオーラを発しているのに気を使ってか、恋人の話はしなかった。私に男の紹介が遅れた引け目もあるのだろう。ママは珍しく着物を着ている。その鮮やかな染物は、振袖ではないにしろ、ママが恋をしているということを発信していた。テーブルに着いてメニューをぱらぱら見ていると、ママの表情が一瞬パッと華やいだ。私はその瞬間を見逃さなかった。
「敦さん」
 スーツを着た男はママの椅子に手を掛けた。
「鏡子さん、今日もお綺麗ですね」
 ただこれだけの会話なのにふたりの間には濃密な空気を醸し出し、私は拒否反応を示す目眩で倒れそうになった。
「私の自慢の娘の茉里よ。茉里、こちら敦さん」
 私は気丈に、余裕の笑みさえ浮かべて、ママの恋人に挨拶をした。しかし私はママに気がつかれないように男に睨むと、男は一瞬ひるいだが、私を嘲るように笑った。気にくわない。この男のイタリア製のスーツも行き届いたテーブルマナーも。私の大好きなフォアグラ和牛フィレステーキも砂を噛むようなものだった。

「敦さん、素敵なひとでしょう」
 家に帰るタクシーのなかでママは極上の笑みを浮かべていた。
「まあね」
 私は隣のママを見ず、車窓に流れる外の風景をぼんやりと眺めていた。ママの恋人は豪奢な食事にも慣れていて、ワインのテイスティングも手抜かりなくこなし、ママの目を奪った。ママは恋する乙女のように瞳を濡らし、男を見つめていた。今までの男は私の前ではボロを出すものだが、ママの恋人は余裕の笑みさえ浮かべていた。そして食事をさも優雅に美味しそうに食べ、ワインの香りすら楽しんでいた。うさんくさい、と私はあの男の鼻を折ることしか考えていなかった。

 翌日、学校で放課後、ちょっとした波紋が広がった。私の通っている高校は保守的な女子校で些細な出来事がすぐ広まる。どうやら外国車が校門に止まっているらしい。
「それがね、フェラーリなのよ」
「ダンディな殿方が運転席に座っていらしたわ」
「どなたかお待ちなのかしら」
 私はそんなお喋りをBGMに家へ帰る支度をしていた。明日のリーディングはまだ訳が終わっていないので、テキストを鞄に入れている時だった。
「茉里、あんたにお客さん」
 南がそう言うので私は教室の外を見たが、それらしき人はいない。
「そっちじゃなくて、あっち」
 そう南が親指で指したのは窓の外の校門だった。私は血が引いた。まさか、といつの間にか声に出ていたらしい。
「そのまさか。すごく格好良いひとじゃない、ママさんの恋人」
 私はリーディングのテキストを乱暴に鞄に入れて、教室から走り去った。途中で先生に注意されたが、そんなことを構っている暇はなかった。
 真っ赤な外国車は女子校前に停めるにはあまりにも目立ち過ぎていた。
「茉里ちゃん」
 運転手が男性であればなおのこと。私はサングラスをした男にすぐ車を出すように促し、助手席に滑り込んだ。
「いや、女子校で女の子を待つのは気恥ずかしいね」
「明日には噂になっています。いい迷惑です」
「それは失敬。でも茉里ちゃんは僕のことを避けているでしょ?」
 こうしないと会えないと思って、と男が言うと、私は聞こえるように舌打ちをした。
「良家の子女の態度じゃないなあ」
 ママの恋人は困ったように頭を掻いた。
「ポンコツの戦車を作っていた車会社と黒眼鏡をしている男は信用するなって父に言われましたら」
「車は変えることができないけれど、サングラスは外すよ」
 そう言って男は律儀に片手でサングラスを外した。
「ところで何の御用ですか?」
 私は白々しく男に問うた。
「僕と君の親睦会をしようと思ってね。君はすごい顔で僕を睨むし、会食のときもほとんど鏡子さんと僕で話していたからね。君のママは了承済みだよ」
「その親睦会とやらはどこでするんですか? 私は母のおかげで舌は肥えているんですけど」
 鬱陶しい髪の毛を私は掻き上げた。男ははにかむように笑った。
「予約も滅多にとれない場所だよ」
 男はそう言うと車の速度を上げた。
 車が止まったのは複合施設が併設されている高層ビルの地下だった。私はこの男の職業を聞いてなかったことを思い出した。
「宮野さんってお仕事はなにをされているんでしたっけ」
「貿易関係だよ」
 君は僕の話を聞いてなかったの? と男は問うので、私は言った。
「聞くに値するお話をされていなかったので」
 私は降りるように言われ、嫌々ながら車から降りた。
「で、どのレストランに行くんですか?」
 エレベーターを待ちながら、私は男に尋ねた。
「どのレストランがいいの?」
 中華という気分ではなかった。どちらかと言うとさっぱりしたヴェトナム料理を食べたい気分だった。男は私を先にエレベーターに通すと、スイッチを押した。
「そこは……」
 スイッチが示すのはビルのなかの高級マンションだった。
「僕の根城にようこそ」
 男は小さな子どものような笑顔を浮かべた。

 男の家は眺めがよく、室内もきれいに整理整頓されていた。モノトーンで統一された室内は嫌味なくらい綺麗に整頓されていた。
「さて。作ってしまうから、ゆっくり寛いでくれ」
 男はそう言うとそそくさと台所へ向かった。私は好機だと思って寝室へ向かった。「手切れ金」を渡すにはちょうど良い。制服のブレザーを脱ぎ、ベストをベッドに捨て、スカートのファスナーを下した。ブラウスと紺の靴下だけの格好になった私はこれからあの男はどんな反応を示すのか楽しみで少し笑った。慌てふためき女子高生に組み敷かれ、最後は快楽に飲み込まれ、私の身体を貪るがいい。お前の欲望などスキンに吐き出した精液ほど値打ちがないと思い知ればいい。私は期待に胸が高鳴る。
 対面式キッチンに向かうと男は驚くこともなく、やあと笑った。私はすこし拍子抜けしてしまった。ならばと、思って男の立っているキッチンに入った。
「手伝ってくれるのかい?」
「ブラウスに染みが出来ます。それよりもっと楽しいことしません?」
 そう言って男の後ろ姿を抱きしめた。
「服を脱いだのは君のリラックス法だと思ったんだがね」
 男はやっと気づいた。
「油はねするから危ないよ」
 そう言って後ろから抱きついた私の腕をほどいた。私は苛立って男の性器を握った。それは柔らかく、勃起する兆しもなかった。
「なんで? 女子高生が誘っているのに」
 男がこちらを向いて恥ずかしそうにはにかむ。
「それはね、君のママを愛しているからだよ」
「私のほうがママを愛している!」
 私は叫んだ。ママをこんなワケの分からない男に渡してはいけない。
「僕は君のママに恋しちゃったんだ。君のことも娘同然に思っている」
「ママの恋人は……」
 私の声が震えた。
「ママの恋人はずっと私だった」
 絞り出すような声をだすと涙がぽろぽろと落ちてきた。男はおろおろと困ったように台所を右往左往した。エプロンを外し、着ていたジャケットを私にかけた。
「とにかく温まろう。今日は一晩置いたミネステローネができているよ」
 私がいま欲しいのはミネステローネではなかった。でも暖を取るくらいはできるかもしれない。

 男が渡した大きなスウェットに袖を通すと、パパと似た匂いがしてまたいっそう泣けてきた。
「君のママはね、いつも君のことを話すんだ。学校のこと、一緒にショッピングしたこと、夕食後の何気ない話まで。僕はうっかり娘ができた気持ちになったよ」
 温かい湯気が立ったトマトのスープ。そして男が差し出したきのことクリームのパスタ。空腹を実感していなかったのに、お腹がぐうっとなって私はミネステローネから手をつけた。男が私の前に座り話続けた。
「君は本当にママに愛されて育ったんだね」
 ミネステローネは口に入れると唾液がじゅわりと出てきた。トマトの酸味と甘みのバランスがとれていてほのかにニンニクと香草の香りがした。
「君のママは『私があの子に育てられた』って言っていたよ。そうやってふたりの関係を聞いているとね、僕にまで娘が出来たようで嬉しかったよ」
 ママがそんなふうに思っていてくれていたなんて、私は思わなかった。ママは浮世離れしているけれど、ママは母なのだ、と納得すると失恋なんてしたことがないのにまるで恋に破れたように悲しかった。
「僕は子どもが作れないからね。それで前の妻と離縁したのだけど、こんなしっかりとした娘なら大歓迎だよ」
 よく喋る男だけれど、悪いやつではないらしい。人が好いと思っても内に秘めているものは図り知れない。
「降参」
 私はそう言った。財力、人柄それよりなにより、私の「手切れ金」に靡かなかった男は今までいなかった。
「母のことを宜しくお願い致します」
 私は初めて男に頭を下げる屈辱を知った。

 男に車で送られて家に帰ると、ママはお風呂上りだった。男に寄って行けと行ったのに今日はこんな格好だし、と男は辞退した。まったく、恋をすると厄介なのは歳を取っても変わらないらしい。
「おかえりなさい。敦さんどうだった?」
「美味しい手料理をご馳走になったよ」
 でしょう、というママはどこか誇らしげだった。一抹の寂しさが私の胸をさらう。
「今日ママと一緒に寝ていい? お風呂は明日の朝に入るからさ」
「あらあら、茉里ったら甘えん坊さんなんだから」
 もうママと一緒に眠ることが出来ない、と思ったら私の心は砕かれそうだった。でも仕方がない。男が全て悪くて浅ましくてこらえ性のない人間ではないのだから。
「ママはどうしてあの人を好きになったの?」
 ママの寝室でカヴァーを外しながらベッドの中に入った。
「私と茉里を愛してくれる人だと分かったからよ」
 私は乾いた笑いをした。私は愛してくれなんて頼んでないのに。ママは私を見つめた。
「私だけじゃだめなの。茉里のことも娘として愛してくれないと、茉里は私の半身なんだから」
 真面目なママの声だった。私は笑うのをやめた。ママは私の甘い呪縛。それは決して変わることのないことなのだから、私はあの男にママの恋人の座を譲ってやろうと思った。
「あの人との出会いを教えて、ママ。私、ママの話が聞きたいの」
「茉里にこんな話をするのは恥ずかしいわ。でも教えちゃう。あれはママが翻訳を手伝っている出版社のパーティだったわ……」
 ママの話は朝まで続いた。そして、それから私はママの恋人であることをやめた。

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