Yesterday Once More

 絵を描き続けることが苦痛になったのはいつの頃からだったろうか。本を読み、日がな一日なにもしなかったり、大学のアトリエへ行ってもギターばかり弾いている。筆は、私と一体になった筆は、とんと動かず、焦燥と不安で私の身体を満たし、線の一本すらまともに引けない日が続いていた。

「スランプね」
 大学の共同アトリエを使っている理恵は煙草を口に咥えながら言った。ちなみにアトリエは禁煙であるが、ささやかな規則破りが理恵は好きだった。
「そう」
 私はアコースティックギターを抱きながら外の、眩しいくらいの青空、を見つめながらそっけなく呟いた。
「ギターなんて抱いてないで恋人の身体でも掻き抱いたら?」
 そしたらスランプも脱せるかもよ、と無責任に理恵は言う。
「なによ、私にそんなものがいないと知っての狼藉?」
「ふふ、ただ私が欲求不満だからかもよ?」
 理恵は絵の具がついた白衣を翻しやかんに水を入れる。コーヒーでも淹れるのだろうか、この暑いなか。
「描けないなら描かなければいい。描かずにはいられない衝動が湧き上がってくるはずよ」
 あんたの場合、と理恵は決めつける。私はギターの弦をはじきながらぼんやりと理恵を見つめる。
 いつも黒い服に無造作に束ねられた髪(ときどき筆をさしていることさえある)。色白なのにそれを隠そうとする黒縁の大きな眼鏡。粗暴で、女からは好かれるが、男からは遠巻きに見つめることしか許さないタイプの人間。理恵はとても品がある女性だ。なのにわざとそれを崩しているというのを男に悟らせ、近づくことを許さない「神秘」的な女性らしい。
「どこが『神秘』なんだか」
「なんか言った?」
 理恵はきっと聞こえていたはずなのに、聞き返してきた。
「何でもない」
 私は弦をつま弾いて古いフォークソングを鳴らす。
「あら、懐かしい曲。曲名なんだっけ? コーヒー入ったわよ」
「よくこのクソ暑い中、コーヒーなんて飲めるわね」
「要らないなら捨てるけど」
「謹んで飲ませて頂きます」
 私はブラックでそれを飲み干す。アトリエはクーラーがない。玉の汗が浮かぶがもったいないことはしたくない。
 理恵はまったく汗をかいているようには見えず、涼しい顔をしながらキャンバスを見つめていた。
 美しい女。しかも絵も上手い。少しだけ私に劣等感を抱かせる唯一の女。
 この女を抱いてみたいと思った。征服して、蹂躙して自分のものにしてみたい、そんなふうに思ったら理恵と目があった。理恵は優しく微笑むから思わず目を反らす。
 理恵とは何度かキスをしたことがある。いつもされる側だったが、甘美なくちづけだった。たまには私が主導権を握ってこの女を屈服させたかった。
 理恵はそんな私の情動を悟ったのか、笑みを絶やさず髪を解いた。
「ねえ、キスしたい?」
「……うん」
「たまにはあんたの本気、見せてみてよ」
 私はマグカップをサイドテーブルに置いて理恵に吸いよされるように隣に立つ。髪を梳いてみるともう私は我慢できなかった。衝動は性欲に変わったのか、理恵のくちびる強引に奪った。熱くて溶けてしまいそうな、ありったけの何かをぶつけるような、そんなキス。貪り、貪られ、他人の感触が、輪郭がぼやけていくのは、食事と似ている。
 長いキスは理恵の笑いから収束せざるをえなかった。
「何がおかしいのよ?」
「これだけの衝動があれば、すぐ絵が描けるようになるわ」
 理恵は笑っているが私は不機嫌になった。キスの最中で笑うなんて非常識だし、結局イニシアチブは理恵が握ったままだったのだから。
「私はね、情けないあんたを見たくないのよ」
 真顔になった理恵は私を見つめていた。見透かされている。恥じらいの気持ちが私のなかに生まれる。
「お願いだから、私を失望させないでね?」
 疑問形で私に語りかけるが、明らかに静かな怒気を含んだ声だった。
「お手上げ」
 私は言葉通り手を上げて、理恵から離れた。
「分かればいいの。絵を描かないなら邪魔だから出て行って」
 その言葉に私は従った。

 私はすこしの荷物とスケッチブックを持って地元に帰ることにした。
 私の絵を、取り戻そうと。
 初めて抱いた女性は理恵に似ていた。あのひとに触れるたびに私は歓喜に打ち震えた。しかしもうそれは遠い出来事のように感じていたのに、まだ私を縛り付けているのに気がついた。まさしく理恵とキスしている最中に。失態だ。これでも理恵をみつめていたはずなのに、あのひとを見つめていたなんて。
 理恵から感じる劣等感、羨望と嫉妬がないまぜになった感覚、はあのひとから学んだものだった。決して手に入ることがなかった、あのひと。私に大事なものを与え、奪ったあのひと。
 電車の窓を覗けば私は泣いていた。久しぶりの涙で私は少し驚いた。何度も拭うがあふれる涙は確かに私の物だった。この気持は誰にも奪えない、私だけのもの。
 もう一度あの場所に立って絵を描こうと思う。描けないなら何度でも挑み続けよう。私は遠いひとを想い、それを今に繋げて、理恵を驚かせてやろうと泣きながら思った。まだ描けると思うと悲しみの涙は安らぎの涙に変わった。この涙は私の血潮。

 一方、理恵がひとり残ったアトリエにて。
 理恵は不乱に向かっていたキャンバスから目を上げると、外は夜の帳が下りていた。理恵はひとつため息をついた。
「あの子は、まったく……」
 困った子だわ。遠くを見つめながらあんな懐かしい曲を弾かれたら、誰だって分かってしまう。理恵は待とうと思った。あの子が私のもとに笑顔で戻ってくることを。そしてそのときが来るまで描き続けようと。理恵も失望されることが怖かった。そして昼間あの子が弾いていた曲の題名を思い出して苦笑いをしたのだった。

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