マドレーヌ効果



※この小説は異性愛描写を含みます



 駅の雑踏でふと香ったその香水は、私にとって懐かしいものであったと同時に当時の記憶を呼び覚ました。平静を装ったけれど、たった三センチのヒールが軋んだような気がした。

 薄暗いなか、家に帰ると明かりがもれていて私は安堵と不安がマーブル模様に混ざった気持ちで、ただいまとドアを開けた。
「おかえり。ケーキ買って、冷蔵庫のなかに入れておいたから」
「ありがとう。嬉しい」
 私の帰りを迎えてくれた優二は、顔を覗き込んだ。
「なにかついている?」
「いや、今日は華やかだなと思って」
 顔を逸らして私はくちびるをかみしめた。私の鼻はあの香りから逃げられないというのに、そんな私が華やかなんてことはない。無邪気な優二を見ていると、内臓からにじみ出る懺悔の気持ちと後悔で私は逃げ場を失っていた。
「今さらおだてても無駄よ。夕食用意しちゃうから、TVでも見ていて」
「俺も手伝うよ」
 いいのよ、今日は簡単に済ませるからと優二をあしらって、台所に立つ。薬缶を持つ私の手が震えているのに気づき、私はここからも走り出したいという感情に襲われた。この部屋も優二も置き去りにして。しかし今さらそんなことをして、何の意味があるのだろうか。私はこれ以上、逃げ出せない。
「今日の夕食、献立はなに?」
 私は振り返ると、優二はTVを見ながら話しかけてきた。良かった。私を見られていない。
「ペペロンチーノとシーチキンサラダよ。簡単でごめんね」
 薬缶を火にかけると、私は物思いに耽りながら夕食の支度をはじめた。

 私は素早く自分の荷物をまとめ、出されたコーヒーに手をつけることもなく、ただ理恵の前に座っていた。気まずい沈黙が降りていたなかで。そのとき、私と理恵は円満に別れたはずなのに、それを心の底から良かったと思っているのに。けれど私はたかが香水の匂いで理恵のことを思い出すなんて。

「チカ、薬缶、鳴ってるよ。チカー?」
「あ、うん」
 私は思わず薬缶の鉄の部分を素手で握って数秒そのままにしてしまった。
「チカ! なにやってんだよ!」
 優二が私の手を薬缶から離さなければ大火傷になっていただろう、私はぼんやり考え、あー、もう、と言ってシンクの蛇口を捻って彼の手と私の掌が冷たく晒されると私は意識を取り戻したように優二の手を振りほどいた。
「触らないで」
 自分でも信じられない冷静な声が無意識のうちに出ていた。優二は困ったような顔をして私から後退さった。
「分かった。ただちゃんと掌は冷やして。それと」
 優二は部屋からクリネックスを持ってきた。
「水分が出てるから」
 私は妙に視界がぼやけていると思って火傷をしていない左手で自分の顔に触れた。私は泣いていたのだ。気づいたら私は膝から崩れ落ち、声を上げて唸るように泣き始めた。

 私が理恵と出会ったのは高校一年生のときだった。理恵は少し個性的な子だった。短くギリギリまで切りそろえられたショートカットがどこか少年の姿を思わせた。カラオケに行ってもみんなが知らない洋楽を歌うし、授業中はいつもぼんやりとしていてだけど成績は良くて、いつも本を携え、彼女自身小説のようなものを書いていた。それでいて明るい性格からか、決して周囲から浮くこともなく笑顔を絶やさない子だった。
 私は理恵の姿を遠巻きに見ていた。私は本が好きだけれども違うグループに属していたからだ。
 きっかけは本当に些細なことだった。グラマーの授業が自習になり私はいそいそと本を出した。無政府状態の教室では席が離れていた理恵が私の机の前を通り過ぎるところだった。
「宮元さん、なに読んでるの?」
「あ、えっと『ナチュラル・ウーマン』」
 私はいきなり理恵に声をかけられたことを今も覚えている。好奇心でキラキラしたその瞳は私にとって眩しかった。
「松浦理英子の? わーお! 宮元さんってお堅いイメージがあったけど、今、変わった」
 私はレズビアンの性愛を描いた作品を口にしてしまい、文庫にはカヴァーがかかっているのだから、嘘をつけばよかったと後悔した。
「ねえ、今度、私の書いた文章を読んでくれる?」
「私で……いいの? 大事なんでしょ?」
 もちろん、と理恵は言った。
「宮元さんに読んでもらいたい」
 目を細めて笑う理恵の可愛らしさには抗えなかった。
「理恵ー、次の時間の宿題やった?」
 そして教室の反対から理恵の友人から声がかかった。
「もち。今、貸すよー。宮元さん、放課後の図書室で待ってるから。じゃあね」
 そう言うと理恵は私の机から離れていった。
「次のグラマーの宿題は佳苗だからね」
「分かってるって」
「まあ忘れたら、アイスおごってもらうまでだからね」
「理恵って一言、多いよなあ」
 談笑をしている理恵とその友だちを見ていると、彼女は何の悩みもない幸福な少女に思えて仕方がなかった。
 私の通っていた高校の図書室は広く、その蔵書や設備もほかの高校とは群を抜いていた。私は図書室へ行くと一番奥の席に理恵が座っていた。私と目が合うと手を大きく振った。
「宮元さんって他にどんな本を読むの?」
 私は理恵に好きな作家をあげ作品を説明するのを、私もその作家が好き、とか合いの手を入れながら興味深そうに聞いていた。
「けっこう乱読派なんだね。読書量は宮元さんのほうが多そう」
「でも佐々木さんは書いたりしているから……」
 理恵はそこで苦笑した。
「私なんてまだまだだよ。でもこの高校こんなに図書室が充実しているのに文芸部ないじゃん? だからなかなか人に読んでもらう機会なくてさ、で宮元さんに白羽の矢が立ったワケですよ」
 そして理恵は四百字詰めの原稿用紙を渡してきた。
「私の最近、書いた掌編。読んで感想を聞かせて欲しいな」
「なんで私なの? 佐々木さんにはいっぱいお友だちがいるじゃない」
「まえ友だちが泣ける映画について話していたんだ」
 そのとき理恵は顔を下にして、落ち着いて話し始めた。
「駅でひとの命って大事だよねってみんな言ってた。私はたまたま通りかかったホームレスのおじさんの缶に五百円玉を入れたんだ。そしたらみんなが嫌そうな目で見た。ちょっと離れてからみんなに『なんであんなことするの』って怒られた。私びっくりしたよ。難病で苦しむのと路上で生活する苦しみは一緒じゃないけど、ひとの命がかかってるんだよ。少しでも助けたいと思うじゃん。偽善かもしれないけど、それは許されないみたい」
 私は理恵の言いたいことが少しだけ分かった。そして彼女が感じている窮屈さも。
「でも、それだけじゃ私に読ませたいっていう理由にはならない」
 理恵ははっきりと言う。
「インスピレーションかな。私の直感ってけっこう当たるんだ」
 私は思わず笑った。そして理恵の原稿を受け取った。

 放課後の図書室が私たちの秘密基地となった。お互い囁くような声で読んだ本や作家の人生を語りあい、最後に私が理恵の書いたものの感想を言うのだった。
「理恵このフレーズこの本からパクったでしょう?」
「さすが千加子。見破られるとは思わなかったよ」
 私は意気揚々と笑み満面で理恵の文章を批評した。理恵の文章は拙かった。しかしそれは私の興味を引いた。少年同士の、成長する苦しみを理恵は書いていた。なぜ女を主人公にしないのか、と理恵に聞いたことがある。
「女同士だと生々しいから」
「それがいいんじゃない。理恵の書く女の子、読んでみたいな」
「乗せるのがうまいな、千加子は」
 そう言ってしぶしぶ書いたものが今作だった。
「でも、一番好きだな、この作品。主人公の心の動きがなめらかで、キスシーンはクライマックスに相応しいし」
「でもさ、私、キスしたことないんだよね」
 照れるように理恵は言った。
「経験が文章になるわけじゃないと思うけど……」
 私は自信なさげに言った。私もキスしたことがなかった。それを言外から察すると、理恵は私のくちびるに自分のそれを重ねてきた。私の胸は高鳴って目を瞑るのを忘れてしまった。
「やわらかい……。キスってこんなにやわらかいのね」
 理恵はキスが終わると感慨深く冷静に考察した。
「私のファースト・キスなんだけど?」
 理恵は困ったように笑ってもう一度、私に口づけした。
「これでセカンド・キスだね」  嫌悪はなくむしろ満たされた気持ちで私は理恵のくちびるを歓迎したのだった。

 理恵の唯一、女の子らしいところは鼻をくすぐる甘い香りを身に着けていることだった。お化粧も最低限に眉を整える程度だったが、このとき初めてあの香りを纏っていることを知った。

 高校三年生になると進路を決めなくてはならなかった。私と理恵は同じ大学を志望し、学科は違うけれど同じ学部に進むことにした。無事、桜は咲き、晴れて上京という運びになった。理恵は国文科、私は仏文科に進んだ。

「千加子が仏文に進んでくれて良かったよ」
 理恵はそう言うと苦手な語学、第二外国語はフランス語、に手を焼いていたようで私のノートが役立っていたのだ。理恵は私のすぐそばのアパートを借りていた。お互い行き来するのが当たり前で、いつもどちらかが入り浸っていた。
「最近、文学会の会誌の締切に追われてて、本当にありがとう」
「なにかお礼はあるんでしょうね」
「うーん、ベッドの上でご奉仕はダメ?」
 上目使いで可愛らしく言ってもだめ、と私はテキストで理恵の頭を叩いた。
「ちゃんと夕飯作ってあげるから、そんな怖い顔しないでよ」
「だったら最初からそう言いなさいよ」
 大学生のときの理恵との暮らしは天国だった。暇があればお互い触れ合い、抱き合い、飽きるということを知らなかった。何の不安もなく愛しあった。

 大学卒業と同時に理恵の作家デビューが決まった。密かに理恵が書き溜めた長編の最初の読者は私だった。優越感と理恵のそばにいれる誇りが私のすべてだった。大学卒業後、私はというと雑誌の編集の仕事に就いた。多忙を極める仕事だったがやりがいがあった。仕事を始めるとすれ違いが多くなったが、積年の付き合いのためか、そんなことを気にしなかった。今、思えばここで理恵のことを思いやってやれば良かったのに私は長い付き合いに甘えてしまった。
 久しぶりにカフェでお茶をすることになった私と理恵は久しぶりの休日を楽しむどころではなかった。理恵は二〇分遅刻して、ぼろぼろの格好でカフェに現れた。
「遅かったじゃない」
「ごめん。今日の朝、やっと原稿があがったんだ」
 私はテーブルに乗った理恵の手に自分の手を重ねようとした。ちょっとしたいたわりと好意を示すためのものだったが、理恵は意図せずにそれを振り払った。
「コーヒー頼むわ」
「そうね、それがいいわ」
 倦怠が私たちのなかで生まれた瞬間だった。

 物理的な距離ならまだ耐えられた。でも、心の距離は縮められない。私は自分の選択が間違っていたとは思えないのだ。そして、ただ香りだけが私に残った。

 就職して五年。仕事も倦怠期を迎えた私だった。雑誌の編集とは毎年ほとんど同じことを取材する。私は女性誌を担当していたがその仕事は「文化的雪かき」と言って良いものだった。若くもない、年老いてもいない、中途半端さ。そして「雪かき」からほど遠い理恵の生活に憧れて、当初に感じていた優越感もすっかり薄れ、何かを生み出すということについて考える日々が続いた。そんなときだ優二に会ったのは。

 乗り気のしない、数合わせの合コンに参加した。値段ばかり高く美味しくない創作料理とワイン。周りは年下の可愛い、まだ人生に絶望したことのないような女の子に囲まれ私は気づまりだった。
 お手洗いから席に戻ろうとするとひとりの男がタバコを吸いながら立っていた。
「宮元サン?」
「はい?」
「抜けない?」 「いいですよ」
 そうして半ば自棄に優二の誘いについて行った。
 しかし着いた場所は安いラブホテルではなく、牛丼チェーン店だった。
「私、てっきり……」
「ラブホかと思った? 宮元サン、あんまり食べてなかったでしょ?」
 あそこ不味いよなあ、と優二は言った。
「量も少なくて美味しくないって男性にはつらいですよね」
「そうそう」
 そう言って優二は店のなかに吸い込まれ私は優二の後をついて行った。牛丼屋は夜なのに煌々と明るかった。私は一度もこういう店に入ったことがないことを優二に告げた。
「まじ? まあ、女の子だもんなあ。ここで食券、買って……いや。俺がやる。並でいい?」
「はい」
 カウンター席に着くとすぐに温かい牛丼が出てきて、優二はそれに生卵を割り、私はその手元をじっと見つめた。
「たまごいる?」
「うん」
 優二が店員を呼ぶと生卵がすぐ出てきて、私はそれを割って牛丼にかけた。たぶん理恵とだったらたまごを半分こにしたのだろうなあと思い隣に感じる違和感からか、温かい牛丼で涙腺が緩んだのか少し泣きながら、口に運んだ。

「チカ、大丈夫?」
 優二の心配そうな瞳が私を見つめ、私はとうに泣き止んでいることに気がついて現実に引き戻された。
「大丈夫、だよ」
 ごめん、と私は付け加えた。
「じゃあこっち来て。火傷の手当てしてあげるから」
「うん、ありがとう」
 優二がいつの間にか出した薬箱を挟んで私たちは差し向かいで座った。
「初めて会ったとき思い出したよ。チカは牛丼を食べながら泣いてるんだ、びっくりしたよ」
「気づいてたんだね」
「うん」
 でも言っちゃいけないような気がしてさ、と言うと軟膏を私の掌に塗る。
「チカ、今日なんかあった?」
「なんでもないよって言っても信じてくれないよね」
「うん」
 優二は不審そうな目で見る。
「けど、本当に何でもないの。ちょっと疲れが溜まっていたみたい」
「まあ、話したくないって言うなら、それはそれでいいけど」
 そう言ったまま、優二は火傷の手当てをしてくれた。

 何かを生み出すことに私は憧れていた。そういう意味で理恵は私の憧れだ。太陽を直視できないように私は理恵から心が離れ、静かな佇まいの月である優二に惹かれていった。優二は苦手だと言っていた女性を、私をなんなく受け入れた。どちらかと言うと男勝りの性格な私と相性が合ったのだろう。牛丼を食べた日、連絡先を交換し、優二は告白をしてきた。私はそれに保留をした。理恵とは付き合っているわけではなかった。ただ当たり前に、空気のように隣に存在していた。それを失うことは耐え難いが、優二のそばに居たいのならそこから離れるべきだと私は思った。別れの時が近づいていることを私は優二のそばで感じていた。

 原稿があがったら連絡をちょうだい、というメールに理恵が返信をするのはそう遅いことではなかった。私はすべてを打ち明けて、殴られる覚悟で理恵の部屋を訪ねた。仕事終わりで雑然とした部屋は私の心をいっそうに殺伐とさせた。
「だいたい話っていうのは推測できるんだけどね」
 とダイニングキッチンに座った理恵は言った。
「どういうこと?」
「私は作家だよ。想像してなんぼの商売で、それで同じ女だ。でも一番の要因は私が千加子を愛しているからかな」
 私は出されたコーヒーカップを握る手が震えた。
「その男と付き合いなよ。きっと千加子の欲しいものをくれる。私が与えられなかったものを」
「ずるいなあ」
 私は出そうになった涙を止めるので必死だった。理恵は少し疲れた顔を見せた。
「こんなの言い訳にしか聞こえないかもしれないけれど、理恵は私の太陽だよ」
「だから近くに居られない、か」
 私は私のすべてを諦めている理恵に声のかけようがなかった。
「千加子の決めたことに私はどうこう言えない」
「理恵の諦めに言葉もないよ」
「諦めじゃない」
 理恵は言った。
「千加子を手放したくないよ。でも私は私の人生で千加子に与えられるものがもうほとんどないんだ。空っぽ。それでも千加子にそばに居てほしいなんて、言えないじゃないか」
 理恵は泣いていた。私は今度こそ理恵の手に自分の手を重ねた。ああ、遠かったなあと思いながら決して泣くまいと思った決心が冷たい理恵の手で揺るぎそうになった。
「ただそばに居るだけで私は満足だったよ」
「千加子こそ私の太陽だった」
 喉の引き攣れを感じで私はもういなくならなければと思った。
「理恵の本は読み続けるよ。ありがとう。話を聞いてくれて」
「振られるのも芸の肥やしだって思っちゃう自分が悲しいよ」
 理恵は不器用に笑って私もそれにつられた。
「さようなら。どうか元気で」
 理恵は笑ったままで何も言わず、私を見送った。私はドアが閉まって少し歩くと涙が出てきてその場でうずくまってしまった。さようなら、私の恒星。そして微かに残った理恵の香りが私をいっそう闇のなかに落とした。

「これで大丈夫」
 優二が包帯を巻いてくれると私はまた涙が出てきた。
「チカー、もう、どうしちゃったんだよ」
 優二は少しおどけて言った。
「私は優二が思うほどいい人間じゃないから」
 しゃくり上げながら私が言うと優二はため息をついた。
「そんなことを気にしていたの?」
 私は頷いた。
「そう言うチカを信じているから」
 優二は柔らかい声で私をなだめる。
「チカは馬鹿がつくほど正直で、自分がいい人だとは言わない。俺はそういうチカを丸ごと愛してる、じゃダメ? 俺じゃ力不足?」
 私は首を横に振って優二に抱きついた。
「結婚して。そしていっぱい子ども生みたい」
「プロポーズって普通、男からするものじゃないのか?」
「私じゃ不服?」
「とんでもない。結婚しよう」
 優二はぐずる子どもをあやすように私の背中を叩いた。
「それじゃ、牛丼を食べに行きますか。もう俺、腹減って死にそう」
「婚約記念の食事が牛丼なんてね」
 私は吹き出してしまった。
「なんだよ。俺たちの原点じゃないか。ケーキも買ってあるし、俺たちにしちゃ、上出来じゃない」
「そうだね」
 私はあの香水の匂いがするたび振り返るだろう。そのたび自分が何者か思い知らされるだろう。そして前を向いて歩きだす。理恵が背中を押してくれたことを私は忘れない。




マドレーヌ効果:嗅覚や味覚から過去の記憶が呼び覚まされる心理現象。
        過去の記憶に結びつけられた匂いを嗅ぐことでフラッシュバックを起こすような体験。
        「無意識的記憶」や「プルースト現象」とも呼ぶ。

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