ヴァージンキラー

 彼女の存在は知っていました。けれど、会ったのはそのときが初めてでした。私が彼と待ち合わせしていたときのことでした。駅から五分歩いた静かな本屋はデートの待ち合わせ場所にぴったりでした。その本屋の文庫新刊のところで啓次君と落ち合い、お互い腕を絡め、これから私の家へ行こうというときでした。
「啓次?」
 高いヒールのコツコツという音とともに彼女は現れました。啓次君が振り向くと私もつられて振り向きました。彼女は高そうなスーツに身を固め、啓次君を茫然と見ました。啓次君はあわてて私の腕をほどき、口を開きました。
「君との約束は来週のはずじゃ」
 なかったのか、と言い終わる前に彼女は啓次君に右ストレートをかましました。
「せめて」
 彼女のハスキーな声に怒気がこもっていました。
「せめて新書の棚なら私に殴られなかったものの。残念だわ」
 そう言い捨てると左手に嵌めた指輪を啓次君に向けて投げました。いつの間にか出来てしまった野次馬に舌打ちをして、あろうことか、私の手を引いて本屋を出たのです。私にはこの一連の出来事が美しい映画のようで、まったく他人事として受け止めていました。本屋をでると、私は我に返り歩きながら思い出しました。啓次くんの部屋にあったオレンジウッドスティックは、甘皮を処理するときに使う楊枝のような棒は、細いヒールで器用に早歩きする彼女のものだったのか、と頭の隅で納得しました。
「あの」
 左手首をぎゅっと強く握られていて、啓次君があんな目にあったのだから私はもっとひどい目に合うのかもしれない、と思うと足がすくみました。
「あ、ごめんね」
 彼女は大きなため息をついて、私に尋ねました。
「フレンチ、食べに行かない? 予約をキャンセルにしたくないんだ」

「修羅場の相手を食事に誘うのはおかしいかな」
 私はちょっと考えを巡らせました。彼女が啓次君の「彼女」だということは分かりました。私は彼女のことを知りたくなりました。嫉妬でしょうか、しかしそれにしては私は冷静でした。
「いいですよ」
「ありがとう。私ひとりで食事するのが苦手で」
 彼女にレストランに着くまでに食事中の禁止事項を聞きました。その一、どんなに険悪な喧嘩をしていても食事中は口論しない。その二、お酒はたしなむ程度で。その三、ふたりだけの空間を楽しむこと。しかし、レストランで食前酒が出されると(私はお酒に弱いのでペリエにしました)早速この禁止事項は破れました。彼女はキールを一口に飲んでしまいました。そして続いた言葉はこうです。
「あの野郎、八つ裂きにしてやりたい」
 彼女の声はハスキーなうえドスが効いていて、私まで切り裂かれそうと感じました。食前酒のおかわりというのは聞いたことがありませんが彼女はウエイターにキールをもう一杯、頼みました。
「あの」
「なに?」
 私はすっかり気迫負けしてしまって、彼女に声をかけづらく、思わず声が上ずってしまいました。それに彼女の鋭い眼光が私に向けられると、身も縮む思いでしたが思い切って聞きました。
「なんで私とごはんを食べようなんて思ったんですか? ふつう嫉妬とか敵意とか向けられて当然なのに……」
 私の声はか細いものでした。特に嫉妬と敵意という単語は聞き取れるかとれないかの大きさで言いました。彼女は鼻で笑いました。
「私が指輪を捨てたとき、あなたは平然としていたから」
「それは思考が固まってたって思わなかったんですか?」
 彼女は片方の口角を器用に上げて、皮肉っぽく笑ってみせました。
「彼氏をかばうこともなく、あなたはあんなさめざめとした同情の目で彼氏を見ていたのに、それはないね」
 見透かされた、と思って私の頬は上気しました。私と啓次君との仲は、よくある、形骸化された彼氏彼女の関係で、愛情はもう冷め、惰性で続いているような関係でした。ただ私がまめな性格なのでお互い愛情があるふりをするのが、化かしあうのを、楽しんでいた節もあったのです。だから彼女が指輪を啓次君に投げ捨てた瞬間すこし笑ってしまったのです。偽るからだ、ざまあみろ、と。彼女は私のその一瞬を見逃さなかったのです。
「あのクソ野郎のことはちょっと置いておいて。なんであなたは私について来たの? 敵意や嫉妬はないの?」
「嫉妬がないと言ったら嘘になりますけど、啓次君がほかの女性と付き合っているのは知っていましたから。ただそれがどんな女性か、興味のほうが勝ちました」
 彼女は乾いた笑いを吐き出しました。
「興味ねえ。ずいぶん余裕じゃない」
「余裕なんてありません」
 私がまっすぐ彼女を見ると、彼女はすこし怯みました。
「興味があったのは啓次君があなたに惹かれているからです。啓次君と別れないためにも、なにが自分に足りないのか、あなたを知れば分かると思いました。でも無理ですね」
 私はヒールの高い高価な靴で闊歩なんてできないから、と自嘲しました。
「あんな目で見ていたのに、あのゲスが必要なの?」
「愛情と結婚は別物だと思います」
 私は彼女の言葉に即座に返しました。
「あいつと結婚しようと思ったの?」
「はい」
「今も結婚したいと思う?」
「今は……分かりません」
 私はひるんでしまいました。彼女のパワーに。迫力に。私は揺るがないものが欲しかったのに、今、自分の欲しかったものが揺らいでいるのがよく分かりました。ただただ言葉をするする失うばかりでした。
 彼女はウエイターを呼びワインリストを頼みました。
「食べて、飲みましょう。口は言葉を紡ぐだけのものじゃないわ」
「そうですね」
 このとき私と彼女の間で停戦条約が結ばれたのでした。

 私たちは黙々と食し、ワインを飲みました。私はほとんど飲みませんでしたが、彼女は蟒蛇で上等なワインを二本空け、そうとう酔っぱらっていました。彼女は会計のときにクレジット・カードを出し、財布を鞄にしまうと意識をほとんど手放してしまいました。私は仕方がないのでタクシーを手配するように頼み、とりあえず私のアパートへ向かいました。
「んー」
「大丈夫ですか?」
「ここどこ?」
 ていうか水ちょうだいと彼女は言いました。
「私のアパートです。水ならミネラル・ウォーターが冷蔵庫に入っているのでお好きにどうぞ。ちょっとシャワー浴びてくるので適当に寛いでいて下さい」
「はーい。ありがとう」
 彼女は眠たそうな間延びした声で言うとずるずると冷蔵庫のほうへ行きました。それを確認して私はバスルームに行きました。
 だいたい三十分くらいでしょうか、私がシャワーを浴びていた時間は。台所を通ると彼女がさめざめと泣いていました。
「どうしたんですか?」
「これ」
 差し出されたのは冷蔵庫にしまっておいた私が焼いたケーキでした。プレートの文字は曲がっていて「祝・五周年」と書いてありました。自分でもすっかり忘れていました。日付が変わってしまったので昨日のことですが、私が啓次君と付き合って五年目だったことを私は思い出しました。
「ああ、食べます?」
 彼女は私の言葉に首を横に振って、また涙をほろほろと流しました。
「このケーキを見て、知らなかったとは言え、あなたの幸せを壊していたことに気が付いたから」
 だから泣けてきちゃう、自分が情けなくて、と鼻水を啜りながら彼女は言いました。
「別に……そんな」
 大層なことじゃない、と私は言おうとしました。しかし喉がきゅっとしまって声の代わりに涙が出てきました。啓次君のことを突き放していた自分がいたのに、今さら被害者面するなんて虫が良すぎます。けれど、やっぱり五年間、一緒に過ごした時間はかけがえのないものに思えました。やっぱり私は啓次君が好きだった。浮気を見て見ぬふりをしたのも、問い詰めると嫌われそうだからで。私は彼女につられ声を殺して泣き始めました。もっと大事にすれば良かったと後悔の念に襲われました。
「ごめんなさい」
 彼女は頭を下げました。私にそんなこと言わないで、と叫びそうになりました。私は打算で見て見ぬふりをしたのですから、しかし彼女になんて言ったらいいか分からず私は嗚咽するばかりでした。
「こっちこそ、ごめんなさい」
 私がようやく喋れた言葉は謝罪の言葉でした。あなたの良心を踏みにじってごめんなさい、と私は言いたかったのですが、涙のせいでうまくしゃべれません。
 幼い子どもが喧嘩したあとの仲直りのように、私と彼女は謝罪の言葉を繰り返し、泣き明かしました。

「ふふふ」 「何よ、さっちゃん。いきなり笑い出して」
「敦子さんとの初対面を思い出して」
 トップコートを塗り終わりあとは乾くのを待つだけとなったので私は敦子さんと気軽なおしゃべりに興じます。
「やだなー。きまりが悪い」
「私もです」
 彼女とは、敦子さんとは、おたがい辛酸をなめたからでしょうか、あれから急速に仲良くなりました。敦子さんはデートや特別な日の前にこうして私の働いているネイルサロンに来てくれます。ときどきお食事も一緒にします。
「敦子さん、明日デートでしょう?」
「え、わかる?」
 敦子さんは恥ずかしい、と頬を赤らめ、目を伏せます。
「今日、敦子さんがメインに選んだ色は『パラドクサル』、フランス語で『逆説』って意味です。デートも急がば回れですよ」
「もう、さっちゃんたら。分かってるわよ!」
 啓次くんとは別れましたし、私にはまだ恋人ができていません。しかし好きな人はいます。
「どうぞ楽しい一日を」
「ありがとう。今度、さっちゃんの恋の話も聞かせてね。またね」
 私は素早く歩いて去る敦子さんの背中を見つめました。私が好きなのは敦子さんですよ、と敦子さんの背中を見て心のなかで言いました。泣き虫なあなたをもう泣かせたくないので決して言いませんが。

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