淑女の靴

 上になったり下になったり、あらゆる穴をこじ開けて私は正子さんの身体の中に入っていく。肌を寄せるだけでは物足りない。もっと奥深くまで彼女に私を置いて残したい。セックスのときくらい足の指先まで私を感じて欲しい。乱暴に征服するように柔らかな襞をかき分けて私は正子さんのなかに入った。肌は汗ばんで少ししょっぱくて正子さんの皮膚からは高級そうな香水の匂いがたって私の五感が犯され、輪郭が溶ける。私も正子さんも溶けあってマーブル模様を描くように溺れていく。そんなふうにけもののように愛し合った週末だった。
 月曜日の朝、始発が動き始めると正子さんは高いヒールの靴とスーツで武装して何事もなかったように帰る。もう少し触れていたいと思うけれども、正子さんは着替えてから出勤するのだと私が乱暴に脱がして皺が寄ったブラウスを見て言い留まった。それでも私は這いつくばって思わず正子さんのヒールをつかんだ。
「欲しい?」
 私はうなずいた。私は正子さんが欲しい。
 数日後私の手元には靴が届いた。
 正子さんが履いていた靴だ。ヒールの部分がゆうに十センチはあるだろうか、真っ黒なのにヒールの裏側は真っ赤で私はその靴を抱きしめた。正子さんの分身を。貧素なワンルームアパートの靴箱のなかに入れるのも惜しまれて本棚の上に飾っておくことにした。靴の美しい曲線は正子さんを思い浮かばせた。正子さんに会えるのは週末だけで私は忠犬ハチ公よろしく大人しくそれまで待つ。

「げっ」
 と正子さんから貰った靴を見て下品な声を出したのはチゲ鍋の材料を下げた友達のユウだった。
「ちょっとあんたこの靴どうしたの?」
「彼女から送られてきた」
「マジ? これあんたの家賃の三分の二はする靴よ!!」
 確かに高そうな靴だとは思っていたがそこまで高いとは思っていなかった。
「現物見るのは初めてだけど『セックス・アンド・ザ・シティ』でシャーが履いてた靴よ! 淑女の靴!! 豚に真珠ってまさにこのことね」
 ユウはよく『あんたよりワタシのほうがオンナよう』とよく言っているけれどファッションに頓着のない私に比べればはるかにユウはオンナであった。
「あんた履かないの? この靴」
「ユウから値段聞いたから今度彼女に返す」
「ワタシだったら踵落としてでも履くわね」
 それより、と私はわざとらしくひとつ咳をした後に言った。
「私の講義のノートとその靴どっちが今日の目的?」
 ユウは器用にウィンクして靴に決まっていると言って笑う。肌がざわついて私はキモイよ、ユウと笑い返した。私は正子さんの靴を手に取って少し不安になった。

 ユウのノートの写しと簡単な私の説明が終わると私たちは鍋の準備を始めた。
「あんたその彼女とどこで出会ったのよ」
「二丁目のイベント」
 正子さんと私は週末ゲイタウンで有名な新宿二丁目のクラブで出会った。女性だけのクラブイベントのバー・コーナーでコロナを飲んでいた私はカクテルを片手に持っている正子さんに一目で惚れていつの間にかキスをしていた。そしていつの間にかラブホテルのベッドで目を覚ました。
「あんたって見た目に反して行動が大胆よねえ。このビッチ」
 経緯をユウに話したら口汚く言われたがユウの口の悪さは今に始まったことではないので聞き流しながら白菜を剥いて切っていた。
「でも、憧れるわあ。一目で恋に落ちて即ハメなんて一度は経験してみたいもの」
「私たちの場合ハメるものはないけどね」
 大きく刻んだ白菜を土鍋に投入して蓋をした。
「そういう場合って長続きしないから気を付けなさいね」
「そういう場合って?」
 私はユウに聞き返しながら土鍋をテーブルに移動させながらおしゃべりは止まらない。
「だから肉体から始まる恋よう。身体だけじゃ長続きしないもんよ」
 ユウは湯気が立つ鍋を漁るように牡蠣を探していた。
「それってゲイだけの問題じゃないの?」
 私も競って、一番単価的に高価な、牡蠣を探しながらユウに問うた。
「あーらゲイ差別? まあいいけど。ノンケもゲイもビアンも同じよ。身体だけならいつか飽きるわ。恋には努力が必要よ」
「努力ね」
 紅くなった豆腐と白菜を咀嚼しながら自分のことを顧みた。ワンルームのこの部屋で私は食事は作る。片付けは正子さんがしてくれる。私たちは映画を観たり雑誌を読んだりしながら結局最後はセックス、セックス、セックス三昧。私は大した努力なんてしていない。そう考えると不安で背筋が張る。
「何かサプライズとかしたほうがいいのかな?」
「知らなーい。それより〆はおじやにしてえ」
 呑気なユウは動こうとしない。私は冷凍庫から炊いておいたごはんを出しながら不安と闘っていた。


 ユウを追い払ったあとに私は自分の靴箱の中を覗いてみた。私の靴箱には大した靴が入っていない。一番高価な靴で一万未満の通学用の黒のバレエシューズであとは量販店で買ったボアブーツと運動靴につっかけだけだ。
 狭いワンルームに少しずつ正子さんの痕跡が残っている。手触りの良いシルクの下着にブランドもののTシャツに高そうな基礎化粧品。正子さんのくるぶしの形はよく覚えているのに正子さんのことはよく知らない。うどんとそばどちらが好きか、とかそんな些細なことを知りたくなってしまって電話をかけようと思ったけれど正子さんはまだ仕事しているのかもしれないと思うと気が引ける。週末には会えるのだからと言い聞かせて何か正子さんにしてあげられることや正子さんを知る術を考えながら無理やり眠りについた。


 バイトから帰ってくると大きな鍋に水を張ってお湯を沸かすところで携帯電話が震えた。正子さんからだと分かっていたので二コールで私は電話に出た。
『こんばんは』
「こんばんは。今日はスパゲッティ・ボロネーゼの予定だけど大丈夫ですか?」
 セックスのとき以外は私は正子さんに敬語を使う。私は正子さんの歳を知らない。ただふたりでカフェに行ったとき正子さんは現金ではなくゴールドカードで支払っているのに私は驚いた。
『大丈夫よ。もう少ししたら着くから』
 通話が切れると結局サプライズプレゼントを思いつけなかった自分に後悔した。正子さんは欲しいというものは持っているだろう。だけどなんで貧乏学生の私と正子さんは付き合っているのだろうか。私にはまったく自信なんてなかった。

「ただいま」
「お帰りなさい」
私はあらかじめ鍵を開けておいた玄関のほうを向いた。正子さんはスラックスのスーツを着て靴を脱ぐところだった。
「コンビニで見てたらおでん食べたくなっちゃって買っちゃった。食べ合わせ変かな?」
「おもしろい味にはなると思いますけど……。あとはソース合わせるだけなので先におでん食べてて下さい」
 そう? と言ってポリ袋をテーブルに置いて正子さんはスーツを脱いでハンガーにかけた。その姿を見ていると衝動に駆られ私は正子さんを背後から抱きしめた。私は抵抗しない正子さんをいいようにする。私の不安はいつも正子さんの身体に吸収される。そして与えられる悦びに私の身体は従順になる。触れれば触れるほど私の身体の五感は研ぎ澄まされ正子さんの虜になり欲望のまま正子さんを抱いた。

 皺の寄ったブラウスを羽織ると正子さんはベッドから出て鍋を見た。
「これ、食べられるかしら?」
「茹でなおします」
 下着とタンクトップを素早く身に着けた私は正子さんの隣に立って鍋のなかをのぞき、伸びきったスパゲッティを見てふたりで笑った。そしてこんなことしている場合ではないと思い本棚の上からパンプスを取って正子さんに渡そうとした。
「お気持ちは嬉しいですが、こんな高い靴、頂けません」
 正子さんは首を傾げた。
「欲しいんじゃなかったの?」
「私が欲しいのは正子さんです」
 私がそう言うと声を上げて正子さんは笑った。
「本当にあなたは可愛いわね」
 正子さんは私に軽いキスをした。
「せっかくあなたのサイズに合わせて買ったのだから貰っておきなさい」
「でも……お返しできませんし……」
 正子さんは眉毛を片方を器用に上げてから少し笑った。
「お返しなんて期待してないわ。私の持っていないものをあなたが持っているからそのお返し」
 私がいぶかしげな顔をしていると正子さんは言葉を続けた。
「若さと情熱。私にないものよ」
「正子さんも十分若いです」
 即答した私に正子さんは苦笑するだけで何も答えなかった。私は手持ち無沙汰で視線をあちこちに彷徨わせていると独り言のように正子さんは言った。
「あなたにこの靴が似合うとき、そばに居られるかしら?」
「もちろんです」
 私は即答して正子さんの顔を見た。正子さんは少し疲れているのか肌の色が悪い。さっきの情事のせいでコンシーラーもとれてシミが浮き出ている。私はそんな正子さんを見てますます愛おしさが増した。
「素顔のままのあなたが好きです」
「好きだけじゃお腹はふくれないわ」
 私を見つめながら正子さんは笑った。
「すぐ茹でます」
 この日はもうセックスはしなかった。その代わりに一晩ベッドで、質問ではなく、語り合った。ちなみに正子さんはそば派らしいということを初めて知った夜になった。

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