いたいけなラヴ

 怖いと思う女がひとり、いる。

 あ、また失敗した。
 そう呟き私は吸い殻に埋めるように煙草を灰皿に押しつけた。カートン買いをした煙草のけむりで輪をつくること。それが当面の目標なのだ。食事は冷蔵庫にあるものでテキトーに済ませ、私が生まれる前のロックンロールを聴きながら、けむり臭くなったらシャワーを浴びて下着姿のまま新しい煙草に火を付ける。そしてけむりで輪を作ることに専念するのだった。ここ五日間はずっとこんなくだらないことをしながら過ごしている。

 大学の帰り道いつものように喫茶店に寄って他愛もない会話をする予定だった。私はブレンドコーヒーを頼み、フィリップ・モーリスに火を付けようとしたところだった。
「妊娠したの」
 愛実はグレープフルーツジュースをひと口飲んで事も無げに私に告げた。私はライターを落としそうになる手を握り返した。
「どうするつもり?」
「産むわ。もちろん」
 私は汗が背筋をつたうのを感じながら冷静に努めようと言葉を選んだ。
「相手は知ってるの?」
「なんでいちいち子種の提供者に報告しなくちゃいけないの?」
「まさかひとりで産んで育てるつもりなの?」
「まあ、半分はそういうことになるかな」
 私はくちびるから煙草を離すことが出来なかった。火は付けなかったけれど煙草だけが私の頼りだった。
「私はずっと母親になりたかったのよ」
 愛実は満面の笑顔なので私は何も言えなかった。

 私はまた新しい煙草に火を付けた。愛実は男から好かれ女から嫌われる典型的なタイプだった。多くの脊髄反射で行動するような男からは美人ですぐにセックスさせてくれる女だと思われ、女からはそんな彼女を阿婆擦れ扱いし見下されることが多かった。なんの因果か、いや因果律などないのだ、初めて会った瞬間に私は愛実に恋をしてしまった。愛実のまばたきをしながらゆっくりと話すあの姿に。
 私はゆっくりとけむりを吐きだす。愛実を誰よりも理解しているのは私だ。愛実と私は対等で私が恋慕の気持ちを隠しながらも友だちであろうとした。愛実も私の気持ちを暗に知りながら親友として振る舞ってくれた。私はそれで十分だった。愛実が私の人生においてまったく想定外の「提案」をしてくるまでは。

「一緒に育ててくれない?」
 この子をと愛実はお腹に手を当ててゆっくりとさすった。まさか愛実が母性に目覚めるなんて、と私は動揺を隠せなかった。
「適切な男が居ると思うけど」
 私の気持ちを知っていながらも図々しい女と私は心の中で毒づいた。
「男なんて育児に必要ないでしょ?」
「お金はどうするのよ?」
「当面暮らせる貯金は昔からしてきたわ。小学生のころからね」
 ふふ、と優しく笑う愛実に私は少しぞっとした。小学生がひとり、母親になるために貯金なんてするのか? 常識的に考えてありえない。マーブル模様になっている脳内からふと本音が漏れてしまった。
「私の気持ちはどうするのよ」
「あなたが私を好きだから、あなたをパートナーに選んだのよ」
 間髪のない愛実の返答は私をとても不愉快にさせた。私は苛立ちとともに煙草に火を付けた。紫煙の向こうには微笑んでいる愛実を見た。
「あなたは絶対私たちを裏切らないわ」
 私はその言葉に心底背筋を凍らせた。
 愛実は五日後、電話するわ、と言って伝票を持って颯爽とカフェから立ち去った。

 こんもりと山盛りになっている吸い殻を流しに捨てるとまた煙草に火を付けた。いくら大学卒業間近だからと言って、ひとりで産むとか育てるとか一緒にとか混乱するようなことを言わないでほしい。そう私は絶賛混乱中なのだ。私のことを、周囲がどう思うかを、愛実は考えていない。無計画というか子どもの情操教育上、私は居ないほうがいい。適切な父親役を演じられる男がいるはずだ。ため息を吐くように私はけむりを吐きだした。
 今日が約束の五日目で私は未だ何の結論も出していない。いや、私には無理だという結論は出ているのだけれども愛実の言葉が私のなかでリフレインしているせいでその結論すら揺らいでしまっている。
「惚れたほうが負けってよく言うよなあ」
 私はどうすればいいか、ただ煙草のけむりで輪を作っている。

 サイレント・モードにしていた携帯電話が震える。私は動揺と混乱で止まっている手を叱咤して電話に出た。
「もしもし」
「どうしよう。出血が止まらない」
 開口一番愛実は私と同様に混乱していた。
「出血って……とにかく医者に電話した?」
「うん。でも、どうしよう。流産したら」
 愛実は泣いていた。初めて聞いた愛実の涙声。
「私も行く。病院の名前教えて」
 私は困惑する愛実から病院の名前を聞きだし、タクシーを拾って駆けつけた。

 病院に着くと愛実がどこに居るか聞いたが看護師いわく処置中で今は会えないとのことで、待合室で焦燥感を持て余していた。煙草でも吸いに行こうと思って総合病院で喫煙所を探した。
 煙草は最後の一本となっていた。心もとない。二〇歳を過ぎたらもっと大人になれると思っていたのに。私は煙草に火を付けた。愛実は今一所懸命に戦っているのだ。私ができることは幼い恋心とさようならをすることだった。友情という墓地で眠るのも良い。それが新しい命の肥やしとなるのならば。私は二つのことを決めた。禁煙することと愛実と一緒に子どもを育てることを。

 処置は朝までかかり愛実は少し疲れた顔をしていた。
「きっとこの子は私に似て生命力が強いのよ」
「そうみたいね」
 私は穏やかな気分で笑ってみせた。
「本当にごめんなさい。あなたの気持ちを利用するようなことを言って」
 弱気な愛実も見たことがなかった。私は愛実の手を握った。
「もういいんだよ」
「私ひとりじゃまたふらふらしちゃってこの子が不幸になったらと思うと……」
 誰よりも愛実を理解していたなんて傲慢甚だしい。こんな小さな愛実の姿を誰が知っていたのだろうか。
「一緒に育てよう。ひとりじゃ駄目かもしれないけど、二人ならどうにかなるかもしれないよ」
 私は自然と言葉が出た。私に母性なんてない。けれども愛実と愛実の子どもには愛おしいと感じることができるのだ。それは私にとって意外なサプライズだ。
「ありがとう」
 私の手に愛実の手が重なる。私にはそれで十分だ。私たちの子よ、はやく出ておいで。

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