あなたが笑ってさようならを言うから

 冷たい手が瑶子の額にそっと触れられる。佳代のピンキー・リングはもっと冷たい。
「気持ちがいい」
 思わず瑶子は目覚め際に独り言つ。ベッドサイドにはきっと佳代が居て艶やかな黒髪を肩から滑り落としているだろう。
 瑶子は佳代の存在を探して手を伸ばすがベッドサイドには誰も居ないことに気がついて、まどろみから現実に引き戻された。額に乗っているのは冷却材で瑶子はサイドテーブルに置いてある温度計を手さぐりに探した。


 佳代が出て行って半年が経った今、瑶子は風邪を引いていた。綺麗に片されたと思っていた部屋にはまだ佳代が居る。オレンジ色をしたガラスの灰皿、ペアのマグカップ、そして佳代と別れてから着けられなくなった半分ほど残っている香水。この柑橘系の新鮮な香りはどうしても佳代と過ごした日々を思い出さずにはいられない。
 体温計が音をたてて瑶子は表示を見てため息をついた。熱はまだ下がらない。風邪薬を飲まなければ、と瑶子は思った。
 瑶子は佳代と別れてから今までがむしゃらに日常を過ごしてきた。なるべくひとりで過ごさないようにと仕事を多めにこなし、疎遠になっていた学生時代の友人と会ったり、昔みたいに一晩中クラブで遊んだりしていた。それでも佳代の影から逃れることも出来ず、かといって何もできない自分に瑶子は苛立っていた。そして瑶子は疲れていた。佳代のことを想い続けている自分自身に。
 無精をして靴下は履かないでスリッパをつっかけて台所へと向かった。レトルトのお粥がまだ残っていたはずだと戸棚をまさぐっているとパジャマの袖にマグカップの取っ手が引っかかり床に落ちて、あっけなく割れた。
「はは」
 短い笑いが瑶子から漏れた。後生大事にペアのマグカップなんて取っておくからだよ、馬鹿。瑶子は冷静を通り越してひややかに割れたマグカップを眺めていた。そのままパジャマのまま寒い台所に瑶子は三分ほど、いや体感すればもっと長いものだったろう、立ち尽くしていた。佳代との日々はまるで走馬灯のように瑶子の身体を駆け巡った。皮膚の弾力、いつも塗るペティキュアの匂い、髪を梳くときの音、怠惰に放り投げられた足のくるぶしのかたち、そして最後の無理やりつくったような笑顔。そしてドアは閉められた。
 瑶子はこのとき初めて泣いた。佳代とはもう終わってしまったのだと初めて実感した瞬間だ。涙は節操もなくぼたぼたと床に落ちて、冷えた足は固まる一方で紙袋を取りに行きたいのにうまく動いてはくれない。


「私が死んだら悲しんでくれる?」
 過去、瑶子が情事の後に佳代に聞いた戯れの質問であった。死んでしまうくらい、というのは陳腐だけれども、そう聞かずにはいられないほど素敵なセックスだった。
 佳代は煙草のけむりが目に入らないように細め、少し笑って言った。
「期待されたら悲しむどころか唾を吐きかけるよ」
 ここに、と瑶子の繁みを触れた。
「真面目に答えてよ」
 瑶子の身体をもてあそびながら佳代の空いている手で持っている煙草を奪って、瑶子は煙草にくちづける。佳代の口を独占する煙草の存在に瑶子は嫉妬する。慣れないけむりでもかすかに佳代の味がする。
「私が居なくなっても、瑶子がいなくなるってこと想像できないな。瑶子は絶対長生きしそうだもん。瑶子はどうなのよ?」


「悲しむに決まってるじゃない」
 あのときと同じ言葉を泣きじゃくりながら冷えたキッチンで瑶子は口にした。瑶子はその言葉を口にすることでようやっと金縛りから解放された。そして妙な清々しさが瑶子の身体を突き抜けた。
 あふれる記憶の花束は愛の証である、と瑶子は思ったのだ。例えいま佳代がここに居なくとも佳代が瑶子を選ばなかったとしてもあの言葉は本物であった。


「悲しむに決まってるじゃない」
 瑶子は感傷的に泣き始めた。佳代は瑶子と向き合った。佳代は困ったように笑って瑶子を抱きしめ、瑶子の頭を撫ぜて抱きしめた。


 子どもをあやすように佳代に抱かれたことを瑶子は覚えていた。あの遠き日の揺り籠の想い出があれば私は生きていける、と瑶子は思った。あのときの記憶は百合の花の香りのように気高く今でもその香りに瑶子は包まれている。
 瑶子は紙袋を取るために一歩足を踏み出した。かたちがあるものは壊れても記憶は奪えない。私は愛されていた、そう実感できた瑶子は苛立ちからも疲れからも解放されてようやく冷えたひとりきりのベッドで本当の眠りにつくことが出来るのだった。

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