ホットミルク、バニラ・シュガー入り

 三日がかりの実験が終わってなんとか暖かいベッドで眠れると思って加奈子は足を速めたが、アパートの自室を開け電気を付けると一瞬愕然として、ため息が白い蒸気となって消えた。部屋が荒らされていたのだ。食器の多くは割られ、クローゼットはひっくり返され、お気に入りの大きなテディベアの片腕がもげて綿が出ている。
 加奈子は泥棒に入られたみたいだなあと呑気に部屋を眺めた。しかし窓ガラスが割られた形跡も貴重品を奪われた形跡はない。PCも無事。加奈子は至極冷静に割れたマグカップを丁寧に拾ってビニール袋を探した。香里が来て癇癪を起したのだろうと加奈子は部屋を見た瞬間分かっていたから。しかし、と加奈子は思った。ここまでしなくとも……と思いながらも心当たりは多くあった。恋人である香里と二週間以上連絡を取っていなかった。
「疲れた」
 ふと漏れた独り言に加奈子は余計に疲労感を覚えて、割れた食器だけ片してベッドにダイブした。考えるのは明日にしようと、最初は冷たかった羽根布団も加奈子の体温を吸って加奈子はそのまま眠ってしまった。

「で、連絡取ったわけ?」
 同じ研究室の奈緒美は昨日の事情を聞きながら日本茶を啜りながら加奈子を見つめる。
「これからデータ整理しなくちゃいけないから」
 加奈子はPCと向かい合いながら昨日のデータを入力しながらティーバッグの紅茶を飲んでいた。
「ほとほと呆れるわ。加奈子、もう少し恋人に思いやり持ちなさいよ」
 奈緒美の言葉を聞き流しながら加奈子は忙しなくキーボードを叩いている。
「初期実験失敗したの、奈緒美のミスだったような」
 奈緒美はその一言に苛立ったように紙コップを潰した。
「はいはい、分かっていますとも。データ整理くらい私がやるからとっとと仲直りしてきなさい」
 研究室が陰うつになって仕方がない、と奈緒美は言った。
「もう駄目かもしれない」
 加奈子はモニタから目を離して奈緒美と向き合った。
「これから実験が増えてくばっかりで、香里と会う時間はどんどん減ってく。香里のためにしてあげられることなんて、私にはほとんどない」
 それに疲れたと思ったらふたりの関係が終わったに等しいのではないかと加奈子は思った。お互い消耗するだけの恋愛なら見切りをつけるべきだ。加奈子はそう思い始めていた。
「……もう少し信じてあげなよ、香里ちゃんのこと。何かするとかしないとか、そういう問題じゃないでしょ、恋愛って。信頼とか尊敬とかじゃん、必要なのって。ちゃんとそこら辺話し合った上で別れるなり寄りを戻すなりしてきなさい」
 珍しく神妙な顔をした奈緒美は加奈子にコートを渡して、加奈子に退室するように促した。

 研究室を出て行ったのはいいけれど、香里もまだ授業中で加奈子は途方に暮れて、結局部屋に戻って片付けることにした。香里のあの細腕でよくまあここまで荒らしたなあと変な感慨とネガティブな思考が加奈子のなかを駆け巡った。
 香里は可愛い。だからもっと大切にしてくれる女なり男なり居るだろ。私と別れたからって香里は引く手数多だろう。私の方は多少引きずるかもしれないけど、その分学業にのめり込むだけで、加奈子はそんなことを考えながらクローゼットを直し、小さな星のピアスを見つけた。
 香里のピアスだった。あれだけないないと探していたのに、こんなに簡単に見つかってしまうなんてなんか皮肉、と加奈子は思って笑った。ふたりでカーペットの下まで探したのに。
 笑う自分で加奈子は我に返った。香里を失ったら私は引きずるどころじゃない、泣き叫んで部屋を荒らすだろう。加奈子は鍵とお財布だけを持って大学に戻ることにした。香里のことが好きだ、授業中だろうと友だちが一緒にいようとちゃんと伝えないと、絶対後悔する。加奈子はそう思って玄関を思い切って開けた。そしてそこには躊躇いがちな香里が立っていた。

 両手に荷物を抱えた香里を見たら焦燥感は薄れて、加奈子は少しぎこちなく香里を部屋に通した。
「ごめんなさい。割っちゃった食器、全く同じじゃないけど、買ってきた」
 目を伏せながら言う香里に加奈子はどんな声をかければいいのか分からず、ただ香里のする行動を腕のもげたテディベアと一緒に見守った。
「こんなことするつもりじゃなかったの。ごめんなさい」
 新しい食器を洗いながら香里は加奈子に背を向けたまま謝った。
「じゃあどういうつもりだったの? 私がみじめにひとり片づける姿を見たかった?」
 違う、こんなこと言いたいのではない。加奈子はそう思いながら口は止まらない。
「香里はいいよね、そうやって物に当たってすっきりするんだから。さぞかし気分が良かったでしょうね」
 私の言いたいことはこんなことではないのに、さっき好きって言いたいっていったじゃない。加奈子は卑屈になる自分を止められなかった。香里は蛇口を止めて加奈子と向き合った。先ほどの目を伏せて恥じらうようでもなく、怒気をこめて。そして加奈子の左頬に痛みが走った。
「加奈子はどこまで自分に卑屈になれば気が済むわけ?!」
 香里の怒気はみるみる涙に変わって、嗚咽を上げるように泣き始めた。
「どうして、こんなに好きなのに加奈子は自分のこと大事にしないの? 私が連絡くれなかったことに怒ってるんじゃないの。この前最後に会ったときの会話覚えてる? 『当分会えないけど私が居なくても変わらないよね』って言ったんだよ。変わるに決まってるじゃん。この大馬鹿。恋する乙女だったらそのことに気づけよ、馬鹿」
 嗚咽しながら遠慮なく殴ってくる香里を見ていたら加奈子もくちびるをぎゅっと引き締めたまま泣き出してしまった。信頼も尊敬もなかったのは香里へではなく自分自身に対してだ。香里はそのことに対して腹を立てている。全くもって不甲斐ないと思いながら香里に気づかれないように加奈子は少し泣いた。
「私が悪かった。ごめん」
 言葉の足りない加奈子にはそれくらいしか言えなかった。香里の嗚咽は止まらない。抱きしめてもまだ泣いている。加奈子は台所へ立って牛乳を洗ってあったマグカップに注いで電子レンジで温めバニラ・シュガーを入れた。香里にそれを渡すと嗚咽を止めてひと口飲んだ。
「初めてケンカしたときも一緒にコレのんだよね。ホットミルク、バニラ・シュガー入り。あのときも私ひとりが怒ってた」
静かに言葉を続ける香里に加奈子は黙っていた。
「加奈子は言葉足りなさすぎって怒ったよね。それは今でも怒ってる」
 マグカップを握る香里の手を加奈子は包み込むように手を当てて、香里のマグカップから加奈子もひと口ホットミルクを飲んだ。甘く舌触りの良い液体が心のありかを探るようには温かく私の身体を通る。
「好き」
 こつんと香里のおでこに加奈子はおでこを寄せた。
「ごめんね、私ひとりが空回ってた。香里が好きだよ。今一番言いたいことはそれだけ」
「やっぱり加奈子って、言葉足らなさすぎ」
 香里は笑いながら加奈子を抱きしめた。加奈子はミルクをこぼさないか心配で恐る恐る香里を抱きしめた。
「馬鹿で配慮も足らないけど加奈子のこと好きだよ」
 見つかったピアスを渡してあげるのはもう少し先にしようと加奈子は思った。

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