どこにも行けない

 学校に行かなくなって一カ月。街をさまようになって二週間。私は十五分前、人さらいに遭いました。人さらいは地下のカフェに私を連れてオネエさんと感動の再会をしているようです。私には何が何だかいまだによく分かりません。
「信子! もう、久しぶり。いつ東京のほうに戻ってきたの?」
 ひとしきりハグをし終わった後、オネエさんは目を潤ませて人さらいをのぶこと呼びました。
「いやあ、ちょっと野暮用で……。それよりタオル貸してくれる? こっちの子猫ちゃんにも」
 あら、私ったらと、オネエさんは慌てて店の奥のほうに行きました。
 ずぶ濡れになったバッグから申し訳程度のハンドタオルを出し私は濡れた髪の毛を拭います。そして横にいる背の高い女性を盗み見してみると、少し癖のある短い髪の毛を後ろ手に撫でつけて眉間に皺を寄せています。そのしぐさが妙に女性離れしていて、母の持っていた昔の少女漫画に出てくる男装の麗人ようで、私はすぐ目を離しました。こういうひととは関わってはいけないと思いながらも魅かれている自分に後ろめたさを感じたのです。

 さかのぼること十五分前、私は夏特有の突発豪雨の雨宿りのため駅前のランジェリイショップにいました。ランジェリイショップは雨宿りをするひととセール品を品定めするひとでごった返していました。私はレースがふんだんに使われた黒いセクシィな下着を手に取ってちょっと拝借しようと考えました。家に帰らなくなって一週間。小さなボストンバッグに詰めた衣類はもう使用済みで所持金も底をつき始めていたのです。母は仕事の多忙なひとで携帯電話はその身体を震わせることはなく専ら一夜の宿探しに使われていました。黒い下着を手に取りながら面倒を起こす前に一度家に帰ろうかこの下着を頂こうかと考えているときでした。人さらいが声をかけてきたのです。
「今、暇かな?」
 身長が百六十センチある私に人さらいは身体をかがめて、私の顔を覗きこんできました。私は驚いて頷いてしまったあとこの人さらいの姿をしっかりと見ました。暑いのに上下のスーツに真っ白なシャツに細いネクタイ。一見すれば男性に見えてもおかしくありませんでしたが、スラックスから伸びる細いピンヒールで女性だとわかりました。
 人さらいは頷いて納得した私を見て右腕を掴んで走り出しました。私は慌てて黒い下着をラックに戻し、人さらいのピンヒールの器用な走りに導かれるままここまで来てしまいました。

「しかし信子がこっちに戻ってくると知ったら千恵はびっくりするんじゃない?」
 オネエさんはバーテンダーの服に濃い目の化粧を崩すことなく涙をぬぐってから、人さらいと私にタオルを渡してくれました。
「千恵に会いに来たんだよ」
 人さらいは髪の毛を乱雑に拭きながら答えます。
「まあ、人妻のくせに嫌らしい! フケツよ!」
 からかいに似た罵声を人さらいは片手でひらりと止めてお手洗いを借りるよ、とその場を離れてしまいました。
 私は心もとない気分でカウンター席のスツールに座りました。目の前に広がるのはお酒の瓶と磨かれたガラスのコップがあり、ここはあまり子どもの私が来て良いところではないとすぐ分かりました。オネエさんの雰囲気はとげとげしいものがありましたが私にジンジャーの香りがする紅茶を出してくれました。
「で、あなたは信子の何?」
「何と言われましても……」
 私が返答に窮するとオネエさんは物ありげに笑い早くおあがんなさいと紅茶を飲むように勧められました。十分なほどにエアコンディションが効いている店内で濡れた服を着ていると寒気を感じましたが紅茶をひと口飲むと身体の内側からぽかぽかと温かくなってきました。
「おいしいです」
 私は素直に感想を述べます。
「おいしくて当たり前よ。私の特製おもてなしブレンドなんだから。それより」
 オネエさんはカウンターから身を乗り出し私のほうに迫ってきました。
「信子には気をつけなさい。信子に泣かされた女は星の数ほどいるんだから」
 私はオネエさんの迫力に負けて言葉が出ません。
「信子は昔、劇団に居たのよ。あの身長で中性的な顔立ちでしょ、他の俳優なんて目に入らないくらいだったわ。でも五年前あっさりと劇団を止めて地方の地主のお坊ちゃんとくっついちゃってそれきり全く音沙汰がなかったのよ。信子はこっちじゃ取替え引換え遊んでいたのに」
 私はオネエさんの言葉にただ頷くしかありませんでした。人さらいがのぶこという名前だけなんとく違和感を覚えましたが、人さらいはそんなに悪い人には見えません。しかし人さらいというのは一般的に人相の悪いひとがなるものではないよなあと変な納得も覚えます。
「誰が取替え引換え遊んでいたって?」
 いつの間にか人さらいが私の後ろに居ました。
「信子もお茶、冷めないうちにどうぞ」
 オネエさんは瞬時に笑顔を作りました。
「まったく。ひとがいない間に何を話していたかと思えば……」
「鬼の居ぬ間になんとやらよ」
 ホホホとオネエさんは笑います。人さらいもまんざらではなさそうです。
「あんまり長居はできないんだ。これを頂いたら行くよ」
「あら、残念。せいぜい千恵に往復ビンタでも食らってくるといいわ」
「今日は君に顔を見せるために来たから。そんな憎まれ口を叩く君も相変わらず可愛いね」
 あまりにも自然に歯の浮くようなセリフを人さらいが言うので私は喉が引きつきそうになりましたがオネエさんは相変わらずね、あなたはとため息交じりに言いました。その溜め息の色はオネエさんにとってとても懐かしい色をしているようで愛情も感じます。
「未成年をこっちへ誘惑してはだめよ」
 オネエさんは最後に悲しそうな笑顔を向けて笑いましたが人さらいは無言でお店を出ました。
 地上に出ると空は機嫌を直し青空が広がっています。オネエさんの悪態をのらりくらりと交わしながらも地下に一時間以上いたのです。人さらいはサングラスを優雅に掛けると品定めするような目つきで私を見てきました。
「その格好じゃ貧素だな」
 ひとことぽつりともらしました。私の身なりは決していいといえるものではありません。
「ちえさんと言う人に会いにいくのですか」
 私は聞くと人さらいは金属音を立てさせました。車のキイをジャケットのポケットから出したのです。
「その前にドライブだ」

 幌が外されるとシルバーの流線が美しいコンバーチブルは座席が丸見えになりました。このいかにも高そうなオープンカーはこの人さらいのものか私は悩みましたが、コインパーキングから発車する人さらいの手馴れた動作から見てこの車は人さらいの物だと思います。
「この車はあなたのですか?」
「そうだよ」
 人さらいは面倒そうに答えます。
「それよりさ、今の状況に君は危機感を覚えないの?」
 確かにそれは私も一瞬だけ考えたことでした。しかし私は、確信よりもっと曖昧なものでしたが、この人さらいは私に危害を加えるような人間とは思いません。
「あなたは私を見ていないから」
「どういう意味かな」
「あなたは私のことをあれこれ聞きません。あなたは私に興味がないんです。だから、たぶん大丈夫」
 思ったことを言葉にすると私の緊張はほどけます。人さらいは片手でハンドルを回しながら器用に笑ってみせました。
「面白い意見だけど、興味がないから悪いことも出来るんじゃないかな」
「悪意を誘発するほどの興味もないでしょう?」
 私は茶色のフィルターに包まれた人さらいの目をうかがってみました。その目は意外と穏和に見えて君は面白い子だねえと言いたげです。少なくとも物理的にこの人さらいは私に害を与えるつもりはなさそうです。私はシートに身体を預けて開放的な車のなかから東京の景色を右から左へ受け流していました。

「いらっしゃいませ、栗本さま」
 高級ブティックの店員に名前を覚えられているなんて人さらいはどんな大金持ちだろうと私は思いました。この人さらいはお金と暇を持て余しているように思いそれも外れではなさそうです。
「この子になにか見繕ってくれないか? そうだな、清楚に見えそうなワンピースを」
 人さらいは私の背を押し店内に入るように促しましたが私は抵抗を覚えました。
「買って頂く義理はないですが」
「そうしなきゃ今日、千恵に会えないからね」
 より強い力で背を押されると私は前のめりになって店内に入りました。人さらいにとってちえというひとの存在は大きなもののようです。

 白地に鮮やかな水玉模様のワンピースを私が着てみると、人さらいは身体が柔らかく沈むソファから立ってスカート丈や肩幅の寸法が合っているか入念に確認しました。
「これを頂くよ。そのまま着ていくから包みはいらない」
 盗み見してしまったわけではないですが視界に入ったのはゴールドカードでした。
「まるで『マイフェア・レディ』や『プリティ・ウーマン』の世界です」
 現実感が遊離しているのでハリウッド映画の名前が自然と言葉に出ました。それらの映画は女性が不思議と出会った男性に人生を変えられていく映画です。私は水玉模様のワンピースのせいか浮足立ってしまいます。一方人さらいはまた物憂げな顔をして言いました。
「これから行くのはそんな良い場所ではないけどね」

 コンバーチブルのバックシートに百合の花束が乗せられ、私はワンピースと御揃いで買ってもらったクラッチバッグをちょこんと膝上に置きながら人さらいの運転する車の助手席に座っています。百合の花は鼻をくすぐる香気を振りまきながら車はまた走り出しました。
 着いた先は病院でした。雑然としていながらも鼻をくすぐる消毒液の匂いは病院特有のもので少しだけ居心地が悪いです。受付の白いテーブルや待合室のグリーンのソファの色合いは優しいのですがそれは見かけだけで何かを隠そうと上塗りをしているように見えました。煌々と輝く蛍光灯は見かけ倒しの仮面を剥がし脈打つ鼓動を私の前に差し出すのです。
 少し躊躇っていると人さらいは震えた指を百合の花束を抱えている私の腕に置きました。
「少しだけ」
 人さらいは一言残し黙りました。私はグリーンのソファにゆっくりと海の底に沈んでいくように背をもたれかけました。おぼろげになっていく視界に柔らかな太陽の光が差し込みます。力が抜けて音は段々と遠くなり水の音しか聞こえません。目を閉じてそんな想像をしながら深く息を吸い込みました。
「さあ、行こう」
 目を開けると私は相変わらずグリーンのソファに座って居ました。人さらいはジャケットの前を整え私の腕を掴みました。人さらいの目を見ると強い意志を感じます。私はソファから立ちあがり人さらいの横に沿いました。
 奥行きの深いエレヴェーターに乗ると人さらいは三階のボタンを押しました。百合の貴い香りが小さな箱の中に満ちて私は上手く呼吸ができません。
「ちえさんとはどういう関係だったのですか?」
 金魚のように私は酸素を求めて言葉を発しました。
「元恋人。私が捨てた」
 眉間に皺を寄せて小さな声で人さらいは言います。小さな箱が音を立てて止まると私と人さらいはそこから出ました。
 白い壁は所々小さな傷や染みがあります。それは星座のように見えてひとつひとつ繋ぎながら私は歩を進めます。三〇二号室の手前の小さな黒い染みの前で長い線は途切れました。人さらいはプラスチックの瓶につまっている消毒液で手を拭い私にもそれを勧めます。私が手を拭いていると人さらいは大きなため息をしてドアをノックしました。返事が聞こえると貼り付けたような笑顔と共にドアを唐突に開けたのです。
「サプラーイズ」
 底の抜けた明るく病棟に響く声でした。私は人さらいの後を歩きました。
「あら、珍客ね」
 私が顔を上げるとちえさんは微笑んでいました。大きな瞳に薔薇色の頬で長い黒髪をざっくりと三つ編みにして肩に垂らしベッドヘッドに身体を任せておいでです。とても健康を害しているようには見えませんでした。
「千恵のことなら何でもお見通しさ。さあ花束を受け取っておくれ」
「百合ね、ありがとう」
 仰々しい言葉は人さらいの緊張を現しているのでしょうか。私は百合の花束をちえさんに渡しました。
「思ったよりも元気そうにみえるよ」
 人さらいは大きな動作で、そうまるで役者のように、ベッドサイドに置いてあった椅子に腰を落ち着けちえさんの小さな白い手の甲にくちづけました。
「仮にも病人にその言い方はないんじゃないかしら」
 そう言いながらもちえさんは笑っています。ふたりの距離は甘い蜜で繋がっているようでした。慈愛に満ちた二人の視線は絡まり合い解けることなく二人を結びつけています。人さらいは頭をちえさんに預けちえさんは手で癖毛っぽい頭を撫ぜます。それは教科書で見たピエタ像のように妙にセクシュアルで親密で私は席を外したくなりました。そんな姿は悲惨な別れ方をした恋人同士には見えませんでした。
「信子、子猫ちゃんが見ているわ」
 ちえさんは窘めるようにゆっくりと撫ぜる手を離しました。人さらいは顔を上げるとちえさんににこりと微笑みました。
「花瓶に活けてくるよ」
 人さらいはそう言って百合の花束を片手に花瓶を持って病室を出ました。ちえさんは頷いて私を座るように促しました。
「あなたって信子の若い頃に似ているのね」
 私は戸惑い間抜けな声が出てしまいました。
「いつも大きな身体を所在なさげにしていて。信子もああ見えて結構小心者なのよ」
 口元で小さく笑うちえさんは少女のような佇まいです。
「ちえさんはあの人のこと恨んでないのですか?」
 不躾なことを聞いてすみませんと私は小声でつけ加えました。私はこの少女のようなちえさんにどこも「捨てられた恋人との再会」というシュチュエーションに影を落としているように見えなかったのです。
「なかなか難しい質問ね」
 私は羞恥心から面を下げたままでした。そのときとても強い力で白い手がシーツを握ったのを見えたのでした。
「病院に香りの強い百合の花を持ってくるような無神経なひとよね。答えはイエスよ。だけどノーでもあるの。恨んでいると愛しているは私のなかではほとんど一緒の意味なの」
 ちえさんの顔はさっきまでとは違うように見えました。熟れた果実があともう少しで腐り始めるような危うい美しさです。アンバランスな美しさを湛え、ちえさんはまた私に微笑むのです。 「私たちのような大人になっては駄目よ」
 慈愛に満ちているのにとても淋しそうな顔をなさったのです。

 まるで金魚鉢のような病院をでると人さらいは「ドライブに行こう」と車を走らせ始めました。夕日の照り返しが激しく私は目を細めます。
「ちえさん、元気になりますか?」
 私は走り過ぎる建物を見送りながら人さらいに尋ねました。
「病状は悪くない。半月もあれば元の生活に戻るさ」
 人さらいは不機嫌そうに答えました。私はその声が生理的に怖くて黙してしまいました。

 埠頭のような場所に着くと人さらいは車を停めました。そして大きなため息をつきハンドルに顔を埋めました。
「緊張されたのですか?」
「まあ、柄にもなく、ね」  胸ポケットから煙草を出すと人さらいは使い古したジッポで火を着けて大きく吸い込みました。
「一目会えばまたあの頃に逆戻りだと思ったんだけどね……。誰も私を連れ出してはくれないみたいだ」
 自分を嘲笑するような苛立ちを含んだ声でした。
「私はもうここから出られないんだ」
 私は人さらいの声に苛立ちを感じました。愛してくれたひとが、愛しているひとがいるのに何をいっているのだ、と。私はシートベルトを外してコンバーチブルのアクセルを踏みました。マニュアル車の運転は父が面白半分に教えてくれたので簡単に車は動きました。
「いい大人がセンチに浸ってんじゃねえよ」
 そして私はハンドルを人さらいから奪い海へ車ごととダイブしました。映画のように水しぶきは立ちませんでしたがしぶきは痛いです。私は水分を吸って重くなったワンピースを着たまま水面へと顔を出しました。少し遅れて人さらいは水面から顔を出しました。咳きこんでいながら笑っています。疲れがにじみ年相応の皺が目元に残る笑いを浮かべていました。私には人さらいの変化が如実に分かりました。人さらいは私にとってはただの知らない女になったのです。海水で重くなった服を引きずりながら埠頭に乗り上げ慣れない靴で私は家に帰りました。

 潮くさい身体で帰るとさすがに母も心配していました。待っていたのは期末試験をすっぽかしたおかげで残っている課題の山です。私は黙々と課題をこなし、補習に出て、追試を受けました。ときどき突発豪雨に合うことはありましたが、もう二度と人さらいに遭うことはありません。

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