境界線

 先輩の薄いレンズ越しに隠れている瞳をいつもいつも追っていた。真っ直ぐ見つめるその先に何があるのか、私はよく想いを馳せている。

「美樹ちゃんのDVDコレクションってマニアックだよねえ」
 先輩はクッションを抱きかかえリラックスした様子で液晶に見入りながら言う。私は先輩の後頭部を視界に入れながら画面に映っている映画をぼんやりと見る。白黒の映画は昔のハリウッド映画だ。
「映研に入っていたら、まあ」
 先輩、それより私に構って下さい、という言葉を私は飲み込んだ。先輩は集中すると何も目に耳に入らない。さっきの私の言葉だってきっと聞いてはいないだろう。先輩の冷めたカフェオレが入っているマグカップと自分のそれを持って私は流しに立つ。
 映画に嫉妬するなんて! 情けないなあ。ささやかな羞恥心を覚えながら、ミルクパンで牛乳を温めてコーヒーメイカーの残りも再び温める。先輩の好きなカフェオレのレシピは頭に入っている。それは角砂糖の数まで。それでもまだ先輩のことを知らないなんて思うのは、私が貪欲なのだろうか? 拙い欲望の名前を考えていた。独占欲ではないと思う。なぜなら、先輩の目を隠して私だけ見ていて欲しいとは思わない。先輩が何を見て、何を感じるのか、私は知りたい。そんな欲望はひょっとしたら独占欲よりひどくやっかいなものなのかもしれない。一緒に居れば居るほど、抱き合えば抱き合うほど、私はそんなことを考えてしまう。
 沸騰する直前に火を止めて、湯気の立つ牛乳を二つのマグカップに注いだ。

 サイドテーブルにマグカップが当たる音がすると先輩は私を見つめた。
「ありがとう」
 先輩は笑うと目じりが下がる。本を読んだりするときはノンフレームの眼鏡のレンズ越しからもまつ毛の落とす小さな影が見える。人と話すときは真っ直ぐ射抜くような目線を向ける。決して目が大きいわけではないのに先輩の色んな表情を私はずっと見てきた。
 どういたしまして、と言っても私が先輩を見つめたままなので、先輩は戸惑ったような顔をする。どうしたの? と目で問いかける。
「先輩って視力いくつなんですか?」
 話が長くなりそうだと思った先輩はリモートコントローラーで一時停止を押して自分の薄い膜のような眼鏡を外して手でもてあそぶ。
「視力検査でわっかの欠けたやつあるじゃん、あれの一番上、見えないよ。今、美樹ちゃんの表情見えないもん」
 たった1メートルも離れていない距離で先輩は笑う。
「不安にならないんですか? 私、いま変な顔してるかもしれませんよ?」
「慣れれば不便じゃないし、鮮明に見えすぎるほうが変な感じだよ。物事の境界線なんて曖昧なものでしょう? 美樹ちゃんの顔なんて見えなくても、どんな表情してるかわかるもん」
 先輩が私の手を引っ張ると、私は膝をついて先輩の鼻頭がぶつかりそうになる。
「不安そうなのは美樹ちゃんじゃん」
 どうしたの、と先輩は頬をすり寄せてくる。
「先輩といると、自分が先輩に対してすごく欲張りなんだなって思っちゃって、そんな自分があんまり好きじゃない。なんか弱虫になった気分になる」
 先輩の腕が私の身体を抱きしめると、私は鼻の奥がつんとして、私も先輩の身体を腕の中におさめた。ゆるくウェーブのかかった髪に顔を埋めると、私は少しだけ安心した。
「先輩が大学にいたころから、いつも先輩が何を見てたのか、感じてたのかずっとずっと知りたかったんです」
 私がそう言って、柔らかいハグをほどくと先輩の顔が真っ赤になった。そして私は自分が何を言ったのか、その意味を知った。
「美樹ちゃんて、ほんと私のことびっくりさせるのが上手いよね」
 照れ隠しに先輩は眼鏡をかけてテレビの前に座って、目を反らしたまま言った。
 有名女優が振り向いた画面を三時間ほど一時停止したまま私と先輩は五感と身体を総動員してお互いの時々つまる言葉を丁寧に編み上げた。

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