楽園

 カーテンからこぼれる朝の新鮮な光が私のまぶたを開かせる。部屋に漂うのは香ばしいコーヒーの匂いにほどよく暖かい空調。それはひとり暮らしの私にはびっくり箱のようなプレゼントだ。身体をのばしながら起き上がると、夜の生々しい爪あとがまだ残っていた。玄関まで続くだろうと思われる脱ぎ捨てられた私と先輩の服に私は小さくため息をついた。そんな久しぶりの逢瀬を思い出しては恥ずかしくなって再び私はベッドに埋もれた。昨夜の余裕のなさが部屋に生々しく残っているがランニングと下着を身に着けて眠っていたのはまだ幸いと言えるだろうか。
 私だけのベッドだったはずが、いつのまにか先輩の匂いが染みついている。いつの間にか侵略されている。侵略なんて物騒な言葉なのに耳元で囁かれているみたいに甘く切なく響くのだろうか。先輩の甘いだけじゃないスパイシーな香りは私の羞恥心をさらに煽る。
 起き抜けの気だるい身体を無理やりベッドから引き離し、シーツをベッドから剥がして昨日の服を拾い上げながら、洗面所に向かう。

 洗面所の向かいの浴室から先輩の浴びるシャワーの音に紛れながら鼻歌が聴こえてくる。新しい朝が来た。希望の朝だ。喜びに胸を開け。大空仰げ。
 調子の外れた間抜けなラジオ体操のうたに私は思わず苦笑する。先輩はマイペースを崩さない。私はそんな先輩を尊敬と羨望を覚える。いつも私だけが余裕がないのか? 私は先輩を満足させられているのか? さまざまな疑問をシーツと昨日の服を一緒くたに洗濯機に突っ込んでぐるぐる回転させる。一緒に迎える嬉し恥ずかしの朝。まだうまく回らない頭を覚醒させるためスーパークールミントの歯磨き粉を歯ブラシになみなみと塗り付け口の中に放り込んだ。パーフェクトな朝なのに、私はまだ完璧じゃない。

「美樹ちゃーん、タオル忘れた」
 シャワーの音が止んだかと思えば、浴室のドアが開く。先輩は素っ裸なので自分の頭のオぺレーションシステムが遮断されそうになるのをどうでもいいことを考えて防ぐ。英語で今の先輩の状況を形容するならネイキッド。ヌードという言葉は裸体が意図的に見られることを言う。ああ、でもそんなことはどうでもよくて。
「ふぉんなふぁっほちゃ、ふあぜいひまふ」
 私は歯ブラシをくわえたまま、先輩の身体を洗濯済みの白いタオルで包む。先輩、髪長いのにドライヤー使わないんだよなあ、肩とかこんな細いのに柔らかいとか同じ女なのに違いすぎるだろとか思ってタオルで水分を取る。
「美樹ちゃん、何言ってるの?」
 甲斐甲斐しく先輩の身体を拭いていると、先輩の上目遣いで私は現実に戻った。顔が真っ赤になっているのを隠すために洗面所に向かい口をゆすぐ。洗面所に鏡があることをこんなに忌々しいと思ったのは初めてだ。
「先輩は冷え症なんだから、ちゃんと身体拭いて下さいって言いました」
 はいはい、と言いながら先輩は身体を隠そうとしない。鏡からちらちら見えてしまうから目のやり場に困る。
「朝っぱらからひとの理性をためすようなこと、しないでください」
 鏡のなかで目線があうと、先輩は得意げに笑った。
「朝からそんないやらしいこと考えてたの?」
 ゴツンといい音をたてて、私の頭が鏡に衝突した。そんな質問されるなんて私もうキャパシティオーヴァーです。先輩は見かねてタオルを巻きつけ私の身体を先輩と向かえ合わせた。
「ごめん、ごめん。美樹ちゃん可愛くて、浮かれてちゃった」
 よしよしと言いながら先輩は私の額を撫でる。普段ならこんな見え透いた女性的な仕草に私は苛立ちを覚えるだろうが、なんのことはない。だってこのひとは私の惚れた先輩なのだ。
 濡れた香水の匂いがしない先輩の身体に引力が発生したみたいに私の身体は先輩の手のうちにすっぽりとおさまる。不思議なくらい私の色んなパーツが先輩のパーツに引き寄せられる。頬をすり寄せ、胸に顔を埋める。私の手は縦横無尽に先輩の湿った肌をもてあそぶ。先輩のくちびるを堪能してようやっと私の理性が働く。
 先輩の引力はまだ有効で私は自分の身体を離しがたい。
「ミント味のキスっていうのもなかなか乙なものね」
「これ以上煽らないでください」
 私も余裕ないから、美樹ちゃんもはやくこっちに来てよ、なんて囁かれたら私も制御しているほうが可笑しなものに思えてきた。私はやっと観念して怠惰な動物になることを決心した。
「先輩とコーヒー飲んで、ごはん食べて、一日中だらだらしてたい」
「それってすごく贅沢な休日の過ごし方」
 先輩は私の髪を梳いて私より上手く私の身体を甘やかす。私はされるがままに甘えてしまう。
「シャワー浴びたら、休日を堪能しましょう」
 みつばちのキスで先輩の引力から抜け出した。お楽しみはまだこれからあるのだ、と私は自分に言い聞かせた。
「美樹ちゃん、言い忘れてた」
 浴室に向かう未練ばかりの身体をふり向かせると、先輩の極上の笑顔があった。
「おはようございます、美樹ちゃん」
そう、ここは幸せで死にたくなるくらいの楽園なのです。

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