kiss and cry

 怠惰に伸びた黒い髪を奈緒は器用にひとつにまとめる。履き古したジーパンとカラーが痛んだシャツを着て、埃にまみれてベッドの下に手をのばす。奈緒はきれい好きではあるが、学生と言っても独り暮らしの女性が毎週できる掃除などたかが知れていて、どうしてもおざなりになってしまう部分がある。
 吹く風にどこかに柔らかさを感じる三月。奈緒はこの部屋を引き払い、奈緒が務める職場もとい病院の近くの寮に生活を移し、引越しの準備をすすめている。ただ大きな家具の下を見忘れていることに気がついた。
 触れ合ったりするための、怠惰になるための、身体を休めるためのベッド。その下には意外と散漫としている。どこかに失くしたと思っていた本や小さなピアス。なぜかスプーンまでも落ちていて奈緒は首をかしげた。奈緒はダンボールの箱に入れられた重々しい高校時代の卒業アルバムを見つけ、どうせ捨ててしまうならと思い、最後に一通り目を通しておくか、とぱらぱらと写真をながめる。
 アルバムに挟まれていた一枚の白い封筒が奈緒の目に止まると、手に電流が流れたように、少し手が震えた。皺のあと、ちいさなヒツジのマークの透かしが入っている。私は知っている、と奈緒は確信を持ってその封筒を開けた。

   玲へ
   ずっと好きだよ
   奈緒

「ああ」
 奈緒のその声は感嘆ではなかった。声帯が震え口からふと漏れる動物的なうめき声。そして震えたのは声だけではなかった。心は津波にさらわれるように出されなかった手紙は奈緒を思い出に連れ去る。奈緒は掃除を一時中止して石鹸で手を洗い、やかんを火にかけた。
 手紙をもう一度みつめて、あの気持ちを思い出していた。
「不器用だよね」
 奈緒は誰に言うのでもなく言葉を紡いだ。玲とまともに口をきいたときの玲の言葉を。

 まだ夏の残照を残す夕焼けはなぜかノスタルジックだなあと奈緒は思いながら、教室の窓をぼんやりと眺めていた。
「なんか朝川って頭良いけど、不器用だよね」
 目の前に数学のノートを写すことに飽きました、と主張する顔の金井玲がいた。
「テストの点数はいいけど、しょっちゅう授業中に本を読んでて取り上げられてるし、サボってるし。あんまり教師のシンショーってやつ? 悪くしないほうがいいんじゃん?」
 金井は疲れたーと言いながら伸びをする。短く切りそろえられ赤茶けた髪はさらさらと流れ、天使の輪を作っている。入念に長さをチェックされたスカートの裾から日本人離れした長い足を組み替える。
 奈緒は音を立てて文庫本を閉じる。鋭い目線で金井を一瞥して、口調が尖りすぎないように注意して言葉を選んだ。
「私でもそう思うよ。何の因果で同級生の課題をみなくちゃいけないのかと思うと、これからの授業態度改める気になったよ。最後の言葉はそのまま金井に返すけど」
「正直だね」
 奈緒の言葉に金井は気分を害すどころか、笑っていた。奈緒はつかみどころのないこの同級生が苦手だった。
 金井玲はふわふわしていた。長く縦に伸びた身体はどこか浮世離れしていて、何より金井の態度が安定していなかった。成績は英語と生物はトップクラスで模試の結果にもよく名前が載っていた。数学が壊滅的。しかも週半分は欠席。本人はどこ吹く風とヘラヘラ笑っている。よくつるむ友達はいるみたいだけど、金井はあまり自分のことを喋らないらしい。
 ここまで調べたのは授業態度の悪さと協調性がないという理由で問題集を解く代わりに、金井の数学の課題をアシストしろと提示してきた数学教師のせいだった。口臭におうハゲ教師め、学費返しやがれ、と普段では絶対口にしない悪態を心のなかでついた。
「朝川ー。これどうやって解くの?」
「それはその前の前の公式と直前の公式を使うんだよ」
 愚痴をこぼしながら、金井は課題をこなしている。奈緒はシャープペンシルを動かし、長ったらしい数字列を書きだして、こことここ、と丸をつける。
「はあ。なるほど」
 朝川って教え方うまい、とまた笑って金井は手を動かす。
「朝川に迷惑かけてるけどマジ感謝してる。数学苦手だから心配してたんだ。けどあのクソ教師に教わるのだけは癪に障るって考えてたから」
「金井は器用だな」
 動かしていた手を止めて、金井は顔を上げて奈緒を見つめた。少し疑問を浮かべた視線とぶつかる。
「しゃべりながらよく解けるなって思って。あとクソ教師って部分は同意できる」
 奈緒の言葉で金井の目が微笑む。金井に友だちが多い理由がその微笑みでわかった気がする。
 下校時間になると奈緒と金井は一緒に駅まで歩いた。腹の足しになるか分からないけれど、と断って金井はあめ玉をくれた。ヨーグルトの甘すぎない懐かしい味がして、奈緒はどこか切ない気持ちになった。
「朝川、今日はありがとう。また教わることになるかもしれないから、今度なんか奢る」
 金井は頭を下げる。奈緒はそれにびっくりしてしまって、口調を速めた。
「そんな、いいよ。大げさなことじゃないし、それより明日ちゃんと学校来いよ」
「わかってる。じゃね」
 軽やかに金井は改札に吸い込まれていった。そして金井は翌日また学校を休んだ。

 毎週水曜日の五限後は金井と一緒に勉強する日になっている。奈緒は一週間の復習と金井が苦手とする箇所をチェックして、問題集から問題を選ぶ。
「学校まじめに来てれば、もっと簡単に解けるのに」
「そうだねえ」
 奈緒の言葉に金井は生返事をする。奈緒は少し苛立った。金井は飲み込みいいのに、やればできるのに。
「金井、あんた出来るじゃん。なんでやらないのよ」
 口走った言葉に棘があったことを知って奈緒は後悔した。別に金井を否定するつもりじゃないのになんでうまく言えないんだろう。奈緒は羞恥心から俯いた。
 金井のほうから変な音が聞こえる。奈緒は探るように顔を上げて金井を見た。
 金井の爆笑を堪える顔。真っ赤になってほころんだ口元を隠している。
「ぶっはあ。ごめん、心配してくれて嬉しいんだけど、ぶはっはは」
「今のどこが笑うとこなのよー!」
 違う意味で羞恥心がわいて、奈緒は数学の教科書で金井を殴る。
「だって、ははは朝川がそんなに情熱的だと思ってなくて、あははははは。やっばいとまんな、ははは」
「笑うのやめてよ!」
「ごめん。はは努力してるんだけど、あっはっは」
 金井は笑い死にしそうになっていて、奈緒は怒るのが馬鹿らしくなって金井と一緒に笑った。
「ほんと朝川って感情表現下手だよねえ」
 腹筋が引き攣れそうになりながら金井は言った。
「別に、不便は感じないし……」
 奈緒は極まりが悪そうに顔を背けた。
「笑うと、すっごく可愛いのに」
 金井が屈託なくそんなことを言うのが奈緒にはまだ苦手だった。奈緒は屈託などない金井には後ろめたさを感じると同時に憧れた。難しい顔などせずに笑っていられる金井は幼いように見えて、実はいろんなものを見ているのだ。奈緒はそんな金井に対してばつの悪さを感じて文庫本を開いた。金井は甘すぎないヨーグルトのあめ玉を口に放り込んで、器用にシャープペンシルを動かす。
「朝川っていつも何読んでるの? 理系クラスなのに本読む人間ってあんまりいないから」
 奈緒は金井の問題集を解いている頭を見つめて、また本に視線を落とした。
「今は俳句集」
「渋いね、女子高生がそういうの読むの、カッコイイじゃん」
 金井は器用に手を動かしながら、言う。金井は意味も底もない笑みを浮かべて、人当たりは柔らかいけれど、誰とでも一線を引いて付き合っているような人間だと奈緒は最近知った。本当に金井のことを奈緒はなにも知らない。知りたいのかもしれない、けど弾かれるのは怖い。奈緒はぼんやりと本を眺めながら、自分の気持ちの名前を探した。

 金井と親しくなることは奈緒にとって簡単だった。水曜日の補講を一緒に帰ったり。課題のスケジュール確認に、聴いている音楽や観ているTVのエピソードが添えられているメール。テスト前、深夜の息抜きという長電話。
 奈緒はそれでも不満足だった。金井玲に触れてみたいと思っていた。シャープペンシルを握る玲の手は私の手とどう違うのだろうか、玲はあのあめ玉を甘いと思うのだろうか。奈緒は自分を貪欲だと思いながら、玲のことを考えていた。玲に触れれば分かるかもしれない、と奈緒は淡い期待を胸に抱いていた。

 二学期の中間テストの玲の数学の成績は飛躍的に伸びた。奈緒は嬉しかった半面、これから玲の数学をみることはないかもしれない。いつもの水曜日の放課後、玲の答案用紙をチェックしながら不謹慎と知りながら奈緒はそんなことを考えていた。
「奈緒の教え方、上手かったから」
 友達に答案用紙見られるのは恥ずかしいなー、と玲は照れながら笑う。
「やるべきことを玲がやっただけでしょう」
「褒めるくらいしてよー」
「むしろ私も褒めて欲しいな、補講しながら自分の勉強もしたんだから」
 奈緒は玲を見つめ、玲の瞳はチョコアイスみたいにとろけた。奈緒と玲の距離は秋から確かに縮まっていた。
「奈緒は何が欲しい?」
「玲のくちびる」
「ははは、私もだ」
 奈緒も玲も笑いながら手を触れて、そうすることが当たり前のように互いのくちびるを重ねた。
「なんか慣れてる」
 奈緒はちょっと不服そうに玲の暗褐色の瞳を見つめた。
「そんなこと、ない」
 玲の語尾が奈緒の口に吸いこまれるように、玲も奈緒も何度も何度もばかみたいに触れた。
 玲の制服の上着のポケットに入った携帯電話が震えると、玲は奈緒から身を引いた。奈緒はその時の玲の目を忘れることはなかった。冷え切ってなんの感情もないような、いつもの笑顔が嘘のように別人で、着信番号を見つめていた。奈緒は静かな教室でのキスよりも玲のその表情を見てしまったほうが罪悪感を強く感じた。
「出なくていいの?」
 奈緒はつい言葉が出た。本当はこのまま触れ合っていたいのに玲のあの表情が奈緒には怖かった。
「奈緒は電話に出て欲しい? 私が出ればたぶん私は……」
 玲は先ほどの情熱を忘れ、笑顔も浮かべず戸惑った子どものような表情のまま奈緒を見つめた。
「ごめん、違う。これは私の問題なの。……ありがとう、奈緒」
 玲は戸惑ったままあどけない微笑みを奈緒に向けた。奈緒はつられるように笑みを玲に向けた。奈緒を残し玲は携帯電話だけ持って教室を飛ぶように駆けだした。玲はそのまま学校から姿を消した。

 出されなかった手紙を片手に奈緒はコーヒーを啜る。昔の出来事がジグソーパズルのピースのように頭の中にふりかかり、手触りをひとつひとつ確かめた。玲と二人で過ごした教室。数字の羅列。ヨーグルトの甘すぎないあめ玉の味。わら半紙の匂い。私の読んでいた本。今はもうおぼろげな玲の笑顔。玲の手。震えた玲の肌。夜がにじむ夕焼け。そして開く前に摘み取られた自分の気持ち。玲との思い出はピースのかけたジグソーパズルだ。奈緒は玲を思い出すたび完成されないパズルを何度も繰り返しやり直す。

 玲は渡米したのだと、奈緒は担任教師知らされたそして一通の手紙が奈緒の手元に残されていた。父に会いに行きます、と。
 玲の父はピアニストで放浪癖があり、それが原因で玲が小さい頃離婚した。半年に一回「元気にしているか」と差出人の住所もないハガキが届けられていた。ほとんど暮らしたことはない、その父親から会いたいという手紙が2週間前に届いた。
 母にはもう新しい恋人がいるが、私はもう一度父に会いたかった。そしてほんの少しだけ父と一緒に日常を過ごしたい。私は父をとても憎んでいるけれど、それと同時にとても強く想っていたの。
 何もかも諦めたふりして笑っているのを見抜いたのは奈緒だけだよ。ずっと言えなくて、ごめん。奈緒と一緒にいて誰かが誰かの代わりになることなんてないと信じられたから、行くよ。嬉しかった、ありがとう。

 玲の手紙にはそんなことが書いてあった。そのときはじめて奈緒は玲の早熟さや情熱を理解した。そして奈緒は幼くて何も手にしていない自分を、初めて子どもだと思い知った。

 時間は万能薬ではない。悠久の流れがすべてを解決することなどないのだ。玲とのことを思い出すたびに、奈緒の心は軋み、音をたてる。ベッドを乗り越えてベランダで煙草に火をつけると、ため息交じりに白い煙を吐きだす。しかし、と奈緒は考える。この痛みすら忘れてしまったら自分はただの愚か者に堕ちるだろう。奈緒は手紙通りずっと玲のことが好きなのだろうと知っていた。かたちを変え、名前を変えて、好きであり続けるだろう。実ることがない恋を不毛だとか滑稽だと言われるかもしれないが、それは奈緒にとってはなによりかけがえのない感情なのだ。奈緒はひとを想うということを玲から教わった。その記憶は奈緒を何よりも豊かにしていた。
「玲だってじゅうぶん不器用だったよ」
 独りごとは春風にさらわれ、行方知れず。奈緒は出されなかった手紙にくちびるを落とし、自身の弱さも痛みも幼さも認めた。それは奈緒にとっての矜持であり、認めるということはスプーン一杯ぶんの愛であることを奈緒は知る。

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