クライ・ベイベー


 夏の終わりの出来事だった。

「中谷真菜、待て!」
 足音を響かせて追いかけながらそんなことを言われて待つ馬鹿がいるだろうか。私は忙しなく足を動かして今は使われていない旧部室棟に逃げ込んだ。古い板張りの廊下音を立てて軋みそんなことを気にせず走る。逃げ込もうにも旧部室棟は安全を考慮してどこも鍵がかかっていて隠れられる場所はなかった。
 吹奏楽部の先輩は私を目の敵にしている。出る杭は打たれるとよく言うものだが私は出過ぎた杭らしい。だからいつも先輩方の玩具にされる。しかしフルートの練習をひとりでしただけで罰則として音楽室のワックスをひとりでかけるなんて馬鹿げている。理不尽なことには従う必要性を感じないと言い放ったので今に至るわけだけれども、今も十二分に馬鹿げている。
「入りなさい」
 私は部室棟の一部屋から出た白い影にものすごい勢いで引っ張られた。
「まったく。静かに絵を描けると思っていたのに」
 私は白い影に導かれドアにもたれ掛るように座った。白い影は白衣の色だった。私は声を上げようとしたが白衣の手で口元を覆われて口が開けない。先輩方の無遠慮な足音がドアを一枚隔てたところで響き私は冷や汗をかいた。もう夏も終わりなのに制服に汗が染み私は不快に感じたが触れる白衣の手はひんやりとしている。白衣の横顔のアップに私は驚いた。纏められた黒髪に黒い眼鏡のつるの隙間から小さな赤い線が見えたのだ。私はそれが何なのかを目を凝らして見つめた。
「やれやれ。嵐は過ぎたか」
 白衣は足音が聞こえなくなると立ち上がり膝のほこりを叩き顔を上げた。私はやっと白衣の全景をみることが出来た。制服のリボンの色は三年生のもので、大きな黒縁の眼鏡をかけて笑っている。
「あの、ありがとうございます」
 私は最低限言うべきことを言った。先輩はその白い布をはためかせ窓際に向かった。
「ここで暴れられたら絵が描けないからね」
 乱雑な美術準備室に部屋に置かれた小さなソファに先輩は座った。
 そして窓際に置かれたキャンバスが目に入った。むき出しの視神経を襲うような青の洪水の絵だ。「包み込む」と「飲み込まれる」は似ているような気がすると思うような大きな絵でこの先輩が描いたのかと驚いた。
「先輩の絵ですか?」
「そうだよ」
 スカートからすらりと伸びる足を組んでソファにふんぞり返っている。私は引力にひかれるように絵の方に歩み寄った。私は絵画のことなど疎いが一メートルとちょっとこの大きな絵は素人目に見ても強いインパクトを与える。
「絵は好き? 中谷真菜さん」
 あまりに無遠慮に絵を見つめていたのに私は気づき先輩の方を向いた。
「あまりに素敵な絵でしたので、先輩……すみません」
 私は自分で名乗ったつもりはなかったのになぜ先輩が名前を知っているか不思議そうな顔をした。先輩はさっき大声で追いかけられていたじゃないと顔をくしゃくしゃにして笑った。
「美術部三年の宮野優です。また追いかけられたら、いつでも来なさい」
 私と宮野先輩はこうして出会った。

 宮野先輩はしっかりしているようで少し抜けている。いまだにインスタントコーヒーの匙加減を間違えて苦い苦いと言いながら飲んでいる。絵には細心の注意を払っているから他のことにはなかなか気配りがいかないようだ。
「中谷は部活出なくて大丈夫なの?」
 最初に会ったとき絵の印象のほうが強かったが、宮野先輩は背の高いひとによっては威圧感すら感じるだろう迫力のある美人だ。それを中和するような穏やかな声音に眼鏡の奥底に隠れたブルーグレイの瞳があることを私は知っている。
「昨日先輩方のご機嫌を損ねてしまったので、今日は自主練の予定です」
 私の通っている学校の吹奏楽部は年功序列がほかの部に比べて厳しい。一年生はようやっと練習させてくれる環境になったがそれも初歩的なもので私には物足りなかった。許容範囲外の練習をすると罰則が待っていたが私は未だにそれをすべて煙に巻いている。
「もっとうまくやればいいのに」
 宮野先輩はパレットや絵の具を出しながら言った。絵は先輩の卒業制作らしくそれに見合った大作だ。日ごとにかわるその作品を私が見つめていると、本当は完成作品しか見せないんだけどね、と言う先輩は少し照れているようで私も面映ゆくなった。私と先輩しか知らない。それは甘いあめを内緒で舌の上で転がすような小さな優越感だった。
「これから描くから」
 いつも通り、声をかけないでという意味だ。私は先輩の横顔を見つめながらうなずいた。不乱にキャンパスに向かって絵を描く先輩の姿は無駄なものがないから凛々しく見える。私はそんな先輩の姿を息を殺して見つめる。

 無粋な足音が聞こえると先輩は筆を降ろした。私は静寂に溶けていたのにいきなりたたき起こす目覚まし時計のベルのような足音に驚いた。立てつけの悪いドアがノックもなしに開けられると吹奏楽部の先輩が顔を現した。
「ノックくらい、してくれないのかな」
「うちの部員がお邪魔していると聞いて引き取りにきたんだけど」
 先輩は眼だけが動いて私を見つめる。驚きと同時に先輩の目はカメレオンのように浮き出ていて私は先輩の名前を思い出そうと必死だった。
「あいにく中谷は美術部員でもあるんだ。そして今は部活中だ。お引き取り願う」
 宮野先輩の言葉に私はさらにびっくりした。私は美術部に入部届を出した覚えはなかった。宮野先輩の語調は強く少しの怒気が混じっていた。
「顧問の先生に確かめておくから」
「どうぞご随意に」
 カメレオン先輩は声を荒げて音を立てドアを閉めた。その音には悪意がこれでもかと含まれていて私は喉がきりっと締まったが宮野先輩に申し訳ない気持ちでさらに締めつけられた。
「中谷が二回目にここに来たとき、勝手に美術部員に加えたんだ。ごめん。こんなこともあろうかと事前に策を練っておいたほうがいいと思ったから。しかし無粋な連中だ」
 先輩はため息をついて天井を仰いだ。私は驚愕と宮野先輩の優しさに思わず涙が出てきた。まばたきをすると粒は勝手に落ちてきてブレザーを濡らした。
「泣かないで」
 先輩はソファに座った私を抱きしめて優しく私の頭を撫でた。今まで部活で不愉快な思いをしてきた記憶が生々しくよみがえって私を襲い止めようと思っていた涙は堰を切ったようにぽたぽたとあふれ出た。私はしばらく小さな子どものように泣いた。
 花柄のハンカチを先輩が差し出すと私はそれで顔を拭いた。
「『絶対零度の君』が泣く姿を見たのは私が初めてなのかもね」
 気まずい空気を和ませようと先輩は笑いながら言った。
「私、そのあだ名嫌いです」
 私も先輩につられて笑った。宮野先輩は少し抜けている。私が宮野先輩のことをどう想っているか知らないでこんなことをしてしまうのから。先輩は私の頭を鳥の巣のようになるまで撫でて笑って言った。
「中谷がなかなかの情熱家だってこと、私は知ってるさ」

 秋も終わりになって木の葉が散り始める頃になると宮野先輩の絵は完成に近づいてきた。
 私は不覚にも完成しなければとほんの一瞬だけ思ってしまった。宮野先輩と私を繋ぐのはこの小さな美術準備室だけだからだ。乱雑に物が置かれ、スプリングが軋むソファがあるこここそ私の楽園だ。そんなことを思う自分が後ろめたく感じる。いつも通りソファに座りぼんやりと先輩の横顔を眺めながらため息をついた。
「珍しく憂うつそうだね」
 宮野先輩は珍しく筆をとめた。
「いいんですか? 絵」
 私が短く言うと先輩はあともう少しで完成だから、と言った。完成まで気を抜きたくないのだろう。
「コーヒー飲む?」
「頂きます」
 私は確かに憂うつだった。言いたいことがあるのにうまく言えそうになくて苛立っていて宮野先輩はそれを感じ取ったのだろう。
「言いたいことがあるならちゃんと言いなさい」
 そう言われた。自分の言葉に、考えに私は締めつけられる。この前の涙のように言葉はあふれ止まることを知らない。
「宮野先輩のことが好きです」
「そうか」
 先輩は「明日、雨です」と聞き間違えたのだろうか? 素っ気なく頷いた。私は混乱した。もっと何か反応があれば私もどうにかできるのに。
「先輩のことを考えすぎてつらい。だけど先輩は気づいているのに私の想いなんてないものとしている。何が先輩をそうさせているんですか?」
 私の苛立ちはもう隠せない。先輩は保温ポットからマグカップにお湯を注いでいる。動揺すらしてないと分かると私はさらに語気を強めた。
「答えて下さい」
「コーヒーブレイクにしよう」
 インスタントの安っぽいコーヒーの匂いが立ち上ると私はついに手を上げてしまった。宮野先輩にはドアも窓もない。柔らかい外壁があるだけで私の侵入を許さない。それがどうしようもなく私を苛立たせる。先輩は私の好意を邪魔なものだと思っているのだろうか? 他の誰かならそれを許すのだろうか? 様々な疑問が一瞬で浮かんでは消え混乱させる。
 カップを払いのけたつもりが私の手は先輩の眼鏡にあたり黒いそれは床に飛んだ。先輩は拾おうとしなかった。
「すみませんでした」
 私はソファから立って宮野先輩の眼鏡を拾った。先輩と向かい合うと合わせる顔もなく不器用に眼鏡を渡した。
「いいんだよ。知らないふりを最後まで通そうとした私のほうが、ずるい」
「そういうふうに言うほうがずるいと思います」
「そうだね」
 宮野先輩は眼鏡を受けとるとこう言った。
「中谷はもうここに来ては駄目だよ」
 先輩は穏やかに笑って、私は指先から体温が引けていくのを感じた。

 冬のあいだじゅう私は自己嫌悪にさいなまれていた。自分の想いが先輩にとって高尚なものではないとは分かっていた。しかし分かっていると納得しているとでは話は別だ。好きだから知りたい。宮野先輩を感じたい。増殖するエゴが私自身を陰うつにさせる。
 部活でも先輩方に逆らうのはやめた。罰則でもなんでも今の自分に与えられるものなら喜んで引き受けた。それは宮野先輩にした行為の罰の疑似体験のようなものだったし、何かしていたほうが悩まなくて済む。吹奏楽部の先輩は驚いたようだったけれど私には何もかもどうでもよい。私の幼い自尊心はコンクリートに落ちてしまったあめのように簡単に砕かれた。

 卒業式が間近になると部活の下準備で忙しくなった。フルートの奏者が少ないということで私も演奏することになったり、私は演奏することと交換に先輩方にかけあって罰則を減らすようにかけあったり、吹奏楽部は多忙で私の投げやりさは減って、その甲斐あってか無意味な罰掃除はほとんど減った。
 時おり廊下ですれ違う宮野先輩は何事もなかったように私の隣をすり抜けた。心が痛まないと言ったら嘘になるけれど私は諦めることに慣れそうだ。そんなとき宮野先輩から呼び出しがかかった。卒業式は三日後だ。もう会うことがないと開き直るとずいぶんと楽になった。

「中谷、久しぶりだね」
 美術準備室に入ると宮野先輩は最後に別れたときと同じように穏やかに言った。
「お久しぶりです。……ずっと謝ろうと思っていました」
 やはり目の前にすると言葉に詰まった。そんなわたしを見かねて先輩はキャンバスのほうに私をうながした。
「いいよ。それより完成したんだ」
「あ……」
 感嘆の声が自然に漏れた。前に深みを増した青の波に私は自然と攫われた。深い海のような青や宵闇の青、様々な青色が氾濫し絵から抜け出そうと私に襲いかかってきた。
「すごい迫力です」
「ありがとう」
 先輩は初めて会ったときのように顔をくしゃくしゃにして笑った。

 宮野先輩は話をきいてくれるかい、と切り出した。
「私は多分誰も好きにはなれない」
 ひとしきり絵を見ると先輩はコーヒーを煎れて私と向き合ってくれた。
「だから中谷が私のことを好きだって言ってくれたとき、正直戸惑うしかなかった」
 先輩は俯いてカップを覗きながら言葉を続けた。
「私の母はとても情緒不安定なひとでね。よく男のひとを好きになって駄目になると私に当たるんだ。だから好きになるということがどういうことか私にはいまだによく分からない」
 母に似たのかな、感情が未発達なところは、と先輩は笑って言って眼鏡を外した。
「ちょうどつるのところに傷があるだろう。これは母が投げたナイフがぶつかってできたものなんだ。跡は残ってしまったけれど母のことを恨んではいない。むしろ不安定ながらここまで面倒をみてくれたことには感謝している。普段は気が弱いくらいなんだ」
 私は先輩の傷跡にそっと触れた。この跡は初めて会ったときに見たものだ。少し膨らんで赤くなっているが傷は完全に塞がっている。眼鏡は度なしでこの傷を隠すためにかけていたんだと先輩は言う。
「中谷のことは愛おしいと思ったけれど何も私には出来ない。だからあのまま中谷をそばに置いておくことはひどく残酷なことをしているとわかったんだ。こんなことを言っていいものかとずっと迷っていた」
 先輩は珍しく言葉が多かった。私は驚きもしたがその分の納得のほうが大きかった。先輩が凛々しく見えたのもあの傷のせいかもしれないと思うと胸が痛んだ。そして自分できめたこといえどもただひとりで生きていくとこの歳で決めるのは容易なことではないと思う。母親がそうであるならなおさら辛い選択ではないだろうか? 私は正直に先輩に聞いた。
「宮野先輩はそれで寂しくないんですか? つらくないんですか?」
 先輩が顔を上げて私と目線があった。先輩の表情はキャンバスに向かうときのようなあどけなくも逞しい顔だった。
「私が選んだことでも、恐ろしく寂しいと思うときがあるよ」
 私はその言葉を聞いて涙が出てきた。このひとは自分で選んだのだ。誰も愛さず、もたれ掛ろうとする自分を律して、誰のそばにもあろうとしない。
「なんで中谷が泣くんだい?」
「……先輩が泣かないからです」
 私は俯いたまま先輩の手を握った。私が宮野先輩のためにできることはあまりに少なかった。せめて怖いと思ったとき私のように先輩を想い慕うひとが居るということを知って欲しかった。
「ありがとう、中谷」
 先輩は顔を上げて絵をみつめた。私もまた先輩の描いた絵を泣きながら目に焼き付けようとした。そしてもう必要ないからと先輩は私に眼鏡を渡した。いいんですかと聞くと先輩はいつものように笑顔を浮かべた。
「中谷が私のことを想ってくれたからもう必要ないんだ」
 先輩はもう一度私の手を強く握った。私も握り返し、このひとがどうか幸せにあるようにと強く想い眼鏡を受けとった。
「先輩、お元気で」
「ありがとう。中谷も元気でね」
 私たちふたりは夜になるまで絵の前から離れようとしなかった。

 卒業式は送り出す方は忙しい。前日から吹奏楽部も大わらわで少しの感傷に浸るひますらなかった。当日に早めに登校するとサックスの音が聞こえた。始発に近い電車に乗ってきたのだから吹奏楽部の先輩ではないはず、と思いながら音楽室のドアを開けた。
「あ、おはよう…ございます?」
 一年生サックスの佐々木貴子がいた。
「おはよう」
「中谷さん、私も今日奏者なんでよろしく。先輩と交渉したんだって? すごいね」
 佐々木は興奮気味に話しかけてきた。
「同い年なんだから真菜でいいよ」
 佐々木は人当たりの良い笑顔を私に向ける。私は佐々木の演奏を一度聴いたことがあった。のびのびとした音で素直に心地良いと感じる音を出す。私は佐々木に親近感を覚えていたのでやっと話す機会に恵まれたのだ。私と佐々木はさっそく今日の演奏の合わせを始めた。
 私は感傷に浸る暇はなかった。今日は晴天で私は宮野先輩を送りださねばいけないのだから。

Page Top
inserted by FC2 system