くちびるから浪漫

 くちびるを震わすと金の身体を通ってビブラートが教室を包み私もサックスの一部になったような気がした。音は私の耳に残響して甘い余韻を残し、音の震えが金管を通して指に生々しく伝わり、私はサックスを吹いているときが一番幸せなのかもしれないと思った。
「佐々木さんのソロはだいたい出来ているみたいね」
 顧問の先生が演奏を評価してくれると今日の部活はここで解散になった。先生が出ていき、お疲れ様という声が飛び交うなかで、取り巻きの女の子たちが音楽室に入ってきて差し入れのタオルやドリンクが私に渡される。
「ありがとう」
 私は微笑むように努力をしたが、内心は数人の部員から冷ややかな目線を浴びせられ穏やかではない。無駄に伸びてしまった手足に無精のせいで短く切られた髪と女子校という三つの原因が重なって幸か不幸か、なんとなくこの学年のアイドルに持ち上げられてしまって、また生来の流されやすい性格が起因して差し入れを断れないでいる。
「貴子、そんな脂の下がった顔しないでくれるかい」
 冷たく取り巻きをあしらい、夜を溶かしたような長い髪を右手で払い私に声をかけてきた。私に唯一本音を言ってくれるこの友人の真菜はその毒舌ぶりとこの学園一ノンフレームの眼鏡が似合うことで、皆本人の前では口には出さないが『絶対零度の君』と言われている。真菜が冷たくあしらったおかげか音楽室は片づけをする下級生の部員だけが残ることになる。
「あんなの相手にしてたらきりがない」
 部室の外を顎で指し、真菜は眉間に皺を寄せて私を見つめる。
「偶像が欲しいっていうから私はそれを演じているだけ」
 私は自分のサックスは他人には触らせない。片付けをしながら真菜の言葉に答えた。
「本当に君っていい性格している。あの子たちに聞かせてやりたいな。今の台詞」
 真菜は薄いくちびるで皮肉っぽそうに笑ってみせた。
「真菜はもう帰れる?」
 小さく収まったフルートのケースを私に掲げて真菜は私にみせる。
「じゃあ帰ろっか」
「佐々木先輩っ」
 帰り道に肉まんでも食べて小腹を満たそうと思いながら真菜と一緒に部室を出ようとしたほんの一瞬だった。下級生の部員で小さなおさげの子が声をかけてきたのは。

 肉まんをふたつに割ると湯気が立ち、私はひんやりとした秋の気配に気がついた。もうそろそろブレザーが必要なのかもしれないが私は女の子としては立派すぎる肩幅を持っているので気おくれしてしまう。割れた肉まんの片方を大きな口で頬張って、空いた片手をカーディガンのポケットに突っ込んだ。
「貴子はどうするつもりなんだい?」
 隣でホットのミルクティを飲む真菜に目を向けた。
「どうしよっか」
 一年下のお下げの子に私は戸惑っていた。きっちりと編まれた三つ編みの女の子、葉山綾香はサックスを私に教えて欲しいと頼んできた。姉の結婚式で曲を披露したいから、と。
「私はいいと思うが」
「他人事だと思って!」
 真菜は面白そうに笑っている。また意地の悪いことを考えているのかもしれない。
「持てる者は下々の者を考えて行動せよ、でしょう? 君のソロは安定しているし少しくらい練習が減っても問題はない」
 ノブレス・オブリージュさ、と真菜は茶化しながら言う。
「私は貴族じゃないんだから……」
 呆れて真菜の言葉に反論する。
「あの部なんて貴族制度というより、カースト制さ。一年生は無条件で雑用ばかり押しつけられて、先輩の言うことは絶対遵守。よく一年生がまだ辞めないと私は感心するが」
 真菜の目つきは真剣だった。確かに私の通っている学校の吹奏楽部はひどい。特に部活のレベルが高いというわけではないが学校自体の年功序列がほかの学校に比べ格段に厳しい。私も一年生のときは毎日のように楽器の持ち運びや手入れの時間をぬって自分のサックスで練習したのだった。しかも先輩からの許可なく練習した場合、音楽室の掃除まで押しつけられた。
 それに一番反発したのが真菜だった。真菜の口は年齢なんて関係なく真実を言う。口喧嘩や口論で真菜には先輩たちは勝つことが出来なかった。そのおかげもあってか私は真菜と親しくなれたし罰則の無意味な音楽室の掃除もなくなった。
 もしかしたら真菜は先輩たち相手にまた何かをやらかすかもしれないと思ったら気が重くなったが、葉山綾香のあの真摯な眼差しを思い出すと私の出来ることならばしてあげたくなる。葉山は本当にサックスが吹きたいのだ。
「真菜に言われると気が進まなくなるね」
 葉山にサックスを教えたいのは事実だ。けれども真菜が関わってくるとなると話は別だ。また部内を引っ掻き回すかもしれないという疑念を浮かべる。
「私は静観するつもりなのでご心配なく」
 私の心中を察してか真菜は冷たく笑った。私は真菜が素直に笑っているところを見たことがないと冷めてしまった肉まんの最後のひとかけらを口にしたとき思い出していた。

 翌日放課後の吹奏楽の練習が終わると葉山は三つ編みを揺らし頭を下げてきた。
「佐々木先輩、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
 昨日葉山にはメールで弾きたい楽曲の有無やほかの楽器の経験などを聞いておいた。しかしどの楽器も未経験らしくいきなりサックスが吹けるかどうか私は不安になった。だけれどもとりあえず出来るところまではやってみようと思った。練習期間は二か月だけ。とにかく形にしなければ。そう思わせたのは佐々木の張りつめた身体と揺るぎないきらきらとした瞳だった。葉山の星くずのような目の下にはまつ毛の影が落ちていて、私はどこか野暮ったいと思っていた印象が変わり熱っぽいその態度が可愛らしいとすら思えた。
「さっそく始めようか」
 私はマウスピースを取りだして葉山にも吹くように目でうながした。少し戸惑った葉山だったがマウスピースに口をつけた。

「その顔じゃ初回はうまくいかなかったみたいだ」
 文庫本を片手に真菜は涼しげな表情でいる。さすが絶対零度の女だ。
「初めてマウスピース吹いて音が出る方がすごいの」
 初めてなのだから覚悟はしていたけれど道のりは長いと始めて五分で気がついた。『自主練してきます』とマウスピースをぎゅっと握りしめて答えた葉山だったけれど形に出来るか不安だ。
「曲は何を演奏する予定?」
「マイ・フェイヴァリット・シングス。お姉さんが好きな曲なんだって」
「なかなか難易度の高いチョイスだな」
「私が吹けるんだ。葉山にだって出来るさ」
「サックス以外夢中になれない君からそんな言葉が出るなんてね」
 真菜は口元だけで笑ってみせるが、からかいの笑みではない。こんなに熱くなっている自分が居るなんて気がつかなかった。私は真菜ほどではないけれど冷たい人間だと思っていたのに。

 練習二日目、なんとか音が出るようにしてきた葉山は早くサックスを吹きたいらしい。本当に二か月という期間は短すぎるが葉山はそれでも懸命に努力しているのが分かって少し胸をなで下ろした。そしてさっそくサックスを持って練習することにした。
「佐々木先輩、音これで合ってますか?」
「そこは右手人差し指と中指で押して」
 私が試しに吹いてみると葉山は感心したように声をあげてみせる。そんなことをいちいちされると照れてしまいサックスからくちびるを離した。葉山はすまなさそうに言葉を紡いだ。
「すみません、間近で佐々木先輩の音が聴けるなんて嬉しくて……本当にご指導引き受けてくれてありがとうございます」
 葉山の頬が白桃の皮の部分のように色づくと私は何かいけないものを見てしまったような気がして目を反らした。
「別に、気にしないでよ。先輩が後輩に教えるのなんて当たり前だし、それよりもここからもう一度吹いてみせて」
 私が譜面を指さすと葉山は上気させた頬のままではい、と返事をした。一所懸命にサックスを吹く葉山の姿に懐かしさとどこか柔らかい場所がくすぐったく感じた。音が美しいわけではないけれど自分も昔こうだったのだと思うと、それを愛おしく思わずにはいられないだろう。ただそれ以外にも喉が締めつけられるような、声にならない言葉が声帯をくすぐり私は少しだけ苦しい。

 個人練習も一か月過ぎたころ葉山の出す音はずいぶんと安定してきた。葉山はお姉さんの持っているサックスのCDを聴いたりして自分なりに呼吸法なども勉強しているらしい。学校の勉強だけでも大変なのにと私は思いながら飲み込みの早い葉山を教えることができて楽しいと思った。やはり真っ直ぐにサックスと向き合える時間があると私には幸福だ。
「先輩のサックスってどこで買ったんですか?」
 葉山は部の所有物のサックスを首から下げて私のサックスに触れようとした。私は思わずサックスに触れられまいと身を引いてしまった。
「ごめん。私、自分の楽器触られるの苦手で……」
「こちらこそすみません。やっぱり自分の楽器って特別ですよね」
 葉山はすまなさそうに自分の前髪を直しながら言った。
「特別っていうか、もう自分の一部みたいな感じかな。自分の思う通りに楽器から音が出るとやっぱり嬉しいし」
 話題を変えようと自分の話をはじめたら恥ずかしくなってしまった。サックスを吹くことが楽しいが今は葉山のことを思い出すからちょっとだけ苦しい。ソロの練習は怠っているつもりはないが今まで通りというわけではない。誰かを想うということはその分心を誰かに明け渡すということだ。葉山はキラキラとした目で私のサックスを見つめている。
「中野にいい楽器屋さん知ってるから選ぶの手伝うよ。葉山なら楽器持っても宝の持ち腐れにはならなさそうだし」
 星くずをちりばめられた葉山の目を見て私は言った。
「ありがとうございます」
 葉山のあどけない笑顔が私には、まぶしい。

 あと三日で本番ということで私がカロリーメイトを頬張ると真菜は訝しげに私を見つめてきた。
「昼食これだけなんて言わないですよね?」
「これと野菜ジュース」
 ジュースの紙パックを真菜に見せると真菜は私の頭にチョップを食らわしてきた。珍しいこともあるのだなとどこか冷静に考えて私は頭をさすった。
「いいですか? 栄養補助食品は補助。メインじゃない。いくら身体がもやしのように伸びるからって気にしてバランスの欠けた食事を私の前でしないでください」
「もやしってひどいなあ」
 真菜は特製かつ自作のお弁当を毎日作ってきている。これで勉強も出来てフルートまで演奏出来て口を開かなければ美人なんて嫌味だ。毒舌のおかげで美人度は七割減りになっているが。
「葉山がお姉さんの結婚式に来てくれって言うから少しは気にしてダイエットしてるんです」
「無い胸が今以上に無くなるね」
 高い鼻を突きだして真菜は笑った。私は思わず握っていた野菜ジュースの中身が出そうになった。
「佐々木ー、三年のお姉さまが面会に来たよ」
 クラスメイトが私を呼んだので反射的にはい、と答えた。嫌な予感はするけれど行かないわけにはいかない。

「佐々木さん、最近葉山さんへの態度が特別なようね」
 三年生の吹奏楽部最後の演奏会が終わっても音大を目指す先輩方の言い分は私の予想した通りだった。先輩方がごちゃごちゃ言っている言葉を左から右に通して、わざわざ人気のないところに下級生を呼び出していびるとは母が持っている昭和のマンガのようだと思う。
「私は一吹奏楽部の部員としてただ後輩の面倒を見ているだけです」
「それが問題だと言っているんです。我々伝統ある……」
 あらぬ熱気に先輩方は浮かされていて私は下らない、と言ってしまった。
「伝統ある年功序列ですか? そんな下らないことで熱意ある部員の芽を摘む理由になりません」
 私は自分でもびっくりした。こんな反論をするなんて。いつもなら嫌味のひとつやふたつ聞き流せばいいものをわざわざ火に油を注ぐ必要なんてないのに。一瞬唖然とした先輩方は口火を切ったように悪態をついてくる。そして反論をしない私についに昭和的最終兵器の平手打ちがとんできた。
「暴力でひとを屈服させようなんて先輩方は野蛮なひとたちですね。このことを顧問の先生に言えば先輩方の部の除籍処分は免れませんよ。いくら引退したからとは言え現役の部員を平手打ちとは伝統ある吹奏楽部元部員にあるまじき行為です」
 私が平然と脅し文句をすらすら言うと先輩方はこれ以上はさすがにまずいと思ったか退散してくれた。私は平手一発食らうくらいで先輩方のほうが脅せるなら安いものだと思った。ちょっと怖かったけどと思いながら校舎のほうに戻ろうとしたら真菜の長い髪が視界に入った。
「覗き見とは趣味が悪い」
 真菜は相変わらず薄いくちびるを伸ばして笑っている。
「何か危なかったら私が出ようと思ったんだけどね。まあ君の言動は面白かったよ。もうすぐ君のお姫様が来るさ」
 お姫様って誰だと思うと葉山が氷嚢を持って走ってきた。真菜は失敬すると言ってひとりで校舎のほうに戻って行った。
「葉山ごめん。真菜に使い走りさせられたみたいで……」
「先輩の馬鹿!」
 肩を上下させ葉山は息を切らしている。よほど急いで来たのだろう。
「葉山に馬鹿って言われちゃったよ」
「そんなおどけている場合じゃないじゃないですか。指の跡が付くくらい殴るなんて、私のせいですから、私がお返ししてきます」
 息が上がってるのは呼吸だけの問題じゃないらしい。
「葉山、そんなことしちゃダメだよ。葉山が頑張っているのみんな知っているんだから。それより氷嚢ありがとう。冷たくて気持ちが良いわ」
「先輩、ごめんなさい」
 まばたきをさせ星くずのような目が潤むと私は葉山のことが愛おしく思った。謝らなくていいんだよ、と言うつもりがいつの間にか葉山のうなじを引き寄せて葉山のくちびるにじぶんのそれを重ねていた。マシュマロみたいにやわらかい葉山のくちびるは少し甘いと気づいたとき私は正気に戻った。
「ごめん」
 私はそう言って葉山を残し校舎へ走って行った。最後の練習は私がサボタージュしてしまった。

 着慣れないスーツを身に着けてスラックスから見える少し高いヒールの靴を履くと自分が少しおとなになった気がしてちょっと照れくさい。葉山から昨日メールが来ていて『明日、待ってますから』という言葉にもう逃げることが無理だと悟った。ならば堂々と行けばいいと私は開き直り、葉山にきちんと想いを告げればいいのだと思う。後は野となれ山となれ。そう思っているが鏡のなかの私は浮かない顔をしている。そういえば私はひとを好きになるというのは初めてなのかもしれない。鏡のなかの自分に笑顔を言い聞かせると私はサックスを持って家を出た。
 結婚式は身内のみで、というのが葉山のお姉さんと旦那さんの意向らしかったから私は披露宴からの参加となって地図を片手に会場に着いた。鼓動が早い。自分が結婚するわけではないのだけれど高鳴る胸は緊張と興奮でいっぱいになっている。花嫁さんってすごいんだなあと思いながら私は葉山の姿を探した。
「先輩」
 後ろから声をかけられるといつもと違う葉山の姿があった。三つ編みをほどいて柔らかく巻かれた髪に薄いピンク色の大きなリボンのついたドレスを着ていた。
「まるでビスクドールみたいに可愛いよ」
 言葉にするつもりはなかったのにと私は思ったが、葉山は薄く化粧づいた頬を紅く染めた。本当に可愛いなあと思わず見とれてしまって本題を忘れるところだった。
「葉山、サックスは吹奏楽部の使うつもりだよね?」
「はい、昨日中谷先輩から借りてきました」
 葉山に楽器を貸したのは真菜だ。あいつはいまきっといつもの薄笑いを浮かべているだろう。
「部活のサックスは安物だから私のを使って」
 私は肩からサックスを降ろすと葉山に渡そうとした。しかし葉山は受け取ろうとしない。
「私のじゃ不服かな? なるべくニュートラルに直しといたつもりだけれど」
 楽器は奏者のクセがつく。昨日眠れなかった私は分解して掃除をしておいた。なにより葉山のために。
「そんなんじゃないんです」
 葉山はうつむいたまま小さな言葉を紡いだ。
「先輩のサックスは先輩の一部だし、もし演奏失敗しちゃったら、お姉ちゃんに恥かかせちゃうし……」
「そんなの葉山らしくないよ!」
 私は思わず声を張り上げた。
「葉山が一所懸命に練習してたの私が知ってるから、私の一部を預けることができるんだよ。葉山が失敗するなんてないよ。緊張するのはわかるからおまじないをかけてあげる」
 私は葉山の震える手をしっかりと握った。
「サックスの神様、コルトレーン様、葉山にふてぶてしいまでの度胸をお与えください」
 葉山は少しだけ吹き出すように笑った。深呼吸を一緒にしよう、と私と葉山は大きく息を吸って吐く。
「これでもう大丈夫だよ」
 葉山は顔を上げるといつもと同じ星くずをちりばめた目とかち合った。
「先輩、ありがとうございます。行ってきます」
 触れた手を離すのは名残惜しかったけれど今は葉山が成功するのが第一優先事項だ。葉山には出来る、言葉にはしないが確信が強くあった。

 披露宴の最後にはブーケ・トスという花嫁が花束を投げ、独身女性がそれを受けとると次に結婚できるというおもしろい行為がある。葉山の演奏は拍手喝采に終わり、私は贅沢な食事に舌鼓をうち、おいしい生絞りのオレンジジュースを飲んだ。そしてこのブーケ・トスでやっと葉山の隣に来ることが出来た。
「最高の演奏だったよ、葉山」
 葉山はちょっといたずらっぽく笑った。
「コルトレーンの演奏も上回るような?」
「葉山の今までの演奏で最高に良かった、という意味で」
 私がそう言うと葉山を真似していたずらっぽく笑って見せた。
「私、葉山のことが好きみたい」
 葉山のお姉さんが花束を投げるその喧騒に乗じて私はひっそりと告げた。
「私も先輩のことが好きです」
 ブーケが宙を舞う瞬間に自然と私と葉山は指を絡めた。手が離れてしまったらこうやって、音を探すため何度もサックスの練習をするように、何度も何度も繋ぎ直せばいいと思った瞬間に白い花が詰まったブーケが私の右手にすっぽりと収まった。

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