夜を歩く

 恋の熱に浮かされていたかった。
 冬の夜はひどく冷えるので自らの吐息で指を温めようと白い息を吐いた。元恋人と別れたのが、30分前でまだ『元』はついていなかった。つぐみとの諍いが輪をかけて私を疲れさせていたけれど電車の路線に沿って歩いている。始発はまだ動いていない。別れてきたばかりなのに何も感じないなと私は思った。この底冷えと同じように自分の心を蚕食する冷徹な目線が私のなかにあった。

 つぐみは私の近所で花屋の仕事をしている。初めて会ったのは夏だった。私が友人の独身さよならパーティーに添える花束を買いに行ったときだった。
 店内で切り花をなんとなく眺めているとつぐみが声をかけてきた。
「何かお探しですか?」
 人当たりの良さそうな爛漫とした笑顔をしたつぐみがいた。お使いように少し奮発したブーケを作りたいと言うとつぐみは予算やどんな種類がいいか聞いてきた。私は花には疎くなんとなく頷いてみせるとつぐみは慣れた手つきで大きなピンクのグラデーションが入ったバラが入ったバケツを抱えて見せた。小さな身体にどうしてそんな力があるのか私は驚いたがつぐみは少し照れたように笑って見せた。
「ゴージャスにしたいなら、やっぱりバラが入っていたほうがいいですよね」
 つぐみのおだやかな声音と笑顔に私はまぶしくて目を細めた。

 ひどいやつだなあと思ってため息をついた。生ぬるい私の息は白い蒸気となり、立ちどころに消えていく。なぜこころが痛まないのだろう。つぐみの平手打ちをくらった頬は私の身体のどの部分より熱くて、そこだけは冬の風を歓迎している。どうしても心が痛まない。愛するひとを失った悲しみや自分の想いが伝わらないもどかしさもなく、心が痛まないことすら不思議に思う自分が居た。

 つぐみの花屋で一輪だけ花を買うようになったのは、花束を買いに行った翌週の週末からだった。慌ただしい私の日常に花や植物など置くところはなかったけれど、ブーケを受け取った旧友の嬉しそうな表情を思い出すと、つぐみの笑顔をいつの間にか心に浮かんでいた。それは波さえ立たない小さな沼に水滴が落ちたように波紋は大きく広がっていった。私は仕事帰りに花屋に寄って切り花を一輪買っていた。

 寒いとか痛いとかそんな即物的なことばかり考えている。足を動かしていれば寒さはしのげる。郊外住宅の駅の感覚はとても長い。電車ならで10分で着く距離なのに1時間歩いてまだ1駅分だ。午前4時半。いっぽいっぽ歩みを進める。まだ始発は動いていない。コートの合わせを直してなるべく身体を大にして歩く。寒い寒いと思いながら。

 夏の残照を置き去りにして、いつのまにか秋を迎えて街路樹は色づき始めていた。
「街に植えられている木は落葉樹が多いんですよ」
 仕事帰りに花屋に寄る習慣がついていたが、つぐみは追い払おうとせず、ときどき私と談笑もしていた。
「夏は日差しを遮って影を落とすように、寒くなりはじめたら日差しがこぼれるように、そういうふうになっているんです」
 私はなんとなく街のなかにある名前も知らない樹を思い出していた。
今度いろいろ教えて下さい、と私はなるべく穏やかに言うとつぐみはいつもと同じように穏やかに答えた。
「いいですよ。大原さんウチのお得意様ですし」
 つぐみは私よりいろいろなことを知っている。つぐみは甘くて柔らかい空気を纏っていてその手触りのよさに私は囚われていた。

 轟音を立てて貨物列車が通り過ぎた。足元ばかり見ていて目に入らなかった葉の落ちたけやきが見える。けやきは街路樹としてよく植えられている。枝が重なって小さな音を立てている。歩くことは苦しくはなくなってきていた。あと30分もすれば始発が動く。
 くすぶる篝火のような倦みを抱いたのは、奇しくもつぐみと初めて抱き合って眠っていたときだった。散歩も食事もお酒もセックスも自然な流れだった。濃密な距離の中にいて、つぐみと私は互いを求め欲していた。私はつぐみを貪り、つぐみは私を弄んだ。そんななかでも衝動だけではない労りと慈しみがあって私もつぐみも夢中になっていた。ただ目が覚めると、それがすべて夢のように霧散してひどく冷ややかな自分が居た。感動も歓びの残り香すらなく、つぐみの寝顔を見つめた。幸せそうな寝顔が私の知らない人のように見えてふとこのひとは誰なのだろう、と私は怖くなってベッドから出た。
 私はつぐみの働く花屋には行かなくなって仕事に没入した。つぐみが会いたいというときは仕事を言い訳にした。触れたいと伝えられれば私は殻に閉じこもって拒んだ。つぐみのせいではなかったが、私はひどく疲れた気持ちを伝えられなかった。つぐみの責めは当たり前で私はそれを受け入れることしか出来なかった。

 北東の空は闇が薄くなり、暖かな黄色がゆるやかに夜を凌駕していく。その自然の力が、つぐみが私に与えてくれたすべてのように思えて、私の凍てついた柔らかい部分を溶かし、涙がこぼれ始めた。

「つぐみ、ごめん」
 目の前に広がる朝日に、寒さでかじかんだ口が自然と動いた。
 つぐみはいつも素直だった。欲しいものは欲しいと言える私と正反対の人間だった。つぐみが大好きだ、今も。好きになるほど自分が、卑屈になって疲労していたのだ。私はつぐみになりたかったのだ。好きだからこんな自分を会わせたくなかった。好きだからこんな自分に触れられたくなかった。
 歩きながらこころの底から悲しみがあふれてきて、今までの分の気持ちが押し寄せてくるように、私の身体の中を駆け巡った。私は震えながら歩くことを止めないように努力したが、涙腺はたかが外れたように流れ続けた。つぐみに償えなくて、ごめん。つぐみの愛に報えなくて、ごめん。ただのガキで、ごめん。
 あふれてくる感情と言葉はすべてつぐみへのもので、私は光に向かって歩き続けた。

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