ヴァイオリニスト



※異性愛描写が主です。男性視点注意!




 朝食をとっている最中、チャイムが鳴ると環が齧りかけのトーストを皿の上に置いて、慌ただしく玄関に向かった。いつもと何も変わらない朝だ。修司がジャムの瓶を持って僕のテーブルまで来る。
「どうした?」
「ぬって!」
 修司は一人前に忙しい朝を演出している。
「塗ってください。お願いしますって修司がパパにお願いできたら、塗ってあげるんだけどなあ」
 修司はちょっと目を逸らし、何かを考えたあと、僕と目を合わせた。
「ぬってください。おねがいします」
「よし。どのくらい塗ろうか、たっぷり?」
「たっぷり!」
 僕はバターナイフを取ってジャムを掬う。朝食で修司の食パンにジャムを塗るのは僕の仕事だ。修司を片方の足に乗せて、即興でいちごジャムの歌を歌う。今日も赤がきれいね、いちごジャム。修司はそれを聴いて笑いながら繰り返す。
「きょうもあかがきれいね、いちごじゃむ!」
 塗れたよ、とお皿を渡すと小さな手でそれを受け取る。
「ありがとう、ぱぱ」
「どういたしまして」
 こぼさないように食べるんだよ、と僕は付け足す。うんと修司の返事は大きいけれど、まだまだひとりで食べるのは危なっかしい。
 環がダイニングに戻ってくると、僕は尋ねる。
「朝、早くから何の用事だったんだい?」
「ええ、ちょっと、回覧板に間違いがあったみたいで」
「環、顔が真っ青じゃないか、大丈夫か?」
「大丈夫よ」
「ままー、まよねーず、とって!」
「マヨネーズね、かけ過ぎちゃだめよ」
 僕の心配の言葉は修司に遮られた。環の顔をそっと覗くと僕に笑いかける。初めて会った頃のあの弱々しい笑顔だ。
「博さん、そろそろ出かける時間じゃない?」
「ああ、そうだね」
「ゴミ出しもお願いします」
「分かったよ」
 修くん、パパに行ってらっしゃいの挨拶をしなさい、と環は言った。僕は新聞を折りたたみ、椅子に立てかけておいた鞄を持った。
「ぱぱ、じこにあわないようにね」
「うん。今日は早く帰れると思う。そのあいだママのこと任せたよ」
 僕は修司の柔らかい髪をくしゃりと撫で、環の顔を見たが、環は修司をみつめたままで、目線を合わしてくれなかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 環が修司を抱き上げ、やっと顔を上げた。弱々しい笑顔だ。環の笑みに後ろ髪を引かれるように家を後にした。

 環と出会ったのはまだ夏の名残を残す秋の日だった。僕はそのときまだ一介の大学講師で環は大学生だった。環が僕の受け持っていた講義に出ていた。喪に服しているような黒い服に、ピンと張りつめた背筋が印象的だった。大教室での一般教養の授業だったのに環のことを覚えていたのは、最前列の一番、端の席に座ってノートを黙々と取っていたからだと思う。環は大学生らしからぬ落ち着きを払っていた。

「松下君、今日ひまかね?」
 師事していた教授にそう聞かれなければ、僕と環はすれ違うだけだった人間だったかもしれない。
「ええ、ひまです」
「なら私のゼミの飲み会に付き合ってやれんかね、病身に飲み過ぎは堪えるからな」
「お付き合いします。教授は酒が好きですけど、ほどほどにしておいて下さいよ」
「家内には内緒だぞ」
「分かっています」
 教授は身体を壊して先月、退院したばかりだった。そろそろ教職から引退を、と考えていて、教授のポストを僕に、と考えていてくれていたので講義の傍ら教授の助手のような仕事をしていた。教授の奥さんは穏やかだが聡いひとなので教授の飲酒にすぐ気づくだろうが、僕は言わなかった。

 飲み会は学生の財布事情も考えて、居酒屋のチェーン店で行われることになって、そこにゼミ生の環がいた。教授のゼミは女子学生が多く、テーブルには合成着色料で染められたカラフルなカクテルが並んでいたが、環の手元にはウィスキーのロックがあった。
「やまもっちゃんは彼女とかいないの?」
「残念ながら……そういう君はどうなんだい?」
「やっだ、やまもっちゃんたら、セクハラだよー」
 女子学生に舐められ、教授は若い女の子に囲まれ好々爺然としている。どうして大学生とは静かに酒が飲めないのだろうか、自分の大学生時代は思い出すのも怖いが、と酔った頭で考えていた。
「やまもっちゃんって、もしかして童貞?」
「ははは」
「否定しないってことはそうなんだー」
 僕は酔っている女子学生の隣から環への隣へ移った。そのときの環はいつものように黒い服を身にまとい、細い煙草を指に挟み、相変わらずウィスキーのロックを淡々と飲んでいた。
「煙草、一本もらえる?」
「山本先生も吸われるんですか」
「うん、疲れたときにときどきね」
 環は煙草を一本、僕に差し出し、火を着けてくれた。
「若い女の子がこんなことしちゃだめだよ。火を着けてくれた後に言うのもなんだけど……」
「気を付けます」
 微笑もしない環はグラスを口に運ぶ。
「酒はよく飲むのかい?」
「ええ、まあ」
 取りつく島がないといことはこういうことで、僕と環の会話はすぐ終わった。しかし居心地が悪いわけではない。彼女は頑ななわけではなく、淡々と自分のペースで酒を飲んでいた。大人の飲み方だ。横にそういう人間がいると自分も安心して酒が飲める。

 酔った女子学生をタクシーに詰めて、教授を送ったら、環と僕が残った。
「あれだけ飲んだのにあまり酔ってないみたいだね」
「酒量はわきまえているので」
「駅まで一緒に行こうか」
「はい」
 歩き始めると環の姿勢の良さに僕は気が付いた。
「ずいぶんと姿勢がいいんだね。なにかスポーツしている?」
「スポーツではないですけど、ヴァイオリンを少しやってました」
「すごいね、僕は聴くのすらままならないよ」
 会話はそれ以上進まず喧噪のなかお互い歩みを止めず、駅へとむかった。
 駅に着くと、環は目礼して僕の前から消えようとした。
「里中さん!」
 僕は血迷っていた。大声で環を引き留めた。
「なんでしょうか」
「里中さんは黒い服が似合うけど、きっと水色とかも似合うんじゃないかな」
「……酔っているんですか?」
「うん」
「セクハラですよ」
「ごめん」
 冷ややかな環の言葉に僕は項垂れるしか出来なかった。そして羞恥の気持ちで顔が赤くなるのが分かった。僕は環の顔が見られなかった。恐々と顔を上げると環は笑っていた。
「冗談ですよ。だけど山本先生っておもしろい」
 僕は環の顔を見つめて声を上げて笑った。環もつられて吹き出したが、すぐに笑いを止めて目礼をし、僕のそばから消えた。あっという間去り際だったが、そのときの目元に浮かんだ寂しそうな表情を僕は今でも覚えている。

 翌日、資料の整理を頼まれていたので教授にそれとなく環について聞いてみた。
「里中君はね、ちょっと複雑な学生なんだよ。ドイツの音楽大学を中退して、この大学に入りなおした。ドイツ文学ゼミに入ったのはその関係だと思ったがね」
 教授は渋い顔で自分の言葉に頷いていた。
「ドイツの音大というものにそうそう簡単に入れないことは誰もが分かっているだろう。少なくとも彼女は他の学生とは違う何かを見てきた。文学が彼女のなにかを解きほぐしてくれればいいんだが」
「留学中の彼女にいったい何があったんでしょうか?」
「それは私にも分からん。ただ日本に帰ると決めたときのことは喋ってくれた。『ヴァイオリンの弦が切れてしまったんです』と言っていたな」
 そのときの里中君は儚げに懐かしむように言っていたよ、と教授は付け足した。僕はその顔が容易に想像できた。僕は大変な失態を起こしたものだと思った。この時初めて環のことを好きになっていると気づいたからだ。彼女はきっと手強い。容易に恋に落ちないだろう。けれども僕は環が欲しいと餓えていた。

 ゼミの飲み会ではいつも環と僕が最後に残った。短い言葉を交わしあい、最後は目礼して別れる。環はあれから一度も笑っていない。僕の恋はどう考えても絶望的だった。けれど教授の引退の——これが環と会うのが最後になるはずだった——飲み会の別れ際に、僕は環に告白した。
「いいですよ。そのかわりと言っては何ですが、私と結婚を前提に付き合って下さい」
 僕は嬉しかったが、まだうら若い、遊びたいさかりの女の子が「結婚」という言葉を持ち出してきて驚いた。
「結婚が夢なのかい?」
 将来の夢はお嫁さんって感じには見えないけどね、と僕が笑うと、環は射殺すような視線を僕に向けた。
「私は結婚して、子どもを産まなくちゃいけないんです」
「そんな、義務みたいに捉えなくても……」
「いいえ、私の義務なんです」
 僕は環の言葉に尻込みした。なぜ環はここまで頑ななのだろうと。
「僕のことは好きかい?」
「……分かりません。でも不快ではありません」
「君はどうでもいい男と結婚したいのかい?」
 環は黙った。僕は少し頭にきていたし口調も刺々しかった。この女はいったい何を考えているんだろう、まさか変な人間を掴まされたのでは、と疑心暗鬼になっていた。
「山本先生は、優しくしてくださったので正直に言います。約束したんです」
「誰と、何を?」
 環は迷子の子どものようにか細い声で話し始める。
「音楽学校で一緒だったある女の子と約束したんです。私はヴァイオリンを辞め、その子の傍らから離れるなら、ただの女になるって。結婚して、子どもを産んで、そういう普通の女になってくれって言われました」
「その言葉を馬鹿正直に真に受けていたってわけか」
 僕はため息をついた。環が敏感なのだか鈍感なのだか分からなくなった。環は呪いのように結婚を捉えているけれど、環の傍らにいた少女はきっと今以上に幸せにならないと許さないと言っているようなものではないか。環は愛されていたのだな、と僕は思った。
「馬鹿正直とは失礼です」
「ごめん、ごめん。でも君は間違っているよ」
「何がですか?」
「僕は君の呪いのために付き合うんじゃない。幸福になるために一緒になろうと言ってるんだ。君が好きだった子も君の幸せを……」
「私は、幸せになんて、なりたくありません」
 僕の言葉を環は遮った。とても力強い言葉で、拒否の言葉を告げる。僕はため息をついた。
「君の頑なさはよく分かったよ。でも、子どもができたら不幸な姿を見せ続けるのかい?」
「……そういう言い方はずるいです」
「ずるいさ、君が幸せにならない世界なんて僕は認めないね。たとえ君がそんな世界を望んでいても」
 環は歩みを止め、途方に暮れたように佇んでいた。
「みんな、幸せになる義務があるんだよ」
 僕は環に手を差し伸べた。環は僕の手を握り返して三月のまだ少し寒い夜空の下を歩いた。

 その後の交際も順調で、しかしやっぱり環は頑なであったけれど、プロポーズしたとき環は少し驚いたようだったが素直な気持ちを話してくれた。
「私はいろいろ足りない人間です。努力はしていますが、それでも足りないでしょう。私を選んで、必要としてくれて、ありがとうございます。私も博さんのことを愛しています」
 環らしい簡潔な愛の言葉は僕を震わせた。環が初めて僕のことを愛しているといったからだ。そのとき僕は冷たくて薄い環の体を力強く抱きしめたのを覚えている。そして結婚して二年目の夏に修司が生まれた。それから今に至る。

「ただいま」
 いつもは環がスリッパの音を立てて僕を迎えに来てくれるのだけれど、修司が廊下から顔を出した。
「修司、ママはどうした?」
 修司は防音室を指して僕は気落ちしている修司を脇に抱えた。そうするとたちまち修司の笑い声があがった。
 ダイニングには小包と手紙が置かれていた。まさか、と思って胸が忙しく動いた。小包は開かれたままだった。クラシックのCDでパッケージには女性のピアニストの写真が載っていた。CHISATO KURUSUと書いてある。そうか、この女性なのか。環の魂を半分持って行ってしまった女性は。僕は嫉妬や怒りを感じなかった。なぜなら僕の知っている環はこの女性の痕跡をあちこちに残したままだったからだ。名前こそ知らなかったが、つねに気配を感じていた。まるで環を護るように。
「まま、だいじょうぶ?」
「ああ、大丈夫だよ。いまママはね、とっても、怖いかいじゅうと戦っているんだ」
「かいじゅう?」
「そう。ママにしか倒せないかいじゅう。だからそっと応援してあげるんだよ」
 環は環自身といま戦っている。僕は早くこっちに戻っておいでと願うくらいしかできないのが歯がゆい。

 短針が二つほど進むと青い顔をした環が防音室から出てきた。
「ごめんなさい。私……」
 言葉を忘れたようにごめんなさいと小さな声でつぶやく環は見ていて痛々しかった。
「それはうちのチビちゃんに言うべき言葉だと思うよ」
 環は顔を上げて修司の部屋へとまっすぐ向かった。僕はほっとして冷蔵庫から安いワインを出してガラスコップで飲むことにした。
 環が階段から降りてくると、一緒に飲まないか、とグラスを目の上まで掲げた。うなずいた環はグラスを取り出し、僕の隣に座った。環は手酌でワインを注いだ。
「ごめんなさい、博さん。今日はどうしてもひとりで向き合う時間が欲しかったの」
 そう言うと赤い液体を一気に飲み干した。僕は心配だった。環のこころが、魂がここにあるか。僕は整髪料が取れかけた前髪をかき上げた。
「僕はときどき不安に思うんだ。君は本当はまだヴァイオリンを弾き続けたいと思っているんじゃないかって。修司を抱くより、僕に抱かれるより。踊り続ける赤い靴の少女みたいにヴァイオリンを弾きたいのかと思っている」
「それは違う」
 環は静かな声で否定した。
「私のヴァイオリンの弦は切れてしまったのよ。私は修司を抱けないでヴァイオリンを一日中弾いている生活に戻れって言われたら、喜んで指を切り落とすわ。私が赤い靴の少女だったらノコギリで足を切り落とすわよ」
 そしてまた赤い液体を今度はゆっくりと飲む。
「今日は変わってしまったことを確認するために弾いたの。やっぱり弦の切れたヴァイオリンじゃうまく弾くことはできない。もう二度と手放すものを間違えないように、ひとりきりの時間が欲しかったの」
 環のヴァイオリンの弦はちゃんと張られている。それが分かっていながら、ヴァイオリンの弦が切れていると言う。環とヴァイオリンの間には埋めがたい裂罅がある。一生かかってもそのひびは埋まらないだろう。だから僕は何度でもその裂け目の橋渡しをしよう。その橋が何度、決壊しようとも、僕がいる限り環が現実に戻ってこれるように。
 僕はヴァイオリニストではなく主婦の手をしている環の手を強く握った。環は僕の肩に凭れかかってやっと脱力した。
「かいじゅうなんて怖くない」
 今日はお疲れ様、と言って僕は環の肩を抱き寄せた。こうして過去の嵐は過ぎ去って、押しては寄せる波のような日常が帰ってきた。僕は言葉に出さずにこころの中でそっと呟いた。でも、環。僕は君のかいじゅうが少しだけ怖いよ、と。

Page Top
inserted by FC2 system