わたしのかいじゅう



※この小説は異性愛描写を多く含みます




「ダンケ」
 国際便を郵便配達のお兄さんから受け取ると、昔の習慣でつい口に出てしまった。お兄さんは少し困った顔をしたので、私は微笑んで日本語で「ありがとう」と言い直した。お兄さんが去ると、私は小包の宛名をゆっくりと撫ぜた。青いインクで書かれた少し癖のあるドイツ語は動揺をもたらしそれと同時に少しの感傷を呼び起こさせる。私は玄関のドアを閉め、他人を締め出す。私の家、私の家庭、私の花瓶……すべて私の所有物で私の空間は埋まっている。ただ、この小包を除いては。そう思うと小包は何か不気味な異様なものに見えて、玄関の靴箱の中に入れた。私の秩序をかき乱すものは私には必要ない。
 私の夫は新聞を広げ私の息子は朝ごはんを食べている。まだ朝なんだ。私はやるべきことを思い出す。


「今日はアンパンマンのお弁当にしたのよ」
 博さんを送り出してから、息子に幼稚園の靴を履かせながら柔らかく笑ってみせる。アンパンマン好きでしょう? そう言うと修司の目が変わる。眠そうな目がきらきらと瞬かせ、アンパンマン! と繰り返す。修司は自分で靴下がまだうまく履けない。もうそろそろ自分で履かせる練習をしたほうがいいだろうか少し考える。
「まま、アンパンマンのおうた、うたって」
「じゃあ一緒に歌おうか」
 修司の黒くて柔らかい髪を撫ぜて手を繋ぎながら幼稚園に向かう。朝のこの時間が一番好きでアンパンマンのマーチを口ずさみながら、修司とゆっくりと歩く。
「まま、アイとユウキってなに?」
 アンパンマンのおともだちなのに、しらないの。修司は私の顔を覗き込む。私はこんなとき、心の底からこの子を産むことができてよかったと思う。
「しゅうくんはママのこと、好き?」
「すき」
「ママもしゅうくんのことが大好きよ。それがアイ」
 私は修司を抱き上げる。アイ、アイと修司はつぶやく。
「ユウキは、しゅうくんの友だちがいじめられていたら、しゅうくんはどうする?」
「たすける」
「とっても怖いかいじゅうが襲ってきても、友だち助けるのがユウキ」
 かいじゅうという言葉を聞いて、修司は首を絞めつけるように抱き着いてくる。
「アイもユウキもたべものじゃないの?」
「食べものじゃないけど、アイとユウキがなくちゃだめなの」
 アンパンマンもしゅうくんもママも。私は修司の髪を指で梳きながらなだめる。もうすぐ幼稚園に着くよ、お友達に見られたらしゅうくん笑われちゃうよ、と言うと修司は降ろしてと大きな声を上げる。見栄っ張りなところは私に似たのかしらそう思いながら修司は幼稚園の方に駆けて行くのをゆっくり歩きながら見守る。幼稚園の先生に大きな声で挨拶する修司を見送って、私は担当の先生に挨拶をして修司と別れた。

 午前のレッスンは十一時から始める。その前に庭に出て一輪の白いばらを摘む。品種改良をされていないこれは小さな花弁を少しだけ綻ばせている。害虫にも強くて年に二回花をつける。
 防音の扉を開けてグランド・ピアノの横に置いてあるテーブルに飾りピアノの音が乱れていないか、私は鍵盤をたたく。不調は見当たらないと確かめると11時になった。
 生徒と挨拶を交わし適度なところで会話を切る。この生徒は専業主婦が多いこの一帯で結婚してからピアノを始めた主婦のひとり。忙しない日常の中で子育てに追われ、子どもが大きくなると何をしていいか分からなくなるタイプの女性で私は彼女たちに尊敬と同時に畏怖を感じる。
 私は彼女にどう思われているのかしら? 彼女の軽蔑と嫉妬がない交ぜになった視線が私を貫く。それは私を問いただすようだけれども、私が答えを出そうとすると間違っていると言う。私の解答はすべて彼女にとって間違いなのだ。ではなぜ問いただすのかと聞けば、こう言われるに違いない。私の存在を品定めるかまたは井戸畑会議の話題提供にすぎない。
 指使いを丁寧に指摘して、何度も同じフレーズを弾かせる。家には立派なピアノがあるのになぜか練習をして来ないからまったく進まない。騙し騙し少しずつ進めているけれど進行が遅いと言われる。確実にミスを少なくするようにレッスンを進めたいと言うと私が悪者になる。それは教養のない私を責めているのか、忙しい時間の合間をぬって練習しているのに。私は何も言えないので温和に笑うように努める。苛立ちが音に出て不協和音が響く。私は何も言わずそれをただひたすら聴く。
 終了時間が来ると少な目に練習量を出し挨拶をする。彼女の顔は歪んでいる。きっと彼女はかなしいのだろうと思った。しかし私は言葉が見つからない。私の笑顔は増して不気味なものになるが私にとってはどうでもよいことだ。

 洗濯ものを取り込んで、修司を迎えに行くまで一時間ほど余裕があったので、崩れていないかたちのしっかりとしたバッハをCDで聴き、譜面を読み直し、弾いてみる。運指を間違わないように少しゆっくりと。弾いていても演奏がツルツルと滑っていくようでままならない。昔からピアノは苦手だった。ドイツで学んだ表現は今ではほとんど指が忘れてしまっている。楽譜通りに指を動かするのが精いっぱいで音が味気ない。昔だったら表現力が乏しいと言われるところだろう。
 不安定なのはテクニックだけではなくて、ひとつひとつ音にこめられる感情でもある。音は奏者の本質を暴き晒す。ふぞろいな音の羅列が耳に残響して私をほんの少し居たたまれない。心無い表情より自分の出す音のほうが不愉快だとは自分でも不思議に思う。

 修司を迎えに行くついでに買い物も済ませてしまおうと車を走らせた。
 走りながら駆け寄ってくる修司に腕を広げる。抱き上げると柔らかくて温かくて重みを感じる。私に抱きしめられることをこの子はいつまで望むのだろうかとふと思った。
 担当の先生と挨拶と短い世間話をして車に乗る。修司と話をしながら夕食のメニューを考える。
「あしたね、かなちゃんとたもつくんがあそびにきたいって、いってたけど、いい?」
「もちろんよ」
 きっと香奈ちゃんと保君のお母さんも来ることになるだろう。
「久しぶりにケーキ作ろうか、二人で」
「チョコの?」
「そう。しゅうくん好きだよね」
 修司が頷き、私はザッハ・トルテのレシピを思い浮かべた。

 修司の靴を脱がせると修司はぱたぱたと小さな足音を立てて走って行く。ちゃんと手を洗いなさいと声を上げると、あわあわーと言いながら洗面所のほうに駆けて行った。
 昼間干しておいた靴を仕舞おうとすると、小包が出てきた。私はああ、という無意味な言葉が口から漏れた。病原菌のもとのような不愉快さと嫌悪が背中を走る。五百グラムもないだろうその小包は私にとっては重すぎる。宛名をもう一度撫ぜて私は自らに問う。この小包をなかったことにすることを私は許すことができるだろうか? 答えはあまりに自明で小包を解くため私は指を動かした。
 一枚のCDと手紙が入っていた。CDはピアノ協奏曲でジャケットの裏には千紗都の写真が写っている。走り書きのような手紙は短くまとめられている。

   環へ
   あなたがドイツを去ってもう十年以上です。
   私は誓約通りにピアノを弾き続けています。
   あなたは嫌がるだろうと思いましたが、素晴らしい演奏ができたのでお送りします。
   Ich liebe Dich.
   千紗都より

 白い何の絵柄もないオフホワイトの便箋の青いインクの染みたち。千紗都はこの文章をどうやって書くことができたのだろうか。イッヒ リーベ ディッヒ。この言葉を口にするととても昔の言葉のように響いた。意味のない異国の言葉は愛を伝えるどころか、私を孤立させる。口が渇き唾液が粘つく。深呼吸をしてダイニング・テーブルの椅子から身体を持ち上げ水をグラスに注ぐ。そしてつかえながら飲み干す。口の端から水がこぼれるが私は気にしない。
 私は何かしながら音楽を聴けない。音楽を聴きながらなぜあんなに他人はうまく動けるのだろう、といつも疑問だった。千紗都は服を着るようにごく自然にピアノを弾いていた。十代の無邪気さとアンバランスな完成されたテクニックで多くの多くの生徒の目を引いていた。何時間にも渡る膨大な練習を感じさせない、整っているがのびのびとしたピアノだった。千紗都の名前は知っていたが同じ音楽学校の定期演奏会ときに初めて言葉を交わした。初めて曲を合わせた後、千紗都は息を上げながらこう言った。
「環さんのヴァイオリンは豊かですね」
 上手いとか技術レベルが格段に高いそういう表現はよく聞いていたけれど、十代の音楽以外何も知らない私に「豊か」などと言われるほどの表現力はなかったはずだ。そもそも千紗都の演奏も本当に素晴らしかったかと聞かれれば、答えに窮する。いつの間にか私が千紗都で、千紗都は私になってしまった。
 終わりはよく知っているのに始まりの瞬間は思い出せない。私は始まりというものを忘れてしまっていた。千紗都との出会いは始まりそのものが幸せだったということを。
 蛇口を閉め忘れた様にだらしなく涙がCDに落ちる。どこでボタンを掛け違えてしまったのかすら分からない。私は千紗都と別れることを望みもしなかったけれど強制されたわけではない。私と千紗都が決めたことだ。
 顔を上げれば修司が私をうかがうように見つめている。目が合うと、ままと呼ぶ。
「何を見ているの?」
 修司への声が冷ややかにダイニングに響いた。
「何を見ているの?」
 二度目の言葉も止められなかった。私の声は修司を責め立てるような響きで修司は泣きそうな顔をしながらダイニングから出て行った。
 私は泣きながら嘲るような笑い声が喉からあふれる。つまらない感傷に自分の子どもを巻き込むなんて、最低だ。なにをやっているのだろう。深呼吸をして水をまたひと口飲んで、防音室に入った。

 音楽はすでにここに存在している。
 それが聴こえるようにヴァイオリンを構える。この瞬間から私は私ではなく、音楽への奉仕者であり、ヴァイオリンの奉仕者である。弓の張りを確認してから弦を弾き、調弦する。この空間にあふれる音とヴァイオリンの音が少しでもずれていたら、ヴァイオリンの音は不愉快なものになってしまう。調和、均衡そんな言葉を思い浮かべながら、研ぎ澄まして譜面に描かれている音を的確に表現する。私の身体は音を引き出す媒介物に過ぎない。五感を研ぎ澄ませて、ここに既にある音を増幅させるように弓を弦に滑らせる。誰の何の曲を弾くか、部屋に入った瞬間分かっていた。息を吸って吐き曲を弾きはじめると、私は音楽に犯されて、なされるがままになっていた。

 汗で弓を持つ手が滑り、集中力が切れて時計に目をやると短針が四つほど進んでいた。私の音楽は沈黙に戻り、私は私の身体を取り戻した。
 修司のごはんやお風呂やトイレや寝かしつけ、博さんのごはんや晩酌の準備、日常のすべてを投げ出したままだと思い出して、慌てて防音室から出たたら、リヴィングで寛いでいる博さんと目が合った。
「ずいぶん集中しているみたいだったから、声をかけなかったよ」
 夕刊を読んでいた顔が私を見つめる。彼の声にも顔にも軽蔑や嘲笑はなかった。CDも手紙もそのままにして防音室に逃げ込んだこと思い出した。彼はすべてを知っている。知っているからこそ、穏やかに振る舞おうとしてくれているのだ。
「ごめんなさい」
 ずいぶんと長い間、発声していなかったので上擦った声で私は謝る。
「それはうちのチビちゃんに言うべき言葉だと思うよ」
 博さんは肩をすくめて二階の部屋を指さす。私はうなずいて階段を上り、博さんが早めに帰ってきて修司と一緒に遊んでいたということを告げた。寝室の部屋を開ける。ベッドでうつ伏せに布団を被っている。
「しゅうくん、ごめんね」
 ママが悪かったから、顔を見せて、と言いながらわたしは修司のベッドに腰を下ろした。
「もう、かいじゅういない?」
「いないよ。もう怖いのいないから出てきて大丈夫だよ」
 柔らかい黒い頭だけ出てきて、私は修司の髪をくしゃくしゃに撫ぜた。安心したように起きて抱き着いてくる。
「ままは、とってもこわいかいじゅうとたたかってるってぱぱがいってた」
 修司の手にはウルトラマンのビニール人形が握られていた。
「ままにかしてあげる」
「ありがとう。でも、もう大丈夫だよ」
 体温でぬるくなった人形を私は受けとった。
「しゅうくんありがとうね。もうかいじゅうはいないよ。しゅうくんとパパのおかげだよ」
「まま、こわかった?」
「とっても怖かったけど、怖いの、なくなっちゃった」
 ベッドから腰を上げて揺りかごのように修司の身体を動かす。背中を叩きながら子守唄を歌った。この子は私より賢く我慢強い。私はこの上なく幸せな場所にいると思って涙があふれそうになった。少し泣いたのだろう赤くなった目の下を優しく愛撫して、修司が寝入ったと確認したらベッドに横たえて、布団をかけた。

 一階に降りると博さんはグラスではなくガラスコップでワインを飲んでいた。皺の寄った白いシャツで背中が大きくみえる。私のすべてを知って赦してくれる唯一のひとが博さんだ。このひとがどうして私を愛してくれるのか、魂を半分亡くしてしまったような私を愛してくれるのかときどき本当に不思議に思う。
 私は疲れた腕を叱咤して棚からグラスをひとつ取り出して、彼の隣のソファに腰かけた。
「今日はありがとう。すごく取り乱しちゃって、どうしてもひとりで向き合う時間が欲しかったの」
 博さんは私のコップにワインを注ぐ。神経質にではなく、いたわるように赤い液体が注がれる。それが私をどうしようもなく切なくさせる。
「とりあえず、お疲れ様」
 私はようやっと博さんと目を合わせることができる。私もお疲れ様と言ってグラスを合わせる。
「この『ショパンピアノ協奏曲第一番』って有名なのかい?」
 博さんは努めてさりげなく千紗都のCDを手に取ってみる。
「よく映画に使われていたりするわ。もう少しキャリアが高いひと向きの演奏曲のような気もするけれど」
「聴かないのか?」
「聴かなくても、彼女がどんな演奏をするか私にはわかるもの。昔はショパンなんて『田吾作出身の表面だけの作曲家』なんて言ってたのに」

 千紗都のことなら多くのことが手に取るように分かっていた。音楽学校に入った十四歳で出会ってから七年間ほとんど一緒に育ったようなものだった。音楽学校とは世界が狭い。音楽が第一優先ということと、早い時期に学校というシステムに組み込まれ、そこから離脱することはほとんど不可能だったからだ。人間の感性が形成される大事な時期に閉塞感とプレッシャーに慣らされていく。ピアノ専攻の千紗都とは幼い神経が摩耗された音楽学校2年目に出会い、何も障害がないまま十八歳まで来てしまった。障害がないということ、今はでそれがとても恐ろしいことのように思える。私も千紗都も成績は優秀だった。暇な時間があれば会って話をして距離がどんどん狭まった。お互いがお互いを共有しているようで、些細なズレなど存在しなかった。
 海外で音楽を学ぶことは当時の私にも千紗都にもあまりに当たり前すぎることだった。千紗都がドイツの大学に行くと決めたとき、私もドイツへ渡った。そこでの私たちの生活が少しずつ私と千紗都の関係を変えた。
 隣の部屋同士ほとんど一緒に暮らしているようだった。私が不安で塞ぎがちになると、逆撫でるように千紗都は外に出たがった。千紗都が休みたいと思うとき、私は遊びたかった。最初は上手く行き過ぎていて、ふたりでひとりという感覚が当たり前のときに襲った違和感だった。慣れない外国生活だし、少し経ったらまたいつもの通りに戻るだろうとお互い思っていた。しかし交差するのは苛立ち、怒り、衝動、嘆き、罵り、相手を傷つけて得る倒錯的な快感だけが私と千紗都の間に残った。幼い自傷行為のような3年で私は呼吸するように弾いてきたヴァイオリンを手放すことを決めた。そしてそれに反対したのは教師でも親でもなく、千紗都だった。
「ヴァイオリン弾くことでしか生きている感覚が得られない人間が、それを手放すことができるの?」
 私たちの喧嘩ではよくこんな言葉が出てきた。私たちには音楽しかなかったし、それを取ってしまったらただの世間知らずの鼻持ちならない小娘でしかなかった。だがふとレッスンの最中私のなかで、G線が切れてしまって役に立たなくなったヴァイオリンのように何かが切れてしまって、それ以来人前でヴァイオリンを持てなくなってしまった。弦を張り直すという選択は私の中でもうなかった。

「久しぶりに環のヴァイオリンを弾く姿を見たら、すごく色っぽかった」
 博さんが突然そんなことを言うので、私は思わず笑ってしまった。自然とほころぶような笑いだった。
「こんなに弾いたの修司が産まれる前よね。だけど、もう指が違うから、明日筋肉痛になってそう」
 微妙にかみ合わない会話がこそばゆい。目をつむって私はいつもよくやるように肩を腕にすり寄せて首の力を抜いてもたれ掛った。博さんの身体にはまだ力が入っていて固い。

 千紗都とは七年一緒にいたけれど、ヴァイオリンは十五年間の多くの時間を共にしてきた。その時間は今でも途方もない。多いときは一日十時間以上弾き続けてきた。執着がないと言ったほうが嘘になる。ドイツの最後の一年はどうやってヴァイオリンから離れて生きていくか、ということを考え続けた。その後、日本に戻り文系大学に入りなおして、オーストリア史を教えていた博さんと出会った。
 ドイツを立つとき私は千紗都と「誓約」を交わした。それは互いにとって誓いであると同時に千紗都の蜜月を終える裂罅だった。
「どうしたら忘れない、私を?」
 千紗都は苛立ちながらアメリカ製のタバコを闇雲に吸っていた。
「私からヴァイオリンを奪ったことで、私はあなたを忘れないわ」
 私は狭いキッチンで編み上げブーツを履きながら疲弊していたもの
の殺気立っていた。
「その程度だったことなんじゃない。音楽への情熱も執着もヴァイオリンへの愛も」
「そうよ、あなたのこともその程度だったのよ。下らない言い合いはこのくらいにしておかない?」
 私はもうくたくたなのよ。そう叫ぶと千紗都の身体が不自然に震えて、倒れそうになる身体を支えていた。そして吸い差しのタバコ消して火のついていないタバコを咥えた。私は千紗都と向かい直した。私は言うべき言葉を知っていた。
「あなたがずっとピアノを弾き続けていれば、私はあなたを忘れない」
 千紗都のタバコを持つ手が震えていた。
「あなたは平凡な家庭を持って。私が出来ない普通の女性がすべきことを、して」
 もっと温かい言葉もあったような気がするが、これがお互いに言える最後の最低限温かい愛の言葉だった。疲労の濃い影が落ちた顔で私たちは笑った。
「さようなら」
 私は言った。
「アウフ ヴィーダーゼーエン」
 千紗都は言った。そうして私たちは別れることができた。
 博さんと結婚する前に子どもが絶対に欲しいと言った。千紗都のことを直接言ったことはないが、私の過去にはそこかしこに千紗都の足跡がある。それを偽るほど私は器用なこともできなかった。

「博さんが『出生という概念は、単なる階級や種の再生産ではなく、まだ発見し得ぬユニークなものが生まれるということなんだよ』ってプロポーズのときに教えてくれたよね」
 博さん身体はまだ固い。
「その言葉を聞けたから、今、修司がいるんだなあって思えて。私は色々感情が抜けてしまった人間だけれども、修司を寝かしつけているとき、これが幸せなんだって思ったんだ。」
 言っている途中から博さんの身体の力が抜けたので私は姿勢を正して、本当に今日はごめんなさい、と言った。
「僕は頼りなく思える?」
 私は彼の言葉に首を左右に振った。彼ほど私をここに繋げとめてくれたひとはいないのだから。
「僕はこう見えて貪欲な人間なんだ。君の過去も今も未来もまるごと嫁にもらったつもりだ。何もかも言いなさいとは命令はしない。だけれど君の不安を受けとめられないように見えるなら、それは君の驕りだよ」
 私はもう一度博さんの腕にぎこちなく首をあずけた。このひとは私の心の機微というものをなぜここまで理解しているのだろうか、と疑問に思う。どう言ったら私が博さんの言葉を受け止めざるを得ないか良く知っている。
 このひとは私に千紗都のことを絶対に聞かない。それは彼の優しさなのかエゴなのか私にはわからないけれど、わからないままでいいと思った。私はこのひとと修司を失うことに耐えられるほど大人ではない。だから私も必要以上のことを今後決して言わないだろう。博さんも怖いのだろうか。言葉にすることが。
 私はヴァイオンリンを持つ手を葬ったつもりだった。手を失くすということは私の心を殺すということを意味していたがそれを悲しいと思えるほどの感情すらドイツでは持てなかった。私の心はそのとき息をしていなかった。
 ひどく冷えた無味乾燥した人間になってしまったがこのもたれることの出来る博さんの腕と修司を抱くことのできる手を得ることが出来て、私はようやっとまともに生きることが、手を取り戻すことができたのだ。
 だんだんと温かくなる日々に愛おしさがとまらない。しかしそのたび私の日々をただただ享受することに罪悪感というかいじゅうが壊そうとする。私をそそのかす私のかいじゅうとこれからもずっと戦わなくてはいけない。守るべき日常が私には横たわっている。
「かいじゅうなんて怖くない」
 博さんの腕のなかで私は言った。私が抱くべきひとたちがここにはいるのだからかいじゅうなんて、怖くない。

Page Top
inserted by FC2 system