The Things We Do For Love

 教室はひとつの水槽だ。女の子たちのざわめきは魚の大群で音を立てる椅子や机は小魚を狙う甲殻類のようで俊敏さがある。水の中でしか生きていけない脆弱な生き物たちと見下して優越感を覚えていた。私もその生き物だったと気づくにはずいぶんと時間がかかった。そして自分がもう一度水槽の中に戻りたいと思うなんて想像することもできなかった。

「森さん、次移動だから、鍵閉めるよ」
 髪の毛の先から足の先まで均衡のとれたしなやかさ。級長の天野美咲は柔和な微笑みにかかった黒い髪を指で優雅に退けながら、声をかけてきた。
「あ、ありがとう」
 私も一瞬人当たりの良い笑みを浮かべ、教材を取り出し、教室を出る。教室でまどろみの扉を開こうとしていたのをなるべく悟られないように、堂々と、顎を引いて、制服が少し小さいと思われるように、手足を動かす。
 昨日の長電話という修羅場を思い出していた。女の子ってなんで「好き」と「嫌い」を一緒に押しつけるのだろう。罵声と沈黙と感涙を6セットほど繰り返したのちアキは疲れて寝てしまった。私は脈絡のない感情的な言葉をひとつひとつ繋ぎ合わせだいたいの結論を出した。
「私に優しくする和ちゃんは好き。でも他の女の子にも同じように優しくされるのは嫌い。だから誰にでも優しい和ちゃんは嫌い。だけど私だけに優しくする和ちゃんは嫌い。私は和ちゃんが好きだから優しくしたい」
 永遠に続く好きと嫌いの円環と矛盾だらけの主張。いったいアキは私になにをしてほしいのだろうか。チョコレイトやケーキの言葉に飽きた女の子たちはスースーする薄荷のあめ玉を舐めたがる。または辛辣なジャンクフード。私はどこでお菓子を選び間違えたかすこしだけ考えてみて、すぐ飽きて授業を聴いているフリをしてみる。早く放課後にならないかな、と顔に出さず考えてみる。

「キャプテン、お疲れ様です」
「お疲れ。ちゃんと腕と膝に冷却スプレーかけときな。まだ暑くはないけれど水分補給はしっかりね」
 高校からバレーをはじめたこの子は顔を赤らめて、ありがとうございます、と言ってそそくさと部室に戻った。片付けがおおかた終わると部員をみんな帰した。
「このくらいの優しさなら、いくらでもでてくるんだけどなあ」
 独り言ちると、入り口に目線を向けて体育館に響き渡るように、声をだした。
「隠れてないで出て来な」
 小さな人影がゆっくりと出て来る。
「和ちゃん、怒ってる?」
「いや、だけどふてくされてるアキは可愛くないなあと思っただけ」
 私はアキに手招きをする。少しだけ距離を置くアキを引きよせて、いやだという声に逆らって無理やり抱きしめる。甘い言葉を耳元で囁くと、アキの身体は粘土のように柔らかくなって私身体にアキの重さがかかる。こんなときのアキの身体は正直だ。ふっくらとした肉の重みを感じて私は安堵する。無防備であどけないアキは私まで柔らかくとけていくもののようにしてくれる。
「和ちゃん、あせくさい」
「部活が終わったばっかりなんだ、勘弁して」
 それに私の匂いすきでしょ、と付け足すとアキの身体はアイスクリームのようにとけはじめた。修羅場なんてこんなふうになんとかなる。それより、ああ、早く食べしまわなくては。


 鼻歌を歌いながら、軽やかに階段を上る。気分のいい晴れた昼に、教室にいるなんて馬鹿のすることだ。階段を上り終えて、屋上の鍵を差し込む。梅雨の晴れ間の光が私の中に流れ込む。
 屋上に一歩踏み込むと思わぬ先客に目が行った。
「天野さん?」
 天野さんはグランドから私のほうに目線を移して、特に何の感情も浮かんでない顔で私を見つめる。
「鍵閉めた?」
 天野さんの事務的で無駄のない言葉で、私は屋上からの施錠を確かめた。
 天野さんは屋上でもしなやかで無駄のないが、少しくだけている。髪は風まかせで、右手にはタバコをもって柵にもたれている。勉強も運動もできてクラスで人当たりのいい人気者の彼女が無味乾燥した表情をしていることが私を驚かせた。
「天野さんのファンが見たら卒倒しそうだな」
 頭のなかで考えていたことがぽろりと口から出てしまった。
「私にファンなんているの? どちらかというと私は森さんとは一緒に居たくないんだ」
 森さんのファンににらまれそうだから、と天野さんは教室に居るときの左右対称の級長の笑顔ではなく、くちびるの端を器用に片側だけ歪めてみせた。そんな笑みといたいけな目がアンバランスでまったく別人に見える。
「さっきの森さんの鼻歌なんていう曲だっけ? ここまでよく聴こえたわ」
 私の不躾な目線をタバコの煙で隠し、ないもののように扱う。
「えーっとなんかのアルバムに入っていたような…」
 天野さんは乾いた笑い声をあげる。
「全く答えになってないじゃん」
 天野さんのふっくらとしたくちびるにタバコが咥えられる。
「天野さんはどうして屋上の鍵持ってるの?」
 私の素朴な疑問に非対称な笑顔で天野は答える。
「真面目で優秀な級長やってるから、人徳ってヤツ」
 悪びれずに他人事のように言われると、天野さんの腹黒さに飽きれてため息が出る。そのあとにここまで使い分けられると愉快になって思わず私は声を上げて笑ってしまう。
「森さんはなんで持ってるの?」
「真面目で優秀なバレー部の部長の人徳。級長って典型的なヤなヤツだったんだね」
 私も平然と答えた。天野さんの無邪気な笑顔がクラスで見るよりまぶしい。
 屋上で会った後も、美咲は教室や授業では変わらず、たおやかで多くの生徒から慕われている級長だった。私はアキと部活で忙しかったが週一回は屋上で美咲と会った。夏服の季節が来て、梅雨も終わると夏の日差しを避けて日影でうなだれていた。教室は冷房が付いていたが、蟻のような人間の頭だらけの教室にはあまりいたくない、と美咲が主張した。
「電車に揺られて、多くの人間と同じ時間に同じ行動しなくちゃいけないなんて、私って家畜みたい。そのうち誰かに食べられちゃうと思うとゾっとする」
 暑さのせいで苛立たしげに遠慮なくタバコを吸う。私は面倒なので適当に相槌を打ってコンクリートに寝そべる。私の体温を砂のかたまりが奪う。
「美咲、あとで服の消臭剤貸して。アキがうるさいんだ」
 美咲は一瞬で理解したようで、女の子は匂いに敏感だからね、といってポーチから携帯用の消臭剤を出した。
「和子はセックスって気持ちいい?」
 私は唾液がうまく飲み込めず咳きこんでしまった。美咲は特になんの感慨もなさそうに無表情な顔で言葉を続ける。
「あんなことで愛情表現とか繁殖ってある意味すごいよね。思わず最中に笑っちゃった」
 美咲の相手のひとご愁傷様です、と私は心の中で手を合わせた。
「なんて言うか、身体ごと心を持っていかれるつーか、まあ気持ちいい」
 私のありきたりな言葉にふうん、と美咲は冷ややかな相槌を打った。
「それより、そんな葉っぱがおいしいの?」
 ものは試しと言って美咲は一本差し出してきた。くちびるにのせるとリップクリームを塗ったみたいに痺れる。
「火は?」
 起き上がると美咲が咥えているタバコの先端が私のそれに押しつけられる。得体の知れないものが焦げて、口で息をすると煙が肺に送り込まれる。口内が乾き唾液がへばりつく。酸素が欲しくて咳きこみながら美咲に尋ねる。
「こんなのどこが美味しいの?」
「一度クセになるとやめられないんだよ」
 いたずらの好きそうな子どもの表情を浮かべた美咲は口でタバコをもてあそび、煙をはき出すことに慣れていた。優雅さを装わないその自由な口は少しの性的な堕落さえ感じた。
 美咲のくちびるからタバコが離れると私は自分と美咲のくちびるを重ねてみた。美咲は拒まなかった。苦いけど、おいしい。互いに人工呼吸を施すようなキスを終えると美咲はまたタバコにくちづけた。
「昔の偉い医者がくちびるでモノをもてあそぶって幼少期に感じる性的衝動の快楽のなごりなんだって」
 私は無駄に上がった体温でぼんやりと美咲の言葉を聞いた。美咲の表情はさっきと同じ特になにも感じていない無表情さで瞳は決して揺れることがなかった。
「そう考えるとキスもタバコもロマンスのかけらもないわ」
 美咲はつまらなそうに煙を吐きだした。私は心のなかでキスの後にそんなことを言うあんたがロマンスのかけらもないと思って、また寝ころんだ。


 夏はイベントが盛りだくさんのはずだった。部活を引退してアキと別れた。部活の方で大学の推薦が決まって、これからアキと遊べるというとき別れを切り出された。アキは国立大学を目指すというので私が能天気にみえたのだろう。実際そうだったし。アキはいつも苛立っていたし辛そうだった。別れようと言われたとき私は密かに安堵して、その安堵した自分を恥じた。アキが楽になれるのだったらという思い上がった偽善に羞恥心を覚えた。アキが辛ければ私も一緒に苦しめばいいのにと自分の腑甲斐なさにくちびるを噛んだ。


 傷心なんてしていると季節はすぐ終わる。この夏は何も起こらなかった。無駄に勉強してその場しのぎで過ごしていると、最後の冬服の制服の季節になった。美咲ももうあまり屋上には来ない。身体からポロポロと何かを落としている気分だった。屋上からグラウンドを見ているとそんな気分が満タンになって、気づいたらくちびるに歯形がついていた。
「秋野さんと別れたんだって?」
 気配を消していたのか、自分がセンチメンタルに浸っていたせいか美咲がいるのに気がつかなかった。私が振り向くとタバコを吸いながら、美咲は一定の距離を保って立っている。
「残念ながら」
 笑おうとしたが顔の筋肉が上手く動かない。振られたくらいでみっともないと思うと余計に力が入らなかった。
 美咲は煙をひと筋に吐き出すと私のほうに近づいた。不意にくちびるを美咲に舐められた。
「なんかのおまじないにはなるわ」
 私は美咲にタバコの箱を握らされた。
「こんなものより、あんたのくち、食べさせて」
 屋上で初めて会ったときみたいにくちびるの端を器用に片側だけ歪めて笑った。私が喰いちぎろうと美咲に挑んだが、美咲の奔放なくちびるは私を惑わせた。主導権は美咲に移り、私はされるがままに貪られた。
「ご馳走様」
 美咲は一言残し息も上がらず、きれいにターンをして屋上を出て行った。悔しいから次会ったときは負けない、と私は勝手に思った。


 秋も終わりを告げる頃、美咲へのリベンジも果たしていない私と受験でピリピリしている学校に衝撃的な出来事が起こった。美咲が他校の教師と駆け落ちしたというセンセーショナルなニュースだった。この手のニュースは広まるのも尾ひれがつくのも早い。下卑たゴッシップとして消費され、美咲の人格は地に落とされた。
 私はどこまでも典型的なヤツ、と少しだけ笑った。笑い終わったら、切なくなった。美咲からもらったタバコの箱を開けると「元気で。そして、吸いすぎないように」という紙切れが入っていた。あのときから決まっていたのだ、と思うと悔しくて、タバコを捨てようとした。いちいちなんで美咲に振り回されなくてはならない。メンソールが薫るたび美咲を思い出すのだろうか。気がつくとくちびるを噛んでいた。非生産的、百害あって一利なし、脳細胞が死ぬ、肺の繊毛が窒息死する、我ら禁煙友愛会。タバコを罵るデタラメな言葉を並べながら火をつけた。美味しくない。チョコレイトもケーキも薄荷のあめ玉も辛いスナックも知っているのに、こんなに苦いもの知らない。
「痛っい」
 タバコの煙が目に入って、反射的に瞬きをする。痛くて目をこすった。目玉の水分が奪われて、涙になる。ああ、私、泣きたかったんだ、気づいたら止まらなかった。アキも美咲もいないことが寂しい、と私は認めた。タバコの苦さだけが私の寂しさを震わせ、私を暴いた。


 四年ぶり母校に教師として戻った。古巣に戻ったという感覚は私にはなかった。時間はじゅうぶんに経っていたし私はあの愛おしい水槽からすでに追放されていた。春の彩がここをどこかの幻の桃源郷のように思わせて私はまぶしさに目を細める。
「春爛漫とはこのような陽気なときに使う言葉ですね」
 校長にそうですね、とどうでもよい相槌を打つ。この学校でスーツを着ているのはどこか滑稽だ。
 挨拶が一通り終わると階段を駆ける。そこには誰もいないことを知っているがどうしてもそうしなければならなかった。
 よく鼻歌を歌っていた曲を思い出しながら階段を踏む。鍵穴に鍵を差し込む。春の淡い夕日を浴びると『愛ゆえ』にとひとこと言葉が私のくちびるからこぼれ落ちた。初めて美咲と屋上で出会ったとき口ずさんでいたあの曲の題名だった。
 題名とともに鮮やかな手触りを持って思い出が甦ってくる。五感を研ぎ澄ませて記憶を反芻する。吐きだすように深呼吸をして、苦さに慣れすぎてはいないよ、と心の中で呟いた。ここはもう私の場所ではないことを改めて知って、鍵を閉めた。

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