少女誘引

 少女の本心は制服の幾重にも重なるスカートのひだのなかに、隠されている。
 チタンフレームの眼鏡のブリッジを指で押し上げ告白の羞恥で震える女生徒の前でそんなことをふと思った。抑揚をおさえ相手を刺激しないように冷静に言葉を紡ぎ、身体も動じないように椅子に座ったまま少女を見上げる。
「キスという行為はただの臓器の接触だ。私にも君と簡単に出来る。ただ君はそれを望んでいないだろう。君は私とそれ相応の情熱を持って接触したいと望んでいる。私はそこまでの恋愛的情熱を持っていないが、私にとって君は私の大事な生徒だ」
 わかってくれるね、と私は女生徒の目を見つめる。女生徒は目頭に小さな雨粒を乗せたまま、せめて記念に、と言葉をもらした。
「それは君を傷つけることになるだろうから私はできない。君の情熱に私は答えられない」
 こんな言葉を口に出すたび指先から熱を奪われていくのに気がついてマグッカップに入った湯気の立っていないコーヒーを飲み干す。少女の顔を直視するのが耐えがたく、日が沈んだ空を切り取っている窓に目をやって少しの違和感を覚えた。少女が言葉を発しようとする息遣いが聞こえたので、また少女のほうに目が行った。
「先生ってこんなときまでクールなんですね」
 女子生徒の憎悪と皮肉が混じったいびつな視線を私に向けてそれで満足したのか、きびすを返し保健室を出た。
 平手打ちか押し倒されるかもしれないという予想は私の杞憂に終わった。毎年、冬休みの終わりにはこんなことがよくある。空になったマグカップに小さな舌打ちをし、コーヒーメイカーに何度も煮たてたコーヒーをカップに注ぐ。再び窓の外に目をやると違和感は決定的な違いになった。
「森先生、のぞき趣味とは感心致しません。それとここは保健室の前です。喫煙はご遠慮下さい」
 私が窓を大きく開けると体育教師で漁食家ならぬ、女たらしの森和子が窓の下に座って煙草をふかしていた。
「いたいけな女子生徒の渾身の告白を邪魔したくなくてね。テーピング切らしちゃったとかそんな理由で邪魔しちゃイカンだろうと、待機していました」
 ジャージをはたき、タバコの吸い殻を携帯灰皿に入れて、敬礼しておどけてみせる。長い手足、ほどよく日焼けした肌と短く切られた髪に凛々しい目鼻立ち。性格も来るもの拒まずのおかげで生徒から人気がある。森和子はバレー部の顧問で生徒から『バレー部の麗人』などと言われている。齢28過ぎて麗人と形容するは、女子校文化には全くなじめない。そして年齢が近いせいか和子とセットで自分も一時の憧れの対象とされているということはもっと理解しがたいことだ。
「テーピング、指用でいいですか?」
 無関心を装い、棚を開けてテーピングを取り出す。
「きゃー。さすがクール・ビューティの木村先生、お仕事キチンとしてますね」
 揶揄のような和子の声に耳を貸さず、デスクに置いておいた先月の保健室利用者のリストを持った。
「こちら、バレー部の部費で買っておいたテーピングです」
「ありがとう。ついでにノリちゃんの入れたコーヒーが飲みたいな」
 和子はテーピングを受け取り、必要もない可愛げで小首をかしげてねだってみせる。
「ぜひ、そうしたいですね」
 わーい、と無邪気に和子は窓枠を超えようとするのを私は笑顔と紙切れで牽制する。
「先月のバレー部の部員が25人も保健室を利用していることもじっくり話したいですし」
「来月3年生の引退試合で、部員みんな気合い入っちゃってさ」
 和子の空笑いがむなしく響き、私は無意味だと分かっていても和子に言わなくてはいけない。和子はバレー部員の精神的、肉体的なケアもフォローもしっかりしている。しかしこの人数は多すぎる。
「それを抑えるのが顧問の務めでしょう。成長期の女の子の身体は均衡を失いやすいんですよ」
「精神面でも、でしょう。」
 和子が真面目な声で言い返してきたので、動揺は一瞬で手のひらに収まったが、戸惑う。
「あんな理詰めの振り方なんて、むしろノリちゃんがガキっぽいよ。大人なんだから受けとめてかわす、くらいしてやりなさい」
 私の場合は手取り足取り腰取りで受けとめてるんだからさあ、といやらしい笑顔を浮かべている。この女がなんで刃傷沙汰の事件に巻き込まれないか謎だ。
「用件はそれだけですか。お疲れ様です」
 窓を閉めると、和子のこの冷酷女という言葉が聞こえたので面倒になったのでカーテンも閉めた。
 保健室に備え付けられた防災の緑色のカーテンをそろそろ洗わないといけない、と思い椅子に座る。
 私は人間関係において器用ではない。煩雑な人間関係を見て忠告はできるけれど、自らその渦中に身を置けない。あの女生徒には持てる誠意を使って断ったつもりだった。それで冷めていると言われたらどうしようもないと諦観に私の心は手が伸びてしまう。和子の言い分にも一理ある。生徒に憎悪と皮肉で歪んだ顔などさせてはいけない。ヒトを好きになるという感情は決して悪いものではないのだから。
『あなたがどこに居ようと、追いかけます。そのときは降伏してください』
 数年前、私を押し倒し胸元でケモノのような声で告白した生徒のことをふと思い出した。あの子は私のことを忘れて元気にしているだろうか。少女という生き物はおそろしい速さで成長していく。私はその過程で存在すら忘れられる裏方として、ただの一介の保健医でいたいと思っている。しかしその理想がときとして少女の毒になるのだ。
「二律背反は少女の命題かもしれないな」
 言葉にするといっそう重たく感じた。底冷えがする古い建物のなかではコーヒーはすぐ冷たくなる。マグの中身を捨て、まとめていた髪の毛をほどくと今日の仕事は終わった、と言い聞かせ身体を軽くさせた。窓の外はすっかり暗くなっている。
 それからすぐ、2月も終わり、和子に飲みにいかないかと誘われ翌日休みだったので承諾した。学校からそう遠くはないいつもの焼き鳥屋で落ちあった。
「男と結婚することにした」
 まさに年貢の納め時が来たってところなんで、とひとり照れながら和子はウーロン茶で私はビールで乾杯してさっそく本題に入った。
「それはそれは、おめでとうございます」
 突然のことなので私は棒読みで謝辞を述べる。
「あの和子が結婚ねえ」
 思わず本人の前で言葉がこぼれる。並みの男性より女を愛し、大切にしてきた和子が結婚とは思考回路がうまく繋がらない。
「アイツは」
 和子は焼き鳥を串からとりながら照れたように手元に目線を落とす。
「アイツは端から私を女としてカウントしてたんだ。粗暴で女らしさのカケラもない私を。どう反論しても暖簾に腕押し。馬耳東風。だから敗北を認めて、自分の責任で結婚する」
 敗北ってなんの勝負だ、と聞きたくなったけれど、色恋沙汰は他人からみて理解できるようなものではない。ただなにかのおかげでと言えないひねくれたところが可愛らしく和子らしいと自分勝手に思った。
「どんなヒト?」
 和子が焼き鳥に苦戦しているので、私はやんわりと和子の皿へ手を伸ばし砂肝を串から外す。
「大学の同窓」
 一応写真とかあるんだけど、ノリちゃん見る? と携帯電話を出してきた。精悍という言葉が浮かぶ体つきに、どこか幼さを残す目元、隙のないスーツ姿は格好いいと思えた。携帯電話を和子に投げる。
「今まで奔放に振る舞ってきたのが理解できない」
 ノリちゃんは率直だな。和子に取り分けた焼き鳥を渡すと照れながらわざとらしく目線を外す。
「子どももできたし、心配は多いけどその分違う可能性もみえたから」
 鶏肉を口に運ぶ私の箸が止まる。
「そこはおめでとうって言ってくれないの?」
 めでたいことだと思うだけど、と和子は焼き鳥を口に運びながら不服そうな顔をする。
「……避妊くらい計画的にして下さい」
 おめでたいことだとは思うが、率直に答えてしまった。面映ゆいのか羞恥からか和子も無言だ。私はよく焼かれたネギを咀嚼する。
「とりあえず、おめでとう。祝福はしている。ただいきなりそんな重要事項を連発されると戸惑う」
 ビールがのどを通りすぎて液体は胃で止まり、身体を熱くさせた。いつものペースで飲んでいるはずなのだが顔が赤くなるのがよく分かった。私もいつもと違うことに照れているのだ。そう思えると、緊張が馬鹿馬鹿しいものに感じ私の身体は弛緩した。ゆるんでいく身体で、和子がお酒を飲んでいないのはお腹にいる赤ちゃんのためかと私はひとりで納得していた。
「まあ心残りがあるとしたら、ノリちゃんを落とせなかったってことかな」
 和子はあぐらをかきながら、私を見つめている。全くこれから妻に、母になる女性の発言とは思えない不謹慎さだ。私は呆れながらも同時に少しの嬉しさがあった。誰かの気に留められるということはくすぐったいようで柔らかい毛布に包まれているようだ。
「いろいろと清算は済んでいるだろうね」
 当たり前じゃんと和子は豪快に笑う。私のわがままなんだから女の子の叱責は受けられるかぎり受けてきたよと至極明るく言うが、それなりに大変だったのだろうと思う。
「ノリちゃんのこと好きだったよ。色素薄くて、きれいな巻き毛も。初恋の女の子に似てたんだ。見た目とかじゃなくて片方の靴をどっかに落として歩き方が不自然なカンジっていうのかな。可愛いけど、どこか危なっかしいというか」
 饒舌な和子の言葉に私は身を任せていた。和子は甘えさせたり心地よくさせるのが上手い。可愛いという言葉は久しく聞いていなかった。和子の声はいつまでも懐かしい恋人の声のように響く。
「よく喋る」
 私は酒を飲んで少し酔っぱらって感情的になっていると分かっていたから努めて冷静に答えた。私は片方の靴をなくした女の子をイメージした。アンバランスで頼りなくどこか泣き出しそうな少女だ。私はまだ少女の幼さや情熱を持っていられるということは嬉しいことだ。酒を手に取ると和子と目線がぶつかり絡まる。それは和子の今までで一番真摯であどけなさを残す眼差しであった。目線は絡み合いアイスクリームのように溶けはじめる。
「口は冷たいけど、相変わらず飲むと色っぽい」
 和子の手が伸びてきたが私はそれを拒まなかった。冷たくなった和子の手が頬に触れると私はなされるがままにしていた。眼鏡を外される。頬を撫でられ、額を上げられ、眉毛をなぞり、まつ毛をはじき、鼻筋を通り、和子の指はくちびるに行き着いた。和子の指は不思議とセンシュアルに感じなく、アルコールで熱せられた身体が和子の手で鎮められ、和子によって初めて自分顔に目や鼻などの部位の輪郭を与えられているような気がした。くちびるを往復する指が離れると、私は自然に閉じていたまぶたを開けた。
「いままでお世話になりました。木村先生」
 情熱を湛え、それでも自律しているこの女をどこか羨ましく、恋慕とは違う気持ちで愛おしいと思った。赤ちゃんはこんな慈愛に満ちている手に抱かれるのか、と思ったら口元がゆるんだ。されるがままに流されてしまったことを照れるのを隠すように私はゆっくりと眼鏡をかけた。
「結婚おめでとうございます、森先生。無事、出産なさってください」
 たぶん和子とはもうこんな風に面と向かうことはないだろう。しかしそれはきっと和子にとって歓ぶべきことなのだと思った。
 春が来ると違った風景が窓に映る。毎年よく華やぐものだと感心する。書類から目を上げるとふとそんなことを考えてしまう。まどろみを誘うような春の彩は滅菌された保健室も例外なく浸食してくる。再び書類を確認しようと、目をデスクの上に戻した。
「失礼します」
 ノックとともに来訪者を告げる。
「どうぞ」  手短に応対すると、背の高いさっぱりとしたリクルートスーツの女性が入ってきた。
「森和子先生が産休の間、代理として体育を教える松山です。よろしくお願いします」
 どこかで聞いたことのあるような声だ、と思って思い出そうとした。
「やっぱり森先生、味方につけておいて、よかった」
 さっきまでの松山のフォーマルな言葉遣いはどこかに行ってしまい、私をいっそう混乱させた。松山は私のいぶかしんだ表情を見つめた笑顔で言う。
「母校で教えることが出来て幸せです」
 あっ、と間抜けな声を出すと私は松山のことを思い出した。私を押し倒し、追いかけると宣言したあの女生徒だったのだ。暴れまわるケモノのような少女はさわやかな体育教師としてこの高校に戻ってきた。
 松山は声を失っている私にあくまで爽快に微笑みでささやく。
「そういうことなので、木村先生、逃げる時間は与えませんよ?」
 和子にメールをする日はそう遠くないかもしれない、と私は冷静に働いているほんの一部の頭でぼんやりとそう思った。

Page Top
inserted by FC2 system