嵐のような女

 秋雨前線が動くと、忙しくなる。いつの間にか雨が降って止んでできた水たまりは夜を映し出している。
 仕事は嫌いじゃないけれど、自分の体調管理がうまく出来ない。乾いたコンビニエンスストアの袋の音を立てながら、アパートの鍵を探した。
 ようやく部屋でのんびりできると思い顔を上げれば、見慣れた女がいた。加奈子はビニール袋のなかを察して微笑んだ。
「またコンビニ弁当なんて、身体に悪いよ」
「いつから来てたの」
 私は平常を装って鍵を指し、ちぐはぐな会話をする。加奈子は見た目は美しい。日本人形のようなさらさらの黒髪に、西洋人形のように大きく開いた瞳、肉感に欠ける薄い唇で、どこか浮世離れしている顔に無駄な脂肪のない身体。しかし今は加奈子の美貌は暴力によって変形している。
「一時間とちょっとかな。アイちゃん遅くまで、お仕事お疲れ様です」
「とりあえず中入って。お隣さんに見られたらたまったもんじゃない」
 加奈子の目の上には殴られた痕が赤くうっすらと腫れ上がりはじめている。まだ殴られて間もないものだろう。探せば打撲傷や擦過傷が見つかるはずだ。ひとりで寛ぐつもりだった気分を少し削いで私は加奈子のスペースを作る。空間的にも、私の心持にも私は加奈子を受け入れる。
「冷蔵庫に冷却材が入っているからガーゼに包んで眼の上に当てなさい。お風呂にお湯張るから適当に座っていて」
 アイちゃん手慣れてる、という声が浴室まで響いた。手馴れさせたのはお前だよ、と毒づきながら蛇口をひねる。
  リビングに戻ると加奈子は正座をして言った通りに冷却材を顔に当てている。お腹空いていると尋ねれば、そういえば昨日の夜から何も食べてないと言うのでレトルトのおかゆがあったと思って台所に行った。
 私と加奈子の関係は、もとをたどれば、若気の至りだった。大学時代知人の友人のコンパに強制参加させられ、酔っ払いに絡まれた見た目は可愛らしい加奈子を助けた。そのあと衝動的にベッドになだれこんだ。加奈子は『女同士でもこんなこともできるのね』と驚いていたが、そのほか変わることなくマイペースに一緒に住んで、『好きな男ができたから出てくね』とマイペースに別れをもちかけられ、嵐のように去った。そして時々こうして身体に傷を作っては私の家にくる。
 過去のささいな衝動が憎いと思い重苦しいため息が漏れる。
 温まったお弁当とおかゆをトレイ載せてリビングに戻ると、加奈子は私の部屋を一通り見て、しみじみと言った。
「アイちゃん恋人いないんだね」
「こうして誰かさんが押しかけてくるし、仕事が忙しいし」
 加奈子の視線が部屋のコントローラーが一つだけある据え置きゲーム機で止まり、それを見つめたまま笑う。
「仕事が忙しいなんて男の言い訳だよ。このままじゃ女性ホルモン枯れちゃうよ」
 加奈子の毒舌は相変わらず健在なようだ。私は適度に相槌を打ちながら、お弁当に箸をつける。加奈子はおかゆに手を付けない。
 いぶかしげに加奈子を見つめると、口の中切れてしびれちゃって、と捻じ曲がった顔で笑う。
 私は二度目のため息が出ると、加奈子からおかゆの皿を取ってスプーンですくう。
「どっちが切れてるの」
「右」
「開けられるだけでいいから、口開けて」
 左頬に優しく手を添えると、加奈子は薄いくちびるを開いた。私はそっとスプーンを差しこむ。ゆっくりと加奈子の頬が動き、のどが鳴る。
「なんか、倒錯的だね」
「けが人は黙って食べなさい」
 はあい、と間の抜けた了承の声が私の頭のなかで響き、私はまたスプーンを動かした。
 加奈子に食事を与え終わると、お風呂が沸くころだと思ってたんすからTシャツとスウェットを出して加奈子に投げた。
「傷にしみるかもしれないけど、ちゃんと温まってきなさい」
「アイちゃんは一緒に入んないの?」
 そうすることが当たり前と言わんばかりに加奈子は不思議そうな顔をする。
「夕飯が途中で、食べ終わったら洗い物を済ませて、煙草を吸ってテレビが観たいんで」
 私は少し苛立って早口で喋る。からかっているのだろうと思うがむきになってしまう自分がいて、それを仕事で疲れていると思い込むようにした。加奈子は私に本当は何を求めているのか、長い付き合いのなかでいまだにわからない。
「もしかして、もう更年期とか?」
「身体が冷えてるんだから風呂に入れって言ってるの」
「つまんないね、相変わらず」
 加奈子の冷え冷えとした目が私を一瞥し、ひらりと目線を外した。
 変わらないのは加奈子も同じだった。つまらない男たちを加奈子の無駄に高いプライドで邪魔もの扱いし、暴力を振われる。加奈子は他人の生活に献身的だ。しかし加奈子にとって許されないこと、他人が感謝をしなくなれば、容易に自己犠牲をやめて突き放す。加奈子の態度の急変はある一定の男性に暴力を誘発させる。社会人になってから加奈子が付き合う男はそんなタイプばっかりだ。最初はびっくりしたし、加奈子を罵りもした。しかし初めて罵ったときの加奈子の言葉が私を焼き付ける。
『愛と暴力は名前が違うだけでしょう』
 この言葉で私と加奈子の間に埋めがたい一線ができた。できるなら大切にしたいし、そうやって愛し合いたい。甘い時間を過ごしたい。加奈子はそんな考えが「つまらない」と嘲笑った。
 ベランダに出るとまた雨が降ってきているようで、冷たい湿った風が身体を抜ける。煙草に火をつけると、加奈子に一時でも欲情したのを思い出して、悔やまれて、間抜けな声が出てしまった。一緒にいれば楽しかったし、それなりに満たされていた。それは今でも変わらないように思える。ただ加奈子は満たされなかったのかと思うと、自分のどこかが否定されたような気持になる。しかし加奈子はなぜまだ私のところに来るのだろう。加奈子は雨のなか、出ていけと私に言われることを望んでいるのだろうか。
 深呼吸をして冷たい空気が肺を満たす。加奈子の望むような愛し方を私はできない。吸い殻は灰皿に捨てて部屋に戻った。
 雨の匂いを纏いながら部屋に戻ると加奈子がスウェット姿でタオルで髪の水分をぬぐっていた。
「アイちゃん、ドライヤーどこ?」
 私はベッドサイドの棚からドライヤーを取り出し、ベッドの上に腰をかける。
「乾かしてあげるから、こっちに来て」
 加奈子の髪は饒舌で好きだ。ベッドの上でいくつもの黒い線が千々に乱れかすかに立てる音は控えめだが加奈子の声より正直で私に多くを語りかけた。私のそのかすかな記憶を愛おしいと思う。
「アイちゃん、髪短いからドライヤーの必要ないのか、いいなあ」
 弛緩した呂律に加奈子は眠気がすぐそこまで来ているのか、私のされるがままになっている。無防備な加奈子はあどけない子どものように小さく愛らしく感じた。加奈子の後頭部を見つめながら私も加奈子がいるから発生する緊張から解かれた。
 加奈子の白い身体には無数に小さな傷が出来ていて、丁寧に消毒してベッドに入った。眠れないというので、足を絡ませてきた。でもそれは扇情的なものではなく、冷たくなった身体を寄せ合い温めあうような生存レベルの欲情だった。加奈子の足が温まると私もいつの間にか眠っていた。
「おかえり。ごはんできてるよ」
 仕事が終わり鍵を開けると加奈子は私を出迎えた。温かい食事の匂いと部屋の明かりが点いているとそれだけでなぜか照れくさくなってしまう。
「ただいま」
 短く答えると部屋に漂う夕食の匂いをたどる。を生クリームと小麦粉の匂い。ベシャメルソースだ。加奈子だったらグラタンかドリアを作っている。手を洗い食卓につく。
「なんか新妻ってカンジ」
「昔、同居始めたときも同じこと言っていた」
「アイちゃんてムダに記憶力いいんだから」
 この前この部屋に来たときも言っていた、と言わないのはなんでなのだろう。小骨がノドにひっかかって痛む、そんな違和感。風邪か。
 焦げ目がついて焼きたての湯気をたてたグラタンとごぼうのマヨネーズとゴマ和えのサラダには水を切ったばかりのレタスがたっぷりと添えられている。オーブントースターで作られたグラタンには粉チーズがぱりぱりに乾いて焦げ目がついている。私は粉チーズが苦手だったし、スパゲッティにかける以外思いつかなかったが、加奈子はベシャメルソースや昨夜のチキンカレーにも隠し味に使っていた。『なんにでも使えるのよ』と加奈子は言って私の冷蔵庫のドアにはいつの間にか粉チーズが入っている。
「これ食べたら、帰るよ」
 口のなかを火傷しそうになりながら加奈子は言った。私は特に何か引き止める理由もなくうなずいた。
「ここまで治ればコンシーラーとかで隠せるし。ずいぶん薄くなったでしょう」
 加奈子の目の上を見つめて、私はまた首を縦に振った。加奈子は伺うように私を見つめる。
「おいしい?」
「おいしいよ、いつもありがとう」
 エビとイカとアサリの入ったマカロニグラタンは温かく美味しかった。けれど何かが腑に落ちなく、胃が冷えていくことが分かった。
 食器を片づけると、加奈子は荷物をまとめて細いヒールの靴をはいた。
「アイちゃん、お世話になりました」
「ちょっと待って」
 加奈子を足止めさせると、私はクローゼットから去年のセールの福袋に入っていたジャケットを肩にかけた。
「風邪引いちゃマズイから」
「アイちゃんてほんとおバカさんだよね」
 加奈子は無邪気に笑う。手首をものすごい力でつかまれ、首を抱きしめられる。
「アイちゃん、よく聞いてね。私はほかのやつにどんなことされても大丈夫なの。だけど私を本当に殺せるのはアイちゃんだけなんだよ?」
 耳元でわかった? とささやかれて私は加奈子の背を抱きしめた。加奈子の腕が私から離れると、顔が近づいてきて触れるだけのキスをして黒髪をひるがえして、この部屋の外に出て行った。風が抜けるように私の手元から加奈子はいなくなる。
 加奈子はいつも私が追いかけてくるのを待っていた。冷たい空気が玄関をすり抜けて、ドアが音をたてて閉まった瞬間、私は分かってしまった。口で言えばいいのに加奈子は肝心なことは言わない。それが分かればためらいなく、私は追いかけるためにサンダルをひっかけて、憎悪のいばらで傷つこうとも甘い時間を過ごさないかと嵐のような加奈子に言うために玄関のドアを開けた。それだけ分かれば私には十分だった。

Page Top
inserted by FC2 system