初恋の君

 彼女は凪いだ海のように静かだった。波の音は近寄らなければ聞こえない。外の喧騒や雨の音で彼女の声はかき消され、わずかな声の記憶すらおぼろげだ。彼女の好きな詩を思い出す。私が繰り返し、繰り返し読んだ詩はかすれていく。
   巷に雨のふるごとく
   わが心にも涙ふる。
   かくも心に滲み入る
   このかなしみはなにやらむ。
   大地に屋根に降りしきる
   雨のひびきのしめやかさ。
   うらさびわたる心には
   おお雨の音 雨のうた。
 この詩を詠んだ詩人はだれ?


 私が吐き出した唾液はベランダから万有引力に従って地面に落下する。地上に誰か居たらそれなりに面白いことになったのだけれど、残念ながら今は授業中だ。
 私の通っているこの私立の女子高はいわゆる伝統あるお嬢様学園で、外面はいいが内部は保守的な派閥や権力争いが絶えず、手段は陰湿極まりないものから授業中ヒステリー起こしたり様々な軋轢を生んでいる。私は中途入学者で奨学金目当てで入学したかのだから、興味本位か敵視か無視かくらいしかないらしい。
 女子校生活1カ月目にして私はこの学園のわかりやすさに退屈していた。同じクラスの子たちは悪い子でもなく良い子でもなく与えられる課題を従順にこなすつまらないお人形のように見えて、つまらない。いっけん人当たりはいいから一通り話をしたけど、あの先輩がカッコイイとかあの先生がカッコイイとか。テレビの話とか校則に引っかからないメイクの仕方とか。それとアニメの話とか。小狡い子は付属の中学出身の女の子の悪口を畳みかけてきて私は苦笑いを浮かべることしかできなかった。私はTV観ないし、疑似恋愛とか面倒だしと言ったら友達は出来るはずもなかった。校則に引っかからないメイクの仕方は参考になったけれど。
 軽薄でもろい言葉が幾重にも積まれる会話が朝から夕方まで繰り広げられるのには疲れる。女子高なんて入るんじゃなかった。ゴワゴワするセーラーカラーはまだ身体になじんでないし、タイの色のダサさも、何もかも気にいらない。実習棟でぼうっと授業を(病気欠席という建前で)サボタージュして、今の状況になっている。
 実習棟は主に午後、利用される。家庭科の延長線上に茶道とか華道とかあって、他にも英語やフランス語の語学教室があったり、化学・物理応用室とかパソコン基礎演習など多種多彩な講座とそれと連携したクラブ活動もあったりする。疎まれやすい、と自覚はあったので私はひとが少なさそうな生物を専攻することにした。
「しかし仲良しごっこは面倒だなあ。」
 私の独り言は静かな実習棟にすぐ溶け込んでしまった。

 数日後、とても良い場所を見つけた。静謐で学校らしい場所はこの学園でもひとつくらいあるらしい。図書室。そこは誰もが静かにひとりで過ごしたいと思う場所。私は昨晩やり残した数学Aとフランス語のノルマをこなし、今にもぐずり始めようとする薄暗い空と暖かなエアコンディションのおかげでまどろみの誘惑は避けられなかった。

 雨の音かな。傘持ってないや。うつむいて眠ってしまっておでこを触る。ちょうど宵闇で鏡になるガラスをのぞくとデスクライトの慎ましい光が付いていて、向かいにはひとりの生徒が座っている。
「よく眠っていたら起こさなかったの」  雨音の間からかすかに聞こえる可愛らしい声。図書館で寝ちゃってそのまま……。無防備すぎる。
「あ、ありがとう……ございます」
 不器用なお礼を言って、向かいに座った女の子(タイの色からして同級生?)を見つめる。無機質なノンフレームのメガネを通して本に目を落としながら、黙々と読書をしている。時計に目をやると6時ちょっと前だった。
「閉室時間じゃない? ごめん眠っちゃって。どうしよう」
同級生の女の子は本から目を上げて、微笑んだ。
「別に気にしないで。図書室っていっても委員会の権限はクラブ活動と同じなの。下校時間までにここの鍵を職員室に返せば問題はないわ」
 肩のラインで切りそろえられたつややかな黒髪。目を伏せると長いまつげ。彼女の言葉は雨の音に?き消されそうになるくらい小さな声だったが、彼女はゴワゴワした制服をきちんと着こなして本のページを優雅な手つきでめくる。
「静かですね」
 沈黙が重くて、ノドが条件反射的に言葉を紡ぐ。
「そうね」
 でも、と彼女のくちびるから雨音のリズムに乗るような声が静かに響く。
「巷に雨のふるごとく
 わが心にも涙ふる。
 かくも心に滲み入る
 このかなしみはなにやらむ」
「ヴェルレーヌ? だよね」
 寝起きで曖昧な覚醒で私は答えた。  彼女は私にいたずらっぽい笑みを浮かべてみせた。
「この学校でヴェルレーヌを読むひとに初めて会ったわ。今はちょうど雨だし」
「有名だし。でも、暗い詩はあまり読まないようにしている」
「なぜ?」
「気分が重くなるから」
 私と正反対ね。細い声はどこか頼りない。彼女は窓の外を見つめる。
「あなたはこんな雨の日どう過ごすの?」
「温かいクレープか揚げたてのドーナッツを食べること、かな」
ちょっと子どもっぽくて能天気だなと我ながら思う。
「今までこの学園にはいなかったタイプね、小夜子さんて」
 私の名前をどうして知っているんだろう、と疑問に思った。それを悟ってか彼女は少し大きな声で言葉を続けた。
「外部から来られるかたは付属のひとから大体覚えられているの。でもこういうのってフェアじゃないわね。私は長野真理。水曜日の放課後は私が責任者だから気軽に長居して」
「ありがとう、真理さん」
 彼女の実直さに自然と感謝の言葉が出た。こんなことはこの学園に来て初めてかもしれない。私は少し安堵できた。
 真理さんは私の言葉に微笑んで、デスクライトを消した。そうすると図書館は薄い夜のヴェールに包まれた。

 教室の窓際でひとり、本を読んでいる。そういう子ってたぶんどこの学校にもいると思う。どんなグループにも属さないで、お昼にはふと姿を消して、始業にはいつの間にか席についている。窓際の席がまるで彼女のテリトリーのように、結界が張られてるみたいで、うかつには近づけない。真理さんもそんな子なんだ、と隣のクラスをのぞいたら、そう思った。この前の図書室にいたときはとても大人びて見えたが、昼の光のなかで見る真理さんは幼さを隠すように気丈に背筋を伸ばして座っている。
 教室の入り口近くにいた生徒に声をかけた。
「長野さん呼んでもらえる?」
 耳を立てていた何人かの生徒が私のほうをみつめる。真理さんと目が合うとなんだか気が抜けて笑ってしまった。
「おととい傘貸してもらったから、返しにきた」
 制服のプリーツを波立たせながら、ゆっくりと歩く真理さんは身体は小さいけれど、人目を引く。華奢ですらりと伸びた足。紺のソックスが真理さんの細さと白さを際立たせる。物腰は柔らかいから、細さや白さに病的なものはない。まさに昔からある有名なお家のご令嬢って風情だ。
「今度の水曜日でよかったのに」
 真理さんの声は小さいから私は彼女の耳元までムダに大きな身体を折る。
「迷惑だったらゴメン」
 折り畳み傘を手渡し、私も真理さんに合わせて小さな声でしゃべる。
「そんなことない。ただ……」
「ただ?」
「小夜子さんてカッコイイってみんなに人気だから、こんなところじゃゆっくりお話できないと思って」
 今も私に浴びせられる興味本位と敵意の視線とはそういう意味だったのか、とひとり合点した。
「じゃあ放課後、校門の前で待っているから」
 耳元でささやくと、真理さんはうなずいて、私は教室を離れた。女の子っていろいろ大変らしい。

 春風はまだ冬のなごりを捨てられず、時おり冷たく頬を撫ぜる。血糖値上げないとなあ、とひとりごちる。真理さん以外に友だちと呼べる人間はこの学校にいない。そこに寂しさやみじめさはない。むしろどうでもいい話をしたり、ひとりではお手洗いにすら行けないほうがみじめな気がする。しかし真理さんは放課後の誘い迷惑ではなかっただろか、と思うと不安になる。
「お待たせしました」
 頬を赤らめて、声が少し上がっている。
「図書館で本を借りてたら、手間取ってしまって」
「こっちが強引に誘ったんだから気にしないで。何借りたの?」
 私は身をかがめて真理さんの声を聞く。
「『春の嵐』」
「確か主人公が病気になったり、恋におちたり、横恋慕されたり散々な青春小説?」
 身もふたもない要約を私が言うと、真理さんは少し笑って、春になると読みたくなるの、と囁いた。
「ちょっとドーナッツ食べに行かない? 隣の大きい駅でおいしいトコ、見つけたんだ。門限は何時までだっけ?」
 7時までと真理さんが答えると、私は真理さんの手を引いて駅まで歩いた。

「暑くなるまでに全種制覇したいんだよね」
 私はメニューを見ながら抹茶のオールド・ファッションとスタンダードなオールド・ファッションとナッツとチョコレイトが乗っているドーナッツどれにしようか、メニューを見つめる。
「真理さんは決まった?」
「抹茶のオールド・ファッションにしたいけど、食べきれるかしら。ここのお店のドーナッツ大きいし」
「食べきれなかったら、私が食べるから。ここは傘のお礼でおごりのつもりだったし。お兄さーん、オーダーお願いしまーす」

 甘いにおいが漂う外のベンチで舌がヤケドしそうな揚げたてのドーナッツをほおばる。
「真理さんも一口食べる? チョコ熱いから気をつけて」
 真理さんは私の手にあるドーナッツを一口かじる。リスみたいにちっちゃい口だな、と思う。可愛いなあ。
「おいしいね。けど小夜子さん食べ過ぎなんじゃない」
 私は結局4つのドーナッツを頼んでしまった。
「タテに伸びるからいいの、夕飯の代わりだし」
 真理さんは大丈夫って不安そうな顔をしていた。
「ウチは母子家庭で母は今仕事で海外に出張してるの。普段はちゃんとごはん作ったりしてるし。母は私が小さい頃、昇進のチャンスを逃していて、今は母に仕事頑張ってほしいと思って、私はこの学園に学費免除で入ったってワケ」
 一息に言葉にしてしまうとなぜか胸のつかえがとれたみたいですっきりしたけれど、あまり自分の身の上について話せば相手も気を使うだろうと思って話さなかったのも事実だ。真理さんに話したのは、真理さんの纏う雰囲気が彼女もまた何かを守り、何かを大切にしているからだと思った。そうでなければ教室と図書館での印象の違いなど他人に与えはしないだろう。
「小夜子さん、私で……いいの?」
 真理さんのくちびるがふるえて耳をそばだてる。
「私が聞いていいの?」
「真理さんだから、聞いて欲しかった」
 真理さんの顔を見つめると真理さんのくちびるの端に抹茶がついていた。指でぬぐうと思ったより真理さんのくちびるは薄いけれど温かった。

 夏服の季節になるとこの学園の色々な変化が見えてくるようになった。銀杏並木は青々と葉を繁らせ、秋になったら臭いそうとか、セーラー服は夏服のほうがまだ着られるとか、体育はプールでも気にしないで水着になれるとか。生物部をやめて図書委員になったら真理と一緒にいて他にも友達らしい友達ができたりとか。だんだんとこの学園が好きになってきた。真理はほかの友達の前では大人びた雰囲気でいるけれど、私の前では無邪気で結構おっちょこちょいなところがあったりする。コーヒーとか苦いのが苦手で甘いものが好きで真理のかばんの中にはいつもあめ玉がはいっていたりする。真理のことなら私が誰よりもよく知っている。そんな優越感が私をとても気持ちよくした。

「蔵書点検なんて、普通、職員がやるもんじゃない?」
「小夜ちゃん、暑いのは分かるけど手を動かさないと終わらないわよ」
 うなってリストと本棚を交互に見つめて、順番がズレていたら直し、本がない場合は赤ペンでチェックする。真理と背中合わせで7月の冷房もない中、単純作業を繰り返す。
「真理は夏どっか行ったりするの? 避暑地とか、海外とか」
「ロンドン」
「ふーん。夏の語学留学とか?」
「このまま学園辞めて、ロンドンで勉強する」
 私は本に駆けた自分の指が一瞬震えたのがわかった。振り向いて真理の背中を見つめる。一番上の棚の本を動かしたいらしいが、手が届かないようだ。
「リスト見せて」
 真理は1個ズレているの、というと私はその指示通り本を並び替えた。
「出発はいつなの」
「この学期が終わったらすぐに。明後日、出発」
 真理は決めたことは迷わない。それは今日まで真理のことで知ったことのトップに入る。有言実行で私が何を言っても聞かないだろう。しかし私も人間で衝動というものがある。リストを投げ捨てるように手放して、真理の手首をつかむ。
「私が怒らないで優しく『いってらっしゃい』とでも言うと思った?」
 私はどこか冷たい口調になっている。このままじゃだめだと思うけれど、芯からさめていく。真理は顔を下げたままで、私の怒りはますます冷徹になる。
「小夜ちゃんは自分で決めてこの学園に来た。私も変わらなくちゃいけない。本当はこの付属の中学のときから話はあったけど、怖かったし戸惑った。だけど私、このままじゃ小夜ちゃんに置いて行かれちゃうと思って。私だけ変わらないなんて、許せない」
 真理を拘束する手が思わず緩んだ。今まで真理がこんなに感情的に声を荒げたことはなかった。真理が床にへたれこんで私が支える。
「真理、ごめん。こっち向いて」
 真理は顔を伏せたまま首を振った。もう一度ごめんと言って真理の顔に手を当てて私を見させた。
「泣かないでよ」
 真理の顔は涙でふやけていた。
「普通、泣くでしょう」
 真理の語尾は涙声でふにゃふにゃになっていた。あ、ヤバイ、私も泣きそう。そう思ったら真理とくちびるを重ねていた。
「柔らかいね。ちょっと甘い」
 真理のいつも持っているあめ玉の味だと思った。
「もう一回、させて」
 吐息がもれるくちびるに触れて、真理を味わう。今まで怒りで冷え切っていた心がじわじわと温かくなる。呼吸に合わせて舌を真理の口の中に入れて真理の舌と絡める。唾液が絡まる音で自分の冷静な部分を引っ張り上げて真理から離れようと思うが止まりそうにない。真理のくちびるが私の意に反して離れていく。
「小夜ちゃんの、えっち」
 真っ赤な顔をしてそのまま走って逃げられた。こういうときどうすればいいんだっけ。キスで腰が抜けるとは。図書館の床に寝そべって窓から空を見る。入道雲がゆうゆうとある夏の空。本日晴天也。雨のうたなんて似合わない。

 この詩を詠んだ詩人はだれ?


 軽快なポップミュージックが歌われていて、騒がしい。
「あ、起きた」
 女性の声で気づく。ここは深夜が一番騒がしい新宿2丁目にあるウーマン・オンリーのバー。通常より多めの仕事が上がって、ちょっと飲みすぎてそのまま眠っていたらしい。なんかすごく甘くてしょっぱい夢をみたようなきがするんだけどなあ。真理の夢だ。
「寝こけて、ごめん。里さんウコンちょうだい」
 オーケーとこのバーのマスターである里さんは言ってグラスとマドラーを取り出す。金曜日いつもはこんなに騒がしくはないんだけどなあ。腕時計を見ると夜の2時。
「里さん、今日なんかあるの?」
「近くのクラブでウーマン・オンリーのイベントがあるからでしょう」
 そうかー、と寝起きの間抜けな声で返事する。
「はい、ウコン」
 黄色い液体をコースターの上に差し出されてストローで吸う。完全にまどろみから覚めていない頭で真理のことを考えた。真理との一件のおかげで今はもう完全にレズビアンとしてこの街にも溶け込んでいる。真理を追いかけることはできなかったけれど、今は悔いていない。当時は物凄く後悔していたが。むしろいろんな女性と出会えたのは真理のおかげだ、と考えられるようになった。テレビや雑誌を観ていればこの男性は格好いいとは思うけれど、恋の対象はずっと女性だ。しかし未だにずっと一緒に居たいと思える女性とは出会えていない。
「里さん、心に雨が降るとか言った詩人知らない? 確か……マドレーヌ……とかフランス人」
「マドレーヌはお菓子じゃん」
 里さんは軽快に笑い、次のお客の相手を始めた。なんだっけなあ。巷に雨の降るごとく……。語尾にヌが付いたはず。霞む頭を動かして名前を思い出そうと記憶を探る。
「巷に雨のふるごとく
 わが心にも涙ふる。
 かくも心に滲み入る
 このかなしみはなにやらむ」
 あー、そんな感じだったよね、と思って声がする隣の女性の顔を見つめた。白い肌と長いまつげ。脳内で擦り切れるほど聞いた、あの声。
「良く眠っていたから起こさなかったの」
 自分の顔をつねってみる。イタイ。夢の世界ではない。
「ヴェルレーヌ」
 と私は声に出した。真理は大人の顔で私に微笑んだ。

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