甘い復讐

蜂蜜と檸檬

 ときどきフラッシュバックのように訪れる、それを何とか私はやり過ごそうと思っていた。浅くなる呼吸。鼓動は痛くて、私は胸を押さえて階段を上った。ここの屋上は施錠されていないことは確認済みだ。私は投げだしたかった。身体をこの屋上から投げたら、楽になれるかなって、少しだけ馬鹿なことを考えていた。
 ドアを開けると青い空が広がっていて、柵に白い蝶が止まっていた。
「ん、サボリ? リボンタイからすると一年生か」
「だれ?」
 朦朧としているなかで唯一出た声が、それだった。
「保健医の君島だよ」
「君島せんせい」
「そう」
 君島せんせいの白衣がはためいている。それがまるで蝶のようで、捉えどころがない。
「吸う?」
 せんせいは煙草を吸っていた。煙が風にたなびく。
「じゃあ」
 私は差し出された煙草に手を伸ばした。そしてその瞬間に煙草は手元から消える。
「ウケる。あんたマジで教師から煙草もらおうとおもったん?」
 笑い声をあげるせんせいは、とても楽しそうで私はからかわれたことを知る。
「アンタ、じゃなくて里中です」
「里中ちゃんね。覚えておくよ」
「よろしくお願いします」
「あんまり授業をサボるなよー」
 せんせいはそう言って、ぺたんこのサンダルの音を立てながら、屋上を後にした。
 私は蝶の夢を見たのかと思う。浅かった呼吸も痛いくらいの鼓動も、いつも通りになっていた。

 底冷えがひどく、私は学校指定のダッフルコートの前を閉じて、保健室に向かった。
「せーんせ」
「受験が終わったからって、ヒマしているねー。いいねー学生は」
「そんなにヒマではないですよ。卒業生代表しなくちゃいけないから」
「ああ、総代で答辞を読み上げるんだっけ。出世街道まっしぐらだねーごくろーさん」
「私なんかより優秀な生徒はいっぱいいるのに」
「それだけ里中を買っているってことだよ」
 せんせいはデスクの前に座ったまま、私の方を見ようともしなかった。
「里中ちゃんはきっと真面目な大学生になって、高校時代なんて思い出さなくなるよ」
「どういう意味ですか、せんせい?」
「こんなくだらない保健医のことは忘れるってことさ」
 私はせんせいに詰め寄って、回転椅子をまわす。そして頬を叩いた。
「痛いね」
「痛くしたんです。せんせい痛いの、好きでしょう?」
「好きだけど、暴力は良くないなあ」
 へらへらと笑っているせんせいは、いつものせんせいで。暴力でもセックスでも屈服させられないと私は思い知らされた。
「好きです、せんせい」
「里中ちゃん、言動と行動が無茶苦茶」
「知っています。でもせんせいが欲しい」
「一時の気の迷いだよ」
「迷っていても、いまの私は正気です」
「知っている」
 せんせいの言葉は冷たかった。私はその他人行儀な声に打ちのめされて、弾かれるように保健室を出た。

 高校時代、最後にせんせいを見たのは、体育館の壇上からだった。私は驕ることもなく謙虚に最後まで優等生の仮面をつけていた。せんせいの前以外では。そして私は下級生に囲まれ、花をたくさんもらった。花瓶なんて気の利いたものはないから、どうしようかと迷った。せんせいには最後の挨拶なんてしないと決めていた。せんせいの言うように何ごともなかったように、高校時代の幕を下ろした。あっけない。そうと知りつつ、私は制服を脱いだ。





 里中が卒業をして、二年が経った。大人になると時間の経過などあっという間で、春のうららかな日々もルーチンになる。一年生が制服を着ることに慣れた、五月。私はいつも通り書類仕事に追われている。ノックが聞こえると私は、はーいとおざなりな返事をした。
「こんにちは、君島せんせい」
「え、あ?」
「せんせい相変わらず書類を読まないんですね」
 そこにはリクルートスーツを身にまとった里中がいた。
「今日から、化学の教育実習をさせて頂きます、里中です。よろしくお願いいたします」
 私はやられた、と頭を抱えた。
「子どものままじゃ、せんせいは落ちないと思って。復讐しに来ました」
「復讐とはこれはまた、物騒な」
「甘い復讐ですよ。せんせいはこういうのお嫌いですか?」
「嫌いじゃなけど」
「けど?」
「いつから企てていたんだ?」
「せんせいに手酷くフラれた瞬間から」
「執念深いなあ」
「愛ですから」
 ふふっと里中は笑って見せた。
「とりあえず酒を奢れ。話はつもるほどあるんでしょう?」
「赤貧の大学生にタカるなんて、非道な」
「それくらいしなさい」
 里中はそうは言いつつ笑っていた。なんて狂おしいほど甘い感情なんだろうか。私は目眩を覚えて、その貴腐の感情に酔い痴れる。

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