林檎を齧る

蜂蜜と檸檬

 自分の絶叫で目を覚ますのは久しぶりだった。
 夏が終わろうとしている。季節の移り変わりに古傷が痛む。胸に手を当てて、自分の傷跡を指で辿ってみると、そこは塞がっているのに、内臓が痛むのがわかった。ごめんなさい。私はただ謝ることしかできない。生き死にを知るにはあまりに私は幼かった。

「君島せんせい、少し休ませてください」
「どうした?」
「生理二日目で」
「顔色悪いな。朝ごはんちゃんと食べてきた?」
 私は顔を横に振った。そうするとせんせいは私に何かを放った。
「胃に何か入れて、少しは血糖値上げてから、鎮痛剤を飲みなさい」
「はい」
 私は投げられた林檎の表面を擦って、齧りついた。
「昔、体調が悪いと、母が林檎をすり下ろしてくれたな。懐かしい味」
 しゃくしゃくと小気味いい音を立てて、私は林檎を咀嚼し、嚥下する。
「そう」
「母は私が殺しました」
「知っているよ」
「傷跡を知っているもんね、せんせいは」
「優しくしてほしいなら、そう言われなきゃこっちも何もできない」

 私はせんせいに優しくされたいのだろうか、もっと特別でネガティブな欲望が私のなかで渦巻く。 「優しくとは、ちょっと違うな。せんせいになら酷いことされたっていいし。……せんせいのことが知りたい。どんな高校生だったとか、大学時代とか。私のことじゃなくて」
「またクソつまんないこと聞きたがるね」
「それは私が決めます」
 きっぱりと私は言い切った。
「林檎を食べて、薬を飲んで横になったら、話してやらなくもない。いい子にしてな」
「はい! せんせい、ありがとう」
 パーティションで区切られたベッドの脇に、ブレザーとスカートを脱いで、畳んで置く。
 せんせいはデスクに向かって、何か書き物をしていた。紙がカサカサと立てる音だけが、保健室を支配している。せんせいはこんな静かな部屋の中で一体いつも何を考えているのだろうか、と思いを巡らす。
「里中は親を間接的に殺したのかもしれないけど、私は親に殺されたのかもなって思うときがあるよ。私、勘当されているんだわ。もう父親とは十五年以上も喋っていない。
 嫌な田舎だったよ。夏は暑いし、冬は寒くて雪はドカドカ降るし。少しでも違う振る舞いをしないように、私は一所懸命に両親にとっていい子を演じようと頑張った。
 でも大学に入学した途端、箍が外れちゃってねえ。違法スレスレのことまでやったよ。で、それがオヤジの耳に入ったから勘当されて。古いひとだからね。結婚前のおんなが一体なにをやっているんだって。男も女も好きだけど、結局、結婚っていう制度は乗れずにいるね。まあ夜職しながら大学卒業して、いまのここにいるって感じ。寝た?」
「せんせいのお母さんとは連絡を取っているんですか?」
「うん、さっき食べた林檎は私の家のだよ。母が送って来るんだ」
「すごく美味しかったです。せんせいは愛のなかで育ったんですね」
「歪な愛だけどね。愛情なんてそんなもんでしょ」
 もういいでしょう、少し寝なさい。一時間したら起こしてあげるから。せんせいはそう言って、また書類に向かっている音がした。
 林檎は愛の味がする。その味が時には自分を苦しめる。せんせいが私くらいの歳のとき、せんせいは何を感じていたのだろう。しんしんと降る深い雪のなかに、女子高生のせんせいがいる。無邪気に笑って見せて、おいでおいでと手招くのをまどろみで見て、私は眠りに落ちた。

「里中ー。四限目が始まるよ」
 パーティションの外からせんせいの声が聞こえて、私は目を開けた。
「雪国で女子高生のせんせいと遊んでいる夢を見ました」
「この部屋は寒かった?」
「いえ、不思議と雪は温かかったです。せんせい」
「なに?」
「せんせいが女子高生の頃、私と出会っていたらって考えてみたんです」
「それで?」
「きっとソリが合わなかっただろうなって。せんせいは私のこと絶対、嫌厭するだろうなって」
「それは間違いないね」
「断言しないでくださいよ」
 先生は笑って見せた。その笑顔はどこかいつもと違う、幼さを目尻に残している。
「里中みたいな腹黒い女子高生なんて、大人じゃなきゃ扱えんよ」
「ひどい言われようだなあ。せんせいが扱ってくれるんですか?」
「言葉尻を捕らえて、遊ばないの」
「はい」
 私は制服を身に着けながら、せんせいと軽口をたたき合う。
「最近、眠れている?」
「どうして」
「事故のあった日はもうすぐでしょ」
「せんせい」
「データはすべて教師側にあるんだよ。まあそんだけペラペラ喋れるんだったら、問題ないか」
「せんせいがそばに居てくれたら、よく眠れるかも」
「私の添い寝の料金は高いよ」
「生徒の私からお金を巻きあげないで下さいよ」
「資本主義社会だからね、何するにも金が必要さ」
「せんせい、知らなければよかったってこと、ありますか?」
 唐突にせんせいに問いを投げかけてみた。せんせいは私を腹黒と言ったけれど、それ以上に意地悪そうな顔をした。
「歓びも怒りも、悲しみも憎しみも楽しみも、すべて私のものだよ。私だけのものだよ。私が知ったことは、誰も奪えない。感情を表に出すのもいいし、発酵させるのもいい」
「そういうものなんですかねえ」
「だから里中。里中が感じたことに良い悪いもないよ。その感情に溺れてみるのも、吐き出すのも、里中の自由さ。人生どうにかなるようになっているから」
「はーい」
「じゃあ、とっとと教室に戻って、授業受けて来なさい。里中が知らないことなんて世の中にたくさんあるんだから」


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