檸檬の味

蜂蜜と檸檬

 眼鏡を外し、コンタクトレンズを眼球に入れた。それだけで視界がクリアになる。髪の毛をアイロンで巻き、普段はしないアイメイクをする。我ながら上手く別人に化けられたな、と感心する。夜八時。行く場所は決まっている。
「キミちゃん。お久しぶり」
「こんばんは、京子さん、いつものお願い」
 そう言うと、このガールズバーのママである京子さんは、オーケーと言ってウイスキーを棚から取った。
「あれ、キミじゃん」
「ああ、カナ、久しぶり」
 飲み友だちで昔いろいろあったカナはすでに随分、飲んでいるようで上機嫌だ。
「相変わらず保健のセンセやってるの?」
「そそ。迷える子羊をきちんと導いていますよ」
「キミが保健の先生やっているとか、まじウケるよねー。AVじゃないかって」
「本当に自分でもそう思うよ」
 京子さんの出してくれたウイスキーに私は口をつけた。里中のことが頭をよぎったがすぐ酒で打ち消した。
「『憧れてます、先生』みたいなのって本当にあるの?」
「そんな可愛いもんじゃないよ、今どきの女子高生は」
「ほう。ということは迫られたんだね」
 勘繰られても不愉快なだけなので、私は切り返してみせる。
「ねえカナ、あんたはそういうことないの?」
「それを言われると痛いな。最近、女日照りが続いてるの」
「じゃあ、私が相手してあげてもいいよ」
 その言葉の真意は私自身にもわからなかった。ただ無性にセックスがしたかった。カナはその相手にじゅうぶんだ。
「いいの?」
「カナとなら後腐れなくできるでしょう」
「じゃあそう言うことで、出ますか」
「オーケー。じゃあ私の家ね」
 恋人のように手を繋ぎ、駅に向かって歩く。耳元で囁くのは冗談のような、本気のような愛の言葉。セックスはもうここから始まっているのだ。輪郭を確かめるように触れて、嘘の愛の言葉を囁いて、目でカナの身体が欲しいと訴える。快楽でぐずぐずになって、早くとろけたい。
 電車を降りたとき、私を見ている視線に気づいた。その視線は好奇の色をしたものじゃない、むしろ、と思って振り向いたら、そこには里中がいた。
 ドアが閉まって、過ぎていく電車を私は呆然と見守った。
「キミ、置いてくよ」
「いま、行く」
 私は自分の心のなかを暴くように、里中が私を見つめていた。

 待っていましたとばかりに私はカナにくちづけた。甘くて濃厚なキスは優しい。けれど、私の身体の芯は冷たい。
「どうしたの?」
「ごめん。やっぱりできない」
「さっきまであんなにノリノリだったのに」
「カナが悪いわけじゃない。私がちょっとダメなんだ」
 ふむ、とカナは顎に手をついて考えた。
「このまま無理やりしてもいいけど、それも拒否している感じだね。やばいよ。キミ」
「どうやばいの?」
「『電車の君』に恋でもしちゃったじゃない」
「嫌だな。気づいていたの」
 シリアスな冷たい言葉が出て、カナは笑った。
「やばいね。マジだよ」
 カナは爆笑しているが、私としてはとんでもない面倒事に足をつっこみかけている。笑いごとで済まされない。
「いいんじゃない。久しぶりに恋でもすれば」
「まあいいわ。寝る」
「抱きしめてあげるから、ゆっくり寝な」
 触れるだけのキスをすると、カナは檸檬の味がすると言って笑った。冗談じゃない。

 週明けの放課後に、里中が保健室に来た。
「こんにちは、せんせい」
「はいはい。何の用?」
「この前の女のひと、先生の恋人? っていうか先生は化粧すると人が変わりすぎ」
「それ、答える義務ある?」
「好奇心です。それに聞きたかったら身体に……」
 と胸に伸びてきた手をつねった。
「あんまり大人をからかうんじゃない」
「あんまり子どもを舐めないでください」
 まっすぐに汚れも後ろめたさもない目を見ていると、自分の薄汚い欲望で汚したくなる。
「せんせいを縛って、自分だけのモノみたいに扱って、床に転がしておきたい」
「さすがに飼われたことはないね」
「それくらい嫉妬で狂いそうってことですよ」
「そういう感情、私は好きよ」
 鼻で笑って見せると、里中はかちんときたようだ。
「キスしてもいいですか?」
 だめ、と答える前に口は塞がれていた。やわらかでたどたどしいくちづけは、過去のことを思い出させる。里中のことではない、誰かのことを。
「気は済んだ?」
「先生が冷静だってことは、よくわかりました。でも私、諦めませんから」
「はいはい。気をつけて帰るんだよ」
 完全に里中を拒絶できない。里中、私は檸檬の味が美味しいと思えるほど初心じゃないんだ。引きつる火傷みたいな傷跡が本気で欲しいと思っているダメな大人なんだよ。恋なんて一過性のものよりも、どうあがいても消えないものが欲しいと思っている。
 だから里中、早く大人になって。そして私がくだらなく小さな存在だと、わかって欲しい。

Page Top
inserted by FC2 system