熱情が、きこえる

第六章

「茜が化粧をするなんて、なんか変な感じ」
「それを言うなら結衣もでしょう」
「私はステージと取材以外はすっぴんだもん」
 頬にチークを入れながら、私は結衣の機嫌をうかがっていた。結衣は不機嫌そうに見つめていた。
「早く帰ってくるから。有給もぎ取ってくるよ」
「待っている」
 私は結衣の目蓋に、口紅が落ちないように、軽くキスを落とした。結衣に抱きしめられると、いっそう仕事に行きたくなくなった。
「じゃあ行ってきます」
 結衣は私に手を振った。扉を閉めるのが惜しい。それでも私はドアを閉じて、仕事場に向かった。

「有給ねえ。市野川さんが珍しい」
「有給休暇は百日分くらい溜まっていると思います。一週間でいいんです。仕事は森田にお願いします。彼女もそろそろこなせるようにならないと」
「で、理由は何なの? 一週間も休むなんて」
 上司は興味津々といった具合で、私に訊いてきた。
「……蜜月です。いま会っておかないと、いつまた会えるかわからないんです」
 私は下を向いて、そう言うと上司は鋭い目線を私に向けた。
「大瀬くんは?」
「すっかり彼の存在を忘れていました」
 私は上司に啓一のことを言ってなかったのに、耳ざといひとだなと思った。私の言葉に上司は笑ってみせた。
「大瀬くんを抑えて、惚れるなんて相当なものね。いいわ。水曜日から有給休暇を取りなさい」
「水曜日から、いいんですか?」
「私の気が変わらないうちに、書類を書いちゃいなさい」
 ありがとうございます、と頭を下げて私はデスクに戻ると、不満げな顔をした森田が私を待っていた。
「話は聞きました」
「盗み聞きはよくないよ」
「合コンはどうしてくれるんですか?」
 私は答えずに、PCを立ち上げる。
「今度、懐石でもフレンチでも好きな料理を奢るから」
「ミシュランに載ったところじゃないと嫌です」
「わかったわかった」
 私は言いながらも、心はここになかった。明日だけ出勤すれば、結衣のそばにいれる。結衣のそばにいれるのだったら、私はなんでもする。私が薄笑いを浮かべていると、森田に気持ち悪いですよ、と言われた。それでも構わなかった。

 水曜日の仕事が終わると、私は結衣と一緒にお風呂に入った。明日から結衣と一日中過ごせると思うと、目尻が下がる。結衣はそんな私にお湯をかけてきた。
「なにニヤニヤしているのよ」
「明日からはずっと結衣のそばにいれるなって思っただけだよ」
「どんなことがあっても離れずに、そばにいて」
「うん」
 私は暗褐色の瞳を見つめたまま、頷いた。
 そうして今日も抱き合って眠るのだ。
 春を予感させる日の光が目蓋を叩くと、私はまどろみから目を覚ました。隣で眠っている結衣のおでこにキスすると、パットが来る前に何か着なくては、と思った。
 無邪気に裸で抱きあう時間。その時間は私の中のあらゆる感情を、甘くとろけさせる。ゆり籠に揺られている赤子はきっとこんな気持ちに違いない。穏やかで、瑞々しい。私はそんなことを考えながら、春物のセーターに袖を通した。
 ドアが開く音がした。パットが来たので、私は急いで、ジーパンを履いた。
「アカネ、おはよう」
「モルゲン、パット」
 パットと短く挨拶すると、彼女は結衣を起こした。
「午後からフラウ・サクライの所へ行ってもらいますからね、ユイ」
「面倒くさい。今日は終日オフなんだから、寝ててもいいじゃない」
「フラウ・サクライのお陰で、いまのあなたがいることを忘れないで」
 持っていく手土産、テーブルの上に置いておくよ、とパットは高級菓子の袋を結衣に見せた。
「桜井先生はお元気なの?」
「亡くなったよ。いまは奥さんがひとりであの家に住んでいる」
「じゃあ余計に行かなきゃダメだよ、結衣」
「アカネ、もっと言ってやって」
「わかったよ。行くよ」
「フラウ・サクライにはアカネも行くって言ってあるから」
「午前中は用事ないんでしょう?」
「ヤー。でも、ホテルに引きこもっていないで、少し走ってきなさい」
 渋々といった具合に結衣は毛布をはいで、下着を身につけ始めた。私は思わず視線を逸らした。結衣の身体は私には甘すぎる。早春の光に晒されると、余計に夜のことを思い出してしまう。
「じゃあ、今日の私の仕事は終わりだから、自由にさせてもらうわ。チュース」
 パットは部屋から去っていった。
「茜、何をしようか?」
「結衣は何したい?」
「もっと抱きあっていたい」
「私もそう思っていたところ」
 私たちはぴったりと抱きしめ合った。服が邪魔なので脱ぐと、結衣が笑った。静電気で髪の毛が乱れていたから。私は結衣の髪もぐちゃぐちゃにして、おあいこだねと笑った。 私たちにはセックスが必要ではなかった。抱きしめあうだけで、結衣のことを暴くこともできたし、愛することができた。これ以上の官能はないと結衣も思っているだろう。
 上司に結衣と過ごす時間を「蜜月」と言ったのは半分正しく、半分間違っている。私は結衣のいなかった期間のすべての時間を、たった二週間で、取り戻そうとしているのだ。それがいかに強欲なことなのか、自分でもわかっていた。結衣の肌が、声が、目が、私に向けられるだけで快楽となる。自分がこんなに欲深かったなんて、結衣に再会する前には気づかなかった。手放したくない。私たちは饒舌な身体でお互いを満たしあった。

「もう行く準備しないと」
「やだ」
「駄々をこねないの」
 私はごねる結衣の服を着させ、ホテルを後にした。
 電車は嫌だという結衣のわがままでタクシーに乗り込んだ。演奏会以上にナーヴァスになっているのだ、と私は気づいた。結衣は気を取られると、口数が少なくなる。私が菓子折りを持ち、結衣の頭を撫でた。そうすると結衣は頼りなさげに私のスプリングコートの裾を引っ張った。そのしぐさが愛おしくて、私は結衣を抱きしめた。
「なんかずっと抱きあっているね」
「いいじゃない」
 私は結衣の頭を撫でながら、彼女の身体を抱きよせていた。
 桜井邸に着くと、結衣はチャイムを鳴らしたが、返事を待たず門をくぐった。私は慌てて結衣の後を追う。そして玄関から桜井夫人が出てきた。
「結衣さん」
「ご無沙汰しております。奥さま」
 結衣はサングラスを外し、深々と頭を下げた。その辞儀に込められた意味が私にはわからなかった。
「いいんですよ、そんなに頭を下げなくても。さあ茜さんも一緒にお入りなさい」
 私たちは仏壇のある客間に通された。結衣は仏壇の前に座ると、口を開いた。
「先生、お葬式にも行けずに、不義理な弟子ですみません」
 そう言って、お線香をあげて、手をあわせた。私も結衣の後に続いて、お線香をあげた。結衣は日本を離れてから、桜井邸の敷居を跨がなかったのだろう。日本に残した記憶を封印するために。
 手をあわせ終わると、桜井夫人はこちらにいらっしゃいと、言った。
「結衣さんと茜さんがふたり一緒に来るのは、高校時代以来かしらね。それでふたりは付き合ってらっしゃるの?」
 結衣はお茶を吹き出しそうになり、私はむせた。
「私は騙されませんよ。ふたりに特別な雰囲気があることを」
「茜はには彼氏がいます。それに彼女は私のミューズです。それ以上を求めるのは強欲でしょう」
 そうでしょう、と結衣から同意を求められると私はどう答えるべきか悩んだ。
「私は恋人と別れるつもりです。結衣のそばにずっといたいです」
「ちょっと、その話、聞いていないんだけど」
「言ってないもん」
「語尾で媚びても、可愛くないよ」
「あらあら。ふたりともベッドのなかで愛を語らい過ぎたんじゃないかしら?」
「違います!」
 思わず、私と結衣は同じタイミングで否定した。
「桜井も喜んでいると思いますよ。ふたりが再会できたことを。茜さん、あの時は残酷なことを言って、ごめんなさいね」
「いえ、奥さまの思いやりだとわかっていました」
「もう桜井はいません。どうぞ静江さんと呼んで下さい」
 穏やかなほほ笑みを見せる、静江さんはこれ以上、私たちの関係に言及してこなかった。その代わりにというわけではないけれど、結衣の幼いころの写真を見せてくれた。ピアノを始めた三歳の頃から、高校時代まで。結衣は写真を時おり覗き込みながらも、不機嫌そうな顔をしていた。私は結衣の仏頂面が愛おしくて、もっと見たいと思って写真にオーバー・リアクションしてみせた。桜井邸の滞在時間はそれでも二時間ほどだった。
「いつまで顔をしかめているの?」
 帰りのタクシーでも窓の外を見つめている結衣に私は語りかけた。
「茜が彼氏と別れるなんて聞いてない」
「結衣と最初に抱きしめ合ったときから、私が決めたことだから。彼には少し待ってくれって言われたけど」
「馬鹿じゃないの」
「結衣に関しては馬鹿でいい」
「せっかく手放してあげようと思ったのに」
「結衣は私を手放せるの?」
 挑発的に私は結衣を見つめた。私は結衣を手放さない。仕事だって他のプライベートだっていくらでも犠牲にできる。結衣のそばに居るためなら。
「本当に馬鹿だね」
 結衣は私を抱きよせてきた。私は最高のほめ言葉だと思った。

 それからというもの、私たちは一緒に過ごした。取材のときもコンサートのときも、片時も離れずにそばにいた。その電話がかかってくるまでは。
 金曜日、長野のコンサートホールの楽屋で私の携帯電話は震えた。表示された名前を見ると、啓一からだった。このまま無視しようと、バッグの中に入れたが、しつこく震え続けた。結衣はリラックスしているとはいえ、ノイズを与えたくなくて、私は楽屋から出て電話を取った。
「もしもし」
「今どこにいるんだい?」
「長野」
「素っ気ない返事だな。まあ、いいか。今度、君の『初恋の君』に会わせてくれないか。それで茜、君とは別れるよ」
「すぐには返答できないよ。結衣のスケジュールを全部、把握しいているわけじゃないから」
「でも東京に戻ってくるんだろ? 一時間でいいんだ。茜が心底、惚れた相手を見て、話したいんだ」
「私はいいけど、結衣がどうしたいか、私にはまだわからないよ」
「きっと彼女は俺に興味を示すと思うよ」
「その自意識過剰なところ、相変わらずね」
「とりなしてくれないか」
「結衣と会って話したら、本当に私と別れてくれるの?」
「……約束する」
「わかった」
 私はそう言って、電話を切った。腕時計を見て、開演時間が近いことを知った。私は啓一のことをすぐに忘れ、バックステージに戻った。

 東京に帰る新幹線のなかで、啓一の言葉を思い出した。結衣は音楽を聴きながら、目を瞑っていた。起こすのも忍びないが、気がかりなことは早く済ませたかった。
「結衣」
 私は結衣の腕を揺すった。
「なに?」
 結衣は大儀そうにイヤフォンを外した。
「相談があるんだけど」
「珍しいね。いいよ、話して」
「彼氏が私と別れるために、結衣に会いたいって言うんだけど……」
「茜は優しいね。逃げちゃえばいいのに」
「会ってくれる?」
「会うくらいで、茜がずっとそばにいてくれるなら、安いものだよ。それに茜の彼氏って興味があるわ。どんなひとと付き合っているのかね」
「良かった」
「パットにスケジュールを確認してみるけど、確か土曜日なら少し空いているはずだよ」
「ごめんね。こんなことに付き合わせて」
「安いものだって言ったでしょ」
「ありがとう。なに聴いているの?」
「東京で演奏したラフコン三番。一緒に聴く?」
「聴く」
 きっとこの不安は杞憂にすぎない。私は結衣のそばにずっといるんだ。片耳から聴こえるラフマニノフのピアノコンツェルト三番は甘やかな響きで、私を酔わせる。

 東京に戻ってからも、私は結衣の取材に同行して、マネージャーに間違えられたりした。間違えられるたび、結衣は「彼女は私のミューズです」と言うので、私は頬を赤らめるしかなかった。
 土曜日はあっという間に来た。私たちは都内で一件、取材をこなしてから、啓一の待つカフェに行く。これさえ終われば、晴れ晴れと結衣と恋人になれる。私の胸は躍っていた。
「嬉しそうね」
「私たちの間にある問題はこれだけでしょう? 早く済ませようよ」
「そうだといいんだけどね」
 結衣は少し憂い顔を浮かべていた。しかしそれもきっと晴れる。啓一が指定したカフェが目に入り、私は結衣に入るよう、促した。
「大瀬啓一と言います」
 啓一が私たちを見つけると、席に座るように勧め、結衣に名刺を渡した。
「初めまして、矢田結衣です。名刺を持つ習慣がないので……」
「どうぞお気になさらないでください。名刺を差し出すのは、僕の場合は職業病と言ってもいいかもしれませんから」
 話は主に啓一の結衣への質問だった。結衣は臆することなく、インタビュアーの啓一の問いに答えた。
「茜とあなたがお付き合いするんですよね?」
「私はそのつもりだよ」
 ついに核心を突いてきたか、と私は思い、すかさず答えた。
「茜、君の少女趣味でひとを振り回すのは、どうにかした方がいいんじゃないかな」
「どういう意味よ」
「そのままの意味だよ。ウィーンに結衣さんと一緒に行って、仕事はどうするんだい?」
「茜には私の仕事のマネージメントをお願いしたいと思っています」
「結衣さん、あなたが茜と一緒にいたいのはわかります。しかし茜の今の仕事は? 語学はどうするんですか? もうしばらくオーストリアに渡るのは待った方がいいんじゃないでしょうか?」
「失礼」
 そう言って結衣はバッグを持って、席を立った。私はいきなり席を立った結衣を追いかけた。

「結衣。結衣ったら!」
 結衣は振り返ると、先ほどまでとは違う雰囲気をまとっていた。きっと結衣は私を見ていない。そして私はそんな結衣を必死で引き留めようとしている。結衣は啓一のどの言葉に傷ついたのだろうか。私には謎だった。
「ごめんなさい、啓一がすごく失礼をしたみたいで」
「違うの。大瀬さんが直接の原因じゃない」
「じゃあ、どうしたの? 結衣」
「茜は大瀬さんにすごく愛されているじゃない。なんでそんな簡単に捨てちゃうの?」
「私が結衣を好きだからだよ」
「私のもうひとり愛したひとには、もう二度と会えない。その影が大瀬さんの振る舞いからチラついて、私の頭から離れないのよ」
「それって……」
「そうよ、父さんよ。私のもうひとつの呪縛」
 そう言って、結衣は再び歩み始めた。結衣は決して振り返ることがなかった。
 私は呆然とその場に立っていた。結衣が視界から消えても。なぜ抱きあうだけではわかり合えないのだろうか。なぜ結衣のことをもっとわかってあげようとしなかったのだろうか。私の胸中は黒いものが溢れてきて、その感覚は十代のときに知ったものだった。そう。初めて結衣を失ったときの。
「茜」
 啓一が私のバッグを持って立っていた。
「情けない顔しているのね」
「こういうとき、どういう顔をすればいいか、わからないよ。俺のせいなのか?」
 そうよ、と言いたかったけれど、答えは違っていた。結衣の問題だった。そして私の。私たちの。
「大丈夫か?」
「大丈夫だから、放っておいて」
「わかった。でもちゃんとメシ食って、寝ろよ。そうすれば大抵のことはどうにかなるから」
「ありがとう」
 私はなおざりに啓一の言葉に応え、結衣の滞在するホテルになんとか戻ることができた。

「おかえり」
「ただいま」
「大瀬さんとよりを戻したほうがいい」
 気まずいムードを壊すように、早々に口火を切ったのは、結衣だった。
「結衣はなんでそんなこと言うの? 結衣は私がいなくてもいいの?」
「茜はずっと私のなかにいるよ。離れていたときも、ずっと。だから私は大丈夫」
「啓一だって今すぐオーストリアに行くのは早計だって言っただけで、結衣と離れることを望んでいるわけじゃ……」
「違うの。私が茜を殺してしまう。茜の大事な部分を私が食いつぶしてしまう。そんなの私が許さない」
 結衣のなかで、大きな意味を持つ、父親。結衣の父は自殺した。結衣が殺したわけではない。しかし結衣の大きな才能の重圧に殺されたといっても過言ではないかもしれない。結衣は決して私には父親のことを語らない。愛憎と言ってしまえば陳腐なものになるのに。楽に、なるのに。結衣はストイックに縛られ続けている。そして結衣は私が父親のようになると思っているのだろうか。むしろ私は結衣に殺されるなら本望だというのに。
「結衣になら、殺されてもいいよ」
「簡単にそんなこと言わないで」
「ごめん」
「私の一番の願い、聞いてくれる?」
「私が聞きたくないって言っても、言い聞かせるんでしょう」
「大瀬さんと幸せになって」
「嫌だ。私は結衣と幸せになりたい」
「茜、よく聞いて。大瀬さんが言っていた、茜の少女趣味っていうの、私にはよくわかる。私たちは大人にならなくちゃ。高校生みたいな夢はもう終わりにしよう」
 確かに、少女趣味だ。少女期の繊細な部分を共有してきたふたりが、大人になって再会し、その想いを実らせるなんて、今どきの少女マンガですらこんな話は読まれない。私はこの二週間、夢を見ていたのか。愛の夢を。私はこれを夢だなんて決めつけられてくない。結衣の腕が、背中が、指が私に再び輪郭を与えたというのに、それを否定させない。結衣にでさえも。私は怒りで総毛立つ。あの言葉を。高校時代に言ったあの言葉をもう一度、言おうと私は拳を握った。
「裏切り者」
「うん、そうだよ。私は茜を裏切る」
 そのあっけらかんとした答えを聞いて、私は結衣の決意を揺るがすことができないと悟った。どうあがいても。歳を重ねたのに、出てくる言葉は陳腐なものでしかなかい。
「結衣のなかで、私は生きている? これからもずっと?」
「それだけは、確かだよ」
「最後に一緒に寝て。セックスって意味じゃない。同じベッドで眠ろう。私たちにできることはもうない」
「そうだね。楽しかったよ。夢のような時間だった」
「もういい。何も喋らないで」
 私は結衣の口を手で覆った。そして慈愛に満ちた結衣の瞳を見て、私たちは終わりに近づいているのだと、知った。
 ホテルのシーツは他人行儀で、下着を脱いだ裸の姿だと冷たかった。結衣と寝るベッドのシーツはいつも熱を持っていたというのに、今はその冷たさが私たちの関係を表しているように感じる。私は仰向けになっている結衣を見つめた。静かに眠っているように見えた。私はその姿を見ていると、もう二度とこんなふうにそばにいれないと思って少しだけ落涙した。その瞬間、結衣は咆哮のような嗚咽を上げた。拳で頭をドンドンと叩き、先ほどまでの静けさとは打って変わって、獣のようだった。私は結衣の腕を掴み、涙を舌で舐めとった。大丈夫だと言い聞かせるように。そうすると結衣の嗚咽は少し収まった。私は結衣が泣き止むまで、彼女の涙を啜った。
 そして明け方、ベッドの中ですやすやと眠る結衣を残し、私は部屋を出た。結衣を最後に見る姿が穏やかなもので良かった、と私は思うことができた。
 私は引き裂かれている。愛おしいさと憎しみで私はここから立ち上がらなければいけない。まるで生れ直しだ。血まみれになって私は再び、結衣のいない世界と対峙するのだ。

 時間というものは恐ろしいもので、いろんなことを、いつの間にか押し流してしまう。結衣と過ごした時間は美しい写真のように、過去のものとなった。
 私は今日、啓一と結婚する。結衣の呪いは私の呪いでもある。それならば、私がその呪いを実現しないで、誰ができようか。私は純白のドレスで身を包み、ゆっくりとバージンロードを歩くのだ。
「茜、入っていいか?」
「どうぞ」
 啓一が律義にノックをするので、私は笑って迎え入れる。
 啓一のことを恨んでいないと言ったら嘘になる。私と結衣を引き離した原因は少なからず、啓一にある。しかし啓一の主張は正しかった。結衣が隣にいないことが、その証明だ。私はただの夢見る少女だったのだ。最初、その事実は受け入れがたいものだったが、現実という波が、私を襲った。シンデレラは十二時で魔法が解けるように、私の長い長い少女期も結衣との鮮烈な別れによって、終わったのだ。そして私の帰る場所は啓一のところしかなかったと気がついた。
「すごく綺麗だ」
「ありがとう」
「なんか気後れするなあ。俺なんか七五三だよ」
「そんなことない。やっぱり上着、ダブルボタンにして良かった。啓一、キマっているよ」
「俺でいいのか?」
「今さらなに言ってるの? 覚悟を決めなさい」
「もう奥さまが板に付いているな。そろそろ時間だから、先に行っている」
「うん」
 バージンロードはひとりで歩く。父とは絶縁状態だし、それが私にとっては自然なことだった。
 係りのひとがそろそろお時間です、と言ってきたので、私は重い腰を上げた。
 結婚生活が落ち着いて、妊娠したら今の出版社を退職して、子育てに奮闘して、そして子どもが大きくなったら、パートで働いて。そんなことが頭をかすめた。まるで他人事のように。メンデルスゾーンの結婚行進曲が響き渡る。私は死ぬのだ。私はそう悟った。啓一という道連れと一緒に。行進曲は私の死体が送り出される棺送曲に変わった。

 私と啓一は結婚の誓いを行った。牧師さまに、誓いのキスをと言われた。私は初めて啓一の顔を見たような気持ちになった。くちびるが重なる瞬間。それは新婦にとっては一番に幸せな瞬間なはずなのに、私には違和がよぎる。結衣の愛している、そして結衣が今も愛し憎んでいる父親に啓一はなるのだ、その妻に私はなるのだと。
 式はつつがなく進み、披露宴に移った。私はワインレッドのドレスに着替え、ひな壇に座っていた。
「それでは、ここでご新郎さまのご新婦さまへのサプライズプレゼントです」
 私は啓一の顔を見た。啓一はできもしないウィンクをしてみせて、私の手を握った。
「大物ゲストさんです。ピアニストの矢田結衣さんにご登場願いましょう。みなさん拍手でお迎えください」
 拍手とどよめきが起こるなか、結衣は紅いドレスを着て、サングラスをせず、登場した。そして結衣は司会者からマイクを受け取ると、紙に書かれたことを読み上げ始めた。
「大瀬啓一さん、矢田結衣さん、この度はご結婚おめでとうございます。ご親族の皆さま、本日は誠におめでとうございます。大瀬さんにぜひに結婚式で何か弾いて欲しいと言われ、私は結衣さんにできることなら、と思い一曲だけですが、弾かせて頂きます。私はこういうスピーチが苦手なもので、ピアノで気持ちを伝えたいと思います。茜、本当におめでとう。そしてありがとう」
 そう言って、結衣はピアノの前に座った。そして結衣は音楽を奏ではじめた。不思議なおとぎ話のような「愛の夢」を。
 私は結衣と別れてから再び音楽のない世界に戻っていた。全ては淡々とこなされる日常。それも良いものだと諦観とともに思っていた。
「左手で何か違う曲、弾いていない?」
「『愛の夢』ではないな」
 結衣は左手で弾き始めた。ベートーヴェンの「熱情」を。私の身体には電流が走り、そして甘くとろける。この曲を私がガトーショコラと言った記憶。そして生きるということを思い出した。
 私は席を立った。啓一が私の顔を見て、首を横に振る。行くな、行っちゃダメだ、と訴えてきた。私はその制止を振り切って、ひな壇から降りる。
 私は酷い目に合うだろう。私の伸ばした手を結衣は拒むかもしれない。そして結衣と一緒に歩む未来なんてないかもしれない。浮世離れした少女趣味と嘲笑されるかもしれない。それでもいい。私は大人にはならない。結衣と一緒に、熱情のなかを生きられればそれでいい。私はピアノの前に座る、結衣のもとに駆け寄った。


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