熱情が、きこえる

第四章

 抱きしめる腕を解こうと思ったのは、結衣のお腹が音を立てたからだ。私が声を上げて笑うと、道行く人たちは、不思議そうに私たちを覗きこんだ。でも、そんなことはどうでも良かった。結衣は拗ねたように、そして少し恥ずかしそうに、顔を私からそむけ、口を開く。
「今日、緊張して何も食べれなかったんだから」
 茜のせいで、と言った。なんだ、結衣も神経を張ってたのか、と思うと私はごめん、と素直に謝る気になった。
「何か食べに行こう。おごるよ。何がいい?」
「お刺身が食べたい」
 憮然と口を開いた結衣を、なだめるように私は言う。
「わかった、わかった。和食ね」
「日本酒も忘れないで」

 何を喋っていいか、伝えたいことが多すぎて、私はタクシーのなかで黙してしまった。大事なことを話すには時間はあまりにも少なく、繋いだ手だけが、十六歳の頃の熱と何ら変わらず、私たちを結びつけていた。
 お店に着き、個室に通されると、結衣は口を開いた。
「今日はどんな朝だった?」
「それって重要なこと?」
「いや、違う。そうじゃない。茜の声が聴きたいだけなんだ」
「そうだね。九年も経ったんだもんね」
「あっという間で、短かったよ。茜は?」
「私は……」
 問われると、自分の九年間が死体のように横たわっているのを感じた。それを見つめると、私はようやっと素直になれた。
「結衣がいなくて、寂しかった」
「仲良くしてたのは、たった数カ月だったのにね。私も何度、茜に演奏を聴いて欲しいと思ったか」
 結衣の言葉は熱烈な愛の告白のように聞こえた。私は面映ゆくなり、メニューに目を落とし、結衣におすすめの日本酒を教えた。
 とにかく私は話したかった。それは結衣も同じようで、ときどき言葉に詰まりながらも、演奏生活のことを話し始めた。拠点はウィーンと言いつつ、そこに帰れるのは一年の三分の二。ほとんどホテル暮らしだという。日本でもそれは変わらないらしい。口に拳を当て考え込むときがあったが、それは十六歳のときからの癖で、私は懐かしくほほ笑んだ。味などわからない、流し込むように日本酒を飲むと、酔いはすぐまわってきた。
「ウィーンでも和食屋さんってあるの?」
「一応ね。でもこんな美味しいお刺身、向こうではなかなか食べれないよ」
「気に入ってくれて良かった」
「茜は恋人とかいる?」
 その質問は話の流れとはまったく関係なく投げられた。
「一応、いる。でももう倦怠期だよ。まったくダメ。結衣は?」
「ピアノを弾くので忙しくてね。それにこの目だし」
「すごく綺麗な暗褐色の虹彩だと私は思ったよ」
「ありがとう」
 少し目が疲れた言って結衣は、サングラスの下に指を通し、目を揉んだ。おしぼりをもらおうかと聞くと、大丈夫、という結衣の涙声が聞こえて、私は思わず結衣の手を握った。
「あのままウィーンに行くのは、不本意だった。茜の言葉が今も耳に響いてる」
「あのときは裏切り者なんて言って、ごめん。結衣は私との約束を違えたことはなかったよ。桜井先生のパーティを内輪だって言ったこと以外」
 結衣が喉で笑ったのが、見えて私は安心した。
 私はごく自然に嘘をついた。啓一との交際は順調この上ない。私の虚言は啓一を、そしておそらくは結衣も踏みにじっている。それはわかっていた。啓一と結衣。どちらを私は私から助けるか、すぐにひらめいた。結衣だ。私は間違いなく結衣を選ぶだろう。
 結衣が泣いていても、私は自分の感情に身を任せることができなかった。それはきっとがん細胞のように私自身を虫食むであろう、この嘘のせいだ。
「結衣が引き裂かれる想いでウィーンに行ったこと、知ってる」
「誰かに聞いたの?」
「ごめん。私も整理したくて桜井先生の奥さまから話を聞いた」
「何も説明しないまま、行った私が悪いんだから、謝らないで」
「ありがとう」

 大学受験が終わると、私は自分自身の高校時代にピリオドを打つために、桜井邸を訪れた。卒業式は感慨もなく、ただの形式で、それよりも桜井の奥さまと話せば何か、結衣のことを知ることができるのではないかと私は思った。私と結衣を知っている唯一の大人が桜井の奥さまだったから。
 約束もなしに、私は卒業式のあとお屋敷のまわりを徘徊していた。私には後ろめたさもあったし、迷いもあった。これ以上、結衣のことを知ってどうするというのだ、と。それでも、私の知らないことがあるのなら、知りたい。そうして指は震えていたが、思い切って呼び鈴を鳴らした。
「あら、茜さん。お久しぶりです」
「ご無沙汰しております」
 庭着を身につけた奥さまに、私は頭を下げた。奥さまはアポイントメントのなかった私を温かく向かい入れてくれた。まるで古くからの知り合いを迎えるように。
 散らかっていて、ごめんなさいね、と言いながらも二年前に入ったときと同じキッチンに私は通された。
「結衣さんのことで、ここに来られたんですね」
「本当は今も迷っているんです。結衣以外のひとから結衣のことを聞くことに。でも私には知る権利と義務があると思って、今日お邪魔しました」
 結衣のことを結衣以外のひとの口から聞くのは、抵抗がある。いま桜井夫人を目の前にしても。何も告げずに行った結衣のことを尊重すべきだとも思っている。でも、もうひとりでは結衣との想い出を抱えきれなかった。不意の別れも納得がいっていなかった。
「結衣さんは父親から虐待を受けていました」
 桜井の奥さまはそう口火を切った。私は制服のスカートを握り、奥さまの言葉に耳を傾けた。
「あの子にはピアノがすべてだ、と最初に教え込んだのは父親です。上手く弾ければ溺愛したし、下手な演奏をすればひどく折檻したそうです」
「結衣の目のことは」
「あの子が頑なに手術を拒んでいたのは、その目をしていなければ父親から愛されないと思っていたせいです。父親もそれで結衣を引き留められると思っていたのでしょう」
 しかしもっとおぞましいのは、と奥さまは言って口を閉ざした。
「結衣のことなら、どんなことでも受け入れます」
「性的虐待を受けていた可能性があって、桜井が結衣さんの父親を問いただしました。その後すぐ、結衣さんの父親は自殺しました。それが一昨年の年明けすぐのことです。結衣さんは今でも自分が父親を殺したと思っています」
 私は自分でうまく呼吸ができず、喉がヒュッと鳴った。
「結衣の母親は?」
「結衣さんを生んですぐ亡くなりました。お産の影響だったそうです。結衣さんは狭い世界で生きていました。でもピアノを弾いていなかったら彼女は壊れてしまっていたでしょうね。私が渡独を勧めました。結衣さんには日本にはあまりにもつらいことが多すぎたので」
「そうだったんですね」
「すべてを話し終えたところで、こんなことを言うなんて、と思われるかもしれないけれど、結衣さんのことを忘れてあげてください」
 私が頭を傾げると、桜井の奥さまは言葉を続けた。
「結衣さんは茜さんに、ピアノを弾いていた綺麗なままの自分を覚えていてくれるだけでいい、と言ってました。自分の落とす影は自分のものだけだ、とも。だから、どうか結衣さんのことを恨まないで、忘れてあげてください」
「奥さまを煩わせてしまい、申し訳ございません。でも大丈夫です。私は結衣のことを忘れます」
「それを聞けて、安心しました」
「では、私は失礼します。ありがとうございました」
「私も茜さんにお会いできてよかったわ」
 そう言って桜井夫人は私に手を差し伸べてきた。それに力強く答える。
「私は茜さんが通っていた学校のOGなの」
「そうなんですね」
「あの子、元気にしているかしら」
 私は首をひねった。
「私にも大切なひとがいたんですよ。茜さんを見ていたら、急にあの子の顔が浮かんだんです」
「その方とは?」
「卒業してから一回も会ってません。卒業後すぐに私は桜井と結婚しましたし、時代を考えれば、そうするのが当たり前でしたから」
 私は桜井の奥さまの手を離した。
「気が向いたとき、またいつでも遊びにいらっしゃい」
 優しくほほ笑まれる夫人に私は確固たる決意を持って首を横に振った。
「いえ、もう来ません」
「そうね、それがいいわ。社交辞令なんて嫌なこと言って、ごめんなさいね」
 私はそうして桜井邸を出ていった。そして駅で力尽くように、膝をついて泣いた。喉は乾いていて、声はでない。そして初めて結衣のことを恨んだ。なぜ何も話さずに、行ったのか。私の器量はそこまで狭いと思われていたのか。本当は叫び出したかった。私は喉元を掻きむしった。通行人が私の心配をして声をかけてくると、私は立ち上がった。それでも襲来する、未来に立ち向かわなければならなかった。
 結衣に確かめるすべはない。私の感情は取り残されたまま、行き場を失い、幽霊のように日常をさ迷っていた。

「茜、どうしたの?」
「うん。なんでもない」
 酔って甘えた声を出してくる、結衣に向かって私はほほ笑んだ。結衣をもう二度と離したくない。これは愛なんかじゃない。愛なんかよりもっと理不尽で、整合性がない。結衣を離したくないのは、私のエゴだ。
 この日本酒、美味しい? と尋ねてくる結衣の無防備さは、十代のころとなんら変わっていない。様々な記憶が去来し、私を混乱させる。そしてお酒を呷る手が止まらない。もしかしてこれは私の都合のよい夢なのかもしれない、と思うと背筋が凍る。夢でもいい。結衣と一緒にいたい。そこで私の記憶は途切れた。

「茜、茜ったら」
「結衣?」
「いきなり飲み屋で倒れるんだから、びっくりしたよ」
 何より最初に、私はバスローブ姿の結衣を抱きしめた。こらこら、と言いつつ結衣の肉体がここにあることを確かめたかった。夢じゃない、とわかると私は抱擁を解いた。
「ごめん。ここどこ?」
「私の泊っているホテル。水を飲む?」
「うん」
 ミネラルウォーターを渡されると、私はその蓋を開けた。そして結衣がサングラスをしていないことにようやっと気がついた。
「帰りたくない」
「帰らなければいい」
 私と結衣は見つめ合った。きっと啓一は心配しているだろう。携帯電話はきっと彼からのメッセージと着信でいっぱい。でもそんなことどうでも良かった。
「じゃあ、帰らない」
 私は腕を広げた。そこに結衣が収まるように。結衣も吸い寄せられるように、私の腕のなかに包まれた。
「もう二度と会えないと思ってた」
 私たちはダブルベッドの上に転がった。そして足を絡め合った。ストッキング越しに感じる結衣の足は冷たくて、お酒で火照った私には気持ちがいい。
「私と茜は切り離せないのかもね」
「何それ」
 私は笑い、結衣は真剣なまなざしで私を見つめた。
 私は結衣の頬に触れた。結衣ふたたび触れられるなんて、思いもよらなかった。頬を撫ぜるように触れ、結衣の長い睫毛を指ではじいた。結衣に輪郭を与えるように、そうして私が結衣を感じられるように、指を這わせる。私は結衣のくちびるに触れた。どんな男とも違う、指が吸い付くような、柔らかな感触に夢中になって、外周をなぞる。
「もう、いいでしょう?」
「まだ駄目」
 私はようやっと結衣を、こんなに身近に感じることができたのだ。感極まって、結衣の胸に顔をうずめた。セックスをしなくても、キスすらしなくても、私は歓喜で震えることができる。結衣を愛することができる。ただこうやって抱き合っているだけで、私は満ち足り、内臓からは水が滴る。そのせいで眼からは涙があふれ出るのが止まらない。
「『永遠に君のもの。永遠に僕のもの。永遠にふたりのもの!』」
 見上げると結衣は私の涙をくちびるで吸い取って、そう言った。
「誰の言葉?」
「ベートーヴェンが恋人に宛てた手紙の一節」
 私はありあまる愛情を、結衣に向けることを許されたのだ。これ以上の幸せがあるわけない。一瞬は永遠になるんだ。そう思うと、私は安堵とさっきまで飲んでいたお酒の影響で、まど睡むように結衣の腕のなかで目を瞑った。
「眠ければ、寝ちゃっていいよ」
「ありがとう、結衣。愛している」
 そう言って私は意識を手放した。

 大きな音を立て、ドアが開けられたような気がしたが、私はまだ起きようとはしなかった。結衣の身体を感じていたかったし、今日は土曜日で、会社は休みだ。まだ眠れる。
「ユイ」
 その後に、わけのわからない言葉が続いた。この部屋に、私と結衣以外の人間がいると気づき、私は身体を起こした。
 ノンフレームの眼鏡越しに空色をした瞳が、私を見つめている。スーツを身につけた彼女は、私を不躾に舐めまわすように見ている。思わず私は結衣を揺さぶった。
「なに?」
 そう言って結衣は気だるげに起き上がった。
「あ、パット。モルゲン」
「モルゲン」
 そしてふたりは、きっとドイツ語であろう、言葉を早口に交わしながら、バスルームに消えていくのを私はベッドの上で呆然と見つめているほかなかった。
 バスルームから結衣が戻ってくると、目が覚めたのか、私に青い瞳をした彼女を紹介した。
「こちらは市野川茜さん。私の運命のひと。でこっちはパトリシア・ミュラー。私のマネージャー。それで、これから私は明日のコンサートのリハーサルなんだけど、茜は来る?」
「行っていいの?」
「パットもいいって言っているし、私の関係者がひとり増えたくらい誰も文句を言わないから」
 こういうとき持っていて良いと思うのは権力だよね、と結衣は笑って言った。私は思考が追いつかないが、答えは出ている。
「行く」
「そう来なくちゃ。じゃあ早速、朝ごはんを食べて出発しよう」
 結衣は指を鳴らした。私は結衣の世界に招かれた。十六歳のあの内輪のパーティーを思い出し、少し笑ってみせた。

 朝食はホテルのレストランでとった。抱き合って寝たおかげか、昨日よりもずっと打ち解けて結衣と話せた。結衣のことを、私が存在していなかった期間の結衣のことを、知りたくて、私は食事をおざなりにして、饒舌に喋った。
「パトリシアさんとは長い付き合いなの?」
「うん。音楽学校時代から。パットも演奏家を目指してたんだ」
「そうなんだ」
 世界を股にかける演奏家になれるのは、ほんの一握りの狭き門だ。パトリシアの氷のような瞳を思い出して、私は居ずまいが悪い。そんな心配を見越してか、結衣は私の手の甲に、掌を重ねた。
「パットは悪いやつじゃないよ。きっとすぐに打ち解けられる」
 私は結衣の顔を見た。相変わらずのサングラスで目が表現する感情は読み取れなかったけれど、手の温かさと、綺麗にほほ笑んでいる口元を見て、安心した。
「それは心配してない」
「じゃあ何よ」
「……パトリシアさんは結衣のこと独占できて、羨ましいなって」
 私がそう言うと、結衣は声をあげて笑った。隣の席のひとに迷惑だから、と言っても結衣は笑い声をあげることを止めなかった。ひとしきり泣き笑いをすると、結衣は私の指を力強く握った。
「嫉妬されるってこんなに甘美なことなんだね」
「どうとでも取って」
「パットとは本当にただの友だちだよ。私の唯一の」
「私は?」
「茜は友だち以上にスペシャルな人間。自惚れてもいいよ」
 どうしよう、にやけてしまう。私はくちびるを噛んで、無表情を装おうとした。それでも結衣には誤魔化せないようで、彼女のくちびるが綺麗に歪曲するのを見て、もうどうとでもなれ、と私は笑ってみせた。

 演奏会会場に着くと、乗っていたタクシーでの雰囲気とは全く違う、張りつめたものを結衣から感じた。生返事も増え、私も必然と口数が少なくなった。すでに会場にはポスターが大々的に張られ、多くのひとが結衣を厚く迎え入れた。
 音楽を聴くだけの空間は、私には縁がなかった。むしろそういう空間を遠ざけていた。どうしても結衣のことを思い出してしまうから、音楽を聴くことがつらかった。だから頑なに私は音楽を生活から排除していた。
「茜、つまらないかもしれないけれど、客席で観ていて」
「わかった」
 そう言って結衣はステージに戻り、私は初めてのコンサートホールを楽しもうと、客席に向かった。
 結衣はピアノを鳴らした。たった三音。それだけで、結衣はひとり頷いた。そしてひとを呼び、ピアノ自体の調整を頼んでいるようだった。何度も音は奏でられ、途中で止まる。微細な調えがステージで行われているのに、私は感動した。こんなふうに音楽は作られてくのだと。
「アカネ、退屈していない?」
 隣にパトリシアが居たことにも気づかず、私はステージに釘づけになっていたことを、夢中になっていたことを知った。そしてパトリシアが日本語を喋れることに、驚いた。私はパトリシアのことをまじまじと見てしまった。
「そんなことないです。ごめんなさい。図々しく付いてきてしまって」
「いいのよ。ユイのわがままを聞くのも私の仕事だから」
 そう言ってパトリシアは私の隣に座った。そして彼女はステージを見つめていた。
「ユイはベッドルームにはひとを招かないのよ、絶対にね」
 パトリシアは目線をステージに向けたまま、私に語りかけてきた。
「私だって、朝、起こしに行くときにしかベッドルームへは入ることを禁じられているの。無防備なあなたを見て、驚いたわ」
「すみません」
「なんで日本人ってすぐ謝るのかしら。私はユイにとっていいことだと思っているのよ。あなたが、ユイの言っていた、日本に残してきた想い出だったのね」
「結衣はパトリシアさんになんて言ったんですか?」
「パットでいいよ。ユイに直接、聞いた方が早いと思うわ。でも私が言えることはひとつ」
 そう言ってパットは射貫くような視線で、私を見つめてきた。少したじろぐが、私はその目線に答えるように見つめ返した。
「ユイが必要としているのは、誰よりもあなただということ。離れずにそばにいてあげて」
「私は悪人かもしれませんよ? それでもいいんですか?」
 私が言うと、パットは声を上げて笑ってみせた。その笑い声はホールに響いたが、パットは気にしていないようだった。
「あなたは悪人にしてはセンシティブすぎる。それに私はユイのことを信頼しているしね」
「おーい、私抜きで楽しい話をしないでよ!」
 ステージ上から結衣が私とパットに向けて大声を出してきた。パットは立ち上がりドイツ語で何か言うと、結衣は渋々ピアノに向かった。
「ひとつお聞きしたいことがあるんですが」
「ひとつと言わずいくらでも」
「結衣は今回あとどのくらい日本に滞在する予定ですか?」
「二週間よ」
 あと二週間だけ。私は結衣に二週間で何をしてあげられるだろうか、と思いをめぐらせた。結衣と過ごしていた高校時代は、その日常が永遠に続くと思っていた。私はもう高校生ではないのだ、と痛感させられる。結衣への気持ちはあのときのままなのに。
「アカネ、オケが入るよ。ここからは静かにね」
「はい。結衣はなにを弾く予定なんですか?」
「『ラフマニノフピアノ協奏曲三番』だよ。さて、ユイはどんな演奏を聴かせてくれるのかしらね」
 オーボエが音を鳴らすとヴァイオリン奏者が立ってその音に合わせた。それに呼吸を合わせるように、てオーケストラ全体が音を鳴り響かせる。指揮者が登壇して結衣に目線を合わせる。そして彼の腕が上がると、音楽が始まった。

 かすかなオーケストラの音から、その演奏は始まった。そして主人であるピアノの澄んだ音色が、私の心を掴んだ。もう二度と聴くことがないと思っていた、結衣の奏でる音色に、身体がしびれた。結衣のピアノに向かう姿勢には、高校時代のような危うさはなかった。研ぎ澄まされてはいるが、鋭利な音ではない。むしろ満ち足りた何かを感じさせる。結衣が幸せそうにピアノを弾く姿に私は落涙した。それは何よりも深い安堵の感情だった。結衣の音色は死んでいなかった。私は怖かった。結衣が変わってしまっているのではないかと。しかし結衣の奏でる音は、以前よりも洗練されているだけで、劣化などしていなかった。私は大きく息をした。そして結衣のピアノを使って表す音に酔いしれた。
 リハーサルはつつがなく進行し、私は結衣のピアノに惚けていた。
「アカネ、終わったからバックステージに行きましょう」
「私なんかが行っていいんですか?」
「ユイが一番気にしているのは、アカネ、あなたの評価だよ。ユイが珍しくナーヴァスになっていたからね」
 そうなんですか、とパットに私が尋ねると、彼女は青い瞳を細めてみせた。
「ユイは自分にはピアノしかないと思っているお馬鹿さんなの。だから音楽でしか表現できないと思っている。ピアノ以外で失うものはないってね。彼女には未来も過去もない。ただいま求められている音楽を奏でるだけ。それがユイのモットーなの。でもアカネ、あなたが現れて、ユイには失えないものができた。それは演奏家としてユイを豊かにしているわ。今のところはね。ユイが演奏前に神経質になるっていうことは、きっとあなたに失望されたくないんでしょうね」
 私はパットの言葉に顔を赤くするしかなかった。そんな私を見て、パットは笑いだした。少し癪に障るけれど、彼女は悪いひとではないようだ。

 舞台裏は多事多端としていて、私はパットの後ろについて、邪魔にならないように、身をひそめることしかできなかった。結衣は指揮者と会話をしていたが、パットと私を見つけると、舞台袖まで駆け寄ってきた。
「茜、どうだった?」
「すごく良かったよ。あったかい気持ちになれた」
「アカネ、泣いてたよ」
「パット、それは言わなくていいから」
 私がそう言って、結衣の方を恐る恐る見ると、サングラスの下の縁から、液体が、涙がこぼれているのが見えて、私は呆然としてしまった。
「私、ずっと茜のために弾いてきた」
 それは他のどんな言葉よりも、好きだと言われるよりも、私の心を射抜いた。私は結衣を愛している。その言葉が出かかって、やめた。今それを言ったら、私は結衣が泣きじゃくる以上に泣いてしまうから。
 私は力強く結衣を抱きしめた。言葉より雄弁な私の体温を、鼓動を感じて欲しかった。愛おしい者が胸にいるとは、心地がよいものなのかと感じた。

 会場を後にすると、結衣はいつも通り元気よく、夕食に誘ってきた。
 私が結衣に愛を伝えることができない、ひとつの原因を一刻で早く取り除きたいのと同時に、結衣ともっといたいという欲望が衝突しあう。原因は啓一だ。私は彼のどこが好きだったのか、よくわからなくなっていた。結衣という圧倒的な存在の前では。そして結衣と過ごせるのは、たった二週間。時間が惜しい。私は結衣とパットと三人で、夕ご飯を食べることを決めた。

 ホテルの近くのスペイン料理店に三人で腰を据えると、結衣はクラシック音楽の話をし始めた。普段は音楽論なんて決まりが悪くてしないのだけれども、と言って。結衣の大部分の人生を占めている、音楽。
「ステージでピアノを弾いているときだけが、私は私を安心させることができるの」
 明日、演奏会があるので、結衣はお酒を控えていたが、彼女の確かな自信で酔っているようにも思えた。当然だ。結衣の演奏する「ラフマニノフピアノ協奏曲三番」を初めて聴いたが、かなり難易度が高いものだとわかった。それでも結衣は驕り高ぶらず、ひと音ひと音の精度を高めていた。優れた芸術家は職人だ、という言葉を思い出す。結衣は音楽を作り出す、職人。そんな結衣に私は何をしてあげられるだろうか。答えが出ない自問を誤魔化すように、ワインを喉に流し込んだ。
「茜、元気ないね。酔った?」
「これくらいじゃ、私は酔わないよ」
「口数が少なくなったから、ちょっと気になった」
「私は結衣に何をしてあげられるんだろうと思っただけ」
 結衣は声を上げて笑った。サングラス越しに、私を見つめているであろう結衣の視線に私は目線を合わせた。
「茜は私のそばに居てくれるだけでいい。それだけで、私の世界は色づくんだから」
 私はその直截的な言葉に頬を赤らめた。そんなことを言われたら、私は何も言えなくなる。結衣と再会してから、私は結衣の愛ばかり感じている。まるで温かなシャワーを浴びるように、たっぷり張った湯舟に身体を浸すように、結衣の愛を感じる。
「私の存在、忘れていない? ふたりとも」
「ごめん、忘れてた。パット、フェァツァイ・ミア」
「ごめんなさい」
「ユイとアカネだから許すわ。ユイ、今日は早く休んで。アカネ、明日は舞台袖でしか観れないけれど、ユイの演奏会に来る?」
「行きます」
「わかったわ。名刺を渡しておくから、会場にに着いたら連絡して。開場の三時間前なら入れるでしょう」
「パット、ありがとうございます。ダンケシェーン」
「いいのよ。私はもうホテルに戻るから、あとはふたりでごゆっくり。」
「いいじゃん、パット。まだワインも残っているし」
「寝坊助の誰かさんのためにも早起きしなくちゃいけないの。ナー・グットゥ」
「ナー・グットゥ、パット」
「パット、おやすみなさい」
 颯爽とパットは店から出ていった。
「挨拶のキスとかしないんだね」
 私は不思議に思ったことを、酔いのせいかそのまま口にした。
「ああ、それはラテンの国だね。フランスではビスって呼ばれいる」
「へえ。欧米のひと達はみんなするものかと思っていたよ」
「茜は私にキスしたい?」
「いやに自信満々だね」
「ピアノと茜あれば、私は生きていける。生きているっていう実感を得れる。茜も私がいなくちゃ生きていけないでしょう?」
 その気持ちだけは一緒だよ、と言うので、私は結衣の手を取った。どうすれば結衣の想像を超えられるか、私にはわかった。結衣の指先に私はくちづけた。たった数秒の短いキスに私はありったけの愛と自分の感情を込めた。
「ありがとう」
「今日は帰る。さすがに三日続けて同じブラジャー着けられないしね。パンツはコンビニで買えるけど」
「コンビニエンスストアでブラジャーが売ってないのを、これほど嘆かわしいと感じたことはないよ」
 もう少し、ボトルのワインが底を尽きるまで、私は結衣といたかったので、少しずつワインを飲んだ。結衣の愛が注がれた私は自信に満ちていた。きっとこれから訪れる「試練」も私は軽やかに超えられるだろうと。啓一は私を待ち構えている。でも何も怖くはなかった。ただイノセントな彼を傷つけることになることが、申し訳ないと思う。
 私と結衣は店の前でハグをして別れ、それぞれ違う道を歩んだ。


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