熱情が、きこえる

第二章

 終業式の二日前に結衣はピアノの前に座り、即興で音楽を奏でながら、何げなく私に声をかける。
「茜は大みそかって何か用事ある?」
「特にないけれど、どうして?」
「ピアノの先生の家で演奏会があるのだけれど、来る?」
「行きたい! でも私が行っていいの?」
「もちろん、大歓迎だよ。つまらない会だと思うのだけれど、茜となら楽しいかなって思って」
「すごい嬉しい。結衣のピアノ、ここ以外で聴けるのは初めてだから楽しみだよ」
「そんないいものじゃないと思うけど、茜が一緒にいてくれれば私も心強いよ」
 期末テストの赤点からなんとか免れ、父と母の諍いも小康状態で、私は穏やかな日々を過ごしていた。結衣も二学期を優秀な成績で収め、数学の答案用紙を見せつけてきた。お互い憂いなく年を越すことができる、と言い合っていたところだった。私の日々には結衣のおかげで音楽が溢れていた。満ち足りた、美しい日々。

 母に今日は出かけると言ったら、あまり遅くならないように、とだけ言われた。父は今日もこの家にはいない。母は大みそかという今日をどう過ごすか、わからなかったが、私は制服にアイロンをかける。演奏会といっても先生の教え子が数名、演奏するという気軽な会だから制服でいいよ、と結衣に言われた。クラシックに詳しくない私が行ってもいいのか、と結衣に尋ねたら、詳しいって何を基準にして言っているの、と逆に問われてしまった。
「私は茜の直感を信じている。ガトーショコラよりもっと美味しい演奏を聴かせてあげる」
 結衣はそう言って、私を口説いた。私には結衣に認められているようで、誇らしかった。外を窓からのぞくと、雪がちらつき始めている。今日は寒くなりそうだ。
 高校から近い駅の、待ち合わせの改札前で、結衣もまた制服で私を待っていた。私が手を振ると、結衣もまた手袋をした手で、振り返した。
「学校以外で茜と会うなんて、新鮮」
「私も。でもさ本当に手土産とかなくて平気なの?」
「内輪な会だし、弟子があまり出しゃばっても先生に悪いから」
「そのプライベートな会に私が入り込むんだから、ちょっと緊張しちゃう」
「私の選んだ同伴者なんだから、堂々としていて」
 そう言って結衣は笑ったが、私はナーバスになっていた。いくら結衣の太鼓判があっても、演奏会というものに私は縁がなかったので、気が張る。
 私は音楽に、J‐POPにすら、疎いので、コンサートといわれる類に行ったことがなかった。規模が小さくても初めてのコンサートなのだから、粗相のないように、マナーを調べておいた。拍手は演奏が終わり、残響が消えてから。結衣の言うことを信じれば、今回は正装コンサートではないので、制服で大丈夫。そして何よりも演奏中にはそれ以外の音を絶対に立てないこと。

 内輪という言葉に騙された。そう思ったのは結衣の師匠の家に着いたときだった。表札には桜井と風格のある書体で書かれており、厳めしく瀟洒な家は、いかにもお金持ちの音楽家のものだと感じた。私が気押されているのを知ってか知らずか、結衣はいつもと変わらず大股で歩き、ドアベルを鳴らした。
「いらっしゃい、結衣さん」
「こんばんは、桜井の奥さま。今日もお邪魔します」
「結衣さんが邪魔だったことはないですよ」
「今日は友だちを連れてきました。前に奥さまがお会いしたいって言っていらしたから」
 結衣はそう言って私の脇を肘でつついた。私は慌てて頭を下げる。
「市野川茜と申します。本日はお招き頂き、ありがとうございます」
「あらあら、本当に可愛らしいお嬢さんだこと。寒かったでしょう。さあ中にお入りなさい」
「先生の奥さんだよ」
 私があっけに取られていても、結衣は悠々としていて、玄関でコートを脱ぐように促してきた。目まいに打ち勝ち、私は家のなかをチェックすると、早くも帰りたい気持ちになった。家の中は外観と同じように、重厚な造りになっていて、ひとで溢れていた。しかも大人ばかり。
「どこがプライべートな会なのよ。家のなかになんでシャンパンを持ったウェイターが歩き回っているの?」
「どこかのホールやお店を貸し切って、演奏会をするわけじゃないんだから、内輪でしょう」
「騙したわね。帰る」
「今のは聞かなかったことにしてあげる。私は桜井先生に挨拶してくるから、シャンパンなんか飲んじゃだめだよ」
「飲みません」
「いい子」
 頭を撫ぜて、じゃあね、と結衣が離れると、私はひとりぼっちになってしまった。手持ち無沙汰になった私は家に溢れかえるひとたちを眺めるしかない。
 こんなに沢山の大人が一堂に会するなんて。しかも大人たちは正装に近く、男性はネクタイを締めて、堅い面持ちでいる。どこがカジュアルだ、と嘆きつつも、来てしまったものは仕方がない。易々とこんな会に来る機会なんて、二度とないかもしれないのだから。大人たちを興味深く品定めしながら、私は家の中を探検することにした。
「ピーチティはいかがですか?」
「いえ」
 ウェイターと目が合うと、グラスに入ったアイスティを勧めてきた。私の手にグラスがなかったからだろうか。ドレスアップした大人に、シャンパン。私が場違いなことは承知しているけれど、それでも周囲に馴染むように努力しているところだった。
 良家の子女のように品よく紅茶を断ったが、ウェイターはトレイを持ったまま、顔に近づけてきた。
「残ると僕たちが怒られるので」
 はにかみながらボソッと言われると、私はグラスを手に取らざるをえなかった。そしてウェイターはありがとうございます、と言って離れていった。
 作法は間違っていなかっただろうか、と心配になりながらも、私はひとだかりから目線を壁に移す。壁に掛かった写真が目に入った。ありふれた家族写真ではなく、教え子たちだろう若い人たちが、さきほどの婦人と男性の間に立っている。このなかに結衣がいるかもしれない、と思い私はその姿を探す。そんなときに肩を叩かれる。
「君は矢田結衣と友だちなのかい?」
「そうですけど」
 私は不審そうな目でその男性を見ると、男は心外だな、僕は無害だよ、というように、手を挙げてみせた。そういうジェスチャーをする大人の男こそ、害があることを私は知っている。
「下手したら、矢田君に食われるよ。迂闊に近寄らない方がいい」
「それってどういう……」
 私が男に言葉の意味を問おうとした瞬間だった。後ろから声が聞こえてくる。
「茜」
 結衣の声で私は振り向いた。結衣、と声をかけ男の正体を聞こうとしたが、その男はすでに私の横にはいなかった。
「写真、見た?」
「やっぱりこの写真のなかにいるんだ」
「いないよ。それよりそろそろ演奏会が始まるから、部屋に集まれって」
 結衣は私の手からグラスを取ってそれを一口、飲んだ。私はこの写真のなかには結衣の色付きの眼鏡が外された姿が写っているのではないか、と思った。
 それにさっきの男の言葉が気になった。食われるとはどういう意味だろうか。結衣が私の何を食べるというのだろうか。私は男に問いたかった。結衣は無邪気で、好奇心旺盛で、賢いだけの、私と同じ女子高生だ。勿論ただの、とは言わない。結衣の素顔をさっきの男をはじめ、大人たちは知らないだけだ。
 ウサギのキャラクターグッズが密かに好きなこと。強いミントのガムが噛めないこと。からいカレーパンが好きなこと。歴史の年号を覚えるのが苦手なこと。神童だと持て囃され、祭り上げられる結衣の素顔は、私と何ら変わらない。
 結衣に近寄らない方がいいのは、そんな素顔を知らない愚かな大人だ。簡単にひとを決めつけ、隔離するような大人を私たちは心底に軽蔑していた。

「今日は何を弾くの?」
「それは聴いてのお楽しみだよ」
 私の腕を引っ張り、部屋に通すと、結衣はグランドピアノの方へ歩いて行った。軽快だけれども堂々たるものだ、と私は思った。そしてピアノに手をついてお辞儀をすると、椅子に座る。ただ椅子に座っただけなのに、結衣の纏う空気が違うものに変わった。まるで私まで感電したみたいに、体が麻痺する。結衣は口角をあげて笑っていた。楽しんでいるようにも見えて、泣き出しそうにも見える。
 誰もが結衣の一挙手一投足を見つめている。何がプライべートな演奏会だ、と私は泣きそうな気持になって結衣を見つめた。結衣はこの華やかな場所でひとりで戦っている。
 結衣が鍵盤に指を走らせると、私は涙ぐむしかなかった。結衣の弾く、ベートーヴェン作曲の「月光」第三楽章は鋭い光線のように闇を切り裂き、夜の正体を露わにする。まるでメスのような鋭い音色に私は固唾をのみ込んだ。こんな演奏をしていたら、いつか結衣は壊れてしまうのではないだろうかとも思う。
 残響が消えると、結衣は鍵盤から顔を上げた。そして湧き上がる拍手と歓声に身を任せることもせず、立ち上がり、お辞儀をするとピアノから離れ、まっすぐに私の方に向かってきた。
「どうだった?」
「皆の声を聞けばわかるでしょう」
「皆なんてどうでもいい。茜が何を感じたかが私にとって重要」
「すごかった。ピアノの音色で殺されるかと思った」
「嬉しい。最高の誉め言葉」
 結衣は無邪気な笑みを浮かべた。ピアノに向かっていた結衣とはまるで別人のように。天真爛漫な、単純な笑顔だ。私は戸惑いながらも、結衣のピアノを初めて聴いたような気がした。いつも結衣の演奏は音楽室で聴く、それとは違っていた。今日の結衣の演奏は、私が最初に聴いた「熱情」に近い、攻撃的で危ういバランスの上に成り立っていた。他人を立ち入らせない、鋭さ。私は初めて結衣の演奏を聴いたときは、そこに惹かれたのに、今ではおぞましいものと感じる。なぜあんなピアノの弾き方をしたのか、と問いたかった。でも、という躊躇が同時に私の心中であった。私の聴き違いかもしれない。そもそも私は演奏を聴き分けるほど、肥えた耳も持っていないのだから。
 その後も演奏会はつつがなく進み、結衣の先生の教え子たちの演奏が一通り終わると、そのまま立食パーティに突入した。結衣はあちこちで声をかけられていたが、私が同伴していることを理由に断っていた。私の心配をしり目に、演奏を聴かせたいと言っていた真の目的は、この人払いが目的なのではないか、と思ってため息をついた。音楽室でしか会わないからわからなかったが、結衣は相当なひと嫌いのようだ。
「いいの?」
「私は茜と一緒にプライべートなパーティに来てるんだから、いいの。それにピアノを弾いたんだから先生も満足でしょう」
「でも、こういう社交の場って大事なんじゃない?」
「私はピアニストだよ。セレブリティじゃなんだから」
 結衣はそう言って、肩をすくめると、飲み物を取ってくると言って、私のそばから離れた。
「茜さん。楽しんでらっしゃるかしら?」
 桜井先生の奥さんが人当たりの良さそうな笑顔を浮かべ、私の後ろに立っていた。
「はい。貴重な経験をさせて頂いております」
「ここはアルコールばかりで飲むものが少ないでしょう。台所にいらっしゃい。ココアをいれましょう」
「そんな。奥さまの手を煩わさせるような真似は……」
「ココアなんて口実としては下手ね。結衣さんについてお話があるの」
 柔らかいが、断固とした口調だった。私は夫人の後についてキッチンに向かった。話とはいったい何だろう。私が結衣に相応しくないと言われたら、何の反論もできない。私はたじろいだ。結衣のピアノに、結衣の存在に。彼女がピアニストであるという事実に。結衣が私に見せる姿はいつも幼く、ただの少女だ。でも今日の演奏は違った。あらゆるものを跳ね除け、近づけない孤高のピアニストだったのだから。結衣がピアニストならば、私は単なる月並みな女子高生だ。結衣に悪影響を与える存在と謗られても仕方がない。

「結衣さんが友だちの話をしたのは初めてなんですよ」
 ミルクパンをコンロにかけながら、夫人は言った。
 台所は私のマンションの二倍はあるかと思われる広さで、使い込んでいるが、手入れの行き届いた場所だった。
「初めて茜さんに会ったとき、私の演奏で涙を流して聴いてくれた、と喜んでいました」
「お恥ずかしいです」
 私はこれから夫人に何を言われるのか、戦々恐々としていた。不慣れな場所で、愛想の良いご婦人から、どんな毒が吐き出されるのだろうかと。さっきすれ違った悪意の塊のような大人と、どうか夫人は違っていて欲しいと願うことしかできない。
「結衣さんはピアニストになるべく、ここまで育てられた子です。凡百のピアニストではなく、本物のピアニストになるために。そのために多くのことを犠牲にしてきました」
「本人からそれとなく、聞いています」
「本当は私たち大人が彼女の成長を見守らなくてはいけないのに、駄目ね。もし結衣さんが道を踏み外しそうになったら、茜さんの助けが必要なのかもしれません」
「そんな大役、私には無理です」
 桜井夫人は私を、乞うように、真っ直ぐに見つめた。結衣への助け? 私が? 結衣は私の助けだなど必要なのだろうか。私は半信半疑だった。お説教を食らうと思ったら、こんな頼まれごとをされるとは、私は思考が追いつかなかった。
 夫人は自嘲するように笑ってみせると、言葉を紡いだ。
「私には止められない。きっと主人にも。結衣さんの演奏を聴いたでしょう? あんな弾き方を続けていたら、彼女は死んでしまいます。だから主人は、桜井は結衣さんにあんな演奏をさせないように制限していたのですが。きっと貴方に聴いて欲しかったのね」
 彼女が何を求めているか、と静かに夫人は言った。私は夫人に悪意がないと少しほっとして、差し出されたココアを一口飲んだ。結衣は何を求めているのだろうか。私にはわからない。しかし。平凡さを求めながらも、そこに安住できない、アンビバレンツさが結衣にはある。結衣は引き裂かれているのではないか、という考えがかすめた。能天気な少女でありたいという欲望と、非凡なピアニストでありたいという欲望の間で綱渡りをしているように。ココアは熱く、私の舌を焼く。ただ確信していることはひとつだけ。
「何もお約束できませんが、私は結衣さんの親友のつもりです」
「その言葉で、安心しました。あとは結衣さんが手術さえしてくれればいいのだけれども」
「手術とは目のことですか?」
「あの子の父が手術を許さないのです。手術は必要ない、と。結衣さんはその言いつけを守っているのです」
「そんなのって、あまりに結衣が……」
 可哀そうと喉まで出かかって、飲み込んだ。結衣は何らかの意志を持っいて、父親の不条理な命令に従っているはずだ。私は結衣に同情なんかしない。哀れみは私と結衣の対等な立場を崩してしまうから。その分、慰めも失ってしまうけれども。
 桜井夫人も私がどんな言葉を私が口に出そうか、迷っていたのをわかったように、静かに頷いた。私はこれ以上、目のことを聞くのは結衣の口からにしたいと思い、私はそれ以上、夫人には尋ねなかった。
 台所の入り口をノックする音が聞こえると、私と夫人は振り返った。
「茜、探したよ。奥さま、茜が何か粗相をしましたか?」
 結衣は私に非があるのが当たり前、と言いたげに、夫人に声をかけた。私は結衣に軽い肘鉄を食らわせると、桜井夫人はほほ笑みながら言われた。
「むしろ私の方が失礼だったかもしれませんよ」
「どういう意味でしょうか?」
「ふたりの間にある麗しい友愛に水を差してしまったかもしれないのですから」
「いったい何の話をされていたんですか? 奥さま」
「私と茜さんとの秘密です。ふたりともココアを飲み終わったら、お帰りなさい。制服で街をうろついていい時間は過ぎましたよ」
「奥さまのそのお言葉、待っていました」
 結衣は指を鳴らして喜んだ。私は結衣の制服で来い、という真意を初めて知り、あきれた。まったく妙なところで現金な性格をしているのだから、と私は今日、二度目のため息をついた。
「早く帰りたくて、制服で来たのでしょう。まったく、結衣さんは悪知恵が働くんですから。主人には私から伝えておきます」
「じゃあ、奥さま。良いお年を」
「今日は本当にためになるお話を、ありがとうございました」
「またいつでもいらっしゃってね、茜さん」
 言葉とは裏腹に、夫人は憂いを帯びた笑みを浮かべていた。心を痛めていても、何もできないということを夫人は訴えているようにも思えて、結衣の能天気さを横目に、私の心は軋む音を立てた。

「雪、すごいねえ」
 結衣は無邪気な声でそう言った。いま目の前にいる結衣は私の知っている彼女で、殺気立ったピアニストではなかった。
「どうしたの? やっぱり奥さまに何か言われたの?」
「そんなんじゃないよ」
 私は雪を掴んで、結衣に投げつけた。コートには白い跡が残って、結衣は神経質そうにそれを払った。そして負けじと結衣は私に雪を投げつけてきた。即席の雪合戦は白熱して、気づけば私たちは雪まみれになっていた。
「なんか私たち、馬鹿みたい」
「馬鹿でいいじゃない」
 結衣は頬を上気させて笑ってみせた。そして結衣は手袋を外し、私の髪に手を触れた。
「雪がついてる」
「ありがとう。でもピアニストなんだから手は大事にしないと」
 私は初めて結衣の手に触れた。結衣の手に触れるということ。それは神聖なことのように思えて、私は大事に、そしてそっと握り返した。壊さないように、傷かつかないように、細心の注意を払って。
「そんなふうに触らないでよ。私は簡単には壊れない」
 その言葉は、私の手を握る力と同じくらい強かった。私の指が折れてしまえばいい、というような強さだった。痛い、と私が呻くと、結衣はほほ笑んで掴んだ手を離した。
「わかったでしょう?」
「あんな演奏しないで。奥さまも心配していたよ」
 そう言うと、結衣はくちびるの端を器用に皮肉っぽく歪ませて見せた。
「じゃあ、どう弾けばいいの? 私に教えて」
「わからないけど、もっと自分を大事にして欲しいんだよ」
「自分を大事にしたら、素晴らしい演奏はできるの?」
 結衣は下を向いて大声で笑い出した。その笑い声は澄んだ叫び声に似ていて、最初、結衣は嗚咽しているのかと思った。しかし違っていた。その笑い声は狂気にも似ていて、私は結衣のことをできる限りの力を込めて抱きしめた。風船が飛んで行ってしまわないよう、強く紐をにぎるように、私は腕に力を込めた。
「私が壊れもののように触ったの、嫌だった?」
「うん」
「私たちただの馬鹿な女子高生だもんね。ごめん、私が悪かった」
「しょうがないな、許してあげる」
 私たちは駅まで手を繋いで歩いた。結衣の手に触れることに罪悪感を覚える必要はない。結衣はただの十六歳の女の子なのだから、と私は自分に言い聞かせた。
 私の年明けの休みは三日間だけだった。むしろ三日間だけで幸運だったと思う。呼吸するだけで精いっぱいな休暇だった。
 両親の離婚が決まった。入ったばかりの今年の、三月末に正式に書類を出すらしい。名字も住むマンションも変わらないが、私は冬期講習が早く始まらないかと心待ちにしていた。家のなかは喧騒のあとの荒廃の埃臭さが漂っていた。これなら喧嘩をしてくれていた方がまだマシだと思い、冷え切った家の中で私は息を殺していた。母も父も愛しあっていた。愛情があった分、憎みあうふたりの関係は痛んで無残に崩れた。母の手料理が並ぶ食卓に、ビールを飲みながら、笑う父の目尻のしわ。そんな日常がいつか壊れるかとは、覚悟していたはずなのに。もうその光景を二度と私は目にすることができないと思うと、戸惑いと苦しさで、自分の感情を持て余した。
 私は窓を開けて、夜空を見上げた。空気は澄んでいるのに、空は鉛色の雲が広がっていて、月の光が見えなかった。私は結衣のピアノを聴きたかった。月明りが届かないこんな夜は柔らかい結衣の音に甘やかされたい。私はベッドに潜りこんで少しだけ泣いた。

 崩壊した家で無為に過ごすよりも、意味はわからないけれど、シャープペンシルを単調に動かし、板書をノートに写す日々の方が、いくぶんかマシに思える。年初めから講習があるのは特進科だけだ。両親たっての希望で私はこの高校の特進科に進学した。その両親が離婚した今、私がここにいる意味があるのかな、と私は思いながらも機械的に手を動かす。そうしていると冬期講習は終わり、三学期を迎えた。
「結衣は冬休みは何していたの?」
 学期はじめの最初の火曜日の放課後に、私はようやく結衣と再会を果たした。結衣は少し疲れているようで、ピアノの椅子に座っていながらも鍵盤に触れようとしなかった。
「レッスンとレッスンとレッスン」
「私と似たようなものだね」
「特進科って確か、四日から冬期講習があるんだよね」
「そうそう。おかげで気まずい家にいなくて済んだわ」
「それは何より」
 そう言って結衣はグランドピアノの蓋を閉めた。私は珍しい結衣の行動に、視線を向けざるをえなかった。
「私、ドイツに行くよ」
「え?」
「今月、学校辞めてドイツに行って、勉強することにした」
 突然なことで言葉を失った。結衣がいなくなる、ということだけが私の現実から遠く離れたことのように、思った。そして結衣はうつむいたままだった。彼女のその姿は痛々しく感じたし、長い沈黙が息苦しく、私は音楽室の外に目をやった。結衣を見つめずに、何ごともないような口ぶりでしか私はものが言えなくなっている。乾いた口をようやく動かす気になったのは、ずいぶんと経ってからだ。
「そっか」
「それだけ?」
 結衣の言葉はとげとげしかった。でも私に何が言えるだろうか。いなくなっちゃうなんて嫌だ、寂しい、私を忘れないで。そんな常套句を結衣が欲しているとは思えなかった。私のなかには哀切とともに、もっとどす黒い、吐き気がするような感情が渦を巻く。私は結衣に見捨てられるのだ。クラスメイトや教師や両親と同じように。私は結衣のなんだったのだろうか。友人。それ以上の意味はなく、ただほんのひと時だけの人間。それだけ、と結衣に言われる筋合いなど、私にはない。私がどれだけ結衣のことで心を痛めたか。どれだけ大事にしようと思ったか。でもすべては水泡に帰したのだ。だって結衣は逃げるようにドイツに行ってしまうのだから。私の考えなど、幼稚な絵空事だとあざ笑うように。
 そんなすべての言葉を飲み込んだ。私に何かを求めるならば、結衣、あなたが私に特別を見せて。
「じゃあ、眼鏡を外してよ」
 震える小さな声で言うと、結衣が私の方を見た。結衣の視線は私には見えない。
「外してよ!」
 声を荒げて、私は結衣に詰め寄った。眼鏡を外さないのなら、殴ってでも無理やり眼鏡を外してやろうと私は思った。しかし結衣の胸倉を掴むと、違う考えが頭によぎる。奪え、奪ってしまえ。結衣の初めてを。私のなかの怪物が囁く。私は結衣の特別を剥いでしまいたい。そう思ってくちびるを結衣のそれに強引に押しつけた。私の初めてのキスは柔らかさなどみじんも感じさせない。くちびるの下にある歯の硬い感触。ぶつけるようなキス。強引で一方的なくちづけに満足すると、私は彼女を突き放し、口をぬぐう。
「裏切り者」
 尻もちをついた結衣を見下して、私はそう吐き捨てた。結衣の目は私を見ていたのか、それすらわからないまま、音楽は終わった。秘密の森は死んだのだ。


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