アラウンド・ザ・ワールド

Le Baiser de Lis

「ねえ、清香」
 私はそう言う響の方を向いた。
「清香がその目で私の分まで見てきて。世界の色を」
 私は紺色をした制服の下に隠された響の心に触れた気がした。もうこれから二度と会えない姿を焼きつけようと私は涙で霞む視界を見開いて、響の最後の姿を見つめた。

 週末の金曜日、私はル・ベゼ・ド・リスの扉を開くことが最近の習慣になりつつある。カウンターの席の端に座り、千夏さんにスコッチウイスキーのダブルを頼んだ。ひとりで安全にお酒を飲めるというのは、この渋谷では珍しい。異性との出会い目的ではなく、ただお酒を純粋に楽しむ。ル・ベゼ・ド・リスはそんな楽園だ。私はその秘密の庭で甘い蜜を吸う。私の穏やかな時間に千夏さんもマスターも無駄な口を利かない。
 ふと右隣から香るエキゾチックな甘い匂いに私はグラスから目線を上げた。
「マスター、今年も挑戦していい?」
「懲りないですね、節子さんも」
 右隣のお客がカウンターに千円を置く。
「今いくらぐらいになっているの?」
「十五万円くらいですかね」
「酔狂なお客は私だけじゃないってこと。さて」
 右隣のお客はもったいぶって間をあけた。
「マスターの名前は……カナエ! どう合っている?」
「残念ながら外れです」
 この千円は頂きます、とマスターは言って調理場がある奥に引っ込んだ。
「まったく。名前くらい教えてくれてもいいのに」
 ねえ、そう思わない? と右隣のお客は私に話しかけてきた。ル・ベゼ・ド・リスでお客から話し掛けられるのは初めてだったので、私はええ、と曖昧に笑ってみせた。
 ル・ベゼ・ド・リスでマスターの名前を尋ねるのはご法度だ。マスターは、愛するひとからしかその名前を呼ばれたくないという理由で、秘密主義的なベールに付け加え、可愛ささえをも纏っている。マスターの秘密はちょっとしたスパイスなのだ。それを賭けの対象にするとは、少し不躾なようにも私には思えた。
「私は節子。原田節子。節子って呼んで」
 そう言って彼女は右手を差し出してきたので、私は柔らかく握り返した。そして力強く握り返されてきた。私はふと、彼女の名前をどこかで聞いたことがあったような気がした。往年の名女優と名前が一文字違う、その名前に聞き覚えがあった。日に焼けた黒い肌に短い黒髪がよく似合うひとだ。
「清香です。行政書士をしています」
「へえ。お堅い仕事だね」
 歯を見せて節子さんは笑う。年齢は私よりたぶんひと回り以上違うと思うけれども、歳を感じさせない、そんな笑い方だった。
「節子さんはどんなお仕事を?」
「写真屋だよ」
 私は写真家という職業と、節子さんの名前が繋がった。
「もしかして写真家の原田節子さんですか?」
「知っているの?」
「はい。前に個展をされていたときに偶然、観に行ったんです」
「写真に興味ある?」
「テクニックとかはわからないのですが、観るのは好きです」
「好きな写真家は他にもいる?」
「植田正治さんとか、ですかね」
 私は節子さんの質問攻めに少し訝しんだ。彼女の目的は何なのか、はかり知れなかった。そんな考えが表情に出たのか、節子さんはいかにも本題という感じで切り出す。
「実は助手が辞めちゃってね。清香ちゃん、助手やってみる気はない?」
「私が、ですか?」
「そう。お給料は安いよ。でも世界中を回れるし、テクニックなら私が教える。写真が好きなら、考えてみてくれないかな」
「色よい返事はできないかもしれませんよ?」
「いいよ。とりあえず日曜日に撮影があるから興味があるなら来てみて。今、地図を書いちゃうから」
 節子さんはそう言って私に一枚の名刺を渡してきた。裏には日曜日の撮影場所が書かれていた。
「じゃあ私はこれで。清香ちゃん、またね」
「行かないかもしれませんよ」
 会計を済ませ、席を立とうとする節子さんに向かって私は言った。
「いや、清香ちゃんは来るよ」
 悪戯っぽく笑ってみせて、そんな見透かすようなことを言って節子さんはル・ベゼ・ド・リスを出て行った。

「響」
 私は教室の窓際で本を読んでいる響に声をかけた。
「ああ、清香。どうしたの?」
「進路指導の紙、先生が提出しろって」
「うん、わかった」
 本当にわかっている? と私が聞き返すと響は笑ってみせた。これは絶対に提出しないパターンだ、と私は思いながらも響に必要以上にせっついたりしなかった。
「響はなに読んでいたの?」
「小説。表紙の写真が気に入って」
 そう言って、響は私にハードカバーの本を渡してきた。色彩が自然な風景写真は確かに綺麗なものだった。私は本をめくってみると、「写真 原田節子」と書いてある。
「響はこの写真家、好きなの?」
「うん。写真集も持っているよ」
 なんなら私の家に来る? 見せてあげるよ、と響は私を誘った。
「その前に響は進路指導の紙、提出しないと」
「まったくお堅いなあ。清香は」
 そう言って響は陰を感じさせない笑顔を浮かべた。このとき、響は私と一緒に東京に出るものだと疑わなかった。

 私はひとりだけの部屋に帰ると、バッグを放りなげスーツのポケットにしまった節子さんの名刺をベッドに横になりながら見つめた。なんで節子さんに昔からのファンだと伝えなかったのだろうか、と私は思った。ミーハーなファンと思われるのがイヤだったから? 違う。私は響のことを話すのがイヤだったのだ。響は今も私にとって特別で、その色褪せない姿を誰にも話したくなかったからだ。響、今日あなたが大好きな写真家の原田節子に会ったよ。響が隣にいればどんな話をしたかな? きっと響のことだから無邪気に喜ぶんだろうね。私はベッドで丸まった。響、私は世界の色を見れているかな?
 土曜日は名刺を見つめながらひとりで過ごし、日曜日になると朝八時に目覚めた。撮影は十時から吉祥寺で行われる。私はパジャマからラフな格好に着替え、吉祥寺駅を目指した。
 電車に揺られていると、響のことばかり考えてしまうので、文庫本を持って出かけたというのに活字が本の上を滑ってうまく読めない。私は諦めて本を閉じた。冬の終わりを告げる春一番が先週、吹いたようで、電車の中は暖かだった。その暖かさにつられつい微睡みそうになった瞬間、吉祥寺駅に着き、私は慌てて電車から降りた。
 撮影場所はすぐにわかった。機材やバンが止まっていたので、私はその辺りをうろちょろとするしかなかった。
「もしかして、節子先生の助手候補?」
 黒縁メガネをかけてスタッフの名札を提げた男性が私に声をかけてきた。私は頷くと、男性は名刺を取り出してきた。
「黒田と申します。この雑誌のデスクをやっています」
「すみません。私、今日、名刺を持ってこなくて……堂島清香と申します」
「大丈夫ですよ。堂島さんもスタッフ証を提げておいてください」
 そう言われ私はスタッフ証をもらった。節子先生はどこにいる? と黒田さんは他のスタッフに大声で訊いてみたけれどもスタッフは誰も見ていない、と首を横に振るばかりだった。
「また、いつものあれじゃないですか? 黒田さん」
「困ったな。堂島さんも手伝ってくれますか?」
「何をでしょうか?」
「節子先生は外の撮影だといつもこうやって、姿を眩ますんですよ。一緒に探してください」
 お願いしますと頭を下げられれば、私はわかりましたというしかなかった。吉祥寺駅には初めて降りた場所なので、土地勘はなかったが、節子さんが撮りたそうな場所を探した。甘い独特の香りにつられて、私は梅が咲いているのを見つけた。立派な梅の木だった。このあたりにいるはず、と私は探す。
「清香ちゃん、来てくれたんだ」
「節子さん」
 私は振り向いて、節子さんを見つめた。
「私を見つけられるなんて、本当に助手に向いているんじゃない?」
「黒田さんも探していましたよ。早く撮影場所に戻りましょう」
「もうちょっと梅の写真を撮ったらね」
 そう言って老木に向かって節子さんはシャッターを押す。五分が経っても節子さんはそこから動こうとしないので、私はせっついて節子さんを撮影現場まで連れて行った。
「堂島さん、本当に助かったよ。ありがとう」
 黒田さんにそう言われ、私は恐縮した。他のスタッフも見つけられなかったので、私は節子さんの助手にぴったりだ、とも言われた。
 撮影が始まると、節子さんは真面目にそして和やかにシャッターを切り始めた。私はそんな節子さんの姿を見ていた。
「堂島さんはお仕事は何をしているの?」
 黒田さんが尋ねてくるので、私は行政書士ですと答えた。それから黒田さんから睡眠時間は削っても大丈夫か、とか英語はできるか、とか質問攻めにあった。それにひとつひとつ答えていくと、黒田さんは感嘆の声を上げて言う。
「基本、この仕事は無理が効かないとやってられないからね。前の助手は二ケ月で辞めたらしくて。縁がないのかなって節子先生はこぼしていたよ。その点、堂島さんは健康だし、英語も堪能。おもしろい世界だから、ぜひ入って欲しいなあ」
「私みたいな素人はお呼びじゃない気がしますが」
「誰だって最初は素人だよ。そして人生は思ったよりも長いからね」
 黒田さんの言葉が私の胸の内に響いた。響がいない世界で私はこのあと長い人生を生きていかなければならないと思うと足がすくむ。それでも人生は続くのだから、恐ろしい。そんなことを思いながら、節子さんの仕事を見ていると一歩一歩、進むということが節子さんにとってどんなことなのか、聞いてみたいと思った。
 仕事が終わると、節子さんは機材を片しながらル・ベゼ・ド・リスに行かないか、と誘ってきた。
「今日の仕事はこれで終わりだし、せっかくだから清香ちゃんのこと知りたいし」
「まだお仕事を引き受けるとは決まってはいませんよ」
「それは別にいいよ。今日はお疲れってことで」
 いいでしょう、と首を傾げられれば私は頷くしかなかった。
 ル・ベゼ・ド・リスに着くと、マスターがいらっしゃいませと出迎えてくれた。私は明日、仕事なので何か軽いお酒にしたかった。
「マスター、何か甘口で軽めのカクテルはある?」
「それなら、アラウンド・ザ・ワールドはいかがでしょうか」
 ジンをベースにペパーミントとパイナップルの軽い味が楽しめますよ、と勧めてきた。
「それ、お願いします」
「じゃあ私もそれでお願い」
 節子さんもそう言った。アラウンド・ザ・ワールド、私はカクテルの名前を小声で唱えてみた。響の言葉が最近、耳から離れない。世界の色を私はまだ、見られていない。
「清香ちゃんは今の状況に不満?」
 まるで見透かすように節子さんが言うので、私は取り繕うのに必死だった。
「いえ、安定した職に就けて、日々それなりの充実と手ごたえはあります」
 でも、という言葉を私は飲み込んだ。その言葉は小骨のように喉に刺さった。私はこのオファーを断る理由がない。でもそれで世界の色は見られるのだろうか?
「私は郷里を捨ててきたんです」
 私は突然、そう言ってしまった。堰を切ったように感情が溢れてきたのが、自分でもよくわかる。
「郷里には大事なひとが居たんです。私はそのひとを捨ててきた。そのひとが節子さんの写真が好きだったんです。だから私は節子さんの助手になることに異論はないです」
「ちょっと待って。そこに清香ちゃんの意志はないの?」
 私は押し黙った。志を持っていることは素晴らしいけれど、持つことを強要される覚えはない。私の意志は響の意志だ。泥沼の対幻想。響は私の亡霊だ。
「ひとつ条件をつけていい?」
「どうぞ」
「会ってきなさい。そしてそのひとが清香ちゃんと別人であることを確かめてきて」
 それが採用試験よ、と節子さんは言った。
「出来ません。私はもう絶対、会わないって決めていますから」
「それはいつの約束?」
「……十八歳のときです」
「それから見識も視野も広がったでしょう。この世に絶対なんてないって」
会ってみなさい、損なことにはならないから、と節子さんは言った。私はふたたび黙した。絶対なんてない、そんなこと私は知っている。ただ認めるのが怖かった。響はきっと元気に子育てでもしているということを認めたくなかったのだ。私を忘れて。私は未だに十八歳のままで、止まっているというのに。
「わかりました。帰郷してきます」
「東京に帰ってきたら、名刺に書いてあった電話番号に連絡して」
 それから私と節子さんは黙々とお酒を飲んだ。

「響、上京しないって本当?」
 私は響に詰め寄って強く問いただすように言うと、響は曖昧に笑ってみせた。
「言ってたじゃん、響。東京に行って一緒に住もうって」
「ごめん」
 私が聞きたいのはそんな言葉じゃない、と言うと、響は一言だけ言った。
「私は母さんだけを残して、この地を去れない」
 私はその一言ですべてを悟った。どれだけ響がこのなにもない街を愛しているか、そして私は選ばれなかったということを。
「ねえ、清香」
 私はそう言う響の方を向いた。
「清香がその目で私の分まで見てきて。世界の色を」

 節子さんと別れて、すぐ翌週の水曜日に私は有給休暇を取った。申請はあっさり通った。そう言えば私はこの仕事に就いてから有給休暇を取っていなかったことに気がついた。新幹線で二時間、在来線で一時間かけると、私の山深い郷里が見えてきた。駅にはタクシーが一台止まっていて、私はそれに乗り込んだ。そして変わらない農村地帯をタクシーのなかからぼんやりと見つめた。私は電話での母とのやりとりを思い出して、気が重かった。母と父には申し訳ないことをしていることを私は自覚している。十八歳で上京してから、この場所には私は一度も帰っていなかった。両親とは絶縁状態だったので、それがいきなり帰ってくるとなると、母も電話口で動揺していた。
 タクシーから降りて、家のチャイムを鳴らすと母が出てきた。
「おかえりさない」
「ただいま」
 私がそう言うと、母は泣き出した。母は歳を取ったが、私の母だった。私は母を抱きしめた。親不孝な娘でごめんなさい、と一言そえて。私も母の涙につられるように、視界が滲んだ。
 その日の夕食は私の子どもの頃、好きだった品々が並んだ。父は口数が少なめだったが、瓶ビールをたくさん飲んでいた。久しぶりの家族との食卓は当たり障りなく、でも皆、気を使っていた。部屋はそのままにしてあるから、と言う母の言葉通り、私の部屋は十代で止まっていた。タイムカプセルを開けたみたいだなと思ったが、今の私にはぴったりだった。
 響にメールを送ったのは火曜日だった。久しぶりに帰郷するから、会いたいとメールをしたら、響から絵文字で彩られたカラフルなメールが届いた。木曜日だったら時間があるからショッピングモールで会おうという内容だった。私は少しの安堵と失望があった。響は変わってしまった。それは確信に近かった。会いたいけれども、会いたくない。二律背反する想いを抱いて、私はその夜、十代の気持ちのまま眠った。

 その日の朝は緊張して朝ごはんが喉を通らなかった。化粧をして服を着替えると、心持が楽になった。私は亡霊とさようならするのだ、と思うと気が引き締まった。
 ショッピングモールまでバスを利用すると、約束の十五分前に着いた。
「清香?」
 私は後ろから声をかけられ、その声の主が響だという確信とともに振り返った。
「響、久しぶり」
「本当に久しぶり!」
 響の足元には小さな男の子がいた。
「こんにちは。お名前はなんて言うの?」
 私は膝をついて、響の子どもの頭を撫ぜた。
「こんにちは! たつきです!」
「たつき君、元気にご挨拶できたね」
 私は立ち上がり、席に座った。
「ごめんね、子連れで」
「そんなこと気にしないよ。それより響が元気そうで何より」
「清香はいまお仕事は行政書士だっけ?」
「うん、ちょっと転職するかもだけど」
 私は事の顛末を、節子さんの名前を出さず、簡単に説明した。そうすると響は過剰に驚いたようなアクションを取って、私に転職を勧めた。
「チャレンジすべきだよ」
「そうかなあ」
「清香が写真家になるかもしれないんでしょう? 私、絶対に自慢しちゃう!」
「それはまだ気が早いって」
 笑いながら薄っぺらな会話に私は厭きてきた。私にとっての響はこんな人間だったのか、と心の底で思った。
「そろそろお暇しないと。バスの時間がなくなっちゃう」
「また、戻ってきてね」
「うん」
 響は変わった。私はそれがわかれば、じゅうぶんなような気がした。そして席を立ち歩きはじめた。
「清香ー! 私の分まで世界の色を見て来てねー!」
 響のその声は大きく、そして私を十八歳の頃に戻した。響が変わっただって? 見当違いもいいところだ。私はまだまだ本質を見抜くことができていない。私は自分を恥じた。
「ありがとう。響」
 私はそう言うと、響の亡霊とやっと決別できた。

 金曜日に東京に戻ると私は気疲れのせいか、一日、寝て過ごした。そして土曜日に節子さんに電話すると、ル・ベゼ・ド・リスで会おうということになった。
 重いドアを開けると、マスターがいらっしゃいませ、と私を迎えてくれた。節子さんはすでにカウンター席に座っていた。
「先に飲んでいてごめんね」
「いえ、お気になさらず」
 私はマスターにアラウンド・ザ・ワールドを頼んだ。
「憑き物が取れたみたいね」
「節子さんは、本当になんでもお見通しなんですね」
「そりゃ、写真屋ですから」
「……マスターの名前は当てられないのに」
 そう言うと私と節子さんは声をあげて笑った。
「私を節子さんの助手にしてください。でも前職の引継ぎがあるので四月からよろしくお願い致します」
「こちらこそよろしく」
 マスターがカクテル・グラスを私の前に置いた。
「このカクテルみたいに世界中を連れまわすから、覚悟しなさい」
「望むところです」
 私はそう言って、節子さんと乾杯した。四月から私は世界の色を見に行く。



シリーズはこれで終わりですが、書きおろしを含めた本を2017年5月7日、文学フリマ東京で頒布する予定です。またその後、自家通販もする予定なのでどうぞよろしくお願い致します。

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