ミスティ

Le Baiser de Lis

 私は失恋をすると、ル・ベゼ・ド・リスの扉を開く。ひとがバーに行く理由はさまざまだけれども、私の場合はひとりで、したたかに酔える一夜が欲しくてたまらないのだ。特にこうも心が冷え切っている夜は。
 フランス語で「百合のくちづけ」というこのバーは、渋谷のセンター街から少し外れた六階建てのビルディングのなかの三階にある。私はその店の重々しいドアを開けた。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね、かなでさん」
 ブルーのカッターシャツに茶色のベスト、そして長いであろう黒髪をひとつのシニョンで纏めたマスターが、氷を削りながら私と目線を合わせた。
私は二十歳を過ぎた夏に思い切って、ル・ベゼ・ド・リスの扉を開いた。その時も傷心に打ちひしがれ、マスターは一見、不愛想に氷を削っていた。私がぽつりぽつりと恋の終わりのいきさつを話すと、一杯のカクテルを私の前に差し出した。今度お店で出そうと思っているカクテルの試作品です、お酒は忘れるためにあるものですから、と言って。居酒屋しか知らなかった小娘だった私は感動した。気落ちしたときやこうして失恋したときはそれを忘れるためにル・ベゼ・ド・リスでお酒を呷る。お酒は忘れるためにある。マスターの試作のカクテルは甘露だった。
「こんばんは」
 カウンターにはふたり連れが二組、すでに座っていた。私は端のカウンター席に陣取り、マスターからお手拭きをもらった。
「何になさいますか?」
 私は少し思案した。ル・ベゼ・ド・リスに流れるBGMは高く澄んだ女性ヴォーカルの声。確か「ジャズ・ヴォーカルの女王」と呼ばれたヴォーカリストだったような気がする。
「ミスティをお願い」
「かしこまりました」
 マスターはそう言うと、さっそくカクテル作りに取りかかった。

 私はこの恋が幼いものだと知っていた。それは私たちが女性同士だったから、という理由では断じてない。私と有香は確かな約束をしなかった。それでも幸せな瞬間が、永遠とは言わないまでも、長く続くと思いこんでいた。
 今日、帰りが一緒になった有香はどう接せればいいか良くわからない、といった笑みを浮かべていた。そんな顔を見るだけで、私は逆に有香に申し訳ないと思った。
「お待たせ致しました」
 ショート・タイム・カクテルが私の前に置かれる。カクテルグラスが歪んで見え、私は自分の瞳に薄い涙の膜が張っているのを知った。ああ、ミスティ——涙で潤んだという形容詞を持つこのカクテルを、私はその通りにゆっくりとくちづけるのだった。最初は甘くてからい後味がするこのカクテルはまるで恋の終わりにぴったりだ。

 有香は私と同じ部署で働くOLのひとりだ。私の部署は男性が九割で、女性は私を含めて三人しかいない。私と有香と少し歳が離れた飯田女史だけだった。
「前島さん、赤いマニキュアなんてしてきてOLとしての自覚ないの?」
 飯田女史は給湯室で苛立たし気に、有香をネチネチといじめていた。有香は新卒で採用されたばかりで、飯田女史の恰好の標的となった。
「フレンチネイルなので、大丈夫だと思いました」
「『オフィスカジュアル、赤』でネットで検索してみなさいよ。まったく、これだから若い子は男に媚びることしか考えてなくて、嫌になるわ」
 さすがにこの言葉に有香は怒髪冠を衝いた。怒りのあまり肩を震わせ、有香は言い返そうとした瞬間に、私は口を開いた。
「男に相手にされているうちが花ですからねえ。前島さんも明日までにネイル落としてきてね」
 皮肉を込めて言ったつもりだったが、どうやら飯田女史には通じなかったようだ。押山さんもしっかり教育して、と言って、飯田女史は給湯室を出た。
「押山さん、ありがとうございます」
「いいの、いいの。飯田さんは女子社員をいじめるのが趣味だから。前島さんが来る前は私が標的だったから、逆に申し訳ないよ」
 私が振り返ると有香は怒りを通り越して、泣いていた。はらはらと涙がダイヤモンドのように落ちていく。なんて綺麗に泣く子だろうと私は不謹慎ながら感心した。
「はい」
 私は反射的にハンカチを有香に差し出した。
「ありがとうございます」
 そう言って有香の目から吸い取られるその液体はどこか甘そうだ。いま思えばこれが恋に落ちた瞬間だった。
 飯田女史と有香がいるとき私はとりなし役だったが、いざ飯田女史がいなくなると、私は有香の味方だった。有香はそんな環境のなかでも天真爛漫だった。守衛さんへの挨拶も欠かさなかったし、嫌味を言ってくる飯田女史にも男性社員にも分け隔てなく接していた。飯田女史にとって、有香の態度は男性におべっかを使っているように見えていたようだが。飯田女史は何かにつけて、有香をいたぶっていた。有香は健気にもそのたびに、自分のダメさが飯田さんのおかげで良くわかりました、と言って頭を下げるのだった。私は有香のそんな姿を見るたびに昔の自分を見ているようでつらかった。
「押山さんは、どうやって飯田さんのいじめに耐えてきたんですか?」
 仕事上りの居酒屋で有香は私に尋ねてきた。
「あのひとは同情すべきひとだわ」
「と言うと?」
「若さが自分にはないと思い込み、自己嫌悪が自分に向かず他人に向いてしまう可哀そうなひと。そして将来の私の姿」
 自嘲気味に私は言うと、有香は持っていたビールジョッキをどん、と音を立てて置いた。
「押山さんは、絶対に飯田さんみたいにはなりません」
 強い語調だった。それだけで私は少し、嫌な大人にならずにすむかもしれないという安心を覚えた。
「まあ具体的には、上司の悪口を言っている飯田さんの音声を録音して、上司に聞かせたんだけどね」
「それは強い」
 私と有香は声を上げて笑った。この飲み会以来、仕事がオフのとき有香は私のことをかなでさんと呼ぶようになった。そして私は有香と呼ぶ権利を手に入れた。
 私と有香は昼食を一緒にとることが多かった。お昼休みは少しでも仕事から離れたいと思い、近くの公園のベンチでお弁当を広げた。
「暑くなってきましたね、かなでさん」
「そろそろこの公園でお昼を食べるのは限界かもねえ」
 夏の始まりを感じさせる日差しは私と有香の肌を灼く。
「すごい雨雲」
 そう言って有香は西の方を指さした。私は慌てて、お弁当をしまおうとするが、まごついてしまう。
「降ってきた」
「ごめん、有香。先に会社に戻っていて」
 私はそう言うが、有香は待っていますと言って、制服の白いシャツを濡れるのを気にせず、私を待っていた。そして会社があるビルディングのエントランスに着くころには、ふたりとも濡れ鼠になっていた。髪は突発豪雨のせいでぴったりと張りつき、白いシャツは身体のラインを強調していた。
「とりあえずロッカーで、どうにかしようか」
 この恰好を、と言うと有香も頷いた。
 私たちのロッカーは隣同士だったが、一緒に着替えることはほとんどなかった。上だけ下着姿になると、有香は感嘆のため息をついた。
「かなでさんのブラジャー、可愛い」
 どこで買ったんですか? とゆうかは無邪気に尋ねてくる。私はブランドを言って、早くブラウスを手早く身につけようとしたが寒さで手が震え、ボタンが閉じられなかった。
「よく見せてください」
 そう言って有香は私の上半身をまじまじと見つめた。
「恥ずかしい」
「かなでさんは綺麗ですね。肌も白いし」
「有香、もういいでしょ?」
 私は羞恥心で顔を赤く染め上げ、有香から目を逸らした。手は寒さか、恥ずかしさのせいか震えている。
 有香はそんな私の手を取って、指を絡めてきた。その絡め方が妙にセンシュアルで、私のなかの欲望を見透かされているのかと思った。しかし私は有香の手を振り払わなかった。それどころか今度は私から有香の腰を引き寄せた。そしてどちらかともなく、くちびるにくちづけた。そのくちづけは雨に濡れて身体が冷えたとは思えないほど温かく、そして柔らかなものだった。キスが終わると、私たちの息は上がっていた。そして悪戯っぽくお互い微笑みあった。目は口程に物を言うというのはこういうことなのか、と私は初めて知った。有香は私を求め、そして私は有香を求めていた。それだけで私の身体は温かくなった。
 お昼休みの時間はとうに過ぎていて、飯田女史から大目玉を食らった。それから私たちは仕事が休みのときは一緒に映画館に行ったり、洋服を買いに行ったり、お互いの家で過ごしたりし始めた。私たちの間には誰も入る余地がなかった。つい最近までは。
 スピーカーで有名な上司から、飯田女史の結婚が知らされた。そういえば最近は飯田女史の言葉遣いにとげとげしさを感じなくなっていた。結婚後も飯田女史は仕事を続けるのか、と上司に問えば、彼は首を横に振る。私は肩から力が抜けるのを感じた。これから当分は有香と仲良くふたりで仕事になると、嬉しくてたまらなかった。その日の私と有香の飲み会はその話題で持ち切りになった。
「飯田さんって結婚願望ないと思っていました」
「私も。無理して仕事をしてきたのかなあ」
 飯田さんの結婚退社に乾杯、と私たちは言ってグラスを交わし、ため息のように出てきた有香の言葉に私は同意した。
「飯田さんも呼べば良かったかな。この飲み会に」
「さすがにそれはないかな。でも険がなくなってきて穏やかになったよね。飯田さん」
 何だかんだ言って、飯田さんはいいひとだ、と私たちは酔って言いあった。会社から飯田さんがいなくなることに一抹の寂しさを感じた。
 飯田女史の送別会は盛大に行われ、彼女は涙を薄っすらと浮かべながら、今までお世話になりました、と殊勝に頭を下げた。花束だとすぐ枯れてしまうから、と私と有香は考えた末に小さなジュエリー・ボックスを飯田女史に送った。
「押山さん、あとは任せたからね。前島さんは、やっと使えるようになってきたばかりだから、気を抜かないで」
 最後まで素直になれないひとだなあと有香は思ったらしく、肩をすくめて私に笑って見せた。
「結婚式にはふたりとも招待しますからね」
 そう言って飯田女史は会社を去って行った。そして夏が終わり、秋には招待状が届いた。退社から結婚式までの日取りの長さが短いことにびっくりしたが、私は飯田女史の焦りを感じ取って、すこしだけ同情した。
飯田女史の結婚式は盛大で紋切り型でいつも通りつまらなく、私は退屈していた。冠婚葬祭はいつも身の置き所がわからず、肩に力が入ってしまう。おめでたいことだが私には縁遠く、早く帰って有香と過ごしたかった。二次会にも出なくてはいけない自分の身を呪っていた。
 二次会は飲み会形式で、つまらないゲームや余興を見なくて済むということにホッとしていた。私は有香と一緒にグラスを持って、壁の花を決め込んでいた。結婚式なんてくだらないし馬鹿馬鹿しい、と二人で悪態を垂れていたときだった。
「有香?」
「はい?」
「有香じゃん! 久しぶり」
 そう言って礼服の男が近づいて来た。
「もしかして、京吾くん?」
 そうそう、と男は言って有香との距離を詰めてきた。私が有香のドレスの裾を引っ張ると、有香は男を私に紹介してきた。
「こちら高橋京吾くん。高校の同級生。こちらが押山かなでさん。会社の同僚」
 私はただの同僚と紹介されたことに、少しだけ距離を感じた。有香は高橋くんと楽しそうに話しているので私は所在がなく、二次会をそっと抜けた。
 私は家に帰って、お風呂に長々と入った。疲れた身体を癒すにはそれが一番だと知っていたからだ。あえて携帯電話から離れられるという理由ではなくて。たっぷり一時間、湯船に浸かって部屋着に着替えると、やはり気になって携帯電話を探ってしまった。期待をしていた不在着信は入っていなかった。私は有香と高橋くんの間にある、千切れにくい蜂蜜の糸のようなものを感じ取ってしまった。今ごろふたりはお酒でも飲んでいるのだろうか、それともベッドを共にしているのだろうか。そんな考えがよぎった瞬間、思いだした。私は有香に好きだと伝えていなかったことを。私は有香と付き合っていると思っている。しかし告白をして、交際を申し込むという手続きを踏んでいなかった。私と有香の間ではそんなことが必要ないと思いこんでいた。そしてそれが気恥ずかしいことだと思っていた。言葉がない身体が雄弁な世界に私たちはいた。付き合っていればこんな嫉妬はないのかな、と私は疑問に思い、すぐに打ち消された。付き合っていても、心は移ろうものだと知っていた。私は恐れていた。有香を失うことを。
「かなでさん、おはようございます」
 昨日、急にいなくなって探したんですよ、と有香はロッカーの前で少し眠たそうな顔をして私に声をかけてきた。
「ちょっと悪酔いしちゃったみたいで、外の空気を吸って帰っちゃったの。ごめんね」
 私は高橋くんって有香の前の彼氏? と尋ねる勇気がなかった。あの蜜を引いたようなふたりの接し方は、私が初めて有香の手を取ったときに感じたものと同種だとわかっていた。それでも私は努めて高橋くんのことは触れないようにと日々を過ごした。それは狭量な私の心の現れだった。そして有香から高橋くんの話題は上がらなかった。そう今日までは。
 秋が終わり、初冬を迎えると、珍しく有香がランチに誘ってきた。飯田女史がいなくなってからお昼休憩は別々になった。今日は大事な話があるので、と有香は上司にかけ合い会社の近くのコーヒー・ショップに入った。
「かなでさん、ごめんなさい」
 有香が謝った瞬間に、私は全てを悟り、そして諦めた。
「高橋くんとお付き合いしているんでしょう」
「……はい」
 有香は驚き、そして見透かされていることに恥じらってか、目線を泳がせた。
「理由とか、聞かないんですね」
「これ以上なにかを聞いて、有香の気持ちが私の元に帰ってくるわけではないでしょう?」
 私はなるべく刺のないように言葉を選んで、冷静に言った。一緒にいても、どこか上の空で、楽しそうに誰かと電話をしていて、飲み会の頻度も休日に会うことも少なくなってきていた。こんな状況で気づかないほど、私は鈍感ではなかった。有香との間にはもう蜜の糸は途切れてしまったことを、私は知っていた。
「ごめんなさい」
 有香はそう言って泣いた。飯田女史に怒られて流したあのときの、キラキラしたダイヤモンドのような涙だった。甘そう、と思って私は吸いつきたくなる衝動を制した。そしてハンカチを有香に渡した。
「ひとつだけ訊いてもいい?」
「はい」
「高橋くんとはもう寝た?」
 有香は涙を拭いながら首を横に振った。私はそう、と言ってほんの少しだけ救われた気持ちになった。

 ミスティをもう一杯、とマスターにお願いした。空になったカクテルグラスには未だに瞳が潤んだ自分が映っている。別れを告げられた私は祝福する気はさらさらなかったけれど、無視なんかしないから仕事場でのことは気にしなくていいよ、と有香に言った。それでもお互いぎくしゃくしている。それでもなんとかやっていけるのは、飯田女史が抜けて仕事が忙しいからだ。忙しなく過ごしていれば、定時はあっという間に訪れ、有香は曖昧な笑みを浮かべて、お疲れ様ですと言って帰って行った。
「目の前が霞がかって前に進めないとおもうかもしれませんが、生きるということはそういうことなのですよね」
 目を潤ませて、ほとんど無言で飲んでいる私に、マスターはお酒をステアしながら言った。
「マスターも霞のなかにいるの?」
「そうです。たぶん皆さんそうでしょう」
 力強い断言だった。どうぞミスティです、とマスターは言って私の前にグラスを差し出した。つらいのは私だけではない。忘れるために、そして思い出すために私はカクテルグラスに口をつける。マスターのひとことで私はミスティのからい後味が若干、甘く感じた。


Page Top
inserted by FC2 system