マルガリータ

Le Baiser de Lis

 仕事からの帰り道に携帯電話が震え、液晶画面を確認すると私は家路とは逆方向に駅へと急いだ。
「来て」
 メールに乗せられた言葉はこの一言だけ。そして私を動かすには十分すぎる、言葉の重さ。きっと帰りはタクシーになるから、少しお金を降ろしておいたほうがいいかもしれない、と思うけれど、いいや、明純に出させようと思った。呼び出したのだからそれくらいしてくれてもいいと私は思った。ホームに来た上りの電車はちょうど最終。電車は風を起こし、私のスプリングコートを翻させる。私は髪を押さえ、ドアが開くと身体をすべりこませた。
 渋谷で降りると、センター街を目指して歩き始めた。駅前は週末でもないのに人だかりができていた。明純に呼び出されでもしなければ、普段は歩かない街並みだ。センター街を抜けて、六階建てのビルディングのエレベータに乗って、三の数字を押す。古いエレベータは音を立てて上昇する。三階に着けば目の前には重厚な木のドア。それを身体で押すように入ると、カラコロとドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
「マスター、こんばんは。明純は」
 いるか、とマスターに聞こうとした瞬間に、カウンターの端で寝息を立てている明純が目に入った。私は顔に手をついて溜め息をつき、明純の隣へ座る。
「つい先ほどまでは起きてらっしゃったんですよ」
 マスターはお手拭きを私に渡しながら、そう言った。
「マルガリータをお願い」
「かしこまりました」
 そう言ってマスターは酒瓶を棚から取った。
「明純、起きて」
 私は隣で穏やかに眠っている。起こすのは忍ばれたが、マスターにこれ以上、迷惑をかけたくなくて、私は明純の身体を揺すった。
「あ、チカちゃん。来てくれたんだあ」
 明純は寝起き独特の甘い声で私をチカちゃんと連呼して、抱き着いてくる。
「いい加減にしてよ。私は明日も仕事なんだから」
「でも、来てくれた。ありがとう」
 チカちゃん大好き、と言う。明純の言葉は酔っ払いの戯言だ。はいはい、と私が受け流していると、千夏ちゃんが明純のためにお水を持ってきてくれた。
「わあ、千夏ちゃん、ありがとう」
「明純さん、ずいぶん飲まれていたようなので」
「これくらいで酔う明純さまではなーい!」
「さっきまでぐーすか寝ていたのに、なに言ってるのよ」
「えへへへ」
 えへへへ、じゃないよ明純、こっちは走ってきたというのにそれすら忘れているのかと思ってしまう。明純はこのお水、美味しいと言いながら喉を鳴らして飲んでいる。
「チカはなにを飲んでいるの?」
「マルガリータ」
「いいなあ。ひとくち、ちょうだい」
「酔っ払いにやるお酒はありません」
「ひどい」
「明純、今日は何があったのよ」
「えーっと、好きだった人妻がいて、間男ならぬ間女したら、旦那さんに包丁持って追いかけ回されたのー」
 ちょう怖かったー、と間の抜けた調子で言うものだから、私は頭を抱えざるをえなかった。
「嫉妬に狂った男って何するか、わからないねー。人妻はもうこれっきりにしたいなあ」
「でも人妻が好きなんでしょう?」
「そう。もうこれは刷り込みだよう」
 明純の初恋はそれはそれは美しい叔母だった。それからというもの、明純が好きになるのはひと回り以上の年上の女性ばかり。
「明純、お願いだから午後のワイドショーに出るのは止めてね」
「普段は旦那さん来ない時間帯だったから油断したわー。真貴子さん、大丈夫かなあ」
 微妙にかみ合わない会話をかわしながら、私はカクテルグラスに付いた塩をぺろりと舐めた。
「マスターも千夏ちゃんも明純のこと心配しているんだから、もっと自分のことを大切にしないさい」
「はーい」
 ふたたび間の抜けた明純の返事が返ってきて、私はまた頭を痛くするのだった。
 マスターにお勘定をお願いして、明純はかろうじて、クレジットカードを出すことができた。私と明純はセンター街を抜け、渋谷駅前でタクシーを拾った。運転手さんに私の住所を告げると、明純はまた眠りについた。右肩に明純の重みを感じながら、私は明純との出会いを回顧した。

 明純は私の家の隣に越してきた一家の長女だった。私が小学四年生のときだった。ずいぶん立派な家が建つものね、と母がこぼしていたのをよく覚えている。明純の家は瀟洒な洋館という趣だった。明純が越してくる当日、私はきちんと挨拶するようにと母から言われて、明純の一家を迎えたのを覚えている。明純は黄色のワンピースを着て、大きな目をくりくりさせて、明純の母親の後ろから、私を見つめていた。親同士の会話から私と明純が同い年ということがわかって、私と明純は強制的にふたりきりにさせられた。子どもだからといって、いきなり他人と一緒にさせられて、私と明純はなにを喋ればいいか、わからなかった。
「千賀子ちゃん? ごめんね」
「チカでいいよ。なんで謝るの?」
「ママが私の自慢ばっかりして恥ずかしい」
 そう、と私がぶっきらぼうに答えると、明純は恥じ入った様子だった。明純のその姿を私はよく覚えている。生理が誰よりも早く来てしまい、まだ薄っぺらな身体に女の烙印を押されてしまったように、誰かに助けを求めているようなそんな風情で体育座りをしていた。
「オシロイバナって知ってる?」
「ううん」
「ピンク色と黄色の花があってね、種のなかに白粉みたいな白い粉が入っているの」
 いっぱい集めて、白粉を作ろうよ、と私は明純に提案した。明純も乗り気になって、私はお母さんにちょっと近所を案内してくると言って家を出た。
 先ほどとは打って変わって明純と私は無邪気にオシロイバナを集めて白粉と言いながら、白い粉を集め、それを肌に塗った。明純は真っ白になった私の肌を笑って、オシロイバナの種を大切そうにポケット・ティッシュにくるんで、持って帰った。結果、明純の母親に捨てられてしまったようだが。
 私は明純の叔母とも会ったことがあった。あれは中学に入ったチカ頃だったと思う。神経質な明純の母親と違い、明純の叔母は線は細いが、美しいひとだった。出迎えに冷たいレモネードを出してくれて、その味はまだ舌で覚えている。甘いがちょっと酸っぱくて、後味がすっきりとしたものだ。何より子どもをふたり出迎えてレモネードを出すということに、私は驚いた。普通は麦茶や何かだと思うのに、レモネードという選択が私の頭のなかにはなかった。明純の叔母は独身で洗練された生活を送っているのだ、と私はレモネードを嚥下しながら、深く感じ入った。
 明純の叔母は明純の愚痴、主に母親に関する束縛に、耳を傾けながら、明純にヴァイオリンを弾くように促した。明純は幼稚園のときからピアノを始め、小学生の頃からヴァイオリンを習い始めて、その腕前はかなりのものだった。将来は音大に、というのが明純の母親の願望だった。その願望は結果的に叶えられるのだが、明純が母親の願望に反しなかったのは、明純の叔母がいたからだ。
「明純ちゃんの音色は本当に素直なものね」
 窓を開け放たれたなかの明純の小さな演奏会は定期的に開かれているようで、明純は無邪気に叔母の言葉に笑っていた。夕食もぜひと明純の叔母に言われたが、遅くなると両親がうるさいから、と言って私たちは暇を告げた。
「チカって好きなひと、いる?」
「何よ、急に」
「私ね、叔母さんが好きなの」
 変かな? と明純は私に聞いてきた。私は少し動揺した。まるで明純は窘めて欲しいかのような言いようにも聞こえた。
「……いいんじゃない」
「なんか間があったんだけど」
「ひとの恋路をどうこう言うもんじゃないでしょう」
「そうだけど、さ」
 明純が叔母に惹かれるのも分かる。中学生の男子はうるさいだけで知性のかけらもない、つまらない猿ばかりだったし、中学生になった途端に猿どもに色めきだつ女子も良くわからない生き物だった。芯のしっかりとした大人のひとに惹かれるのはわからなくもない。
「私、変?」
「どこがよ」
 明純は小さな声でありがとう、と言って泣き出した。私はどう宥めるべきか思案して、明純の左手を握って歩き出した。なるべく明純を見ないようにと駅まで歩いた。
 それから明純は音楽科がある高校に入り、私は都立の普通科高校に入った。高校は別になったが、明純とは完全に腐れ縁になりつつあった。私は明純の母親からあまり好かれていなかったので、もっぱら明純が私の家に遊びに来ていた。
 高校生活も終わりに近づくと、私は調理師免許の取れる専門学校への進学が決まっていた。周りは、もちろん明純は音大に、受験勉強が忙しくなる時期の冬、明純は真夜中に私の部屋を訪れた。
「明純、どうしたの?」
「叔母さんが」
「うん」
「叔母さんが結婚するって」
 どうしよう、と明純は私に泣きついてきた。
「どうしようもないんじゃないの」
「チカちゃんが冷たい」
 そう言ってあまりに明純が切羽詰まって泣くものだから、私は明純を抱きしめるしかなかった。わんわんと声を上げて泣くものだから、私の両親は心配そうに部屋を覗きにきた。私は大丈夫と言って、なんとか明純を落ち着かせた。話をまとめると叔母と一緒に働いていた男性と結婚するらしい。なぜ今ごろと思われるかもしれないが、叔母とその男性は不倫関係にあって、男性の子どもが独立し、無事、離婚も成立したので、結婚する運びとなったらしい。私は断片的に話す明純の神聖化された叔母と一回だけ会った叔母の像がどうしてもズレているのを感じていた。しかし明純の叔母にどこか翳りを感じさせたのは、やはり男性がいたせいか、と私はどこかで納得した。
「チカ、私の生きがいがなくなっちゃうよ」
 そう言いながら、私に抱きついてくる明純を私はどうしようもできなかった。できることと言えば、泣き止むまで明純の頭を撫ぜることくらいだった。
 明純が大学に受かり、私は独立して専門学校に通い始めると、明純の人妻とのアヴァンチュールが始まった。私はいつも本気なのだけれども、というのが明純の枕言葉だった。そして人妻に袖にされると、ル・ベゼ・ド・リスで上品ではないお酒の飲み方をして、私を呼びつけるのだった。

 明純が一種のマザー・コンプレックスであることはプロファイリングするまでもない。明純本人は全てわかった上で、人妻と道ならぬ愛を育む。隣で無邪気な顔で眠っている明純を見ると、屈託などなにもないように見えるが、抱えたものは大きいように思った。
「明純、そろそろ着くよ」
「はーい」
 私はこの女が、明純が好きなのだ、と自覚している。そしてこの恋が実ることもないことも知っている。それでもいい。明純が失恋したとき、そばに居るという特権は私にしかないのだから。私は明純の屈折を私は嘲うことができない。
 私は慣れた動作で明純をタクシーから降ろし、二階のアパートの部屋まで明純を歩かせた。時おり明純は気持ちが悪そうにしていたので、吐くのはまだ待ってと言い聞かせた。部屋に着くと、明純は気が抜けたらしくそのままベッドで眠ってしまった。私は仕方なくソファに横になり予備の毛布を出して、眠った。

「チカちゃん、起きて」
 朝だよーと明純の柔らかな声に私は目を瞬かせた。
「おはよう」
「おはようございます、チカちゃん」
 いま何時かと回らない頭で、スマートフォンを探った。六時を少し過ぎていた。
「チカちゃんPC借りてもいい?」
「いいけど、何につかうの?」
 私は部屋着のまま洗面台に向かった。そして顔を洗うと、すっきりと目が覚めた。
「真貴子さんの生存確認ー!」
「いいよ」
 泥酔した翌朝、明純はだいたいこうして人妻が刃傷沙汰に巻き込まれていないか、確認して泣く。今日も真貴子さん、本当に良かった、と言いながら検索にヒットしないことを安堵している。私はそんな明純を横目に牛乳をパックから飲むんだ。
「明純は玉子を何個、食べる?」
「チカちゃん。ひとの感傷を壊すようなこと、言わないでくれる?」
「お腹が空いていたら、感傷どころじゃないでしょう?」
「……二個、オムレツで」
「了解」
 明純は知っているだろうか。カクテルのマルガリータが命名された所以を。私はマルガリータに飾られた、どんな塩よりしょっぱい涙の味を知っている。いつか明純に教えられる日が来るといい、と思いつつ私はオムレツを今は焼く。この愛おしい私のお馬鹿さんのために。


Page Top
inserted by FC2 system