レッドアイ

Le Baiser de Lis

 退勤後、私はお手洗いでリップグロスを塗りなおした。同僚からはデートなの? と聞かれたけれど、私は首を横に振った。デートよりもっと楽しいこと、と言うと、同僚は怪訝そうな顔をして立ち去って行った。仕事が終わる金曜日に楽しいことと言ったら、デートしか思い浮かばないのは少し悲しいことじゃないかなと私は思いつつ、化粧ポーチをバッグの中に仕舞った。世のカップルたちはこのあと食事をして映画でも観て、そのままベッドになだれ込むかもしれない。私はそれを楽しめないタイプの人間だった。セックスが不快なわけじゃない。ただあまりのお定まりのデートに私は厭きているのだ。それより刺激的なことはこの世に五万とある。私は私鉄に乗って渋谷を目指した。センター街を闊歩し、裏路地に入り、目的ビルディングの目的の三階で降りる。重厚な木のドアにちょっと低いドアベルが鳴れば、そこは私の天国、ル・ベゼ・ド・リスに着いた。フランス語で「百合のくちづけ」という意味のバーだ。
「いらっしゃいませ」
 カウンターに座ると、千夏さんがおしぼりを差し出す。
「ふたりは、まだ?」
「ええ、まだのようです」
「オーダーを待ってもらってもいいですか?」
「構いませんよ」
 千夏さんは笑顔でそう言うと、他のお客さんのお酒を作り始めた。私はスマートフォンを出して、グループチャットでふたりに連絡を取った。数分もしないうちに、今、渋谷に着いたところ、とふたりから返信が来た。先に飲んでいて、と言われたが私は待つこの瞬間が好きだった。喧騒の前の静寂。ライブやコンサート前の一瞬の静けさを感じさせた。
「美奈さんも社会人が板についてきましたね」
「そうかな? まだまだ失敗も多いですよ」
「うーん、中身より雰囲気がね」
 千夏さんは舌をぺろっと出して、そんなことを言う。それを聞いていたのか、きっと長いであろう髪をシニョンにしているマスターが、お客様にそんな口を利くなんて失礼ですと言って千夏の頭にチョップを食らわす。
「でも、就活生だった美奈さんが社会人やっていると思うと、私も歳を取ったなって感じますよ」
「歳のことは言わないの」
 マスターにツっこまれて、千夏さんは再びやってしまった、と綺麗に切りそろえられているショートカットの頭を掻いた。
 私はル・ベゼ・ド・リスで談笑していた。就活時代に見つけたこのバーの常連になっていた。気兼ねなくお酒が楽しめるこの場所は社会人になってから、とても大事な場所になっていた。楽しくお酒を飲む、ということは案外、難しいこと気づかされてしまったからだ。職場の飲み会は楽しい場とはかけ離れたものだった。気遣いや建て前で武装しなければいけなかったし、お酒を楽しむどころの話ではないことに早々に悟った。特にセクシュアル・ハラスメントめいた言葉が行き交うことには辟易した。セックスが揶揄の対象になることが良くわからなかった。
「下ネタで盛り上がるということは、一種の男社会の特徴だよ。女を卑下して語ることによって、男の俺たちは違うってことを示したいらしんだけどね」
 私は愛さんの言葉を思い出していると、バーのドアベルが鳴り、愛さん本人が入ってきた。そして後ろから久美さんも一緒にル・ベゼ・ド・リスに来店した。
「いらっしゃいませ」
 千夏さんがそう言うと、愛さんも久美さんもお疲れさま、と言いながらカウンターの席に着いた。
「ごめん、遅くなった」
「やっとこビールにありつける。やったね」
 愛さんは私を気遣うように声をかけてくれて、久美さんは自作のビールの歌を歌っていた。愛さんは編集のお仕事をしていて、久美さんは作家。そしてふたりは恋人同士なのだ。

 ル・ベゼ・ド・リスに通い始めて間もない頃、私は誤ってグラスを肘で倒してしまった。隣に座っていた、愛さんのスカートを汚してしまった。私に否があったことは明白だが、愛さんはこのくらいじゃシミにはならないから、と笑って言ってくれた。次の一杯を奢らせてください、と私が申し出たが、愛さんは頑なに拒否した。
 私が途方に暮れていると、愛さんの隣に座っていた久美さんが、これから鍋を食べに行くんだけど、付き合ってくれたらそれでチャラにするっていうのはどう? と提案してきた。私はその提案に乗って、それから愛さんと久美さんというカップルと親交を深めている。

「マスター、ビールちょうだい」
「はい」  久美さんはお手拭きで手を拭きながら、ビールが待ちきれないようだった。
「美奈ちゃんは何にする? 私はレッドアイで」
「じゃあシャンディガフにします」
「もー、愛も美奈ちゃんもなんでビール飲めないかなー。こんなに美味しい黄金の液体なんて他にないのに」
 久美さんは口を尖らせ、待ちきれないのか、マスターがビールを注ぐ一挙手一投足を見つめていた。
「私がビール苦手なのはよく知っているでしょ。付き合ってビールのカクテルを飲んでいるんだから、それでいいじゃない。ねえ、美奈ちゃん」
「苦くて飲めないんです。シャンディガフなら飲めるけど……」
「ビールが飲めずに、労働者をやっていけるか!!」
「久美、それアルハラだから」
 久美さんのビール愛は相当なものだ。しかし冷静な愛さんのツッコミに私は思わず笑ってしまった。
「お待たせ致しました」
 そう言ってマスターが久美さんの前にビールを置いて、千夏さんが作ってくれたシャンディガフも私の前に置かれた。
「まだハウスよ」
「ああ、口のなか涎でいっぱい」
 待ちにまったビールが来て、一刻も早く飲みたい久美さんがカウンターの前で悶絶している。
「今すぐレッドアイ作ってしまいますからね」
「ゆっくりでいいんですよ。久美にも少しは堪え性っていうものを身につけてもらわないと」
 愛さんは笑って、鬼畜なことを言うな、と私はちょっと背筋が冷たくなった。マスターが慣れた手つきでコップにトマトジュースを注ぎ、ビールを足した。それを軽くマドラーで混ぜ、タバスコと一緒に愛さんの前に差し出した。
「お待たせ致しました」
「おっし。じゃあ乾杯ね」
 忙しないヤツだな、と愛さんは毒づきながら、グラスを掲げ、私もグラスを持った。
「今週、一週間お疲れさま。乾杯!」
 そしてこの瞬間だ。冷たい液体が喉を通り、胃が液体の冷たさに反して温かくなる。この瞬間、大変な仕事も忘れ、ただ生きていることが気持ちが良いことだと思えてくる。
 久美さんは喉の奥から絞り取るような声を出して、ビール、最高! ビバ!! 労働者!と言ってビールを飲む。まったく、静かに飲めないのかしら、と言いながらも、口角が上がっている愛さんを見ると、満更でもないようだった。

 気分屋で明るい性格の久美さんと几帳面で冷静な愛さん。正反対なふたりは学生時代から付き合って、もう十年になるらしい。
「私は最初、愛って苦手なタイプだったのよ。うるさい小姑みたいでさ」
 いつだったかル・ベゼ・ド・リスでしたたかに酔った久美さんがそう言った。
「でも、大学で真面目に勉強しているのは、愛か私かくらいでさ。性格は正反対だけど、根本が似ているのよ」
「根本?」
 私が尋ねると、久美さんは破顔して答える。
「生きることをとことん楽しもうという姿勢」
「それ、大事ですよね。人生は一回きりですから」  バーテンダーの千夏さんも頷き、マスターは無言でグラスを磨いていた。
「愛はストイックに見えて、貪欲なんよ」
「意外です」
「そのギャップが、可愛いんだよ」
 久美さんはだらしなく笑って私はごちそうさまです、と言って、ふたりの間にある確かな愛情を感じた瞬間だった。

「マスター、もう一杯ビールちょうだい」
「かしこまりました」
 マスターは久美さんの前のグラスを下げた。
「ちょっと久美、ピッチが早いわよ」
 愛さんが久美さんを窘めると、今日は飲まずにはいられないの、と久美さんが言った。
「私、田舎に帰ることになったから」
「え?」
 私は思わず聞き返しそうになった。田舎に帰る、ということは愛さんとの同居はどうなるのか、とか作家の仕事はどうなるのか、とか聞きたいことはたくさんあった。
「愛さん、どういこと?」
「言葉通りよ」
 愛さんは私と目を合わせようとしなかった。声音も素っ気なく、私はますます混乱した。
「作家業は続けるけど、親も歳だからね。もう戻らなくちゃいけないんだ」
 私は愛さんとはどうするの? という言葉を飲み込んだ。
「まあ、まだもろもろあって半年先の話だし、美奈ちゃんもそんな深刻に考えないでよ」
 たまには東京に遊びに来るしさ、と言って久美さんは笑った。私は愛さんの顔を盗み見ると、愛さんの顔色は暗く、私は愛さんと久美さんが離れ離れになることを悟った。

 それからというもの、私は仕事中も上の空な日々が続いた。久美さんと愛さんは憧れのカップルだった。それがこんなかたちで別れてしまうとは、思いもよらなかった。愛さんも久美さんもあの日以来、私の前では別れることを口には出さなかった。そのことが逆に私によそよそしさを感じさせ、少し違ったふたりの間の雰囲気を感じ取らざるをえなかった。
 お昼休みが終わって、化粧を直していると同期の啓子が私に話しかけてきた。
「最近、美奈は元気ないねー。なんかあった?」
「いや、大したことじゃないんだけど」
「恋の悩み?」
「いや、私のことじゃないんだけど。愛しあっている同士なのに、なんで離れなくちゃいけないのかなあって」
「なに、美奈は遠恋しているの?」
「だから、私の話じゃないってば」
「なーんだ。恋バナで『私のことじゃない』っていうのは枕詞かと思うじゃん」
 啓子はつまんない、と言ってつけまつ毛をいじっている
「美奈は夢見すぎなんじゃない? 愛しあっているカップルなんて、そうそういないよ。現実は惰性と情で繋がっているだけかもよ?」
 まあそれも愛と言えば愛だけど、と啓子は付け加えた。私は少しムキになって反論した。
「そんなもんなのかな。でもすごく素敵なカップルなんだよ。お互いを尊敬しあって、テリトリーを侵さない」
「尊敬ねえ。恋愛から遠く離れた言葉に聞こえるけど。もっと理不尽なものじゃない? 恋愛って」
「理不尽?」
「そう。嵐のように来ては、自分のなかの大事なものが根こそぎ奪っていかれるが恋愛ってもんでしょう」
「……わかんない」
 私はわからなかった。付き合ったことはあったけれど、啓子の言うように惰性と情で繋がっているようなもので長続きはしなかった。私はまだ恋の嵐を知らなかった。

 その日、水曜日に愛さんから連絡が来た。久美さんが執筆に追われ、観に行く映画に行けなくなったから一緒に来ないかという内容のメールだった。
「ごめんね、美奈ちゃん。急に誘っちゃって」
「いえ、月中なので暇してました」
「じゃあ、映画を観たらル・ベゼ・ド・リスに行こうか、久美に内緒で」
「えへへ、いいですね」
 奇しくも、ル・ベゼ・ド・リスの近くにある映画館での上映だった。フランスのラブロマンス映画で、退屈しないかと思ったけれど、私は二時間、スクリーンにくぎ付けだった。ストーリーはバカンスを取った一組の夫婦の話だった。海辺の別荘でバカンスを楽しもうとするが、夫はひとり海に入ったまま戻って来ない。妻は必死で夫を探し、夫の不在に少しずつ狂っていく、という話だった。
 場内が明るくなると、私は愛さんの方を見た。
「女優さん名演でしたね」
「そうね」
 横顔を見つめると、涙を流した痕跡を愛さんの頬に見つけた。そして私はああ、大人の女性は決して人前で涙を見せないんだなと感心した。きっと愛さんは突然いなくなった夫と久美さんを重ねたんだろう、と思った。
「さて、ル・ベゼ・ド・リスに行きましょうか」
「いいですねえ」
 愛さんは私の前では取り乱したりしない、という確信がどこかであった。

 半年というのはあっという間で、学生時代は無限のものだと思っていた時間が、過ぎてしまった。私たち三人はル・ベゼ・ド・リスでお別れ会を開いた。
「そんな辛気臭い顔をしないでよ、美奈ちゃん。今生の別れじゃあるまいし」
「すごく寂しくなります、私、久美さんに憧れていたんですよ」
「なによー。こんなダメ人間を見習っちゃだめよ?」
 大きな口を開けて笑う久美さんはどこか空元気といか、無理しているというか、私は見ていて苦しくなった。愛さんは静かにグラスを傾けていた。
「マスターも千夏ちゃんもよかったら一杯、奢るよ。なんか好きなもの飲んで」
「ありがとうございます。では、ご好意に甘えて」
 千夏さんはカシスビアとマスターはドッグズ・ノーズを作って、久美さんの門出に乾杯、とグラスを掲げた。
「マスター、ビールをちょうだい」
「かしこまりました」
「お、愛、ビールを頼むなんて珍しいじゃん」
 久美さんの言葉に愛さんは無反応だった。そしてビールを前に差し出されると愛さんはそれを一気に飲み干した。
「いい飲みっぷり。さすがー愛さん。惚れるー」
「久美、お願いだから、田舎に帰らないで。私はあんたがいなくちゃだめになる」
 ル・ベゼ・ド・リスでこんな居た堪れない静寂が流れるとは思わなかった。
「愛、もうさんざん話したでしょう?」
「こんなこと言いたくないけど、久美、私がどれだけあんたを愛しているか知らない」
「はいはい。酔っ払いはそろそろ帰りますか。マスター、お勘定をお願い」
 久美さんは場の空気を悪くしてはいけない、と思ってか、マスターに目配せした。
「知らないくせに」
 シニカルに笑う愛さんは私は初めて見た。
「知っているよ、愛。私はあんたからすべてもらった。あんたの中のすべの大事なものを。だからこれから私は何があっても生きているんだ」
 そう言うと、愛さんは涙をこぼした。一筋のその涙は、不謹慎だが、甘そうで美しかった。
「ごめんなさい」
 愛さんはそう言って下を向いた。
「謝る必要なんてないよ。愛、ありがとう。今まで一緒にいてくれて」
「こっちこそ、ありがとう」
 私は鼻を啜った。ふたりは離れるべきじゃない。でも、それを言う隙間はふたりの間にはもうなかった。
 私は渋谷駅でタクシーに乗るふたりを見つめながら、愛さんと久美さんと私、三人で過ごした夜を反芻しながら、帰路についた。
 月日というのは恐ろしく、やらなくちゃいけないことのために時間に追われ、久美さんの不在に慣れてくる。いないということに慣れてしまうことが怖かったのに、慣れつつある自分を少し恨めしい気持ちになった。どんな感情も過ぎてしまえば、想い出になってしまう。私はその瞬間を忘れないと思っても、忘れてしまう、この人間の習性は神様が与えた罰のように感じる日々が続いた。
 愛さんから連絡が来たのは久美さんが去ってから一カ月後、久しぶりにル・ベゼ・ド・リスで?まないか? という内容だった。私はすぐに返信をした。
「美奈ちゃん、これ」
「なんですか?」
「久美からの餞別。渡すの遅くなっちゃって、ごめんね」
 上質な封筒に書かれた手紙だった。私はそれを受け取ると、読もうか読むまいか悩んだ。
「読んでやって」
「愛さんは少し痩せました?」
「今はちゃんと食べているから大丈夫だよ」
 私はその言葉に少しの安堵を覚え、便箋を開いた。美奈ちゃんへ、と書かれた文字はあの大雑把な久美さんのものとは思えない、綺麗な字だった。  そこにはあんなに一緒にいたのに、知らなかった事実がたくさん書かれていた。久美さんのお母さまが女でひとり久美さんを育てたこと、そのお母さまが病に倒れたこと、本の印税と創作の講義を地元の大学で頼まれたことで暮らし向きは楽になるだろうとのこと、そして何より愛さんへの愛情がそこかしこに見え、私は胸が痛んだ。そして最後に「愛は寂しがり屋だから、きっと美奈ちゃんと恋に落ちるよ」と書かれていた。
「久美はなんだって?」
「愛さんのことが今でも大切みたいです。そして私と恋に落ちるって予言しています」
「ふふふ、久美らしいわね」
「私、思うんです。三人で過ごした時間はけっきょくふたりとひとりの時間だったんだなって。私は愛さんが好きだけど、私は自信がありません」
「好きにはいろんなカタチがあるからね。私も恋愛できる自信はないなあ。もう根こそぎ持ってかれるのは懲り懲り」
「嵐じゃない恋もあるといいんだけどね」
「一緒に探してみますか? 嵐じゃない恋」
「そうね、それもいいかもしれない」
 そう言って愛さんの笑う姿を私は久しぶりに見た。私たちは恋を見つけられるだろうか? それは未来の私たちふたりにしかわからない。


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