ウィスキー・オン・ザ・ロック

Le Baiser de Lis

「結婚式の友人代表に会って欲しい?」
「うん」
 朝食の席で可愛い僕の婚約者である、楓子が言った。楓子は薄く茶色に染めた髪の毛を鬱陶しそうに?き上げ、未だ眠そうに話題を上げた。
「私のお式のお花まで全部、艶子さんがやってくれるっていうし。一度、啓司さんに会せようと思っていたの。ちなみに艶子さんは華道のお家元ね」
 楓子はお嬢様育ちの、お嬢様学校の出身ということは僕も知っていたが、今どきお嬢様と言ってもたかが知れている、と侮っていたことを、僕自身とても後悔した。確かに楓子はお嬢様だ。しかしなんとか僕のサラリーで養えるという自負と楓子の愛情の深さが僕たちが結婚という具体的な恋愛の着地点に着いた。しかし華道の家元の娘さんと会えと言われれば、やはり少し後ずさってしまうのも事実。楓子は本当に温室で育ったのだな、と僕は思った。
「でこちゃん、そういう大事なことはもっと前に言ってもらえないと」
 僕は密事のときにしか使わない、楓子の呼び名で呼んだ。
「新婦ってこう見えても忙しいのよ。両親への挨拶みたいに格式ばったものでもないし、いいかなって思って」
 ごめん、啓ちゃん、と甘い響きがする呼び方で僕は呼ばれた。
「楓子に式の準備任せきりだからね、楓子の友人に会うくらい負担でもないし、むしろ僕は嬉しいよ」
 と僕は虚勢を張った。内心は友人に気に入られなかったらどうしよう、と心臓がばくばくと動いていた。僕は平静を装い新聞を広げた。
「良かった。艶子さんとても啓ちゃんに会いたがっていたから」
 楓子が微笑むと僕の世界の不都合なことなど、何もなくなってしまう。僕は心臓の音も忘れ、楓子に微笑んだ。世界がそれだけで完結する。僕は愚かしくも浮かれている。詩人のポール・ヴァレリーは恋とはふたり馬鹿になることだと言った。まさしく僕たちは馬鹿そのものだ。愚かしいということすら愛おしい。そんなことを考えながら僕はパン屑が付いている楓子にキスをして、そのままベッドで戯れた。

「名前は何度も聞いたことがあるけれど、艶子さんってどんなひと?」
 僕たちは午後に待ち合わせのカフェに入ると楓子は頭を傾げて、一考した。
「超絶美人かな? おしとやかで性格もいいんだけど、美人過ぎて男性が近寄れないタイプ? っいうの。なんだろう、独特のオーラがあるよね。あ、艶子さんだ。ごきげんよう」
 そこには手入れの行き届いた黒髪美女が、いた。
「楓子さん、ごきげんよう」
 赤いくちびるが艶子さんの色白さを強調していた。スレンダーでピンと背筋が伸びている。カプチーノだろか、コーヒーカップを持つ手が洗練されている。僕の方まで背筋が伸びる。
「初めまして、山内啓司です」
 僕はおずおずと手を出して、艶子さんと握手を求めた。艶子さんの手は冷たいが、血が通っていることは確かだ。
「楓子さんからお話は聞いています。この度は本当におめでたいことで……。どうぞお座りになってください」
「艶子さん、お忙しいのにごめんなさいね」
「いいのよ。楓子さんのお願いなら、私なんでも聞いちゃうわ」
 何になさる? メニューを渡され、艶子さんは瞬きをした。長いまつ毛で、瞬きをすると目の下に影ができる。楓子と艶子さんは女子校モードに入っている。普段ごきげんよう、なんて挨拶で聞く機会なんて僕にはない。楓子は艶子さんに会えて話したいことがたくさんあるのだろう、僕は添え物として大人しく座っていた。
「山内さん、楓子さんは素晴らしいひとです。どうぞ旧知の友人として、お願い申し上げます」
「僕は絶対、楓子さんを幸せにします」
「啓司さんたら」
 ふふっと花のように上品に笑う艶子さんの前で、僕は緊張で声が上ずった。確かにこのひとは美人だ。でも僕は楓子しか目に入らない。
 楓子と艶子さんの話はあっちに飛びこっちに飛び、脈絡がないように思えたが、ふたりにはそれが当たり前のように僕の目に映った。確かに古い仲なのだろう、ふたりの雰囲気は熟成されて、柔らかいものだ。
 ふと携帯電話が鳴ると、楓子はそれを取るため席を外した。
「楓子は可愛いでしょう?」
 艶子さんは怪しげな笑みを浮かべた。僕は彼女の意図がよく分からなかったので、ええと僕は頷いた。
「悪い虫がつかないように私、苦労したんです」
 花のような笑いが、ふと棘のように僕の心に刺さった。
「お待たせ! ごめんなさい、艶子さん。せっかくお会いできたのに、これから渋谷まで行かなくちゃいけないの」
「どうしたんだ、楓子」
 お式の打ち合わせで、写真見なくちゃいけなくなっちゃったの、と楓子は申し訳なさそうに僕と艶子に謝った。
「お式まで日がないでしょう、やっぱり完璧な式にしたくて……」
「私も付いて行きます」
「艶子さん、悪いよ」
 いいのよ、私も渋谷に行く予定があったから、と艶子さんは笑って楓子を励ました。学生時代がふたりの関係を窺い知ることができたようで、僕は嬉しかった。
「じゃあ、駅まで。啓司さんも来る?」
「もちろん」
 マリッジ・ブルーというものがあるのなら、僕が唯一不満を感じているとすれば、結婚式について、必要なときにしか助言を求められていないという点だろうか。結婚式は女性にとって、人生の大事な門出だということも分かるが、もう少し僕に頼ってくれてもいいのではないか、というくらい楓子はひとりで頑張っている。
「じゃあ、私こっちだから」
「楓子、何かあったらすぐ連絡するんだよ」
 僕は駆け去っていく楓子に声をかけた。小さい背中はすぐに見えなくなってしまい、僕は艶子さんとふたり、渋谷のセンター街に取り残された。
「山内さん、このあたりで良い酒を出してくれる店があるんですが、行きません?」
「ああ、いいですね。日も暮れたことだし」
 助け舟を出すように艶子さんは提案を出してくれて、僕はそれに乗った。
「じゃあ、ちょっと電話しますので、お待ちくださいね」
 そう言って僕たちはセンター街のなかへ入っていった。

 Le Baiser de Lisと素っ気なく看板に書かれたその店は三階にあった。
「艶子さん、ここは……」
 僕の言葉を無視して、艶子さんは重々しいドアをあけ放った。
 そこには女性のバーテンダーがふたり、カウンターにいた。オレンジ色の光のなかで、女性特有の囁き声がどよめきに変わった。カウンターいる客も座席いる客も全員、女で僕は戸惑った。
「どうです? 品定めされる目線に晒されるということは」
 艶子さんはいたずらっ子のように笑った。Le Baiser de Lisはどうやらそういうお店らしい。僕はとても居ずまいが悪い。
「楓子をあなたみたいな、凡庸でつまらない男に渡すなんて、屈辱以外の何ものでもないわ」
 そう言って艶子さんは黒髪を無造作にかき上げ、ショート・ホープに火をつけた。
「すみません」
「そうやってすぐ謝るところとか気に食わないわね。千夏ちゃん、余市をダブル、ロックでふたり分」
 かしこまりました、と千夏と呼ばれたショートカットの女性が、ウイスキーの瓶を棚から下した。
「私の酒が飲めないってことはないよね?」
「喜んで飲ませて頂きます」
 艶子さんは鼻で笑って、乾杯と言った。
「このくそったれな一日に」
 僕は典型的な日本のサラリーマン。不味い酒も一気にあおってきた。このくらいで動揺したりなんか絶対してなるものか。
「この素晴らしい一日に」
 ウイスキーの入ったグラスを僕は傾けた。

 艶子さんは相当な猫かぶりのようだ、と僕は早々に悟った。ごきげんよう、などと清楚そうな顔でよくいけしゃあしゃあと言えたものだ、と僕は呆れかえった。
「華道の家元なんて言われるけど、私は家を継げないし、家が職場だし、すっげーフラストレーションが溜まっているんだよ。それに楓子が結婚! こんな男と! 人生ほんとうにくそったれだわ」
 美人だから凄まれると迫力があるなあ、と僕が酔っぱらった頭で冷静に考えていた。
「本当につまらないわね、あなた」
「すみません」
 平身低頭を決め込む僕はさながらサンドバッグだ。
「楓子にはもっと……」
 艶子さんはボディランゲージを交えながらイメージを伝えようとする。
「楓子がどんなひとと付き合っても艶子さんは納得しないでしょう」
「そうよ。男というだけで楓子に愛される資格があると思っているバカ殿が私は許せないのよ」
 愛される資格、という言葉に引っかかり、僕は艶子さんに同情的になった。女の子であるというだけで、艶子さんは楓子から愛される権利を剥奪されている。性別の壁はこうも厚いものなのか、と僕は当たり前に享受していた愛が、その実まったく当たり前ではないことに今さらながらに気が付いた。
「美術の中田、同期の柴村、そしてあなた。私のほうが楓子を愛しているのに」
 同期の柴村って僕は知らないんですけど、と言いそうになったけれどここは酒の席だと言い聞かせ、詳しくは突っ込まなかった。
「ごめんなさい、艶子さん。でも僕はでこちゃんを愛してしまったのです」
「かー! なにが『愛してしまったのです』だよ」
 唾棄すべきものと、艶子さんは思ったのだろう。僕もそろそろお酒を美味しく飲みたい。僕の手元にはジョーカーがある。切るか切らないかは結局、僕次第なのかと思い意地悪をしたくなる。
「それで、でこちゃんは僕を愛している」
「……本性を出してきたわね、山内。今日は飲むわよ。付き合えないなんて言わせないから」
「打たれ強い艶子さんは、素敵ですよ」
 僕は心からそう思って、今日、会って初めて本心が言えた。

 そうやってグラスを一杯、また一杯と重ねて分かったことは、艶子さんは本当に楓子のことを愛しているということだった。
「なんで艶子さんは楓子に告白しなかったんですか?」
 酔いもずいぶんと回ってきて、艶子さんはカウンターに伏せながら僕の話に耳を傾けた。
「楓子は純粋培養だからね。それに思いっきりストレート。それに告白しようとするなら、まだ出来るよ」
「え、マジっすか」
「卒業、しちゃおうかな」
 僕はそれが楓子への報われない恋心からの卒業ではなく、映画の『卒業』からきていることに背筋を凍らせた。結婚式に花嫁を奪取するということだ。このひとならやりかねない、と思った。
「嘘だよ。楓子を幸せにするのは山内、あんただよ」
 さて、そろそろ帰りますかと艶子さんは足取り軽く、鼻歌を歌いだしそうな勢いで、僕を制し、勘定をした。
「マスター、ごめんね」
「艶子さんの最近荒れていた原因が解決したみたいで、良かったです」
 ありがとうございました、とマスターはドアを開けて、僕たちを見送ってくれた。
「山内は腹黒いからそこらへんは安泰かな。楓子は世間知らずだから」
「任せてください」
 僕はそれ以上言えなかった。私鉄の駅に吸い込まれる艶子さんを見守りつつ、僕は吐き気と闘っていた。

 結婚式当日、僕は緊張していた。でも楓子のドレス姿で歩いてくるのを見ると、何もかも吹っ飛んでしまった。
「楓子、すごく綺麗だよ」
「ふふ、ありがとう」
 そう言って、拍手に包まれながら誓いのキスをした。

 披露宴が始まると、僕たちは慌ただしく初めての共同作業に追われた。楓子は疲れた顔も見せずに、采配を振るっている。彼女の思い通りの式が進んでいく。
「友人代表の勅使河原艶子さんのスピーチです。ご歓談中の皆さま、どうかご清聴を宜しくお願い致します」
 艶子さんは和服を着ていた。彼女のうなじが露出されていて、男たちは皆、そこにくぎ付けになっていた。
「ただいまご紹介にあずかりました、勅使河原艶子で御座います。山内啓司さん、狩内楓子さん、この度はご結婚おめでとうございます。また両家、ご親族の皆さま、本日は誠におめでとうございます。友人と致しまして、ここでお祝いの言葉を述べさせて頂きます。楓子さんとは中学のとき、同じクラスになりまして……」
 艶子さんは楓子への恋心などおくびにも出さず、堂に入った姿でスピーチをしている。
「……楓子さん、どうぞ……」
 艶子さんは言葉に詰まった。そして握っている紙をくしゃりと音を立てて丸めた。
「ねえ楓子さん。山内さんを一目見たときに、楓子さんはとても大切なひとを見つけたのだと分かりました。自分のことのように嬉しかったです。でも同時にとても悲しくなりました。私は楓子さんのことが大好きだから。それでも私はあなたの幸せを願ってやみません。本当に、本当に山内さんとお幸せになって下さい」
 楓子は席を立って、艶子さんに駆け寄った。そして艶子を抱きしめた。楓子は艶子さんの耳元で何かを囁いた。そして緩んでいた艶子さんの涙腺が一気に崩落した。
「私も艶子さんのこと大好きだよ」
 と大声で言った。艶子さんは口元を抑えたまま、落涙している。僕は初めて女同士の絆には勝てないと思った。そしていつの間にか僕自身も泣いていることに気が付いて、恥も外聞もなく声を上げて大泣きし始めた。だって僕の大事な楓子はこんなに愛されているんだから。悲哀の感情は簡単に理性を凌駕してしまう。

「あのとき楓子はなんて言ったんだい?」
 二次会で艶子さんと一緒になると僕はまず尋ねた。
「知りたい?」
「知りたい」
「教えない」
 艶子さんは綺麗に憑き物が落ちたように微笑んでいた。
「夫婦の秘密は増えるんだから、私に秘密をひとつくらいくれてもいいでしょう?」
 確かに、と僕は思った。艶子さんの纏う雰囲気からは危うさが消えて、穏やかな余裕すら見え隠れしている。
「これからも楓子と私は相思相愛だし安泰ね」
「僕のことは無視ですか」
「せいぜい楓子に捨てられないように頑張ることね」
「何を話しているの?」
 花嫁が僕たちの会話に割って入ってきた。
「私と楓子さんはずっと好きのままだよねって言う話」
「そうよ。私の最高の理解者は艶子さんだもの」
 楓子と艶子は花のように笑いあっている。それは幸せという養分を吸って、これからも咲き続けるだろう。僕の結婚はこのふたりを幸せにすることだ、ということを悟ったのだった。


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