コロナ・ビール

Le Baiser de Lis

 ふわふわと雲の上を歩くようなステップをする、女性だと思った。
 踊る澄香はこの世のひととは思えず、私はつい見とれてしまった。その視線に女性が気づくと、私に笑いかけた。そして私の手を引いた。爆音のなかでくちびるが動き、一緒に踊ろう、と言っていた。私は慣れないステップを踏みながら、澄香と初めて踊った。不思議な浮遊感とともに私の身体は軽く、不思議と笑顔になった。

 今日のLe Baiser de Lisはやけに混んでいた。カウンター席は埋まっていて、私たちは仕方がなく、テーブル席へと腰かけた。
「久しぶりによく踊ったね」
 直子がそう言うと、隣に座った澄香も無言で頷いた。
「あの子たち、さっきのクラブにも見かけたよ」
 私はカウンター席で熱く見つめ合っている二人組を目線で指すと、直子も澄香もその二人組を見た。私たちより少し年下、二十歳前半くらいのふたりは、愛の語らいに忙しいらしく、私たち三人には気が付く素振りもない。
「いらっしゃいませ、何になさいますか?」
 私たちのテーブル席に千夏さんが注文を取りに来たので、私たちは千夏さんに挨拶をした。暑いのにブルーのカッターシャツに茶色のベストを着ている千夏さんは、いつも笑顔を絶やさない。
「千夏さん、今日は人が多いね」
 澄香の声は涼やかで、よく通る。
「ええ、おかげ様で。今日は近くのクラブで女性オンリーのイベントでしょう。マスターも私も忙しくて、話のお相手が出来ず申し訳ありません」
「いいんです。私たちもクラブから流れてきたクチですから。私はコロナ・ビールにするけれど、直子と真理はどうする?」
「私も同じもので」
 私も、と言うと、千夏さんは分かりましたと言った。
「ごゆっくり」
 千夏さんがテーブルを離れると、直子と澄香が喋りはじめた。私は疎外感を感じ、煙草に火をつけて一服し始めた。
 私と直子は友情以上的な意味で、澄香が好きだ。私と直子が澄香を取り合わないのには、それなりに理由がある。
「お待たせ致しました」
 切ったライムを飲み口に入れてあるガラス瓶入りのコロナ・ビールを三本、持って千夏さんが私たちのテーブルのコースターに置いて去ると、クラブで乾杯したが、私たちは二度目の乾杯をした。

「真理、明日ヒマ?」
 直子が私に尋ねてきた
「うーん、ヒマって言ったらヒマだけど」
 私と直子は同じ研究室にいる。大学院生と言えば聞こえが良いが、無駄に伸びたモラトリアムを惰性で過ごしていた。就職活動も社会に出ることもすべて後回しにして、私たちはゆっくりと穏やかな日々を過ごしている。
「この文献を今日中に読んじゃいたいんだよね」
 そう私が言うと、直子は本を取り上げ、得意のアルカイック・スマイルを浮かべた。
「フィールド・ワークに行くわよ。さあ、準備して」
 私が渋々、椅子から腰を上げると、直子はノンフレームの眼鏡を上げて、バッグからフライヤーを出した。
「ビアン限定の新しいクラブ・イベントに直行」
「クラブねえ」
 私はコートを着ながら、気が進まなかった。クラブ・イベントはそれなりに足を運んでいたが、どうしても馴染まなかった。爆音とお酒に妙にセクシュアルな空間が、私にとっては盛り場のイメージが拭えなかった。
「女性同士のラグジュアリーでスペシャルな空間を演出」
 直子からフライヤーを受け取り、キャッチコピーを読み上げると、今まで通ったクラブ・イベントとどう違うのかよく分からなかった。
「さあ、行くわよ」
 直子が急かすので、私は急いでバッグを掴んで研究室を出た。

 そこで澄香とはそこで出会った。直子と澄香も出会ったのだった。私と澄香が踊っているときに、澄香に飲み物を買ってきたのが直子だった。
「あら、お二人とも友だちだったの?」
 澄香の高く凛と響く声が私と直子を再び繋いだ。
「抜け駆けしたとか、ずるいとか言わないから」
 朝、私と直子が徹夜で帰路につくときに、直子が言った。
「直子に同意するわ。大人なんだからそういうのやめたいよね。いくら好きなひとが同じになっても」
 私がそう言うと、うん、と直子も頷いた。

 澄香は私たちと同じ二十三歳で、アパレル関係の仕事をしている。直子は連絡先や職業まで聞き出していたところには、直子のちゃっかりとした性格が表れている。抜け目がなく、周到。そして相手の退路を断つその手腕は、我が恋敵にしては、感服ものだった。
 二度目に会ったのもそのクラブ・イベントだった。私たち三人は踊って、疲れると、人混みを避けるように、澄香のおすすめという初めてLe Baiser de Lisに訪れた。重厚なドアを開けると、照明はオレンジ色で酒瓶がずらりと壁際に並んだバー・カウンターではシニョンを結ったマスターらしきひとがシェイカーを振っていた。私たち三人はコロナ・ビールを頼むと、澄香が直子にどんな職業に就いているか質問してきた。直子が答えると、澄香は感嘆の声をあげた。
「へー、直子は大学院でセクシュアル・マイノリティの研究しているんだ」
「うん、真理はマンガを研究しているよ」
「自由なんだね、マンガの研究ってどんなことするの?」
「『少女マンガにおける男装の麗人の変遷』っていう研究」
 『ベルサイユのばら』のオスカルとか、いるでしょう? 男装のキャラクターがどのように描かれ、変わってきたかの研究だよ、と私は簡単に言った。
「いいなあ。私も四年制大学に行きたかった」
「澄香は短大?」
 長くウェーブがかかった髪を緩やかに揺らし、澄香は首を縦に振った。
「短大卒。でももっと勉強したかった」
「大学院にいても遊んでばっかで、勉強していない人間もいるけどね、直子」
「失礼な。フィールド・ワークと言ってちょうだい」
 澄香は私と直子のやりとりを見て、笑った。
 三人で笑いあっていると、それだけで私には十分だった。確かに恋はしている。恋に付き物の独占欲や嫉妬に駆られることはなく、ただ時間を共有するだけで、私は満足している。直子はお子様と笑うかもしれないが、私たちは均等な三角関係を作っていて、勿論、それがいつか壊れてしまうことだと知りながら、私は今、楽しめることを楽しもうとしていた。

「さっきから二人でなに話しているのよ、私も混ぜてよ」
 澄香と直子に話しかけると、ふたりは笑ってばかりで、私だけのけ者だった。
「そろそろだよ」
 澄香が無邪気に言った。直子もだね、と言った。
「なんの話?」
「秘密」
 澄香が人差し指をくちびるにあてて、ウィンクしてきた。のけ者にされ悲しくなってきて、私は苛々と二本目の煙草に火をつけた。
 その瞬間だった。バーの照明が落ちた。数台の間接照明のスタンドだけが橙色の光を放っていて、私は思わず煙草の火を消した。そして聞き慣れたBGMが流れてきた。そしてケーキを持った千夏さんが歌いながら、私たちのテーブル席へと近づく。
「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」
 その声にあわせてカウンター席にいるお客も一緒に歌いだした。もちろんテーブル席にいる澄香も直子も。
「ハッピー・バースデー・ディア・マリ」
 Le Baiser de Lisにいる皆が手拍子をしている。そしてケーキが私の前に置かれた。
「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」
 ロウソクはきっかり二十四本、私は今日、二十四歳になったのだ。
「お願い事をして、吹き消して!」
 澄香がそう言うと、私はロウソクを吹き消した。サプライズに驚いて願い事するのを忘れてしまった。
 誕生日おめでとうとか、Le Baiser de Lisはこんなサービスまでやっているんだとか、他のお客は言いながら、次第に静かな元のバーの雰囲気になった。
「びっくりした」
 私は鳩が豆鉄砲を食らったように、未だに瞬きをしている。
「直子が真理の誕生日を教えてくれたから、どうしてもLe Baiser de Lisでサプライズをしたかったんだ」
 ねー、と澄香が言うと、直子も、いつものアルカイック・スマイルではなく、笑って頷いた。
「お誕生日おめでとうございます。こちら、切り分けさせて頂いても宜しいでしょうか?」
 マスターが私たちのテーブル席につき、バースデー・ケーキを持って行った。
「マスター、ケーキはここにいる皆さんと分けたいので人数分、切ってください」
 直子がそう言うと、再びカウンター席がどよめいた。ありがとうとか、ラッキーとか声が聞こえてきた。みんな甘いものが好きらしい。
「はい、私と直子からのプレゼント」
 そう言って澄香は私に綺麗に包装された箱を渡した。
「開けていい?」
「いいよ」
 直子がそう言うと、私は丁寧に包装紙を外した。
「鏡かあ」
 私は蝶がモチーフになっている二つ折りの鏡を撫ぜた。
「この前、手鏡を割っちゃったって言ってたからさ。限定品のやつだから、うっかり割らないようにね」
 直子がそう言うと、私は頷いた。
「はい、注意します。澄香も直子もありがとう」
 澄香も直子も私がプレゼントを気に入るのを見ると、ほっとしたように笑いあった。

 私たちの関係に変化があったのは、その直後だった。どちらかと言うと、私が距離を置き始めた。
 鏡を貰ったその年の秋、Le Baiser de Lisの帰り道で、直子が澄香の頭に枯れ葉がついていたのを取ってあげた瞬間を私は見た。直子の手つきは優しく、慈愛に満ちていた。そしてそれを受け止める澄香には拒絶ではなく、当たり前のように受け入れていた。映画のようなワンシーンは私を私は盗み見してしまい、恥ずかしい想いをした。それは私は直子のように澄香に触れることができないし、きっと私には澄香にあんな微笑みをさせることはできないだろうと思った敗北感と敗北を感じるまでもなく、スタートラインに立とうとしなかった自分を恥じた。
 それが良かったのか、悪かったのか、その冬、直子と澄香は付き合い始めた。直子はお得意のアルカイック・スマイルを浮かべる回数は少なくなり、態度は柔和していった。私は本当に恋をしていたのかすら分からなくなった。ただあのシーンだけが私の脳内で再生され、圧倒的なふたりの雰囲気にのまれないようにするのに必死だった。ふたりの完璧な、私の入る余地などない、愛の景色。インドアな私はクラブ・イベントにもLe Baiser de Lisにも足が遠のいた。活動的な直子も無理に私を誘うこともなく、淡々とした友人関係が続いた。私は愛の巣を覗き込もうとするほど、野暮じゃない。それが私に最後に残された自尊心だった。
 年が明けて、論文の執筆やらアルバイトやらで、研究室も必要最低限の出入りしかしなくなったとき、私は引きこもりに近い生活に厭き、久しぶりにLe Baiser de Lisの扉を開けた。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
 カウンターの内側には千夏さんはいないのか、マスターがひとり立って、氷を削っていた。開店したばかりのLe Baiser de Lisはカウンター席に数名座っているだけで、私もコートを脱いで、席に着いた。
「何になさいますか?」
 マスターから温かいおしぼりを受け取ると、私は思案して頼む。
「コロナ・ビールで」
 アルコール度数の低いコロナ・ビールは季節外れの選択だったが、マスターは眉ひとつ動かさず、かしこまりました、と言って調理場の方へ一回、引っ込んだ。
 カランとドアベルが鳴ると、そこに現れたのは澄香だった。澄香はカウンターに私がいることに気づき、手を振った。
「久しぶり。お元気にしていた?」
 澄香の声は私の耳にはこそばゆい。私の隣に座るのが当たり前のように澄香はカウンター席に着いた。
「最近、いろいろと忙しくてね」
 私は論文とかアルバイトとか、と言うと、澄香は小さく笑って見せた。
「もう、心配したんだから。真理とはあまり会えなくて」
「澄香は元気にしていた?」
「ええ、それはもう元気よ」
 澄香を前にすると何を喋っていいか、私は分からなくなった。澄香はカウンター席に姿勢正しく座っている。マスターとのオーダーのやりとりも短く、私は手持ち無沙汰で煙草に火をつけた。
「直子は元気にしている?」
 私はコロナ・ビールの瓶から口を離した。
「え? 元気にしていると思うけど」
 澄香は私の反応を見て、まだ聞いていないみたいね、と言った。
「私、クリスマス前に直子に振られたのよ」
 思わずなんで、という声が漏れた。
「『私の好きな澄香は、真理のフィルターを通して見る澄香だった』だってさ」
「なんつう勿体ないことを、直子は」
 私がそう言うと、澄香はふふっと屈託のない笑みを浮かべて笑った。
「直子は真理、あなたが好きなのね」
 その声はいつも通り凛とした澄香の声だった。
「分からない。澄香ほど素敵な女性はいないのに、なんで私なの?」
 私は頭のなかはパニックだった。
「素敵な女性って言ってくれてありがとう。分からないものだわ。ひとの心なんて。自分の心すら怪しいのに、どうやったら他人の心が分かるの?」
 責めるわけでもなく、優しい声音で澄香は私に言った。
「今日、私が真理に会えたのは、入れ知恵するためね。きっと」
 そう言う澄香の笑顔は美しかった。
「友だち同士で恋愛する面倒くささは知っているでしょ? 直子は心に秘めたままにするつもりだったんじゃない?」
 私がばらしちゃったんだけど、と澄香があどけなく笑った。
「でも、いつか気づいたはずよ。あんな熱い視線を向けられて気づかないほど野暮じゃないでしょう、真理は」
「それは、自信がない」
 直子といて不快なことなどなかった。むしろ心地よい。でも寝るか寝ないかの問題はそれとは違う。
「直子の顔を見て決めたら?」
 澄香に心のなかを読まれたと思ったが、まっとうな推測だ。私はカウンターにお金を置いて、コートを着て急いでLe Baiser de Lisから出た。
「いい面当てだわ。ねえマスター」
「ひとの心中はなかなか察せませんね」
 そんな会話が聞こえたような気がした。
 私は自分でも分からず直子の元に走って行った。ただ分かるのはいま、直子に会わないと、直子と私を繋ぐ糸がほどけてしまうということだった。直子に会って全て解決するわけではないと分かっているし、むしろ関係は悪化するかもしれない。でも私は無性に直子に会いたかった。直子に会ったら抱きしめよう。それが友だちのハグか恋人の抱擁か、私には分からないけれど、ただ直子を抱きしめたい。


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