ジャックローズ

Le Baiser de Lis

 待ち合わせの時間に大幅に遅れてしまった。私はヒールをコツコツと鳴らして、寝静まったフロアを歩きながらメールを飛ばす。
「部長、お疲れ様です」
「お疲れ様。仮眠を取っていたの? おはよう」
「さすがに二徹は無理っぽくて、休ませてもらいました」
 赤い目で二時間ほど、と私の部下の門田は指を二本、立たせた。納期まで時間がないからね、無理させてごめん、と私は謝ると門田は部長が一所懸命なのはみんな知っていますから、と逆に恐縮させてしまった。エレベータの近くに、休憩室を作るのは理にかなっている、と私はふと思った。大事なのはコミュニケーションで、仕事を円滑に進めるのはこういう時間も大事なのだ。エレベータを苛々しながら待つより、話している方が有意義なことも多々ある。
「部長、連休はどうするんですか?」
「休日出勤だよ。でも明日は休みもらっているけど」
「家族サービスですか?」
 エレベータが来ると、門田も乗りますと大きな身体を小さな箱に収めた。
「そう。息子と水族館」
「体力あるなあ」
「二十代がなに感心しているの。まだ門田くんはこれからなんだから」
 最近、振られた門田君を労うように柔らかい声が出た。
「いや、今は自分のことで手一杯ですよ」
「私は帰るけど無理しないでね」
「お疲れ様です」
 エントランスでコンビニエンス・ストアに向かう門田と別れて、私はコートの前を閉めた。外に出るとひどく寒いとコートのポケットの中から手袋を出した。息が白く凍てつく。待たせてしまったなあと申し訳ない気持ちで、私はLe Baiser de Lisに急いだ。

「こんばんは」
 重いドアを開くと目に優しいオレンジの光があふれていた。
「いらっしゃいませ」
 マスターはグラスを磨きながら私を迎えてくれた。私はマスターに会釈する。数年ここに通っているが、マスターの名前は知らない。
「お疲れ、茜」
「ごめん、待たせた」
 菊代の隣は空けといてくれたようなので、私はそこに収まった。
「仕事なら仕方がないよ」
 こっちは暖かいところでぬくぬくとお酒を飲んでいたんだから、と菊代は言った。
「何になさいますか?」
 温かなおしぼりが冷えた指先に優しい。
「ジャックローズで」
 かしこまりました、とマスターはカルヴァドスの瓶を出して、シェイカーを振る。
「で、茜は最近どうしてたの?」
「仕事、仕事、しごーとのオンパレード」
 色気ないねえ、と菊代は笑った。
「三十も半ば過ぎると、責任だけ重くなって息が詰まる」
「それだけ期待されているってことでしょう」
「給料は変わらないんだよね」
「謎だね。世界七不思議並の謎だわあ」
「酒が不味くなるから、私の仕事の話は以上。おしまい」
 はいはい、と菊代は言った。菊代と私は高校時代からの腐れ縁だ。しかしこの縁ほど私を助けてくれたものはない。月に一度、連絡をしてバーで会うことが当たり前になっているが、やっと落ち着いて会えるようになったのがここ数年の出来事だ。離婚、実家からの援助へのお願い、仕事、目の回るような忙しさからやっと一息つけるようになった。こうしてお酒を味わって飲むという日々がどんなに大事な時間か、私には身に染みて分かっている。
「菊代、明日、大丈夫なの? 仕事」
「ん。明日は事前に申し出といたから、大丈夫よ」
 菊代は大型書店の副店長だ。土曜日と休日はたいてい書店で働いている。私はあのとき、菊代から差し伸べられた手を振り払うほどの余力は残っていなかった。

「別れたい」
 そう言いだしたのは、私からだった。旦那は悪いひとではなかったが、無邪気さが私を苦しめていることに気づこうともしないひとだった。悪意のないその純粋さはときに凶器となって私をざくざくと切りつけ、私の心はもうこれ以上、耐えられなかった。縋ることもできずに、私はひとりで泣きながら別れを訴えると、彼は曖昧な笑みを浮かべ、困ったように頷いた。

「やっほー、元気?」
 離婚が決まって、一番、安心したことは離職していなかったことだ。私は結婚しても仕事を辞めようとは思っていなかった。それが夫の無意識の反感を買うものだと分かっていても、私は仕事を続けていた。なので、私は金銭的な不安を抱かず、こうして安心して菊代と会うことができた。五月の独特の日差しが強いなか、菊代はオープン・テラス席に座って、アイスティを飲んでいた。
「久しぶり、菊代」
 私は努めて明るく、笑顔で菊代と向き合った。菊代は短く切りそろえられたショートカットを少しだけ明るく染め、そばかすが健康的に見えた。あまり大学時代から変わらないその風貌は、まるで少年のようで、私は少し安心して席に着いた。
 私もアイスティを頼むと、小さく溜め息をついた。疲労が溜まっていることを裏付ける目の下の隈は濃厚なもので、隠そうしても隠し切れない澱みを苦々しく思うことで精一杯だった。
「疲れているみたいね?」
「そんなことないよ」
 私は口角を上げ笑って見せると、ますます訝しげに菊代は私の顔を覗き込んだ。
「茜、あんたが一所懸命な頑張り屋さんってことは知っているわ。私の前まで無理しなくていいのよ?」
 菊代の手が私の手の甲に重ねられた。それは無骨なものではなく、柔らかく温かなものだった。その感触にわたしは涙が出た。
「私、離婚したの」
 涙とともに思わず出た言葉だった。
 菊代は甲斐甲斐しく私の雑多な身辺処理に付き合ってくれた。引っ越しや息子の保育園の手続きに、会社の転居届け。感傷に浸っていたのは最初だけで、あとは目まぐるしいだけで菊代の手伝いが有り難かった。人見知りの息子の長晴ともすぐに打ち解けてくれたのが、一番うれしいことだった。離婚した直後のゴールデンウィークには引っ越しの忙しさで長晴に構えなかったが、菊代が近所の公園やあそび場に連れて行ってくれたので、長晴はぐずらなかった。
「菊お姉ちゃんが、コロッケ買ってくれたの」
 長晴がそう言って小さな紅葉のような手でコロッケを持っていた。近所のお肉屋さんでおやつのコロッケを買い与えてくれたときは、多忙で夕食をつくる元気もないときには本当に助かった。

「ねえ、何を考えているの?」
 私はジャックローズの入った赤い華奢なグラスを傾け、ゆっくりとそれを嚥下してから、私は口を開いた。
「菊代がいてくれてよかったな、と思っていたの」
 私がそう言うと、菊代はまたまた、と照れながら私の背中をばんばんと叩いた。
「本当よ」
 そう真面目な顔をして言うと、菊代は姿勢を正した。
「今日、私の部屋に来る?」
「行くよ。もう終電もないし」
 菊代の顔が赤くなるのが分かった。それはお酒だけのせいじゃない。

 菊代の肌は勝手知ったるもので、馴染んだ肌は私に優しい。まるで子供になって甘やかされているようだ。菊代の腕のなかで目を瞑っていると穏やかで、雑音がいっさい消えていた。抱き合うことは容易い。でもその腕のなかで眠ることは私には難しかった。

 大学時代に菊代は女性が好きだ、と告げられたときに私はなにも考えずに、そう、と言っただけだった。そのときの菊代の顔は明るかったが、私は菊代と抱き合ってから、カミング・アウトの難しさを知った。そんなときにLe Baiser de Lisでマスターとふたりきりのときがあった。千夏ちゃんはお使いに出ていて、私は菊代を待っていた。
「マスターは恋人いるの?」
 私が尋ねると、小さな子どものように破顔した。愛おしいひとのことを考えるとき、何故ひとはこうも無防備になれるのだろうか、という疑問を抱きながら、いつも仏頂面のマスターがこんな表情をするものなのか、と感心した。
「恋人って女性?」
「そうです」
 珍しいことではない。女性オンリーのバーの店主ならなおさら驚くべきことではなかった。私は自分が一児の母であることと女性と寝ることが簡単に結びつかないことに、違和感と葛藤があった。そのことをマスターに話した。
「整合性なんて、糞食らえ」
 マスターはその下品な言葉からは想像できない穏やかさで微笑んでいた。整合性なんて糞食らえ、と私は口に出して言ってみると不思議と心が軽くなった。矛盾上等、それが人間ではないだろうか、と腑に落ちた。

「まだ起きているの?」
 菊代の腕のなかでもぞもぞと動いていると、寝ぼけまなこで菊代は私の背中を叩きながら、眠ったほうがいいよ、と私をすっぽりと包みこんだ。安心して涙が出そうになるのを堪えながら、私は深呼吸をして眠りに落ちた。

 カーテンが開く音がし、私は朝日に目を細めた。
「おはよう、何か飲む?」
 菊代は私の身体を揺さぶった。
「カフェオレください」
 OKと軽快な返事をして、菊代は寝室から出て行った。朝日には春の気配が少しだけ感じられ、私は身体を起こし、背伸びをした。もうそろそろで長晴は五歳になる。私は長晴と菊代と今日、行く水族館を楽しみにしていた。下着姿で私はキッチンに向かった。
「今日、ハル君を何時に迎えに行けばいいんだっけ?」
 菊代はジーパンに黒いセーターを着ていて、茶色のエプロンをかけて目玉焼きを作っていた。カフェオレはボウルに入れられ、湯気を立てていた。
「九時」
 低血圧でぼおっとしながら私はカフェオレに口をつけた。菊代は八時に家を出ればいいのね、と尋ねて、私は語尾を伸ばして返事をした。カフェオレはほどよく甘くミルクが優しい舌触りを残した。菊代と長晴と出かけるのはいいけれど、あの男に会うのは気が引けた。そう元夫だ。

 離婚の原因に元夫にまったく非がないわけではない。私は子どもを産んでから元夫とセックスをしなくなった。それは私にとって悲しいことだった。そして知っていた。彼には他に女性がいることを。私はその女性を罵ったり、軽蔑する気にはなれなかった。私は行き場のない想いは自分自身に向いた。そして小さな長晴にそれが向かないように懸命に、耐えそして糸が切れてしまった。私と夫を繋ぐ糸が切れたのだ。
 長晴は月一度、元夫のところへ泊りに行く。長晴には何らかのかたちで会せてほしい、それが元夫の出した離婚の条件だった。そして私はそれを受け入れた。 「そんなに憂鬱?」
 私がのろのろと準備していると、菊代が声をかけてきた。
「悪いひとではないのにね」
「悪くなければ無罪ってわけじゃないじゃない」  鏡を覗き込みながら、私は口紅を差した。それもそうね、菊代は言った。菊代は柔らかいクッションだ、と思った。私は菊代には何もしてあげられないのに、元夫と私の間の緩和剤になり、長晴を守ってくれる。私ひとりでは長晴を守り切れない。
「お母さんの顔だねえ」
 口紅を乗せた顔は少しの疲れが見えるけれど、菊代は鏡を通して優しく微笑みながら、私の準備を待ってくれていた。

 電車に乗って、元夫の住むマンションに向かった。そしてインターフォンを押すと、長晴が出てきた。
「ハル、おはよう」
「菊お姉ちゃん!」
 長晴は私より先に菊代に抱き着いてきて、浮気相手にも感じなかった嫉妬を、菊代に感じた。
「ハルのやつ、起きてからずっと水族館のことばかり話しているんだ」
 元夫が困っているが、羨ましそうな顔で、長晴を抱いている菊代を見ていた。私は必要な荷物を元夫から受け取った。
「茜を見るたび、なんで俺は取り返しのつかないことをしたんだろうって思うよ」
「そうなの?」
 元夫は神妙な顔つきで言った。私にはもう元夫の考えていることが分からなくなった。
「こんないい女は他にいないのに、ちくしょうって」
 元夫の乾いた自嘲が同情すべきものなのか、嘲るものなのか分からず曖昧に頷いた。
「あのひととは?」
 離婚手続きのとき以来、相手の女性について私は尋ねた。
「茜と別れてからすぐだめになった」
 元夫の目元には疲労が溜まっている。私はそれを撫ぜてやりたかった。でもすべきじゃないと手は彷徨う。そして初めて私は元夫に同情した。それはともに修羅場をくぐり抜けた者にしか抱けない感情だった。
「ハル、パパにバイバイして」
 私はハルに帽子を被せ、長晴は菊代に抱かれバイバイと手を振った。私も元夫にさようならと告げた。燻ぶり続けていた自己への嫌悪がやっと消え、元夫とは本当に他人同士になれた気がした。

「ぺんぎんって鳥の仲間って菊お姉ちゃんは知ってた?」
 電車で海が見える水族館を目指しながら、長晴は菊代にだっこされてご機嫌だった。
「ぺんぎんはね、鳥だけど空を飛べない鳥なんだよ」
「そうだったんだ」
「ぼく図鑑で調べたんだ。パパと一緒に」
 長晴はペンギンが好きだから、私はスマートフォンでペンギン・ショーの時間を調べた。

 長晴は二回のペンギンショーを見て、水族館内を二回まわり、私の腕の中で眠っていた。私もさすがに疲れたが、この重みが愛おしいものだと感じた。クラゲが漂うベンチの前で私たちは静かな休憩を取っていた。
「菊代はさ、後悔していないの?」
「何に?」
「私とこうなって」
 と言うと、菊代は声を上げて笑った。
「馬鹿だね、茜」
 それは揶揄する響きではなく、菊代の腕のなか同様に温かいものだった。ハルを抱いていない茜なんて想像できないし、と言った。
「それに私は茜がつらいときを利用したんだよ?」
「そんなこと考えつかなかった」
 私は菊代の発言に驚いた。私ばかりが頼っているとばかり思っていた。
「ネガティブな発想しかできないもんね、茜は」
「そうですよ。私は基本、否定から入るからね」
 じゃあ否定できないことを言おうか? と菊代は私の顔を覗き込んだ。
「結婚してください」
 私は思わず聞き返しそうになった。そして私は長晴を抱く手に力が籠った。
「はい」
 私は震えていて、そしてその肩を菊代に抱きしめられた。
「あーもう、緊張したあ」
 脱力した菊代の手は少年のように細いが、私には自分をゆだねることができる腕だった。
「まあ式とか入籍とか一緒に住むとか追々でいいけれど……」
「けれど?」
 私は首を傾げた。
「親しい友だちを呼んでLe Baiser de Lisで祝杯をあげようね」
 照れながら、笑う菊代の案に私は賛成の頷きを返し、私も微笑んだ。春はすぐそこだ。


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