ロングアイランド・アイスティ

Le Baiser de Lis

「あ、この店にはロングアイランド・アイスティがあるじゃん」
 皆木先輩は騒がしい居酒屋で飲み物のメニューを広げてそう言った。
「なんですか? ロングアイランド・アイスティって」
 私がそう問うと皆木先輩は少し得意げに鼻を突きだした。
「ロングアイランド・アイスティっていうのは見た目はただのアイスティなんだけど、実は滅茶苦茶に強いカクテルなのよ。だから伊井野も気をつけなよ、ロングアイランド・アイスティを飲むと確実にお持ち帰りされちゃうから」
 喉を鳴らして笑う皆木先輩は、就業中よりも艶やかに私の瞳に映った。

 皆木先輩は私の三つ上の先輩で、営業として毎回トップの成績を収めている。私は仕事の流れと人心把握術のノウハウを学ぶために皆木先輩の下に就いている。皆木先輩は会社だと大雑把でがさつだけれども、営業に出ると変わる。大雑把さは寛容さに、がさつはおおらかさになる。女性の営業ということもあってか、訪問先で軽視されることも多いが、皆木先輩は神経が太いのか、大抵は笑って対応する。皆木先輩の営業用のその笑みは確かに美しい。
「伊井野、あんたは笑顔が足りないのよ。その仏頂面どうにかしなさい」
 いつも皆木先輩はそう言う。
「笑顔の匙加減を覚えなさい。なめられず、なおかつかげりを忘れないこと」
 皆木先輩は私の肩を叩くと、さあ、今日もお仕事頑張りましょう、と私を外に連れ出すのだった。

 皆木先輩の変化に気づいたのは、多分、私だけ。外出先で私用電話が増えたことは確かに私にしか知りえない情報だけれども、いつも髪を結わっていた黒髪がある周期で下されるからだ。
「皆木先輩、恋人できたんですか?」
 私がそう尋ねると、皆木先輩は破顔した。
「分かっちゃうもんかな」
 えへへ、と照れながら皆木先輩は頭を掻いた。私は少し胸が痛んだが、その痛みが何であるか、よく分からなかった。
「先輩がいつも縛っていた髪の毛を下すのは大抵、週末だし、ピンクの口紅に変えたのも恋人さんの好みですか?」
「よく観察しているのね」
 営業としては合格点かな、と皆木先輩が言う。
「どんなひとですか?」
 私は好奇心がもたげるのを止められなかった。
「それはデータ上の意味?」
「いえ、先輩の主観でいいです」
「シルクのハンカチみたいな手触りのひと」
 詩的な表現だな、と私は皆木先輩の言葉の選び方に意外さを見出した。
「でもガーゼのタオルのように頑丈なひとでもある」
 改めて言うと照れるな、と皆木先輩は顔を私から背けた。
「べた惚れですね」
「次の訪問先に行くよ」
 皆木先輩はヒールを鳴らしながら早歩きで道を闊歩した。そのあまりの勇ましさと可愛さに私はつい吹き出して笑ってしまった。

 その日は直帰で渋谷での案件を済ませた後のことだった。
「伊井野、このあと時間ある?」
「はい」
 私は家に帰ってもぼんやりとTVを見るだけの夜を過ごすだけだ。
「じゃあ一杯、飲んでこう。今日は私のおごり」
 皆木先輩がそう言うので、私は喜んで付いて行った。
 エレベータで三階分を上り、木の重々しいドアを開けるとそこには数えきれない酒瓶と青いカッターシャツに茶色のベストを着たバーテンダーがいた。
「こんばんは、千夏ちゃん」
 カウンターにいるバーテンダーがこんばんは、と笑顔でおしぼりを出して、皆木先輩がそれを受け取る。
「初めまして、千夏です」
 私もおしぼりを受け取ると、伊井野ですと目礼をした。
「皆木さん、今日は何にする?」
「いつものでよろしく」
 はあいと千夏が言うと、私は店内を見渡した。
「伊井野は何にする?」
「じゃあ、取り敢えずビールで」
 せっかくバーに来たんだから、いい酒を頼めばいいのに、と皆木先輩は言った。千夏と同じ格好をしたマスターらしき人がカウンターに入った。
「皆木さん、お久しぶりです」
「こんばんは、マスター。夕飯を食べてないんだ。ペペロンチーノを二人前、いいかな?」
「かしこまりました」
 そう言うとマスターはカウンターから厨房があるであろう奥に引っ込んだ。
「ここ、女性客ばかりですね」
 私は皆木先輩だけに聞こえるように小声で言った。
「まあそれがコンセプトのお店だから」
「よく来られるんですか? このお店」
「Le Baiser de Lisね。フランス語で百合のくちづけっていう意味」
 先輩、フランス語もできるんですか、と私が聞くと、まさかと先輩は笑った。
「マスターの受け売りだよ」
 皆木先輩はそう言って、就業中は吸わない煙草に火をつけた。
「今の恋人ともここで出会ったんだ」
「ということは……女性なんですか? 先輩の恋人は」
「そう」
 こともなげに皆木先輩は煙草の煙を吐き出した。私は少し動揺したが、どこかで納得した。シルクのような手触りのひと、と皆木先輩は言っていた。皆木先輩に触れる手は洗練されていなければいけないような気がしたので、皆木先輩の身体に触れる指先は整えられた赤いネイルだと思うとしっくりときた。
「いいんですか? 私に言って」
「伊井野だから、言うんだよ」
 皆木先輩はそう言って微笑んだ。千夏がハイボールとビールを私たちの前にそれぞれ置くと、皆木先輩はグラスを持って、乾杯、お疲れさまと私のグラスに合わせた。今日のビールはやけに苦いな、と私は感じた。
 Le Baiser de Lisでお酒を飲む皆木先輩は、いつも以上に饒舌だった。皆木先輩の恋人はシステム・エンジニアでLe Baiser de Lisでたまたま隣に座ったときに意気投合して、その日に一緒にベッドに入ったらしい。週末は一緒に飲み歩いたり、映画に行くらしい。お名前は七海さんというらしい。名前を聞くと生々しく皆木先輩の恋人像が浮かんだ。赤いネイルの七海さんの指は先輩の肌を滑るところを想像すると、私は内心から湧き上がってくる想いがあった。嫉妬と欲望が混ざり合ったどす黒い感情だった。お酒の力もあってか、その感情は抑えがたいものだった。このひとに触れたい。私だけを感じて、私だけを見て欲しい。皆木先輩がお手洗いに離席すると私はあるカクテルを頼んだ。
「先輩、お酒を頼んでおきました」
「ありがとう」
 皆木先輩はそう言って座ると、そのお酒が何を意味するのか悟った。ロングアイランド・アイスティ。私が入社したばかりに皆木先輩が教えてくれたカクテルだ。
「これってどういう意味かな?」
 お酒で上気した頬に皆木先輩は首を傾げた。
「そのままの意味です」
 お酒の勢いで私は言うと、皆木先輩は真顔でこちらを見つめた。私はこのひとを抱きたい。あらぬ声を上げさせ、私の下で許しを乞う皆木先輩が見たかった。
「本気?」
 そうであって欲しくない、と訴えかけるような皆木先輩の声が私の耳に響いた。
「本気です」
 私は皆木先輩に目を合わせず、身体を強張らせて言った。
「そうか、本気かあ」
 皆木先輩はそう漏らすと、グラスを取って一気に飲み干した。
「据え膳さまの出来上がり」
 私は皆木先輩がそう言ってガラスを置いた。私は驚いて目を見開いて空のグラスを見つめた。
「先輩」
「ねえ伊井野、そんなに恋愛って大事?」
 私は恐る恐る皆木先輩の方を見つめた。皆木先輩は青い顔で、うっすらと微笑んでいた。
「私も伊井野のこと、好きよ」
 溜め息に近い吐息で皆木先輩は言う。
「本当に私を抱きたいと思うなら、抱けばいい。でも対になることがそんなに尊いこと? 友情は恋愛よりも下なの? 恋愛は至上の関係なの? 私は友だちとしての伊井野を失うの?」
「先輩」
 私は矢継に質問をされ、言葉を失った。私は浅はかなことをしてしまったのかもしれないと後悔した。
「伊井野が合っているという答えでいいよ。私も伊井野のこと好きだし」
「先輩は残酷です」
「選ぶのは、伊井野だよ」
 お水をちょうだい、と先輩は声を千夏にかけた。
「大丈夫? 皆木さん」
 千夏が心配して声をかけた。
「だいじょぶ、だいじょーぶ。ちょっと酔っただけだから」
 お水を一気に飲んでも、皆木先輩の顔色は直らなかった。
「皆木先輩、すみませんでした」
 お酒の席でも、軽率でした、と私が言うと、皆木先輩は美しい営業用の笑顔で微笑んだ。
「いいのよ、伊井野がそれでいいのなら」
「お水、もっと飲みますか?」
 私が皆木先輩にそう尋ねると、先輩は力なく頷いた。
「伊井野、だいじょうぶ?」
 私が水を渡すと力が入らない手で皆木先輩はそれを両手で受け取った。
「皆木先輩の方が心配です」
「だって、伊井野、泣いているじゃん」
 あれ、と私は自分の頬に触れた。気づくと視界は歪み、涙があふれ出ていることに気がついた。
「伊井野、泣かないで」
 白い、皆木先輩の手が私の頬に触れた。泣くよ、こんな優しいひとを好きになったんだもの、と私は心のなかで呟く。
「すみません、お手を煩わせて。すぐ泣き止みます」
「ありがとうね」
 私はもう言葉がなかった。真っ直ぐに私を見つめるこのひとには全部、見透かされている。それでも血の引いた手が冷たくて気持ちが良くて、また泣けてきた。終わりを知って、初めて私は皆木先輩に恋をしていることに、愚かしくも気づいた。

 皆木先輩をなんとかタクシーに乗せると、私は人混みをかき分けJRの駅へ向かった。先輩は最後までごめん、ありがとう、を繰り返して、私の弱った涙腺を緩ませた。私は週明けどんな顔を会せればいいか、悩みながら歩みを進める。信号待ちで引っかかり、私はショーウィンドウに微笑んでみた。するとずっとうまく笑えていなかった、皆木先輩のような営業用の笑顔が浮かんでいることに気が付いた。私は鼻を啜って、もう一度ガラスに向かって微笑んだ。すべてを覆い、包み込むような笑みに、私は思わず笑い声が出てしまった。この笑い方は苦しい想いをした人間にしか、できないんですね、と私は皆木先輩のことを思う。そうすると私は再び涙が出てくるのを止められなかった。苦しいことは悪いことではないんだ、という安堵感が最後の涙腺の牙城を突き崩した。痛みも苦しみもすべて包み込むこの笑顔を忘れないようにしよう、と私は決心した。せめて仕事では皆木先輩に失望されないようにしよう、と。来週、私がこの笑みで微笑めば、皆木先輩はきっとその微笑みで応えてくれるだろう。それはきっと、私と皆木先輩しか知らない。


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