ジントニック

Le Baiser de Lis

 私はみっともなく嫉妬に狂って髪を振り乱したりしない。けれども。

 久しぶりに、仕事帰りにLe Baiser de Lisの重い扉を開けると、私はほっとしてカウンター席に座った。 「明海さん、お久しぶりです」
 そう言って千夏は私におしぼりを渡した。
「久しぶり。千夏も元気にしていた?」
「はい、明海さんもお元気そうで何よりです」
 私が元気に見えるとしたら、それは空元気かもしれない、と自嘲した。Le Baiser de Lisには私の一部を預けている。そんなシェルターが働く女には必要なのだ。ひとりになりたいとき、または恋人が元恋人に会いに行くときなど、今の私には避難所が必要なのだと、心底、思った。
「千世さんはお元気ですか?」
「うん。今日は元カレと会っている」
「それは……」
 と千夏は語尾を濁し、ご注文は何にしますか? と私に尋ねた。私は簡潔にジントニック一択だった。験担ぎと笑われるかもしれないけれど、千世と会ったときに飲んでいたのがジントニックだったからだ。私は嫉妬で見苦しく慌てふためいたりしない。その代り不安をお酒で霧散させる。

 大きなプロジェクトが終わって二次会もそこそこに私はバーに駆け込んで、ひとりゆっくり勝利の美酒を飲んでいた。数杯目のカクテルは私を程よく酔いの世界に連れて行ってくれた。カウンターで大人しく飲んでいると、隣から嫌です、とか止めて下さいという言葉が耳に入ってきた。男がどうやら女性客に絡んでいるようだった。女性客はどうやら終電を逃してしまったようで、その店のマスターも見て見ぬ振りをしていた。せっかく人が程よく気持ち良く酔っているというのに、と私は思った。私は一万円札をドンと二枚、カウンターに置いて、啖呵を切った。
「おっさん、いい加減にしなさいよ。彼女、嫌がっているじゃない」
「何だ。ばばあは引っ込んでいろよ」
 男の暴言に堪忍袋の緒が切れた私は男の座っていたスツールを蹴って、椅子から転げ落とした。
「ははっ、みっともないね。さあ行くよ」
 私は女性客の手を引いてセンター街を抜けたあたりで、手を離した。
「ごめん、急に走って。気持ち悪くない?」
「大丈夫です。ありがとうございました」
 そして目の前には色白の、髪の毛先が丁寧にくるんと巻かれている少女と言ってもいい年頃の女性をまじまじと見つめた。
「可愛い」
「え?」
「いや、何でもない」
「私、お金払わずに来ちゃったんですけど、どうしましょう」
 少女は額に手を当て、どうしよう、と悩んでいた。上気した頬がピンクに染まってまるで林檎みたいだった。
「私の二万円でだいたいカバーできていると思うけど」
「今お金、出します。すみません」
 少女が財布を出そうとして私はそれを制止した。
「それより安心して飲めるバー、知りたくない? 私は明海。建築関係の仕事をしている」
 そう言って私は少女に名刺を渡した。
「知りたいです」
 真っ直ぐに透明な瞳が微笑みで揺れると、雑踏のノイズのなか、私は恋に落ちる瞬間の音を初めて聞いた。

 その時も私は同じようにLe Baiser de Lisの重厚なドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
 その日は平日でマスターしか居なかったので、私と少女はカウンターに座った。
「何にしますか」
「私はジントニック、貴女は?」
「私も同じもので」
「かしこまりました」
 マスターは手早くトニック・ウォーターの栓を開けた。
「私は千世です。渡里千世です。先ほどは助けて頂いてありがとうございました」
「いいの、いいの。ああいう輩がいると、私もお酒を楽しめないから」
 私の心臓は早鐘のように鳴って大人の余裕なんて全くなかった。でも、それでも悲しいかな余裕があるふりをしなくてはいけなかった。
「ここは女性限定のバーだから、変な男の人いないし、朝までやっているから終電を逃したときはまた来てやって」
 私がそう言うとマスターはお待たせいたしました、とジントニックを二つ、私たちの前に並べた。
「乾杯しましょう」
 千世がそう言うので何に? と私が問うた。
「不思議な出会いに」
 不思議な出会いに、私は復唱するとまんざらではないのかもしれない、と思った。千世はゆっくりと、グラスを傾けた。
 千世は渋谷の近くにキャンパスがある大学の学生だった。フランス語専攻。ちなみに歳は私より一回り近く違ったが、話題が合った。パリに留学したときの話や最近、読んだ本。それに映画。私はパリに数か月間仕事で行ったときの話をすると、興味深そうに耳を傾けてくれたことが嬉しかった。私も第二外国語がフランス語だったので、フランス語の慣用句って変なものが多いよね、と言って、ふたりで笑いあった。
「変なことをお聞きしますが」
 私たちが程よく、楽しく酔ってくると、言いにくそうに千世が話を切り出した。
「明海さんってレズビアンなんですか?」
 真摯に問うような千世のその目線に、私は微笑した。
「強いて言うなら、どっちも好きよ。あまり女とか男とか気にしたことはないよ」
「へえ」
「そのひとが好きって感じかな。でも最近は仕事が忙しくて、恋人を作る暇もないよ」
 恋人の有無を仕事のせいにしちゃいけないか、と私は照れて笑うと千世も微笑んだ。
「明海さんの恋人になるひとはきっと幸せでしょうね」
 千世が溜め息をつきながら、グラスを弄びながら言うと、私は色香に任せて、じゃあ貴女がなってみる? と言いそうになった。それを抑えて、千世の次の言葉を待った。
「私、いま付き合っている男のひとが居るんですけど、惰性で付き合っているだけで……」
 そう言って千世はカウンターにひれ伏した。酔いが相当回っているのだな、と思い、私は千世の長い髪に触れた。
「素敵な髪ね。それに綺麗に茶色に染まっている」
「長い髪がお好きですか?」
 微睡んでいるような微笑みを千世は私に向けた。
「私は無精だからね。綺麗な長い髪をした子を見ると、よく手入れが行き届いているなって感心するよ」
 ふふふ、と千世が笑うとこのまま寝ちゃいたいな、と一言、漏らした。
「明海さんと一緒にいると、楽しいです」
 なんだ! この可愛い小動物は! と私は叫び出しそうになった。愛おしいという気持ちは容易に時間という概念を忘れさせる。歳は一回り以上、違ううえに会って間もないのに、と自分に言い聞かせた。
「今の彼と間が持たないとすぐ……セックスで誤魔化しちゃうんです。でも女同士だとその手は通じない」
「いくら彼氏でも、安売りは良くないよ」
 そうですよね、と千世は言った。
「彼がいま就活で忙しくて、余計にすれ違いを感じているんです」
 そこはかとなく苛立っているようだし、と千世は言った。
「そんな彼氏ならやめちゃえば?」
 お酒の弾みで私は言ってしまった。いま私はいたいけな少女を誑かしている。
「そうですね、明海さんと付き合いたいな」
 爆弾が落ちてきて私の理性は跡形もなく吹き飛ぶところだった。
「大人を揶揄うのはやめなさい」
「揶揄ってないです」
 私は千世の頭を撫ぜて笑った。
「告白っていうのは素面のときにするものよ」
「こういう時だけ子ども扱いするのってずるいですね」
 私もまだまだ子どもよ、と笑った。そして連絡先を交換しあい、始発で私たちは帰った。

「本田さん、PCの件ですが、新しいモデルが支給されるみたいです」
「ありがとう」
「新しいプロジェクト、楽しみですね。上もずいぶん期待しているみたいで」
「そうねえ」
 部下に呼び止められて、PCをシャットダウンする前にシステム課にお礼のメールを書いてスプリング・コートに袖を通した。千世と会って冬を越した。春先というのにまだ冷え込みは酷く、薄手のコートが手放せない。私は暗いオフィスのなかで千世のことを想った。あの子、細いけどちゃんと食べているかしら? 終業明けの散漫な思考回路で千世のことを考えると心が温かくなるのを感じる。あれから千世とは空いている週末にお酒を飲んだりして楽しんでいる。今週は忙しくて会えないのが残念だが、それでも私生活は潤った。異性愛者の彼氏持ちだろうが、千世は私にとって可愛いひとであった。
 タイムカードを押して、会社を出るとビル風が酷く、ストールをきゅっと握った。そして見知った顔を見つけた。
「千世」
 私は驚いて思わず大きな声を出してしまった。
「あ、明海さん。お疲れ様です」
「お疲れ様じゃないよ。いつから待っていたの? 受付に言ってくれれば良かったのに」
 千世はいじらしくも鼻を啜って、えへへと誤魔化すように笑った。私はとりあえずストールを千世に巻き付けた。
「温かいもの飲んでいたので大丈夫ですよ」
 そう言って千世はペットボトルを私の前でちらつかせた。
「今日は報告に来ただけなんで、すぐ帰ります」
 なに? と私は首を傾げる。
「彼氏と一か月前に別れました。だから明海さんとお付き合いしたい。明海さん、好き」
 一か月経ったから、禊はすんだかなと思って、と千世が言うと、私は人目を憚らず、千世を抱きしめた。
「明海さん、人が来るよ」
「とりあえず明日も仕事だけどLe Baiser de Lisでお酒を飲みたい」
 年甲斐もなく赤い顔を見られたくないから、私は千世を強く、強く抱きしめた。
 私たちはその夜、密やかに甘い祝杯を挙げた。

「明海さん、眉間に皺が寄っているよ」
 私は千夏の声で真顔に戻った。私はグラスに残ったジントニックをぐっと一息に飲んだ。
「もう一杯、お願い」
 はーいと明るい声がカウンターから響いた。
「千世ちゃんが居ないと、明海さんは元気がないですね」
「そんなことないよ」
 即答した私は少しわざとらしかったかな、と反省した。大阪に引っ越すという千世の元カレ。私物を取りに行くだけと千世は言っていたが、本音は元カレと会って何するわけでもないと思うが、千世は人が良いから、流されないか心配でたまらない。
「心配なら、会いにいけばいい」
 マスターが一言もらした。マスターはいつも心の底を見透かすようなことを言う。
「そうねえ」
 千世が住んでいるのは大学の女子寮なので迂闊に近寄れない。私は頭が痛い。千世、貴女が居ないLe Baiser de Lisでの時間はとても長く感じるよ。
 私は何だかんだ言いながら、暗い部屋に帰る気にもなれずジントニックを四杯飲んでLe Baiser de Lisを出た。

 終電ギリギリでマンションに帰ると、明りが点いているのに気づいて、私は歩みを早めた。千世がいる。それだけで心が弾んだ。
「ただいま、千世」
 私は髪が乱れるのも気にせず、エレベータが待てなくて、階段を駆けた。
「お帰りなさい、明海さん」
 リビングから千世は顔を見せた。
「千世、ちょっとお水を取ってくれる?」
 急に走って血の気が引いた。酔いが回ったのだ。私は玄関に座り込んでしまった。
「明海さん? 吐きそう?」
 ミネラルウォーターを持ってきた千世が私の背中を撫ぜてくれた。
「大丈夫。階段、六階分走ったらさすがに酔いが……」
「どうしたんですか、一体」
「今日」
 私は切れ切れに言葉を紡いだ。
「今日、千世が元カレと会うっていうんでLe Baiser de Lisで少し飲んできた」
「ああ、それナシになったよ」
「え?」
 いいな、私もLe Baiser de Lisに行きたかったなあ、と千世はのんびりと答えた。
「明海さんが明海さんの元恋人に会ったら、私も嫌な想いするだろうなあと思って、やめたの。全部、郵送するように元カレには頼んでおいたから。だから明海さんが心配することなんて、何もないよ」
 千世の馬鹿、と私は言って千世の腕を叩いた。心配させて、かき乱して、こんな自分が居るなんて私はずっと知らなかった。
「明海さんの初めて、いただき」
「何の?」
「嫉妬」
 私は顔が赤くなるのを感じ、千世を叩いた。そしてそれに飽きると千世の長い髪を少し引っ張って、こちらを向かせてくちづけた。


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